2013年4月17日 (水)

生活の柄の再構築

Photo_2歩き疲れては 夜空と陸との隙間にもぐり込んで
草に埋れては寝たのです
所かまわず寝たのです
歩き 疲れては 草に埋れて寝たのです
歩き疲れ 寝たのですが 眠れないのです
http://www.youtube.com/watch?v=XcUhACXKx7g

という高田渡の名曲があるけど、私の場合は歩き疲れないから眠れ~ないのです。昼と夜がズレたままで、夕方に起きて夕食後にお散歩をしてきたところ。働かない生活というのは、自分で律しないと生活がゆるくなり過ぎてしまう。そこで働かなくても、非稼ぎの仕事はしようと、あれこれと思うところ。

昨日、湯浅誠氏から「メールマガジン『湯浅誠からのお知らせ』へと登録させていただきました。このメルマガは、湯浅が名刺を交換させていただいた方々へ送らせていただいているものです」というメールがあった。昨秋に「反貧困」の集会で名刺交換したからであろうか、これからは「99%の貧困」化がすすむ時代だから、応援したいところ。反アベノミクス!である。

それから「未来の党」からも、4月24日の「政策フォーラム」の案内があったから、これにも行く予定。ここでは「卒原発」と「共生型社会(反貧困)」と「地方分権(コミュニティの構築)」と「平和構築(アジアとの連帯)」をすすめたいところ。
http://www.nippon-mirai.jp/news/index.php?Kiji_Detail&kijiId=14
「未来の党」がいいのは、小沢系が出て行ったおかげで、議員は阿部知子ひとりという「党」であって「党」でないところ。この可能性はおもしろい。阿部知子を応援しよう!

それから、来週末には作並にある仙台ヒデさんの「賢治とモリスの館」に行く。仙台ヒデさんはここをベースに、宮沢賢治の「羅須地人協会」の再生と東北の復興、W.モリス型のコミュニティ社会主義をめざして、「仙台・羅須地人協会」を立ち上げたところ。
http://homepage2.nifty.com/sakunami/
ここは実践の場であり、理論センターでもある。mizu-pさんと彼の中古の軽自動車で行って、1泊2食つきで6500円の安温泉宿に泊まり、研究会をやってくる予定。

安眠するには、やはり日中に適度に身体を使うのがいいのだろう。そこで、働いていなくてもと言うか、この歳になったからこそやれるようなことを、あれこれとやろうと思うところ。まあ、老後の生活の柄の再構築であろうか。

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2008年4月23日 (水)

箸にも棒にもかからない

 さて、今年はこれまでにこのブログに書き散らしたことを少し整理しようと思っている。何度も確認するけど、私がこのブログに書こうとしているのは、謂わば「コミュニティ論」である。でも、それはかみさんがやっている団地の自治会活動みたいなものというよりは、かみさんから見れば、煮ても焼いても食えない団塊オヤジの箸にも棒にもかからないような「ユートピア論」に近いものかもしれない。それでも私は、それを私の生き方としても試行錯誤してみようかと思っているから、ユートピアというのは「何処にもない場所」と言うよりは、けっこう身近にあるような気がしているのだ。

 前のブログに書いたように、3月末でパート仕事を辞めてしまったから、ハローワークに通えば「失業者」ということにもなるのだろうが、私自身は「フリーランサーによる微収入+下等遊民」だと思っていて、さらには「簡素な生活・高い想い(plain living and high thinking)」の実践だと勝手に思っている。この「簡素な生活・高い想い」というのは、ヘンリー・D・ソローの『森の生活』からの借り物で、私の居場所に即して言えば「海辺の生活」となる。「何処が海辺なのだ?」と言われるかもしれないが、私の住むエリアは東京の海辺(臨海)エリアなのである。アッハッハ~~。

Emerson  19世紀中頃のアメリカはボストン周辺で、“アメリカン・ルネッサンス”という文芸復興運動が起こる。エマソンが主導した超絶主義に引きつづき、ホーソーンの『緋文字』(1850)、メリヴィルの『白鯨』(1851)、ソローの『森の生活』(1854)、ホイットマンの『草の葉』(1855)といった作品群が生み出された。新世界であるアメリカでは、カルヴィニズムと資本主義の精神は、ジェファーソン的建国の精神とも一体化して、19世紀に入ると急速に産業化をおしすすめられたが、それによる物質主義、産業主義に対して汎神論的世界観に基づく自然主義と個人主義が沸き起こったというべきだろうか。さらには、1840年代にはフーリエ主義に基づくユートピア共同体の建設運動が高まり、「ブルック・ファーム」や「フルーツランド」といった共同体が40あまりつくられたという。

