2012年11月20日 (火)

北村透谷と『文学界』

 一葉が「我れは営利の為に筆をとるか」、「文学は糊口の為になすべき物ならず」と書いたちょうど同じ頃に、「然れども文学は事業を目的とせざるなり」、「嗚呼文士、何すれぞ局促として人生に相渉るを之求めむ」と書いて文学における功利主義を批判し、一葉にも深く共感せしめただろう若者がいた。この文章は、明治26年(1893)に刊行された『文学界』2号『人生に相渉るとは何に謂ぞ』に書かれ、筆者は北村透谷である。
 北村透谷は、明治元年(1868)に小田原に生まれ、明治14年(1881)に東京に移住して泰明小学校に転校。おりからの自由民権運動に熱中して、明治16年(1883)には神奈川県会の臨時書記となり、英語の勉強のためにグランド・ホテルでボーイをやり、三多摩自由党の領袖石坂昌孝と知り合い、石坂公歴や大矢正夫らの青年壮士と交友し、明治17年(1884)頃には、父宛の書簡『哀願書』に、以下のように書いている。
 「豚児門太郎謹ンデ一篇ノ哀願書ヲ以テ大人ノ座下ニ捧グ、児、曾テ経国ノ志ヲ抱イテヨリ日夜寝食ヲ安フセズ。単ヘニ三千五百万ノ同胞及ビ連聯皇統ノ安危ヲ以テ一身ノ任トナシ、且ツヤ、又タ世界ノ大道ヲ看破スルニ、弱肉強食ノ状ヲ憂ヒテ、此弊根ヲ掃除スルヲ以テ男子ノ事業ト定メタリキ」と。
 しかし、この秋に大矢正夫がら自由党左派の大井憲太郎が企んだ後に言う大阪事件の資金活動に参加するのを求められると、当時の壮士型民権運動に批判的でもあった透谷はこれを断り、民権運動から離脱した。その後、透谷は石坂公歴の姉でクリスチャンであったミナと激しく恋愛、明治21年に数寄屋橋教会で洗礼を受けキリスト教に入信、ミナとの新婚生活に入り、明治22年(1889)に『楚囚之誌』を、明治24年(1891)には『蓬莱曲』を自費出版し、戯曲から文学へとのめり込んで行く。
 小田切秀雄は、「北村透谷は明治一八年に自由民権の政治家から敗退したが、二葉亭四迷は明治二二年に近代文学から敗退した」と書いた。「文学から敗退した」二葉亭四迷は松原岩五郎や横山源之助と底辺社会をフィールドワークし、「自由民権の政治家から敗退した」北村透谷は政治から文学への道を歩む訳だが、二葉亭四迷がなおツルゲーネフを翻訳するが如くに、透谷においても以下のように書くのを読むと、透谷の中にも民権運動からの思いがなお引き継がれているように思われる。
 「君知らずや、人は魚の如し、暗きに棲み、暗きに迷ふて、寒むく、食少なく世を送る者なり。家なく、助けなく、暴風暴雨に悩められ、辛うじて五十年の歳月を踏み超ゆるなり・・・」(『女学雑誌』明治23年3月「時勢に感あり」)。
 「一国の最多数を占むる者は貧民なり、而して一国の隆替を支配する者も亦貧民なり。侯卿貴人は昌ゆるとも亦た衰ろふとも、彼等は一呼吸にありて出来たり、又た一呼吸によりて没す可し、一国を守る者は勇敢なる勉励なる農夫、若くは貧民にあり、彼等若しー度び滅されなば、国と家とを守る者、果して誰となす」(明治24-25年頃「慈善事業の進歩を望む」)と。
 明治22年にクェーカー教徒によって平和運動団体の「日本平和会」がつくられると、透谷はそれに協力してフレンド派の伝道を手伝い、明治25年にはその機関誌『平和』の編集主筆になっている。そして、その頃に島崎藤村と知り合った透谷は、明治26年1月に島崎藤村に代わって明治女学校の教師になり、『文学界』が創刊され、その2号に『人生に相渉るとは何に謂ぞ』を書いた透谷は、引きつづき雑誌『評論』に『明治文学管見』を連載して、徳富蘇峰の民友社的功利主義を批判した文学論を展開した。
 そこに透谷は、「維新の革命は政治の現象界に於いて旧習を打破した、万目の公認するところなり」、「明治文学は斯の如き大革命に伴いて起れり・・精神の自由を希求するは人性の大法にして、最後に到達すべきところは、各人の自由にあるのみ」と書く。そして、4回の連載の最後の部分に、「吾人の眼球を一転して、吾国の歴史に於いて空前絶後なる一主義の萌芽を観察せしめよ。即ち民権といふ名を以て起りたる個人精神、是なり」と書いたところまでで、この連載を中断したのであったが、同年5月の『文学界』に書かれた『内部生命論』に、透谷は以下のように書く。
 「造化(ネーチュア)は人間を支配す、然れども人間も亦た造化を支配す、人間の中に存する自由の精神は造化に黙従するを肯せざるなり。造化の権は大なり、然れども人間の自由も亦た大なり」、「真正の勧懲は心の経験の上に立たざるべからず、即ち内部生命(インナーライフ)の上に立たざるべからず、故に内部の生命を認めざる勧懲主義は、到底真正の勧懲なりと云ふべからざるなり。・・到底偏狭なるポジチビズム(※実証主義)の誤謬を免かれざりしなり」。「詩人哲学者の高上なる事業は、実に此の内部の生命を語るより外に、出づること能はざるなり。内部の生命は千古一様にして、神の外は此を動かすこと能はざるなり」と。
 透谷は、ここで民友社的功利主義、外的な権威による勧善懲悪的価値観に対に対する批判の論理として、内部生命に判断基準を求めて「自由の精神は造化に黙従するを肯せざるなり」と唱えた訳である。このことは『文学界』に集まった若き青年たちに衝撃を与え、今風に言えば、彼らに「自立」の根拠を与えた訳である。そして、とりわけそれに激しくそれにインスパイアされたのが、島崎藤村と樋口一葉であったと思うところである。
 島崎藤村の『桜の実の熟する時』に、当時の北村透谷が以下のように描かれている。
 「高輪東禅寺の境内にある青木の寓居を指して、捨吉は菅と連立って出掛けた。・・・『なにしろ君、僕なぞは十四の年に政治演説をやるような少年だったからね』と青木は半分自分を嘲るように言出した。 ・・・『青木君にもそういう時代があったかなあ』と、捨吉は自分に言って見て、今では全く別の道を歩いているような青木の顔を眺めた」と。
 自分を嘲るように言い、藤村たちとは別の道を歩いているような透谷は、その頃に「十四の年に政治演説をやるような少年だった」頃のことを『三日幻境』に書いている。「五十年の人生の為に五十年の計を為すは・・二十五年を労作に費やし、他の二十五年を逸楽に費やすとせば、極めて面白き寸法なるべし、人間の多数は斯の如き夢を見て、消光するなり」と『内部生命論』に書いた透谷の思いは、はるか空の空にあったのだろうか。
 後に島崎藤村が『春』などに描いた北村透谷の印象は、共に文学にかける仲間というよりは、むしろ達観した若年寄りといった印象である。『文学界』明治26年10月所載の『漫罵』などを読めば、「一夕友とともに歩して銀街を過ぎ、木挽町に入らんとす・・」の書き出しにある銀街の先の風景と透谷の心象に始まり、引きつづき「今の時代は物質的の革命によりて、その精神を奪ぱれつつあるなり。その革命は内部に於て相容れざる分子の衝突より来りしにあらず。外部の刺激に動かされて来りしものなり。革命にあらず、移動なり」と書かれる。政治に敗れ、「自由の精神」としての文学の道を切り開こうとした透谷は、西洋の思想と文学と日本の現実、政治と文学の間で挫折した最初の日本人であった訳である。
 『文学界』の青年たちは、やがて龍泉寺町の一葉宅へあらわれ、丸山福山町の一葉宅に出入りするようになる。しかし、同じ『文学界』に文章を書きながら、北村透谷と樋口一葉が会うことはなかった。和田芳恵は、一葉のただ一人の男弟子であった穴沢清次郎氏から聞いた話として、『一葉の日記』に以下のように書いている。
 「一葉が穴沢清次郎氏に、透谷を尊敬していたこと、また、自殺したその日に、家人に一葉を訪ねると云って出たが、砲兵工廠のあたりまできて気がかわって帰った。もし、逢っていたら、死ななかったかもしれないのに、残念なことをしたと語ったそうである」と。
また、穴沢清次郎氏は、以下のように語っている。
 「北村透谷のことをしきりにほめていた」、「弱き者、不遇の人に強き同情を寄せ、得意がって反省なき世の幅利き者に、辛辣に当たった女史をして、若し当世に活かしめば、人は左翼文壇の系列に女史を数えたかもしれません」と。
 創刊号から『文学界』を読んだ一葉は、とりわけ北村透谷の書く評論を近眼の目を皿のようにして読み、透谷に会いたかったのであろうかと思われる。樋口一葉と北村透谷の一生は、二人合わせて50年という短いものであった。しかし、透谷が『内部生命論』に「生命といふは、この五十年の人生を指して言ふにあらざるなり」と書くように、透谷の切り開いた「自由の精神」への道は、現在にいたるまでなお生きるところである。

