2005年11月 1日 (火)

私的「お台場」考

 昨晩は街に飲みに出て、帰ってきてそのまま眠ってしまったら、今朝は早く目が覚めて、天気が良いので散歩に出た。私の住宅はお台場と夢の島のちょうど真ん中にあって、西に30分歩くとお台場で、東に30分歩くと夢の島であるのだが、今日はお台場まで歩いた。
 休日には観光地のようなお台場であるが、平日の早朝の浜にはまるで人気がなく、対岸の高層ビルが朝日に映え、ビルとビルの間には、富士山が見えた。お台場独り占め状態で、素晴らしい景のお礼に、富士山に手を合わせた。
 やがて、ビーチサイドの高層住宅から仕事に向かう人が出て来る。通りを自動車やバイクが走り抜けていく。私には走り抜けていく先が、まだ見えない。ラッシュアワーに逆らうように、帰りがけにテニスの森公園で一服、家に帰って風呂につかった。

 mixiというヴァーチャル・コミュニティ・サイトがあって、そこの私のページの日記欄に、本日、以上の書き込みをしたら、サイト仲間の梶山こうじさんから以下のコメントをいただいた。
 「葉山とか 湘南の海岸独り占めとは また違った趣がありますよね。 お台場では 海に向かって叫ばないだろう とか。(笑)  青春路線は やっぱり湘南が 似合いますよね~。 お台場は どんな感じだろう? どうでしたか? 」

 横浜生まれで葉山に住む梶山さんからすると、「お台場が海とは!」といった感覚なのかもしれない。もっとも、昔から浦安辺りでヨット遊びをしていると、湘南で遊んでいる人からは、「海から100マイル」と揶揄されたものだったが・・・。この場合の海とは、三崎以南をいうらしいのだが、湘南に住む梶山さんの感覚も、多分似たり寄ったりなのだろう。そこで、海のある街! 下町は江東区の海辺! に住む私としては、我が家の近くにあるお台場について、時々の写真を添えて少し記しておこうと思ったわけです。※写真はクリックすると大きくなります。

 まづ最odaiba1初の写真は、約25年前のお台場で、ヨット仲間のディンギーを持ち込んで遊んだ時のもので、いっしょにいるのは私の息子です。この頃のお台場は、行くのに道も悪く、来ているのははぜ釣りをする人くらいでした。

 2枚目の写真は、約20年弱くodaiba2  らい前のもので、お台場がウィンドサーフィンのメッカになった頃のものです。もうほとんど湘南と変わらない風景でしょう。正面の林のある一帯は、今ではフジテレビをはじめ、高層ビルが林立していますが、当時はサーファー用のハウス以外は、まだ何もありませんでした。

 3枚目odaiba3の写真は、約15年強くらい前のもので、夏になると当時のお台場では、ビキニ姿のたくさんの若い女性が甲羅干しをしていました。来ている若い人は、だいたい都会派系でしたから、湘南顔負けでした。

 4枚目の写真は、建設中のレインボーブリッジが写っていますが、15年弱くらい前のものでしょうか。当時まだ晴海でボートショウが開かれていて、ヨット仲odaiba4間と見に行ったら、展示品のセーリングカヌ ーが安く売りに出されていたので、一緒に行ったヨット仲間をそそのかしてそれを買わせて、その試し乗りをお台場でやった時のものです。

 5枚目の写真は、7年前くらいのものです。屋形船と称して、お友達などをodaiba5お客さんにして、クルーザーでお台場の中まで入って行って、船上で飲み食いするのです。ただし、お台場は浅いので、ちゃんと潮位を調べて行かないと、時々、キールを海底にひっかけたものでした。

 このように、お台場では湘南でやれるようなことは全てやれましたし、さらに、その名の元になっている史跡の第三台場では、昔まだあまり人も来なかった頃には、孤島的雰囲気の中で、勝手にバーベキューなどもできました。そして現在では、銀座まで10分で行けるのです。 こうなると、青春路線もオヤジ路線ももうお台場しかありません。

 とかなんとか馬鹿なことを書いているうちに、この間の鬱の気がすこしずつ晴れてきたような気がします。これまた、梶山さんに感謝です。

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2005年9月22日 (木)

過ぎ去った海の思い出

   私が愛読しているブログに ottocent50s さんのブログがある。最近の「夏の過ぎ去った海」を読んで、以下のコメントを書いた。

 海といえば、下町の貧乏人は両国駅から内房線に乗って内房に行ったものですが、佐島に思い出があります。70年代の初めに結婚をして、当時、大学を中退して貧乏暮らしをしていたもので、新婚旅行は伊豆辺りとなったのですが、私に金持ちの友人がいて、ヨットを買って、私の新婚旅行に合わせて、ホームポートの佐島マリーナで進水式をあげてくれました。だから新婚旅行の最終日は佐島マリーナで一泊して、かみさんが新艇にシャンパンをかけて、正真正銘の meiden voyage をやったのでした。

 そんな折、昨日、1級小型船舶の海技免許の更新に行ってきた。会社勤めを辞めた後の5年前の更新の後、1度も船に乗ることもなくまた次の更新となった訳だが、過ぎ去った海の思い出にと更新したのだった。そんなで、ついでに ottocent50s さんにならって、私も「過ぎ去った海の思い出」を少しだけかいておくことにする。

 私の友人が購入したのは、ヤマハ15という当時売り出されたばかりのディンギーで、その後、私は彼のクルーとなって、佐島マリーナに通ってヨット遊びをした。夏が始まる前の、梅雨の合間の晴れた日の逗子以南の海岸は、海好きたちだけのリゾートといったふうであった。佐島マリーナは、海が大好きな森重久弥がつくったマリーナだが、その頃、日産が資本参加して改築されたばかりで、シーボニアや逗子マリーナと並ぶ本格的なマリーナであった。