 そもそもピューリタンによる共同体(コモン)づくりに始まるアメリカは、その連合体の独立であったアメリカ革命そのものが、巨大なユートピア実験であったと言えなくも無いが、一方、アダム・スミスの『国富論』の出版と同年に独立宣言したアメリカは、その書が予言したごとくに、イギリスを上回る資本主義の発展がすすんだ。1825年に、アメリカに渡って、ニュー・ハーモニーの共同体づくりを試みたロバート・オウエンはあえなく失敗。その15年後に、今度はアメリカ人が共同体づくりを試みて、これらもまたあえなく失敗するのは、その発想にも失敗の原因にも共通するものがあるが、要は、志ある人々は、いつでもそういった試みをくり返すものであるというのが、私の結論である。

Thoreau  さて、そんな中で唯一成功した試みというのが、ソローの「森の生活」であった。確かにソローは一人で「森の生活」を送ったから、それは共同体ではなかったかもしれないが、ソローにとってそれは「ユートピア」ではあり得たと思う訳である。ニュー・ハーモニーであろうと、ブルック・ファームであろうと、共同体の崩壊理由は、大きくは次の二つである。ひとつは経済的に立ち行かなくなるのと、もうひとつ人間関係で壊れるのである。だからユートピアは、とりあえず自分ひとりで試みるのがよい、と私は思う。

 「森の生活」で言えば、ソローは森の中に立てこもって自給自足したのではなくて、「ウォールデンで生活していた間、私は測量、大工の仕事、それに村のいろいろな日雇いの仕事など、十指に余る仕事をこなしていた」とあるように、少ないながらも外部の仕事もやっていたのである。要は、自分の仕事をするのと、それで足りない分は外で働く訳である。「ユートピア」や「共同体」だからと言って、何でもかんでも自給自足しようとするから無理があるのである。

 だから、ユートピアが支えられるのは、資金力の大きさと言うよりは、たとえ少ない稼ぎでも、一人でも食べていけることが条件である。そして、それにプラスして「簡素な生活・高い想い(plain living and high thinking)」があれば、とりあえずは「ひとりユートピア」は成立するのである。ついでに書けば、「ユートピア的共同体」が成立する要件は、参加者のひとりひとりが「ひとりユートピア」的生き方ができることである。これが出来ない人を集めて徒党を組んだところで、失敗するのは目に見えている。エマソンは、「個人は好きだが、集団は嫌いだ」と日記に書いた。果たして、集団ではない共同体は創り得るのだろうか・・・。

 今日も静かな一日であった。夜になって近くのスーパーに買い物に出かけて、半額になった肴を買ってきて、一杯やったところである。「簡素な生活・高い想い」と」言うよりは、「貧にして無為」という一日であった。そんで、この箸にも棒にもかからないようなブログを書いて、やがて眠ってしまおうと思っている。ユートピアを夢の中に探しに行くというよりは、次のブログには何を書くか、そんなことを考えながら眠りにつく訳である。

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2008年4月22日 (火)

煮ても焼いても食えない

 季節が変わるのは早いもので、一月くらい前にやっと暖かくなったと思ったら桜が咲き出して、その後は低気圧の通過による雨と風の日々がつづいて、気がつけば桜はとっくに散ってしまい、ゴールデンウィークも間近である。とは言っても、私にはゴールデンウィークは関係ない。これはパート仕事でゴールデンウィークも休めないという意味なのではなくて、3月末でパート仕事を辞めてしまい、毎日がゴールデンウィークになってしまったからである。

 昨年来、パート仕事で身動きが取れず、「会社勤めを辞めたのはパート仕事をするつもりではなかったのに」と思い始めた矢先に、パート先から辞めるように言われたので、これは「パート仕事なんかやっていないで、自分のやりたいことをおやりなさい」という“天の声”だと思って、素直に辞めることにしたのだった。

 8年前に会社勤めを辞めた時も、同じような状況だった。それから「本づくりSOHOダルマ舎」を立ち上げたのに、昨年来、安易にパート仕事をするようになってしまい、「SOHO→パート」、「ブログ→mixi」というふうに楽な方、安きに流れていた訳である。思えば、60歳も間近であり、60歳からのサード・ステージに向けて、このブログをもっと書きたいし、それをまとめることもしていきたいから、残り少ない50代を大切にしたいと思った訳である。