 『文学界』は、明治26年(1893)1月に第1号が出る。そして、3月に平田禿木が一葉宅を訪れる。第2号に予定していた一葉の書いた『雪の日』の掲載が、第3号への掲載となったことを伝え、次の掲載も頼みに来たのである。その後、『文学界』に一葉の小説が掲載される毎に、その同人の一葉宅訪問は増えていく。
 最初に訪れたせいか、同人の中では平田禿木からの書状や訪問が多くみられるが、晩年に平田禿木は、「もし、一葉の恋人を探すとしたら、馬場孤蝶だろうと語った」という。明治26年(1893)12月1日の「塵中日記」には、「『文学界』十一月号来る。・・・孤蝶子が『さかわ川』など・・をかしき物なり。『さかわ川』は・・今一息と見えたり」とあり、明治27年(1893)3月に、馬場孤蝶が初めて樋口一葉宅を訪れた日の「日記ちりの中」には、「禿木子、及孤蝶君来訪。孤蝶君は故馬場辰猪君の令弟なるよし 二十の上いくつならん。慷慨悲歌の士なるよし。語々癖あり。不平々々のことばを聞く。うれしき人也」とある。
 一葉にとって馬場孤蝶は、書くものは「今一息」であるが、対面した本人は「うれしき人也」なのである。これが島崎藤村(※当時は古藤庵)になると、両者の性格と趣味が合わなかったのか、日記への記述も少ない。馬場孤蝶と島崎藤村を比べれば、年齢は馬場孤蝶が上だが、文学的には島崎藤村の方が上である。共にミッション系の明治学院の出だが、馬場孤蝶は土佐藩の武士の末裔で、寄席に通い義太夫の趣味があり、優しそうである。一方、島崎藤村は無口、文学以外は無趣味で、いつも思いつめているようなところがある。顔も、馬場孤蝶の方が面長でイケメンであろうか。
 島崎藤村の『春』(百九)には、以下の場面がある。

 「どうだね、これから堤さんの許へ出掛けて見ないか。足立君も行ってるかも知れないよ」こう菅が言出した。 ・・・そこには堤姉妹か年老いた母親にかしずいて、侘しい風雅な女暮しをしていた。いずれも苦労した、談話の面白い人達であったが、ことに姉は和歌から小説に人って、既に一家をなしていた。この人を世に紹介したのは連中の雑誌で、日頃親しくするところから、よく市川や足立や菅がその家を訪ねたものである。で、その日も菅は岸本を誘って、市川と三人連で出掛けようと思った。
 飄逸な、心の置けない堤姉妹の家ですら、岸本は黙って、皆なの談話を聞いて帰るばかりである。どこへ行くのも気が進まなかった。「まあ僕はよそう」と彼は言った。

 「堤姉妹」とは樋口一葉、邦子の姉妹がモデルで、足立は馬場孤蝶、菅は戸川秋骨、市川は平田禿木、岸本は藤村がモデルで、「連中の雑誌」とは『文学界』のことである。平田禿木や馬場孤蝶や戸川秋骨らは、丸山福山町に一葉を訪ねては夜遅くまで話し込んだが、藤村は誘われても、「まあ僕はよそう」が多かったのかもしれない。
 この頃より少し前、明治25年(1892)頃のことだろうか、藤村が透谷を訪ねた時のことが、島崎藤村の『桜の実の熟する時』に、以下のように描かれている。

 高輪東禅寺の境内にある青木の寓居を指して、捨吉は菅と連立って出掛けた。・・・「なにしろ君、僕なぞは十四の年に政治演説をやるような少年だったからね」と青木は半分自分を嘲るように言出した。
 この青木の話を聞いている中に、もう長いこと忘れていてめったに思出しもしなかった捨吉自身の少年の日の記憶が引出されて行った。曽ては捨吉の周囲にもさかんな政治熱に浮かされた幾多の青年の群れがあった。彼は田辺の小父さん自身ですら熱心な改進党員のー人であったことを思出した。鸚鳴社の機関雑誌、その他政治上の思想を喚起し鼓吹するような雑誌や小冊子が彼の手の届き易い以前の田辺の家の方にあったことを思出した。・・・
 「青木君にもそういう時代があったかなあ」と、捨吉は自分に言って見て、今では全く別の道を歩いているような青木の顔を眺めた。

