箸にも棒にもかからない
さて、今年はこれまでにこのブログに書き散らしたことを少し整理しようと思っている。何度も確認するけど、私がこのブログに書こうとしているのは、謂わば「コミュニティ論」である。でも、それはかみさんがやっている団地の自治会活動みたいなものというよりは、かみさんから見れば、煮ても焼いても食えない団塊オヤジの箸にも棒にもかからないような「ユートピア論」に近いものかもしれない。それでも私は、それを私の生き方としても試行錯誤してみようかと思っているから、ユートピアというのは「何処にもない場所」と言うよりは、けっこう身近にあるような気がしているのだ。
前のブログに書いたように、3月末でパート仕事を辞めてしまったから、ハローワークに通えば「失業者」ということにもなるのだろうが、私自身は「フリーランサーによる微収入+下等遊民」だと思っていて、さらには「簡素な生活・高い想い(plain living and high thinking)」の実践だと勝手に思っている。この「簡素な生活・高い想い」というのは、ヘンリー・D・ソローの『森の生活』からの借り物で、私の居場所に即して言えば「海辺の生活」となる。「何処が海辺なのだ?」と言われるかもしれないが、私の住むエリアは東京の海辺(臨海)エリアなのである。アッハッハ~~。
19世紀中頃のアメリカはボストン周辺で、“アメリカン・ルネッサンス”という文芸復興運動が起こる。エマソンが主導した超絶主義に引きつづき、ホーソーンの『緋文字』(1850)、メリヴィルの『白鯨』(1851)、ソローの『森の生活』(1854)、ホイットマンの『草の葉』(1855)といった作品群が生み出された。新世界であるアメリカでは、カルヴィニズムと資本主義の精神は、ジェファーソン的建国の精神とも一体化して、19世紀に入ると急速に産業化をおしすすめられたが、それによる物質主義、産業主義に対して汎神論的世界観に基づく自然主義と個人主義が沸き起こったというべきだろうか。さらには、1840年代にはフーリエ主義に基づくユートピア共同体の建設運動が高まり、「ブルック・ファーム」や「フルーツランド」といった共同体が40あまりつくられたという。
そもそもピューリタンによる共同体(コモン)づくりに始まるアメリカは、その連合体の独立であったアメリカ革命そのものが、巨大なユートピア実験であったと言えなくも無いが、一方、アダム・スミスの『国富論』の出版と同年に独立宣言したアメリカは、その書が予言したごとくに、イギリスを上回る資本主義の発展がすすんだ。1825年に、アメリカに渡って、ニュー・ハーモニーの共同体づくりを試みたロバート・オウエンはあえなく失敗。その15年後に、今度はアメリカ人が共同体づくりを試みて、これらもまたあえなく失敗するのは、その発想にも失敗の原因にも共通するものがあるが、要は、志ある人々は、いつでもそういった試みをくり返すものであるというのが、私の結論である。
さて、そんな中で唯一成功した試みというのが、ソローの「森の生活」であった。確かにソローは一人で「森の生活」を送ったから、それは共同体ではなかったかもしれないが、ソローにとってそれは「ユートピア」ではあり得たと思う訳である。ニュー・ハーモニーであろうと、ブルック・ファームであろうと、共同体の崩壊理由は、大きくは次の二つである。ひとつは経済的に立ち行かなくなるのと、もうひとつ人間関係で壊れるのである。だからユートピアは、とりあえず自分ひとりで試みるのがよい、と私は思う。
「森の生活」で言えば、ソローは森の中に立てこもって自給自足したのではなくて、「ウォールデンで生活していた間、私は測量、大工の仕事、それに村のいろいろな日雇いの仕事など、十指に余る仕事をこなしていた」とあるように、少ないながらも外部の仕事もやっていたのである。要は、自分の仕事をするのと、それで足りない分は外で働く訳である。「ユートピア」や「共同体」だからと言って、何でもかんでも自給自足しようとするから無理があるのである。
だから、ユートピアが支えられるのは、資金力の大きさと言うよりは、たとえ少ない稼ぎでも、一人でも食べていけることが条件である。そして、それにプラスして「簡素な生活・高い想い(plain living and high thinking)」があれば、とりあえずは「ひとりユートピア」は成立するのである。ついでに書けば、「ユートピア的共同体」が成立する要件は、参加者のひとりひとりが「ひとりユートピア」的生き方ができることである。これが出来ない人を集めて徒党を組んだところで、失敗するのは目に見えている。エマソンは、「個人は好きだが、集団は嫌いだ」と日記に書いた。果たして、集団ではない共同体は創り得るのだろうか・・・。
今日も静かな一日であった。夜になって近くのスーパーに買い物に出かけて、半額になった肴を買ってきて、一杯やったところである。「簡素な生活・高い想い」と」言うよりは、「貧にして無為」という一日であった。そんで、この箸にも棒にもかからないようなブログを書いて、やがて眠ってしまおうと思っている。ユートピアを夢の中に探しに行くというよりは、次のブログには何を書くか、そんなことを考えながら眠りにつく訳である。
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