 さて、パート仕事を辞めると、かなりの収入が減ってしまうが、本づくりの仕事はこの間も少しずつはやっていて、4月に1冊仕上げて、今は次の仕事をやっている。また、パート先を辞めるにしても、一応「会社都合」であることを確認するために、パート先と「穏やかな話し合い」をさせていただいたら、すんなりとご納得いただけて、「会社都合」ということで雇用保険の処理もしていただけることになったので、気分は前向きである。

 会社勤めを辞めて以来、3度目のハローワーク通いになるだろうか、でも、こんなことはお手の物である。「穏やかな話し合い」をお手伝いしていただいた組合の委員長に訊くと、「最近は若いアルバイターからの解雇相談がものすごく多い」と言う。多少、新卒の雇用が改善されたと言っても、それにも格差があって、格差の底辺はいつでも末広がりなのだ。今回、雇用保険以外にも、多少の色はつけていただけたので、その分は就業問題に悩む人々のサポートに使いたいと思っている。

 私の誕生日は4月で、かみさんは3月末日が誕生日だったから、私の誕生日当日、近所のスーパーで肴とスーパードライを買ってきて、かみさんと二人で、ささやかな誕生祝いをやった。かみさんも現在働いているパート先が今月で閉鎖になって、来月からは仕事がなくなるのだが、両親の介護に忙しい昨今だから、次の仕事も決めかねている。夫婦とも仕事先が無くなると言うのは大変な事態であり、スーパーに行くと、モノの値上がりの目立つ昨今でもあるが、あまりめげることがない。

 大内先生が「不均衡の均衡」と言われるように、資本主義とはもともと構造的に不安定なシステムなのであるが、スリリングであるが故に、生きていて面白い社会であるとも言える。それでも、出来るだけ不公平はなくして、誰もがもっと面白く生きられるようにはしたいと思う。そして、そのためになるかどうかは別にしても、「こんなブログでも、どうにかして続けて行きたい」と思う訳である。

 それにしても、つくづく団塊のオヤジというのは懲りないと言うか、煮ても焼いても食えないものだと、我ながら思うところである。このブログのキイワードは、コミュニティであり、煮ても焼いても食えない人々とのつながりができることを願っている。

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2005年11月30日 (水)

ムロケンとマンゴー『就職しないで生きるには』

LM  ムロケンこと室矢憲治氏が、最近とある雑誌に書いた「未来へのメモワール」という」文章の中に、次の一文があった。「ハワイへの旅から帰ってきて2週間、それまでの2年間に渡るオン・ザ・ロードな生活で各地に散らばっていた家財道具を集め、引越しの日々は、ヒッチャカメッチャカ、チャカ・チャーンな出来事の連続だった。・・・そもそもこんな旅の生活が始まったきっかけはといえば、家庭崩壊、経済崩壊、気分爽快・・・」と。同じ頃、12月11日のNPOのシンポジウム「就職しないで生きるには」のために、そのモチーフになったレイモンド・マンゴーの『就職しないで生きるには』を再読していたら、次の一文があった。「家に対する権利も放棄して元の持ち主に返すと、夜逃げをしてしまった。1977年のことである。一晩のうちに、カラッケツになりさがった。1ヵ月半ほど友人の家の長いすにねとまりすることになった。本屋身の回りのものは箱につめたまま、シアトル中の知り合いのガレージや地下室に分散してあずけておいた」と。なんだこれは、時空を超えて日本とアメリカのビート、ヒッピーは、同じ事を繰り返しているではないか。マンゴーの本には、当時、日本を訪れたことも記されているが、マンゴー氏の日本での転がり込み先を紹介したのがムロケンであったときけば、むべなるかなである。

 さて、レイモンド・マンゴーの『就職しないで生きるには』であるが、1960年代から70年代にかけてのアメリカ、ベトナム戦争が激化する一方で、若者たちの間にはベトナム反戦運動とともに、ヒッピー・ムーブメントが広がっていくのだが、マンゴーはこう書いている。「わたしがまだ20代で、1960年代を炎のようにすごし、明日なんてないという気になっていたころ、仕事というのは憎悪すべき単語だった。わたしは終日遊びまわり、自由を求めて暮らしたがっていた」。「一種の解放区。はずれ者の群れのための地。あのころは“解放”を信じていた。“解放”がわたしたちに共通で、最高に美しいことばだった」。「ドルやセントでできた価値がどれほどでも、もし自由でなければ、価値がない」と。そして、都市生活からのがれた理想主義者のヒッピーたちは、次々とコミューンをつくった。「それは“もうひとつの生き方”を模索する運動だった。政治的レベルの要求ではなく、むしろ文化的反逆だった。新しい文化は、カウンター・カルチャーと呼ばれた」(※中山容の解説より)のである。