 藤村がモデルの捨吉が、戸川秋骨がモデルの友人の菅誘って、北村透谷がモデルの青木を訪ねた場面である。これを読むと、少年時代の島崎藤村にも民権運動の論争に「胸の血潮を波打つようにさせた」ことがあったのかと思わされる。透谷と藤村は、ともに銀座に住み、泰明小学校に通った。この頃の銀座通りには、新聞社と民権運動の結社が並び、隣の築地の外国人居留区からは新しい思想が流れ込んでいた。
 「田辺の小父さん」とは、没落した木曽は馬籠の庄屋の四男春樹=藤村の庇護者となった吉村忠道のことである。若き藤村は、ゆくゆくは「田辺の小父さん」の商売を手助けすべく、共立学校から明治学院へと学ぶが、これは「田辺の小父さん」が藤村に英語を学ばせて、アメリカに商売の勉強に行かせるためであろうか、高野房太郎の渡米の目的が「商業研究のため」であったことに通じている。しかし、横浜にある「田辺の小父さん」の店を手伝いに行ったりはするものの、藤村の心は文学へと向かい、藤村が関西への放浪の旅へ向かうところで『桜の実の熟する時』は終わる。
 藤村の『春』は、内容的には『桜の実の熟する時』の続編で、岸本捨吉が関西から帰って来る場面から始まり、「ああ、自分のようなものでも、どうかして生きたい」と捨吉が東北にくだるところで終わるわけだが、『文学界』が熟した頃の話で、以下の文章がある。
 「青木は死ぬ、岡見は隠れる、足立は任地を指して出掛けてしまう、市川、菅、福富(は相継いで学問とか芸術の鑑賞とかいう方へ向いた。連中は共同の事業に疲れて来た。・・・
何のかんのと言っても、連中は互いに離れることが出来なかった。こういう中で岸本は大根畠の二階に籠って、自分は自分だけの道路を進みたいと思っていた。自分等の眼前にはまだまだ開拓されていない領分がある。・・青木はその一部を開拓しようとして、未完成な事業を残して死んだ。この思想に励まされて、岸本はあの播種者が骨を埋めた処に立って、コツコツその事業を継続して見たいと思った。・・」と。
 岡見は星野天知が、福富は上田敏がモデルである。
1894年(明治27)に北村透谷が自殺し、やがて『文学界』の同人たちはそれぞれの道を歩き始める。一葉と藤村には反りの合わないところがあるが、二人が文学をやろうと決めたのは、ほぼ同時期である。それから一葉は「文学は糊口の為になすべき物ならず」と決めて「奇跡の十四ヶ月」を生き、藤村は「母親さん、僕はもう麹町の学校を辞めようと思います。・・そのかわりこれから筆の方で稼ぎます」と決めて、明治女学校を退職し、東北学院に職を得た藤村は、明治29年(1896)9月に仙台に向かった。一葉が死んだのは、その1ヶ月後のことである。
 島崎藤村は、仙台において『若菜集』をまとめあげ、その後、小諸義塾の教師として7年間の信州暮らしを送り、その間に『千曲川のスケッチ』の習作を通じて散文に転向、明治39年(1906)3月に『破戒』を発表する。それが朝日新聞の新聞小説になったのは、二葉亭の勧めによるものであったという。「自分等の眼前にはまだまだ開拓されていない領分がある。・・青木はその一部を開拓しようとして、未完成な事業を残して死んだ。この思想に励まされて、岸本はあの播種者が骨を埋めた処に立って、コツコツその事業を継続して見たいと思った」とは、こういうことであったのだろうか。一葉と藤村の文学をブレイクさせたものこそ北村透谷であり、透谷に始まった日本のロマン主義であったと思うところである。
 1893年(明治26)の『文学界』の創刊に始まる新しい文学の息吹は、19世紀イギリスのラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)をアナロジーさせる。『桜の実の熟する時』には、「あの岸本さん(『女学雑誌』を主宰していた巌本善治がモデル)にも、こうした『モダアン・ペインタアス』などを繙こうとした静かな時があったのであろうかと想像してみた」とあり、後の『千曲川のスケッチ』には、藤村が小諸義塾の絵の教師とラスキンの『近代絵画』やミレイの絵についての語り合いが描かれており、『春』には以下の描写がある。

 菅一人の時ですら、池の端というものは連中が会合の場処のようであったが、まして市川が来て机を並べたので、いよいよこの下宿の方へ友達仲間の足が向易くなった。・・・
 市川が画かせたシェレイの画像も額に入って来て、新にこの部屋を飾った。・・この画像の前で、連中は盛んに文芸復興期の話などをした。一人で彫刻もやれば、絵画もやる、詩も作る、おまけに建築の設計もすると言ったような、諸芸を通じて力溢れた巨匠が続出した時代の話になると、連中はもう我を忘れて、眉を揚たり、腕まくりをしたりした。ダンテ、アンゼロ、または美少年ラファエルの名がよく繰返された。中世紀あたりの男女の物語、怪しい僧侶の恋、その他詩人美術家の情事に関したことなどもよく詮索された。(『春』百十一) 。

 これは『文学界』におけるラファエル前派流のBrotherhood な世界である。ラファエル前派の生まれた時代のイギリスは、まさに資本主義の成長期にあったが、その一方にはエンゲルスが『イギリスにおける労働者階級』に描いた底辺社会があり、ラスキンによる資本主義への批判と芸術の復興運運動があった。そして、『文学界』の時代は、日清戦争を背景に、日本の資本主義と「日本の下層社会」が生まれた時代であったのである。
 横山源之助の交友した幸田露伴は、1891年(明治24)に『五重塔』を書いて、やがて姿を現す資本主義という近代社会の予兆に対して、江戸の職人気質を対置する。「職人とは無名なる芸術家であり、職人気質はかれらが体現した中世の精神である」(岩波文庫の解説より)のは、それより50年前のイギリスにおけるラファエル前派も同様である。
 そして、イギリスにおけるカーライルやラスキンやラファエル前派の流れの中からウィリアム・モリスの営為と社会主義が生まれたように、明治20年代の日本のささやかなロマン主義があって、それは明治30年代における文学や堺利彦らの社会主義にも引き継がれたのであろうかと思うところである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012年11月14日 (水)

