2007年11月 8日 (木)

立冬の頃

 前に日記らしいことを書いたのは、7月 7日 に書いた「梅雨の頃」だったが、もう既に秋深く、今日は立冬である。最近は、以前ならこのブロクに書いたようなことも、安易にmixiに書いてしまう。mixiはクローズドだから、気楽に書けるのがいいが、読んでもらえる範囲は少ない。この間、このブログを読んだという何人かの方からメールをいただき、それぞれmixiにお誘いして、マイミク(mixi仲間)になった。こんなブログでも、見知らぬ方にも読んでもらえるのは有り難い話しで、ブログはブログで、たまには書かなくてはと思う次第である。

 7月 250_yhg7日 に「とりあえずはバイクを買い換えようと思っている」と書いたが、7月末にバイクを買い換えた。6月からはフルタイムのパート仕事を始めたのだが、5月頃にやったDTP仕事の金が入って、それをつかっても何とかなりそうなので、バイクを買い換えた のだった。

 それHideで、パート仕事をやりくりしながら、8月には昨年も行った茂木の友人の所へ、10月には仙台の大内先生の所まで往復800キロのツーリングをしてきた。大内先生とは、一晩酒を飲みながら、「不均衡の均衡の時代における脱労働力商品的生き方」を切り口に、とりとめのない話をしてきた。

 日常は、本屋仕事とコンビニ仕事を3日づつの週6日フルタイムワーク、それに今月はDTP仕事の締め切りを抱えて、言うなればワーキングアップアップ状態だが、普段は買い物に行く程度のバイクでも、寒くなっていく季節の中を走るのは一瞬の非日常で、気分転換にはとてもいい。

 仕事の合間の読書もまあ順調で、その感想もこのブログに書いて行きたいのだが、時間的にタイトな日々で、まとめる時間がない。だから、メモを書くように、ついmixiに書いてしまうのだが、その2番煎じでも、書くようにして行きたいと思っている。

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2006年11月 7日 (火)

しゃんくれーると神田俊平さん

Chan_1  11月3日は、「しゃんくれーる――ひかり輝く野へ!」というテーマにも惹かれて、JUNさんのEGPPに行った。

 「しゃんくれーる」は京都にあったジャズ喫茶。60年代に高校生の頃、「スイング・ジャーナル」にフランス美人風のイラストの広告が掲載されていて、あんな女がやっているのだろうかと思っていて、70年代についでがあって寄ってみたら、おばさんがいただけだった。

 それでも、同時代にジャズを聴いた人には、印象的な店名で、昔「しゃんくれーる」にも行ったというケニア在住36年の獣医の神11egpp2 戸俊平さんもEGPPにやってきた。
 神戸俊平さんは、アフリカの楽器のリケンベと木の太鼓で、「魚を食べ過ぎた」という曲を演奏、目を閉じれば、そこはケニアの川辺である。その後、日本のODA(政府開発援助)のあり方について、次のように訴えた。

 ODA(政府開発援助)は円借款だから、それを借りたアフリカの国は返さなくてはならないのに、環境を破壊するような役に立たない工事が多い。工事をやるのも日本の企業で、日本で少なくなった公共事業が、談合も含めて、アフリカで行われている。税金の無駄づかいと現地の環境破壊について、考えてほしい。

Matsui_satoko  EGPPは、JUNさんの個性にもよるが、少し変わったオープン・イベントである。そこでは多様な表現行為が許されて、参加者のレベルも高い。
今回は、若いミュージシャンと、オヤジたちの60年代の思い出話と誌の朗読、神戸俊平氏の社会問題の提起があった。
 「アフリカと神田俊平友の会」、できることがあれば、お手伝いしたいものである。(※下記参照)

http://www.s-kambevet.org/ 

 5日の夕方には、TBSで神戸俊平さんのドキュメンタリー番組があった。神戸俊平さんは、頭は禿げ上がっているけど、目つき、顔つきは若い。横浜からナホトカを経て日本を脱出した36年前のマインドがが、そのまま純粋持続しているといった感じである。

 今回の私たちとの出会いは、ダクタリさんにとってはセンチメンタル・ジャーニーみたいなものであったのかもしれないが、私たちも、あの頃の感性とマインド、忘れたくないものである。

写真上は、60年代に「スイングジャーナル」誌に載っていた「しゃんくれーる」の広告
写真中は、演奏する神戸俊平さん
リケンベは、ひざの上の巨大な半切の瓢箪の中に入っている。左足ではポクポクと木のドラムをたたいている。
写真下は、オリジナルの「save me」を歌うマツイサトコさん

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2006年9月 4日 (月)

タイトな日の終わりに

 土曜日にDTP仕事をやって、日曜日の午後は近所のレストランに皿洗いのアルバイトに行って、その深夜は休んだ人の代わりにと頼まれてコンビニでパート仕事して、今朝家に帰って少し眠った後、今日の午後は、担当の部長が代わったというので、暑いのにスーツにネクタイして、社内報をいただいているDTP仕事のクライアントさんに挨拶に行って、次号の打ち合わせをしてきた。腹だけでなく足もむくんだのか、久しぶりに履いた皮の短靴が窮屈で、足が痛くなった。

 そんなタイトな2日間が終わって、家に帰ると一杯飲んで、さあ寝るかと、眠る前にメールチェックをすると、7月末に見舞ったかつての遊び仲間の友人の訃報が届いていた。見舞いに行った時に、そんなに長くはないなと思いつつも、その後リハビリなどしているという知らせもあったから、近いうちにまた見舞いに行くかと思っていた矢先であった。今朝早く、客のいない店内で、私がボーっとしていた頃に死んだようだ。かつての仲間にメールを転送して、ディスプレイに向かって合掌。眠気がなくなり、この日記を書き出した。