 働かず、収入もなく、さまざまな公的援助でくらしていたヒッピーたちは、70年代になるとやがて集団的に新しい文化をめざし“、もうひとつの生き方”の実践を始めた。マンゴーが『就職しないで生きるには』に書いたのは、自らの体験を中心にした元ヒッピーたちの多様な仕事起こしのフィールドワークである。マンゴー自身は書店を始め、朗読会を開き、物書きをやり、非営利団体をつくり、物書きのレクチャーもやった。またある者は自然なサンダルをつくり、またある者は健康食品店をつくり、またある者は『ホール・アース・カタログ』を売り、またある者はレストランを始め、またある者は天然石鹸を製造した。そして、これらのカウンター・カルチャー型の小ビジネスは、「集団主義的」「共同体的」土台に立った「労働者コレクティブ」が運営していることが多いようであった。

 さてさて、60年代から70年代に起こったこれらのカウンター・カルチャ型のビジネスと元ヒッピーはその後どうなったのだろうか。おそらく、70年代にはIBMの大型コンピューターに対抗するパソコンをつくり、80年代にはNPOをつくり、それらをネットワークしながら、90年代にはWWWのインターネット文化へと、引き継がれていったのであろうと思われるが、マンゴー自身の結論はこうであった。「だがわたしはいま1980年代に突入する。わたしも中年の三十路をむかえる。そして“仕事”は美しいことばになり、それこそが最良の“あそび”になった。仕事こそいのちだ。それが報酬だ。その仕事がいいものなら、それを感じることができ、充実感がある。わたしたちは根源的利益をつかむ。(でも、むりをしないこと。これは忘れるべからずだ。追い求めれば、それだけ、逃げていってしまう。なんであれ)」である。

 『就職しないで生きるには』の原題は「COSMIC PROFIT(根源的利益)」だそうである。要は「体制からのドロップアウトのつぎに、それなら、どうやって生き延びるのか、生計をたてつつ、同時に自由で、楽しめる仕事(根源的利益)をどうやってつくりだし、どうやって守り抜くかという問題・・それについて考えることが、この本のねらいだ」(※中山容の解説より)ということである。

 思えば、日本でも規模は小さいが、60年代末から70年代にかけて、中央線沿線などに4畳半型コミューンがけっこうあって、その中からエコロジカルな仕事起こしがなされてきた。この辺りは、フーゲツのJUNさんのブログ、確か今年の5月頃にまさに「就職しないで生きるには」のタイトルで連載されていたのを読むと、よく分かる。私は、70年代の初めに大学を中退した後、本屋で働いて、その頃は自分で本屋をやりたかったものだったが、やがて生協で働くことになり、70年代には「食品の安全性云々」を言いながら、そして80年代に入ると日本にもアメリカの「労働者コレクティブ」が知られるようになり、それは「ワーカーズ・コレクティブ」と称されて、既存の生協に飽き足らなかった私は、それに入れ込んでいったものであった。そして今、自分なりに「就職しないで生きるには」を実践している。

 60年代からの日本の若者の反体制運動は、当時の日本の後進性を反映して、その主流は左翼主義的な学生運動にあって、やがてその多数は企業社会に収斂してしまったのが実情であった。そして現在、その中心にあった団塊の世代はリストラもしくは退職の世代となり、その子供たちの世代には「下流社会」化が待ち受けているという。さて、団塊の世代の行く末は、自業自得でもあるからいいとしても、団塊ジュニアの行く末は果たしてどうなるのであろうか。

 そんなこんなで、かつて日本のカウンター・カルチャーの中に生き、その後もずーっと就職しないで生きてきて、日本のカウンター・カルチャーの中心にいつづけるビート、ヒッピー、ふーてんのお三方にお集まりいただいて、この12月11日(日)に、シンポジウム「就職しないで生きるには」をやることとなった。パネラーであるムロケンさん、ドクター・セブンさん、フーゲツのJUNさんは、「就職しないで生きるには」を実践してきた人たちである。私もパネラーもみんな既にいい歳だが、フリーター的若者たちと共に、「生計をたてつつ、同時に自由で、楽しめる仕事(根源的利益)」について、「就職しないで生きるには」の可能性を今一度考えてみた7HMいと考えている。日本におけるカウンター・カルチャー・ムーブメントは未完のままで、団塊オヤジはここでくたばるわけにはいかないのだ。世間から何を 言われようと、団塊は不滅なのだ。多くのみなさまの参加を期待しています。