横山源之助

 『日本の下層社会』で知られる横山源之助は、明治4年(1871)に富山県魚津に生まれ、左官屋に引き取られた私生児であった。富山県中学校に入学したものの、翌年には東京に出て木賃宿を泊まり歩き、英吉利法律学校(後の中央大学)に学んで弁護士をめざした頃に二葉亭四迷の『浮雲』を読んで、それに打たれて二葉亭四迷を訪ね、そうこうするうちにそこで松原岩五郎や内田不知庵(露庵)らと知り合いになる。
 松原岩五郎は、横山源之助曰く「放浪組の隊長」で、当時徳富蘇峰主筆の『国民新聞』にいて、下層社会のルポルタージュなどを書き、内田魯庵のつてで二葉亭四迷と知り合った。そして、明治26年(1893年)に『最暗黒の東京』をルポルタージュする訳だが、当時は政府の殖産政策による新しい産業が起こる一方で、都市ではそこに描かれたように、車夫をはじめとする雑多な生業が底辺部を構成し、まさに松原岩五郎がこれをルポしたごとくに、たくさんの新聞、出版、印刷などのジャーナリズムが起こってくる。
 当初ならんとした弁護士への思を絶ち、天涯茫々のフーテンとなった横山源之助は、「隙間さえあると長谷川君(二葉亭四迷)を尋ね」、「遠慮会釈もあればこそ、ずるずるべったりに泊りこんだことも一、二度ではない。君はその頃英国職工の生活や賃金を調べていた」と二葉亭四迷の回想記に書いている。そして、松原岩五郎や横山源之助の「長谷川君に服していた連中」は、よく議論をし、前章で書いたようにいかがわしい場所に出入りした。これは3人のフーテンが巷間を飲み歩いたというよりは、明治20年代における意識的な下層社会のフィールドワークであり、日本のプレ社会主義的営みである。
 横山源之助は、明治27年(1894)に毎日新聞に入社すると、底辺生活のルポルタージュを書いて好評を得る。明治29年(1896)からは地方にも及ぶ本格的な調査活動を開始しようと、同年2月には佐久間貞一を訪ねてその支援を得て、3月に桐生・足利へと旅立った。松原岩五郎の『最暗黒の東京』が、明治20年代前半の東京における底辺層の生業ルポであったのに対して、日清戦争に勝利した後に、繊維産業を中心に資本主義の生成期に入った日本社会では、そこに新たな底辺社会を誕生させつつあり、横山源之助はそれをルポしに旅立ったわけである。それはやがて『日本の下層社会』にまとめられる訳だが、その陰には日本のロバート・オウエンと言われた佐久間貞一の援助があった。
 明治30年7月、横山源之助が関西で調査活動をしていた時に、高野房太郎らによって日本初の労働組合である労働組合期成会が設立され、同年10月に帰京した横山源之助は、積極的にそれに関わって行く。同年末に鉄工組合の機関誌「労働世界」が発行されると、そこに文章を書き、編集も担って行く。そして、明治32年(1899)に労働新聞社の社会叢書で横山源之助の『内地雑居之日本』が発行される。
 内地雑居とは、明治32年から実施された諸外国との通商航海条約の改正によって、諸外国によるそれまでの治外法権と関税自主権の廃止への引き換えとして、外国人の国内居住が自由になったことであり、謂わば「自由化」であった。高野房太郎が労働組合期成会を設立した背景にも内地雑居がある。『内地雑居之日本』に横山源之助は、こう書く。
「日清戦争により最も激しく影響を見たるは、工業社会を第一となす、各種の機械工業起こりたるも、此二三年来の事にして、即ち日清戦争以来のことなり・・・労働問題の起こりたるも、同盟罷工生じたるも、工場条例の発布せられんとするも、皆戦争以後なり、今ま内地雑居の暁、資本に欠乏せる我が工業界に外国の資本入り込み、外国の資本家が親ら工場を建て、我が労働の安きを機会として、工業に従事する暁は果たして如何なるべきや・・・」(岩波文庫P14-15)と。
 そして、『内地雑居之日本』に横山源之助は、その結論をこう書く。
 「労働問題最後の解釈は賃金問題にあらず、時間の短縮問題にあらず・・・工業社会に占むる労働者は位置問題なり、或意味にては資本家に対する権利問題なり、之を他の意味にていへば失業者問題なり、此の問題を解釈するを得るにあらざれば、未だ労働問題を解釈し得たりと見るべからず」(P111)
 「即ち余は諸君に工業上の共和を望めるを以て、政治の上に於ても社会主義を取るべしと唱導せんとす。・・・君主政治の国家に於ても共和は之を容るるに足る、英国は君主政治なり、然れども政治上の共和は行われ居るにあらずや、且国体に反するの故に、社会主義を排斥するが如きは、愚の骨頂なり・・・国体云々を口実として社会主義の入来るを排斥せんとするものあらば、却って社会主義の勢力を大ならしむべし」(P117-118)と。
横山源之助は、安部磯雄や片山潜のようにアメリカ帰りであった訳ではない。魚津に生まれ、職人に育てられ、上京してからは谷中辺りを根城に天涯茫々のフーテン生活を送り、職を得た後は全国の底辺に生きる人々をルポして歩いた。そこから生まれたものが、横山源之助にとっての社会主義であった訳である。
 また、横山源之助は、安部磯雄や片山潜らの社会主義研究会に参加せず、明治34年の社会民主党の創立にも参加していない。英吉利法律学校でイギリスの法律と社会を勉強していたせいか、革命的な社会主義思想についても否定的である。社会主義にシフトした片山潜と分かれて、非革命的な改良主義的な労働運動を志向、実践しようとしたわけだが、それは横山源之助を頼って富山から東京に出てきた育ての親家族10名の生活を背負って売文業をせざるを得なかったせいでもあった。
 大正4年6月3日、横山源之助は貧困の中、白山前町の間借りの2階で結核に肺炎を併発して死んだ。横山源之助の名は日本の社会主義運動の中では忘れられてしまったが、『日本の下層社会』と『内地雑居之日本』は、生成期の日本の資本主義から生まれ、「日本的風土、日本的労働運動に適応された最初の社会主義」(立花雄一『評伝・横山源之助』P150)と言えるだろう。

 横山源之助は、法律学校を卒業してから毎日新聞に入るまでの4年間を谷中初音町に住んでいたという。本人の「回想記」には、以下のようにある。
 「谷中に引っ込んで弁護士試験の準備に取り掛かったが、法律書は其方退に小説や宗教書に耽っていた。・・・空漠とした宗教書や、小説類を読み耽って、お仕舞には試験が一二か月前に迫ったが、其様なことに頓着なく、菜根譚の写本を懐にして、飄然と道灌山や滝の川に出掛けて、日を消したことが一二度ではない」と。
 また、島崎藤村の『春』には、以下の記述がある。
 「四月のはじめ、彼は独りで家を出て、上野公園から谷中を通って、道灌山まで歩いて行った。誰も来ないような場所へ彼は行きたいと思うのであった。彼の懐には平素愛読する李白の詩集があった。そこまで彼は泣きに行った。思うさま泣いた」(『春』百十二)と。
 明治24年(1891)~明治28年(1895)頃、横山源之助は谷中初音町に住み、天涯茫々と自称する如くフーテンのように生きていて、司法試験の勉強そっちのけで「菜根譚の写本を懐にして、飄然と道灌山や滝の川に出掛け」、その少し後くらいだろうか、1895年(明治28)に島崎藤村は、李白の詩集を持って、道灌山に泣きに行っている。
 余談だが、私の出た高校は道灌山にあったから、勉強嫌いな私は授業を抜け出すと、谷中や道灌山周辺でわけもなく日を消したことが幾度もあった。そして、1972年の夏に、大学をやめると言って父と言い争いして家を出て働きだした私は、翌年に結婚をすると団子坂下のアパートで新婚生活を始めたのであった。アパートの裏には動坂から根津につづく藪下通りという間道があり、団子坂上から根津に向かってだらだらと下るその道は、ちょっと都会離れした小道であった。樋口一葉の『日記』、明治27年6月の「水の上日記」に、以下のくだりがある。
 「四日 はれ。午後より、小石川亡老君の墓参をなす。天王寺也。きのふ三年の祭成しを得ゆかざりしかば、邦子と共に参る也。墓前に花を奉り、静に首をあげてあたりをみれば、何方より来にけん、小蝶二つ、花の露をすひ、石面にうつり、とかくさりやらぬさま、哀れにもさびし。邦子としばしここにかたりて、それより寺内を逍ゑうす。雲井龍雄の碑文などをみる。夕日のかげくらく成ほど、雨雲さへおこりたちて、空の色の物すさまじかいに、そそやといそぐ。團子坂より藪下を過ぎて根津神社の坂にかかる。・・・」と。
 谷中天王寺に墓参りに行った帰り道に、「團子坂より藪下を」ぬけ、根津神社前の坂を上って、本郷追分から丸山福山町の自宅に帰ったのであろうか。一葉はよく谷中天王寺に墓参りに出かけたようだが、団子坂を下って谷中の墓地方面に三崎坂を上った辺りが、横山源之助の住んでいた谷中初音町である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