 ある時、私がティラー(舵)を引いている時にブロー(突風)を受けて沈(艇が倒れること)をした。初めての経験で、訳も分からず艇にしがみついていると、シングルハンド(1人乗り)のディンギーがスーっと近づいてきて、「センターボードに乗って艇を起せ」「足で水を蹴って、スターン(艇の後部)から上がれ」と指示をしてくれて、やっとヨットに這い上がることができた。そして、やっと再帆走し始めると、またスーっと寄ってきて、ボコンといってパドル(櫂)を投げ込むとさっと去って行った。流れ出した私たちの艇のパドルを拾い上げて、投げ込んでくれた訳であるが、あまりの手際に、ひたすら感心するばかりであった。

 そんなy1c ことがあって後に、私は自分のヨットが欲しくなった。そこで2人の友人を誘って中古のディンギーを買うことにした。「舵」というヨット雑誌の「売ります欄」で探して、Y15というディンギーを買うことにした。売主は逗子マリーナに住む女性で、旦那がしばらく海外に行ったまま帰らないので売りたいとのことだったが、まだ新しい艇であった。亀戸で材木屋をやっている友人のロングボディのトラックで逗子マリーナに行って、Y15を載せると、久里浜からフェリーに乗って房総に渡り、私たちのホームポートとなる勝山マリーナに運んだのであった。

 勝山マリーナは勝山港と海水浴場の間の岩場にある小さなマリーナであったが、私たちが遊ぶにはちょうどよく、それ以降、週末になると友人のクルマで勝山に通って、ヨット遊びをしたのだった。

 勝山でヨット遊びをしていたある日、台風が近づく風の強い日であったが、材木屋の友人が帆走に出て、安定性のいいさすがのY15も強風のために浜の沖合いで沈をして、どんどん流されていってしまったことがあった。かみさんが海岸で心配そうにそれを見ていると、「どうしましたか」と声をかけてくれる2人の若い男がいて、かみさんが状況を話すと、「ボートを借りて助けに行こう」ということになって、マリーナからモーターボートを借りて、流れるヨットを追いかけて、おかげで、人もヨットも無事助けることが出来たのだった。

 2人の若い男は、その日、BW21という小型のクルーザーで勝山港に寄港していて、偶然助けてくれたのだったが、その晩、ウィスキーを買って、港に泊められた小型クルーザーを訪ねて、お礼をした。それから、小林さんと山本さんというその2人とのつきあいが始まり、やがてみんなでもっと大きいクルーザーを共同所有しようということになり、1970年代末に、みんなでSK31という31フィートのクルーザーを購入した。このSK31というヨットは、渡辺修治という日本人が設計した名艇であっy2cたが、メy3cンバーが増えて手狭になり、次にエリクソン37というヨットに換え、その次はヤマハ34へと乗り換えた。(左の写真は、下田沖のエリクソン37 )

 ホームポートは、浦安マリーナであった。1970年代末の浦安は、ディズニーランドもなく、現在、大学やマンションの立ち並ぶ一帯は荒涼とした埋立地であって、その埋立地を流れる境川という川に、当初は不法繋留してしていたのであったが、不法繋留対策にと、第3セクター方式の浦安マリーナがつくられたのだった。

 みんなy6c下町中心に住んでいて、大して金持ちでもなかったが、時代は右肩上がりの経済の真只中であったから、中古ヨットの共同所有であれば、ヨット遊びをするのは、そんなに難しいことではなかった。私はゴルフ遊びには興味はなかったが、ゴールデンウィークや夏休みに、横浜、三浦、房総、伊豆諸島、下田辺りにクルージングするのは、メンバー全員の楽しみであった。

 そんな訳で、私も1級小型船舶の海技免許をとった訳であるが、6年前に会社勤めを辞めた時に、ヨット遊びも止めたのだった。だから、海技免許は私にとって唯一のバブル経済の置き土産であり、過ぎ去った海の思い出であるのだった。

 会社勤めを辞めて仕事探しをしている時に、「警戒艇船長募集、要1級小型船舶免許」の募集広告を見たことがあった。ダルマ船みたいな船で、運河や護岸工事の交通整理みたいなことをやる仕事で、勤務時間が長い上に時給が安いので遠慮したが、この先、いい仕事にめぐり合えなくて、この際などと思う時があったりすると、海技免許が役立ったりするかもしれない。

 ジャック・ケルアックは、"The Dharma Bums(達磨行者たち)"の後に、荒涼峰の山頂で森林監視員の仕事につき、"Desolation Angels(荒涼天使たち)"を書いた。ならば私は、ダルマ船で監視員をやりながら、「ダルマ船上のダルマオヤジ」でも書くかななどと、馬鹿なことを想ったりもするのだった。

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2005年8月15日 (月)

雲厳寺

0508  7月までは生業の仕事探しに忙しい日々、歩いても歩いてもご縁のない日々ばかり、そんなで8月からはフリーなのにさらに夏休みと、寝転がって本を読む日々でしたが、先日、暑中プチ放浪とばかりにバイクでトコトコと、 那珂川沿いの温泉につかりつかり、黒羽町の雲厳寺に行ってきました。

 雲厳寺は、深川の臨仙庵で芭蕉が禅を学んだ仏頂和尚が修行した臨済宗の禅寺、鎌倉の円覚寺を小ぶりにしたような名刹で、芭蕉も「啄木も庵は破らず夏木立」と感激したようですが、私も「山門に偲ぶ啄木蝉の声」と感激でした。

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