 彼の死因は多臓器不全であり、若い頃からの酒とドラッグのやり過ぎかと思われる。美大教授を親にもった彼の感性には、女優として有名な彼の妹と同様に、その容貌とともに人を惹きつけるものがある一方、遊んでいないか授業中の彼は、眠っているか、借りてきた猫のようでもあり、その笑顔に人懐っこさはあっても、人に嫌われるようなところはなかった。

 50代半ば過ぎの死は、早すぎると言えるが、同じく酒とドラッグによる多臓器不全で死んだケルアックに比べれば、多少は長生きであった。冴えた感性と美貌の青年期、離婚後は彼を溺愛する母との二人暮し、不如意な晩年と、彼とケルワックには通ずるものがあるが、そのどちらも、死が早すぎるから不幸だったとは言えない人生でもあった。人生は、いつ終わろうと可である。私も、そんなふうに生きようと思っている。彼らを通して、再確認である。再度、合掌。

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2006年4月20日 (木)

市原康TRIO'ライブ

419_1  昨晩は、友人のジャズドラマー市原康君のTRIO'の自主ライブをやった。 場所も友人関係のイタリアンレストランを借りて、参加費8000円(女性5000円)、採算分岐点参加者50名とし、当日までは参加者数が読めなくて心配したが、ふたを開けてみたら参加419_2 者は80名を超えて、10万円くらいもうかってしまった。

 市原君の出身高校のの同窓生が多く来てくれて、東大病院院長の永井良三君が今回のライブの代表呼びかけ人で、永井君のNagaiリクエストで演奏された"It's only a paper moon"の演奏は圧巻であった。友情という言葉をJazzにすると、こうなるという実感である。この曲は、次に出る市原康TRIO'のCDに入れられるという話になったから、もしそうなったら必買の1枚である。(※写真は挨拶する永井良三君)

 ライブ終了後、主催者仲間で打ち上げをやって、残りの金は次回の企画費用に回すことにした。 会社勤めを辞めた後、素人プロモーターを時々やるのだったが、大体は赤字かギリギリで、こ れだけ儲かったのは、今回が初めてであった。参加していただいたみなさんに感謝である。

 今日は、夜に近所のレストランに皿洗いのアルバイトに行った。このレストランは、昨年の年末からアルバイトし出して、年が明けてからは週1回で3~4時間くらいの仕事しかないのだが、忙しい時間だけアルバイトしている。 月のバイト代は大したことないが、これで本が買える。

 先週までパートしていた24時間365日営業の外食チェーンには、調理場に包丁が無く、基本的に、鉄板とチン(電子レンジ)の世界であるのだが、このレストランにはシェフと包丁人がいて、何でも素材からつくる。外食チェーンは上場会社で、レストランは個人オーナーの店であるが、バイトする上でも、このレストランの方が精神衛生上はるかにましである。

 今週は、月曜日は労働運動家たちとヒンドゥー教の勉強会をして激論して、昨日はレストランを借り切って遊んで、今日はレストランで皿洗いと、ダイナミックな毎日で退屈しない。皿洗いから帰ってきて、一杯飲んで、これから眠るまで本を読む。明日は、NPOの事務所に行き、日曜日はドクター・セブンさんのDOORS'イベントに行く予定である。桜は散ってしまったが、なかなかいい季節が始まったものである。

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2006年2月14日 (火)

SOHOスタイル

 この間のブログが書評風雑文ばかりなのを見てもわかるとおり、1月は仕事が少なくて本ばかり読んでいた。SOHO仕事は、仕事をとって、仕事を仕上げて、それを納めて、請求書を送ってと、仕込から入金までに半年くらいかかる。昨年秋の仕込みが悪くて、年が明けてから暇になってしまったのだったが、2月に入って「これではいかん」ということで、営業に出たり、パート仕事を探したりしている。

 今日は、昔の職場に営業に行った。かつての部下に頭を下げたり、お愛想言ったり、対応は悪くはないのだが、すぐに仕事があるわけではなく、次回に見積書を出させていただくことにして帰ってきた。 今月はこんな営業を3~4件やり、これから見積もりつくりをするわけだが、仕事になったとしても、金になるのはさらに先で、足りない分はとりあえずパート仕事でもすることにした。
 これが会社をやっていて、事務所を借りたり人を雇ったり仕入れがあったりすると、資金繰りということで金を借りたりする訳だが、返せなくなると倒産したりもする。その点、SOHOスタイルの個人事業で仕入れがなければ、次の入金までをパート仕事でしのげば、借金することもなく倒産することもない。

jiko  昨日は定期で請けているDTP仕事の取材で鹿島に行った。 鹿島は、芭蕉が1687年に仏頂和尚を訪ねて行った所で、その小旅行は『鹿島詣』にまとめられているが、その行程の半分は水路で あったという。 現在ではクルマで行って、東関東自動車道を抜ければすぐである。早く着いて時間が少しあったので、鹿島神宮と鹿島スタジアムに行ってみた。鹿島スタジアムには、ジーコの像とアルシンドの足型があった。

 夜は上野でかつての争議屋たちの集まり=グローバル研究会があったのだったが、遅くなったので、2次会にだけ参加した。鹿島からの帰り道、同行した人に京成成田駅まで送ってもらって、そこから特急に乗ったら、8時前には上野に着けたのだった。SOHOスタイルで仕事しながら、あとは好きなことをやる。多少貧乏くさいが、芭蕉の生活もそんなものだったのではないかと、勝手に思っている。

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