二葉亭四迷の社会主義

※「労農派論」の1章になる「二葉亭四迷の社会主義」が書けたので、以下、載せておきます。

 私は、会社勤めを辞めて失業生活に入った時に、二葉亭四迷の『浮雲』を再読した。二葉亭の『浮雲』は日本初の言文一致小説だが、再読すれば日本初のリストラ小説であることも分る。『浮雲』の主人公の文三は、「人減らしで免職」になってしまう。そして「たとえ今課長に依頼して復職ができたといっても、とても私のような者は永くは続きませんから、むしろ官員はモウ思い切ろうかと思います」と腹を決めてしまうのである。こうなると私には、それが明治19年(1886)に書かれた小説だとはとても思えなかったのだった。そして、もっと二葉亭四迷を知りたいと思った。すると二葉亭四迷は、日本でかなり早くから社会主義という言葉を自らに引きつけて自覚した人でもあったのだった。
 二葉亭四迷は『予が半生の懺悔』(明治41)にこう書いている。
 「私のは、普通の文学者的に文学を愛好したといふんぢゃない。寧ろロシアの文学者が取扱ふ問題、即ち社会現象を文学上から観察し、解剖し、予見したりするのが非常に興味のあることとなったのである。で、面白いといふことは唯だ趣味の話に止まるのだが、その趣味が思想となって来たのが即ち社会主義である」、「社会主義を抱かせる関係のあった露国の作家は、それは幾つもあった。ツルゲーネフの作物、就中「ファーザーズ、エンド、チルドレン」中のバザーロフなんて男の性格は、今でも頭にしみ込んでゐる。その他チェルヌイシェフスキー、ヘルツェン、それから露国の作家ぢゃないがラッサール、これはよく読んだものだ」(全集5巻p266)と。
 明治14年(1881)に外国語大学露文科に入学した二葉亭四迷は、1887年(明治20)に言文一致で『浮雲』を書く以前に上記の読書を成し、ベーリンスキーを愛読し、ツルゲーネフ『父と子』を翻訳し、社会主義を自覚していた。これは実に、自由民権運動最中のことであり、安部磯雄の社会主義研究会よりも10年以上早く、明治17年にアメリカに渡って苦学した片山潜が、1891年(明治24)にグリンネル大学の経済学の授業で「ラサール伝を読み、始めて自分は社会主義者となった」のよりも5年くらい早い。
 また、『余の思想史』には(明治41)にはこう書いている。
 「社会主義にかぶれたといふのは露文学の感化が非常によって力があったのだが、社会主義といった処で、非常に幼稚なもので、政府のやる仕事となれば、何でも気に喰はなかったり、つまらん處に自由だ自由だなどと騒いで見たり、今から考へて見ると実に滑稽なやうなものだが、その当時は、どうしてどうして大真面目であったのだ」と。
 その社会主義は所謂マルクス主義ではなかったにせよ、それが若き二葉亭四迷に与えた影響は、マルクス主義が後年の学生運動に与えたものとさほど変わらない。そして実際に外国語学校が商業学校に統合合併されてしまった時に、それに反発して進学するのを辞めてしまった二葉亭四迷は、独立独行の道を歩もうと文学の道を志し、明治18年1月に坪内逍遥を訪ねる。これは、坪内逍遥の『小説神髄』(明治18)を読んで思うところがあったのであろう。二葉亭四迷は、それを評するためにか「小説に勧懲、模写の二あれど云々の故に、模写こそ小説の真面目なれ」、「模写といへることは実相を借りて虚相を写しだすといふことなり」と書いた『小説総論』(明治19)と、自ら「美術は真理の直接の観察若しくは形象中の意匠なり」で始まり、文中には「意匠の由て生ずる所のものは真理なり」と翻訳したベリンスキーの『美術の本質』を持参した。『小説神髄』に沢山の朱墨を入れて訪ねて来た二葉亭四迷と話した坪内逍遥は、「全く別種の文学論を聴き、別種の人格を見た」(「柿の帯」)と、大いに驚いたようである。二葉亭四迷の語った文学論は、当時脚光をあびた写述主義ではなくて、まさに近代的なリアリズム文学論であったのだった。
 坪内逍遥は二葉亭四迷に文学への道を勧め、二葉亭四迷は『浮雲』を書く訳だが、その前、明治19年(1886)に二葉亭四迷はツルゲーネフの『父と子』を抄訳して『虚無党形気』という書名で、坪内逍遥の斡旋で大阪の版元から出す予定であった。そして広告もし、原稿料も支払われたのであったのが、原稿がどこかにいってしまい、そのままになってしまったという話がある。
 このことについて、木下尚江は二葉亭四迷を追悼した『長谷川二葉亭君』という文章で、以下のように書いている。
 「第一に、二葉亭が『父と子』翻訳の目的如何。・・・明治19年の彼は、文学を事業としての初発心の時で、それが特に『父と子』を選訳したと云ふことには、其処に深甚の意味を推測するの義務を感ずる。文章は第二の問題で、眼目は思想問題だ」。「然らば何故に『父と子』の出版を中止したか。これが第二の問題だ。・・・僕には、出版屋の都合から来たものでは無いかと云ふ邪推が湧いて来る。それは二葉亭が付けた『虚無党形気』といふ標題を見て、さふ思ふ」(全集9巻p248)と。
 木下尚江は、明治17年の加波山事件や、明治18年の大阪事件や、同年の自由党の名士馬場辰猪の爆発物の嫌疑と、翌明治19年に開かれたその公判を自らも傍聴したことを書いて、「二葉亭の命名『虚無党形気』が、当時の大阪の書肆に恐怖と躊躇を与へたと想像しても、あながち無根拠の妄想のみとは言はれまい」としている。
二葉亭四迷の青春時代とは、正にそういう時代だったのである。
 明治20年(1887)に『浮雲』が出るのだが、その後、二葉亭四迷は民友社の徳富蘇峰を訪ねており、その際に持参した自己紹介の挨拶文には、以下のようなことが書かれている。
 「小生の感情は真理の愛すべく敬ふべく真理の為には名誉財産は勿論生命だも尚且惜むに足らざるを感ずれども小生の智識は真理を敬愛崇重すべき所以を理會する能はざるやう成果て候も是もまた怪しむべき義には不可有之候」と。
 自由民権運動を強圧的に押さえこんだ藩閥政治は、『浮雲』の内容にもなっている如くに旧官吏のリストラをすすめる一方で、上昇志向と栄達の道を誘う。それに対して二葉亭四迷は、ドフトエフスキーやヘーゲリアンであったベリンスキーの書を愛読することによって西洋哲学に馴染み、ツルゲーネフを愛読することによって西洋流の写実や詩想に触れ、自らの文学論と生き方、要は真理への道を生きようと、栄達の道である学士様になることを辞めて、「真理の為には名誉財産は勿論生命だも尚且惜むに足らざる」と、親の意に背いて文学の道に入った訳である。この生き方は、革命的でなくて何であろうか。二葉亭四迷は、当時の心境を後に『予が半生の懺悔』(明治41)に、こう書いている。
 「私は当時「正直」の二文字を理想として、俯仰天地に愧じざる生活がしたいといふ考えを有つてゐた。この「正直」なる思想は露文学から養われた点もあるが、もつと大関係あるのは、私が受けた儒教の感化である。・・・つまり東洋の儒教的感化と、露文学やら西洋哲学やらの感化とが結合つて、それに社会主義の影響もあつて、ここに、私の道徳的の中心観念、即ち俯仰天地に愧じざる「正直」が形づくられたのだ」と。
 しかし、『浮雲』第3編の載った『みやこのはな』を読んだ二葉亭四迷は、「かほどまで拙なしとはおもわざりしが・・殆ど読むにたえぬまでなり」と自らを卑下し、「正直という理想」と「芸術に対する尊敬心」との間で、「之は甚だしい進退維持(ヂレンマ)だ。実際的(プラクチカル)と理想的(アイデアル)との衝突だ」となって、文学への道を捨ててしまう。1889年(明治22)に「人各能あり。吾の如きは能く小説家となり得べきや如何に・・」と書いて、『浮雲』第3編を書きっぱなしにして、外国語学校時代の恩師の世話で、内閣官報局に就職し、月俸三十円を支給されることになった。
 二葉亭四迷が内閣官報局に勤めていた8年間は、二葉亭四迷の生涯の中でも、比較的安定していた時期のようである。文学への思いに悶々としつつも、「正直」に生きようとすることの延長か、トルストイやスペンサーなど、文学というよりは哲学的な読書をしている。内閣官報局での仕事は、英字新聞や魯字新聞の翻訳であり、そこで得たロシアほかの社会運動の現状についての知識は、悶々とした文学への思いを実践に変えていく。この時期の二葉亭四迷について、内田魯庵は以下のように書いている。
 「一時好んで下層社会に出入するや、一面にはライフの研究者たると共に、一面には自ら下層社会伝習の悪俗の基いたる彼等の精神的欠陥を救うの教師を以て任じた」。「一体長谷川君は下層社会に興味を有して、人間の天真はお化粧した綾錦に包まれた高等社会には決して現れないで、垢面襤褸の間に却って真のヒューマニティを見る事が出来る、と常に云っていた」と。
 内田魯庵によれば、二葉亭四迷は内閣官報局に勤めながら、「洋服の上に羽織を引掛けて・・田舎の達磨茶屋を遊び回ったり、印半纏に弥蔵をきめ混んで職人の間に入って見たり」したそうである。そして、二葉亭四迷は下層社会で出合った女と結婚までしてしまう訳だが、中村光夫はこう書いている。「彼は心から彼等の仲間になり、同類として生きることを望んだので、この無垢の心の生んだ悲劇が彼の最初の結婚であったと思われます」(中村光夫『二葉亭四迷伝』講談社文芸文庫p196)と。
 そして、家を出て安下宿を転々とし、下層社会を徘徊する二葉亭四迷を、明治24年の初夏に横山源之助が訪ねてくる。