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2005年6月 5日 (日)

SOHO・NPO・BEAT的人生

miura  私は、5年前に会社勤めを辞めて、パート仕事でしのぎながら、SOHOスタイルでDTP仕事を始める一方、失業者ユニオンにも参加して、その仲間とこの春に独立自営型の仕事起しする人をサポートするNPO「自主事業サポートセンター」を立ち上げたら、その直後にパートを解雇になってしまったので、この際とばかりに、50代半ばにしてフリーな生き方というか、SOHO・NPO・BEAT的人生を始めることにしたのだった。

 5年前に会社勤めを辞めた時もそうだった。7年前に出向に出されて、2年間の出向期間が終わった後も、元も職場には戻れないということであったので、この際とばかりに、会社勤めを辞めたのだった。 バブル経済が終わって、グローバル化が進んで、企業のあり方や、働き方が大きく変わりつつあったし、そこにしがみついても明るい人生が開けるようには思えなかったし、この際、自分のやりたいことをやって、生きてみようと思ったのだった。 

 会社勤めを辞める時に、辞めた後は何をしようかということで、食べるためには再就職というよりは、自分で生業を始めようと思った。再就職に役立ちそうな専門的なキャリアは何もなかったし、年齢的にも再就職は無理であった。そこで、自分の好きなこと、本に関わることを生業にしようと、物書きは無理そうなので、DTP仕事を手に職つけて、SOHOスタイルで本づくりを生業とすることにしたのだった。

 それともうひとつ、NPOを企画した。かつて私は、長いこと生活協同組合に職を得ていたのだったが、その当時から「新しい時代の非営利事業」について考えてきて、クローズドなまま巨大化しつつある現在の生協というよりは、ワーカーズコレクティブ型で、しかもオープンな仕組みのスモールコミュニティ型の在り方を模索してきた。そして、1993年と2000年にアメリカのサンフランシスコのNPOを見学する機会があり、「新しい時代の非営利事業」は従来型の協同組合の延長にあるというよりは、NPO型に近いものなのではないかと思い、それを試してみたいと思った訳である。

 ポストバブルの1990年代にあらわになってきたのは、グローバリズムとアメリカ型市場経済の進行である。かつて市場経済でない社会を求めた人々は、政党や組合といった組織の延長に「組織された社会=社会主義」を夢想したが、ポスト工業化社会の進行は、その前提を失わせた。そして、アメリカ型市場経済が猛威を振るっているが、非営利活動であろうと、市場経済に対応するには市場経済的にやるしかないというのが、アメリカのNPOの仕組みである。

 私は5年前に失業してから、失業者ユニオンという謂わば労働組合に入った。ユニオンとはいっても、そこの参加者には所属する会社はなく、ユニオンの課題は「仕事起し」であった。そこで自らの仕事起しも含めて、そのためのNPOを企画して、結局、この春にやっと前述の「特定非営利活動法人・自主事業サポートセンター」を立ち上げた訳である。

 さらにもうひとつ、私がリストラ状況に陥った頃、私は一群のビート系の詩人たちと知り合いになった。ビートとは、1950年代のアメリカ社会の未曾有の繁栄の中にあって、資本主義に背を向けて自由に生きたジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグ、ゲイリー・スナイダーといった一群の詩人たちのことで、後のヒッピーの元祖でもあった。

 私は昔から勉強が嫌いで、高校生の頃は新宿や日暮里のジャズ喫茶に入り浸りの青春を送ったが、60年代末の新宿文化的、カウンターカルチャー的なライフスタイルのまま、相変わらず貧乏にして自由に生きている一群の人々、ムロケンさん、セブンさん、JUNさん、ガンジーさんといった、ビート、ヒッピー、ふーてんたちと謂わば「再会」した訳である。

 グローバリスムとアメリカ型市場経済の進行、さらにはアメリカの「帝国化」のすすむ現在は、その一方で「近代主義」の有効性の問われる時代でもある。果たして「自由と民主主義」は普遍的な概念なのか、「自由に生きる」とはどういう生き方なのか、「人と人とを結ぶもの」とは何なのか。果てまた、「世界」はいかにできているのかまでを、このブログでモノローグしながら、少しでも極められたらと思う次第である。

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