 二葉亭四迷の最期は、朝日新聞社のロシア特派員となって革命前のロシアに渡り、そこで病に倒れて、明治42年(1909)5月に帰国する船の船上で亡くなった。一方、同じくラサールを読んで社会主義者となった片山潜は、最後は革命後のソ連に渡って、コミンテルンの指導部に入り、彼の地で死に、スターリンらに担がれた遺体はクレムリンに眠る。
 だから、片山潜こそ最後まで社会主義者であったとなるのだろうが、二葉亭四迷の革命性は以下のところにある。二葉亭四迷は『文壇を警醒す』(明治41)にこう書く。
 「モーパッサンだ、ツルゲネフだ、イプセンだ、と真似をしたって到底だめなことは前にも言ふ通りだ。流行や書物で事を決めてるやうな事なら仕方がない。真に実感に訴えて、国民性に立ち戻って其處から行かなけりゃならぬ。世界が何うだって大陸諸国が何うだって・・日本は日本の長所でやったらいいじゃないか」と。その「モーパッサンだ、ツルゲネフだ、イプセンだ」を、「マルクスだ、エンゲルスだ、レーニンだ」に置き換えれば、それも二葉亭四迷が言わんとしたことに通じている。
 また、二葉亭四迷は日本で初めて言文一致の小説『浮雲』を書いたその翌年には『あひゞき』と『めぐりあひ』を翻訳してた。ツルゲーネフの詩的なロシア語の原文を、味わいを変えずに如何に日本語で表現するのかに苦労した跡が、そのまま表現されていて、おそらく原文もこうなのであろうとさえ思わせるほどで、いま読んでも初々しい。そして、『浮雲』執筆の折には「行き詰て筆が動かなくなると露文で書いてから翻訳したそう」である。ロシア語に学んだ写述を日本語で為そうとした時に、どう表現すればそれが可能なのか、直訳でも意訳でもない表現を求めて、三段階的作業をしたわけである。
 二葉亭四迷は先駆者であったがゆえに。時代はまだ二葉亭四迷を受け入れるのには早すぎた。当時の数少ない理解者であった内田魯庵は、後に「二葉亭の人物」についてこう話している。
 「(長谷川君を評して)革命家の一語を以て評した方が適当だらうと思ふ。長谷川君は純粋の革命家の典型であった。然し革命家と云っても勿論、極端な虚無主義者や実行家では無い、クロポトキンのやうな理論上の革命家だ。コスモポリタニズムの思想の強い人だつたが、一面に於いては叉非常に愛国心の強い人でした」(全集9巻p241)と。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月22日 (木)

大正ユートピア

 「労働は一個の芸術である。絵を画かなくとも、彫刻をしなくとも人間が刻一刻に刻んで行く労働そのものは立派な創作であり、創造であり、芸術の芸術である」という賀川豊彦の『自由組合論』は、「もとより農民芸術も美を本質とするであろう」という宮沢賢治の『農民芸術概論要綱』を思い起こさせる。また、「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する」とする宮沢賢治の「自我」を「人格」に、「集団社会宇宙」を「神」に置き換えれば、それは賀川豊彦の「人格は神格だ。真の人格の建造に神が現れるのだ。誠に人格の建造は神の事業だ」に通ずる。宮沢賢治と賀川豊彦は直接の接触はなかったが、宮沢賢治が『農民芸術概論要綱』を書いた1926年頃に、宮沢賢治は労農党との接触はあったというし、労農党をつくったのは賀川豊彦だったから、全く関係なしとも言えない。そして、もうひとつ両者に共通するものがあるとすれば、ラスキンからの影響だろうか。

 ラスキンは、産業革命以降のイギリスの資本主義の発展原理となった古典派経済学の市場主義と、機械によって創造性を奪われた「人間を除けばなんでも製造する」労働に対して、人間の精神と情愛をもった平穏な経済をめざした。賀川豊彦と宮沢賢治は、ラスキンとマルクスの『資本論』を読んだようだが、両者が共に惹かれたのは、どちらかと言えばラスキンであった。ラスキンの経済学は、現在ではほとんど省みられることはない。古典派経済学には資本主義の常識が語られるが、人を動かすものが金の力だけではないとすれば、市場経済に抗するのにラスキンの経済学に惹かれるのは、まともな読み方と言える。

 若き日にラスキンに啓発され、その思い引き継いだのは、ウィリアム・モリスであった。モリスは、「アーツ・アンド・クラフト」の運動と共に社会主義の政治運動にも参加し、エドワード・ベラミーの『かえりみれば』が描いたユートピアを批判して『ユートピアだより』を書き、同時にそのモチーフであり具現化でもあるケルムスコット・ハウスに拠って、ハマスミス社会主義同盟の会合を行い、ケルムスコット印刷所で本づくりと言うよりは芸術活動を行った。
 明治の産業社会と労働運動の黎明期に、よりよき企業と社会づくりに影響を与えたのはロバート・オウエンであったが、大正期にそれを与えたのはウィリアム・モリスであり、大正時代は、大正デモクラシーの時代というよりは、大正ユートピアの時代であったと言える。1926年に花巻農学校を退職した宮沢賢治は、『農民芸術概論要綱』に「芸術をもってあの灰いろの労働を燃やせ」「芸術の回復は労働に於ける悦びの回復でなければならない Morris“Art is man’s expression of his joy in labour”」とメモし、羅須地人協会を立ち上げる。羅須地人協会は、宮沢賢治にとっての謂わばケルムスコット・ハウスであり、それ自体がユートピアであったのだと私には思える。

 大正ユートピアと言うと、誰もが思い浮かべるのは、白樺派は武者小路実篤の「新しき村」であろうか。1918年に日向の地に創設された「新しき村」は、1日6時間の労働のほかは本を読むも、詩を書くも、絵を描くも自由、やがては図書館、美術館、公会堂、病院もつくろうと理想社会を想い描いたが、現実的には慣れない農作業と粗食にたえられずの離村者も多く、武者小路実篤の執筆活動による収入と村外支援者からのカンパでしのぎながら、現在も埼玉県の毛呂にて継続しているのは、立派なものである。
 もうひとつ、白樺派にはコスモポリタンな傾向がある。関川夏央の『白樺たちの大正』(文春文庫)を読んで驚いたのは、魯迅の実弟の周作人が1919年頃に「新しき村」を訊ねて村外会員にもなり、当時中国で胡適や陳独秀が創刊した啓蒙雑誌『新青年』に「日本の新しき村」という文章を載せて注目を集めたということと、翌年、毛沢東が周作人を訪ねて「新しき村」の話しを聞いたということであった。魯迅が夏目漱石に傾倒して本郷西片の旧漱石邸に住み、夏目漱石の『クレイグ先生』に刺激されて『藤野先生』を書いたという話しとも合わせて、これも謂わば「グレイト・ウェイヴ」の小波であろうか。

 同じく白樺派の有島武郎は、1922年に、自らが所有する北海道の農場を小作人たちに解放し、産業組合法に基づく「有限責任狩太共生農団信用利用組合」とした。これは、土地が再度買い取られて小作人に再転落しないように、土地を組合による共同所有にして各耕作者は組合員として運営参加するという方式であり、有島武郎による私有財産の自己否認であった。有島武郎は、この仕組みを東北帝国大学以来の友人で共にアメリカ留学した森本厚吉に相談してつくったのだったが、森本厚吉は1922年に賀川豊彦が日本農民組合をつくった時に、その評議員にもなった人でもあった。
 有島武郎は、学習院を経て札幌農学校に入学、新渡戸稲造の家に寄宿し、やがてキリスト教に入信、1903年にはアメリカに留学。留学中はホイットマンの詩に親しみ、学業終了後はイギリスに渡ってクロポトキンにも面会、1907年に帰国。1910年に発行の雑誌『白樺』の同人になった。

 前に、もし漱石が私費でアメリカ留学してホイットマンを勉強していたらと書いたが、正にそれをやったのが有島武郎だった。それでどうなったかと言うと、父が横浜税関長で、幼い頃から英語による教育を受けた有島武郎にとって、欧米文化の受容は自然であった。三四郎にとって美祢子はアンコンシャスヒポクリシーであったが、『或る女』の葉子はあからさまにコンシャスヒポクリシーなのである。有島武郎が、『白樺』に『或る女』の連載を始めたのは1911年で、それは夏目漱石の『門』が朝日新聞に連載されるわずか1年前のことである。同じく不倫、姦通を扱いながらも、その表現はまるでちがう。夏目漱石は景を描いて心を表すのに対して、有島武郎はひたすら心を描くといったところだろうか。
 1914年に、夏目漱石は『こころ』に明治の終焉を描く。夏目漱石と有島武郎のちがいは、明治と大正のちがいであろうか。夏目漱石の潰瘍を礎に、大正ユートピアは可能になったと言えなくもない。有島武郎は『或る女』の広告文に、「畏れる事なく醜にも邪にもぶつかって見よう。その底には何かがある。若しその底に何もなかったら人生の可能性は否定されなければならない。私は無力ながら敢えてこの冒険を企てた」と書いた。大正期とは、「敢えてこの冒険を企て」ることが可能な時代であったのである。
 1922年に大杉栄は、ベルリンで開催される国際アナキスト大会に出席するために日本を脱出するが、その金策のために大杉栄が最後に頼ったのが有島武郎であった。訪ねて来た大杉栄に、有島武郎は千円という大金を渡したという。有島武郎は、1923年6月に「婦人公論」記者の波多野秋子と情死し、大杉栄は同年9月に憲兵隊の甘粕大尉によって虐殺された。

 大正期に、文学者の想い描いたユートピアで言えば、もうひとつ1919年に佐藤春夫の『美しい町』がある。日本人を母に、アメリカ人を父にもつと称するアメリカ帰りの男が、隅田川河口の中洲に「美しい町」をつくろうとする話である。男は「美しい町」に住む人の資格として「彼自身の最も好きな職業を自分の職業として択んだ人。さうしてその故にその職業に最も熟達して居てそれで身を立ててゐる人。商人でなく、役人でなく、軍人でないこと」をあげ、時々、ウィリアムモリスの『何処にもない処からの便り』を読んでいる。そして折にふれ、「今、我々が生活している社会生活は、金銭の無限な勢力という可笑しくて奇怪な言説・・危かしく醜悪な建築物で・・それの改善を叫ぶ人々でさへもそのグロテスケンの一種をもう一つ加へるに過ぎない」と語る。『美しい町』は、御伽噺のような小説である。
 佐藤春夫は、一高の受験を放棄して慶応義塾文学部の予科に入り、あまり授業には出なかったというが永井荷風に学んでいる。詩を書き、絵も描く才人で、大杉栄や辻潤とも交流があった。隅田川が小名木川と合流する万年橋の横に芭蕉記念館の別館があり、その屋上から見ると目の前に優雅な形状の清洲橋があって、その先が中州である。芭蕉記念館の別館の屋上には芭蕉の像もあって、夕暮れに、芭蕉の像に重ねてライトアップされた清洲橋の向こうに『美しい町』の幻影を見るのが、私は好きである。

参考図書:伊藤信吉『ユートピア紀行』(講談社文芸文庫)
      関川夏央『白樺たちの大正』(文春文庫)
      『世界の名著41』中央公論社

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 2日 (金)

夏目漱石の『私の個人主義』

 「余は如何なる点からしても戦争と云う事に幾分の趣味も有する事が出来ない。又国家と云うものを尊重する事が出来ない」という永井荷風の一文は、夏目漱石の『私の個人主義』にある「必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方の御家族のために申し上げる次第でもありません」という一文を思い起こさせる。

Photo  『私の個人主義』は、漱石が1914年に学習院で行った講演で、聴衆は学習院に学ぶ支配階級の子弟たちである。漱石は、支配階級の子弟たちに向けてこう言う。
「今までの論旨をかい摘んで見ると、第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重じなければならないという事。つまりこの三ヵ条に帰着するのであります」(岩波文庫『私の個人主義』p126)と。要は、漱石は「ノブレス・オブリージュ」を説いている訳である。

 そして、さらに漱石が「実をいうと私は英吉利を好かないのです。嫌いではあるが事実だから仕方なしに申し上げます。あれほど自由でそうしてあれほど秩序の行き届いた国は恐らく世界中にないでしょう。日本などは到底比較にもなりません」と書いたのを見れば、やはり荷風が「「何につけても、吾々には米国の社会の、余りに、常識的なのが気に入らない。・・フランスに於いて見るような劇的な社会主義の運動もない。・・激烈な藝術の争論もない。何も彼も、例の不文法(Unwritten law)と社会の輿論(Public opinion)とで巧に治って行く米国は、吾々には堪えがたいほど健全過ぎる」書いたのを思い出す。

 荷風はアメリカを嫌ったが、アメリカ流の自主独立にして公共的な市民精神は会得した。同じく、漱石はイギリスを嫌っても、イギリス流の自由主義と個人主義は会得していたのである。『私の個人主義』で、漱石はさらにこう述べる。
「それで私は何も英国を手本にするという意味ではないのですけれども、要するに義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます。・・・私は貴方がたが自由にあらん事を切望するものであります。同時に貴方がたが義務というものを納得せられん事を願って已まないのであります。こういう意味において、私は個人主義だと公言して憚らないつもりです」(岩波文庫『私の個人主義』p129)と。

Photo_2  日本に帰った後の漱石と荷風の文学行為は、その本質において通底している。大逆事件とすれちがった荷風は『花火』を書いたが、漱石は『私の個人主義』に「彼ら(イギリス人)は不平があると能く示威運動を遣ります。しかし政府は決して干渉がましい事をしません。黙って放って置くのです。その代り示威運動をやる方でもちゃんと心得ていて、むやみに政府の迷惑になるような乱暴は働かないのです」(岩波文庫『私の個人主義』p128)と書き、同年に『こころ』を書いた。「御大葬の夜私はいつものとおり書斎にすわって、合図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知の如く聞こえました」と。

 フローベールの『感情教育』を読むと、フローベールにとって若き日に体験した2月革命とその反動であった6月事件は、近代化と文学にとってのひとつのイニシエーションであったのではなかろうかと思う訳だが、日本の近代化と文学にとっては、明治維新と大逆事件がそうであったのではないかと思う。明治は終っても、日本は外発的な近代化を「上滑りに滑って」いかねばならず、それは現在にいたるまでつづいている。荷風は、やがて国家主義的になっていく時代の中で、引きこもりと脱国家主義的空間への放浪をくり返す。そして、私がフーテンしながらこんなことを書いているのも、所詮はそのつづきを生きているのだと、私は勝手に思っているのだ。

 さて、次にアメリカにとって近代化のイニシエーションは何であったかと考えると、南北戦争(1861-65)であったかと思う。19世紀初頭のイギリスにおける産業革命と資本主義の進展は、国境を超えて市場を拡大させ、戦争をも含めて旧い社会を変えていった。1853年に日本に黒船が押し寄せ、1860年には日米修好通商条約を結ぶために日本から遣米使節団が送られ、それを見たホイットマンが「ブロードウェイの行列 日本使節団を歓迎して」と言う詩を書いたことは前に書いた。ウォルト・ホイットマンは、印刷工や小学校教師、民主党系の新聞社の記者や編集者をする政治ジャーナリストであったが、1855年に詩集『草の葉』を出版、以後、生涯にわたって『草の葉』を改版する。そして南北戦争後、1866年にリンカーン大統領が暗殺されると、ホイットマンは次の書き出しで始まる「遅咲きのライラックが前庭に咲いたとき」という詩を書いている。

“遅咲きのライラックが前庭に咲いて、
 西の夜空に大きな星が早くも沈んでいったとき、
 わたしは嘆き悲しんだ、そしてなお、永久に帰ってくる
 春ごとに嘆き悲しむことであろう。・・・”

 ホイットマンにしてはめずらしい叙情的な詩である。ホイットマンが『草の葉』に描こうとしたのは、アメリカという国の原風景であったが、この詩は、南北戦争前後からの産業発展の中で失われていくアメリカの原風景へのオマージュであるような気がする。そして、アメリカ人の近代化への対抗は、いつでもそんな形をとっている。
 南北戦争後のホイットマンは、アメリカ資本主義の発展からは離れて、ニュー・ジャージー州キャムデン近郊に住んで自然の中で暮し、漱石や荷風と同様に『日記』を書いた。そこに「わがアメリカの優秀性と生命力は、われわれの一般大衆の中にあるのであって、旧世界におけるように紳士階級の中にはないのです」(『自選日記・下巻』P109)とあるように、相変わらずポピュリストであり自然主義者であったのだった。

 ホイットマンは1892年3月に亡くなるのだが、同年10月に若き夏目漱石は「文壇における平等主義者の代表者『ウォルト・ホイットマン』の詩について」という文章を書いたことは、前にもふれた。その後、1900年に夏目漱石は文部省派遣の留学生としてイギリスに渡り、産業化の進んだ近代西洋を目の当たりにした漱石は、ノイローゼになって帰国するのだが、もし漱石がその5年後に私費でアメリカに渡った永井荷風と同様に、私費でアメリカに渡ってホイットマンとかエマソンの研究でもしていたら、果たして漱石はノイローゼになっただろうか。そして、もし幸徳秋水が1905年にアメリカでなくて、イギリスに亡命していたら、果たして幸徳秋水は如何なる社会主義者として帰国しただろうか。
 次は、また少しだけ19世紀末から20世紀初頭のアメリカへもどってみる。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2007年5月 7日 (月)

『夜明け前』と『大菩薩峠』

 先日、数少ない私のブログの読者から、「ブログがすすんでいませんが?」と言われた。最近は、ブログよりも簡単なSNSのMIXIをいじるばかりになってしまって、本を読んでも、そこに読書メモを書く程度になってしまった。「HP → ブログ → SNS」と、よりeasyな方に流されるものだが、SNSはSNSでネットワークつくりには便利だが、やはりブログはブログでオープンだから、ブログの方にはテーマのある文章を書いていこうと思っている。

Photo_14  GW中に、島崎藤村の『夜明け前』を読み終えた。4分冊で約3週間がかりではあったが、以前に読んだ中里介山の『大菩薩峠』が20分冊で半年がかりであったのと比べれば、短編小説みたいなものでもあったが。『夜明け前』を読むにいたった経過は、昨年の夏にブログに書いた「リカード派社会主義と宇野理論」という文章に、仙台ヒデさんからコメントをいただいて、それを機に、唯物史観ではない歴史の見方を考え出したせいである。

72  『夜明け前』と『大菩薩峠』は、方や文豪による日本の近代文学を代表する1冊であり、方や机竜之助の音無しの構えで有名な日本の大衆小説を代表する1冊であること以上に、相通ずるものをもった小説である。『夜明け前』の第1部は、ペリー来航から明治維新までの幕末を時代背景にしているし、『大菩薩峠』に至っては、20巻の全てがペリー来航からの幕末を時代背景にしている上に、明治維新にも至らずの未完のままなのである。

 『大菩薩峠』の20巻目も終わりのあたりに、登場人物による次のせりふがある。
「・・・これは木曾の藤兄いといって、姪を孕ませて子まで産ませて追ん出した上に、それを板下に書いて売出した当代の甘いおやじさんだ、文書きの方では古顔なんだが、近ごろ拙者の子分同様になりやんした、よろしく頼む」(「椰子林の巻」p472)と。
「木曾の藤兄い」とは藤村のことである。

 藤村が『破戒』を自費出版したのは1906年で、『大菩薩峠』の連載が始まったのは1913年だから、文書きとしては藤村の方が早いが、藤村が『夜明け前』の連載を始めたのは1929年だから、幕末を背景にした小説を書いたという意味では、介山からすれば藤村は「近ごろ拙者の子分同様」なのかもしれない。これで、中里介山は『夜明け前』を読んでいることが分かるが、上のせりふで藤村が揶揄ぎみに書かれているのは、当時の中里介山の、藤村に対するスタンスがあるのだろうと思われる。

 『大菩薩峠』については、2年前のブログ「中里介山『大菩薩峠』とコミューン」(2005年6月8日)に書いたが、私なりの中里介山のアバウトな経歴と『大菩薩峠』の要約を書けば、以下のとおりである。
中里介山は、秩父困民党コンミューンの翌年、1885年に自由民権運動の余韻が残る多摩に生まれた。1903年に上京して、岩淵小学校の代用教員になり、同年11月に創刊された『平民新聞』に投稿したりして、幸徳秋水とも接触するが、やがてそこを離れてトルストイに共鳴。1910年に大逆事件が起こされ、翌1911年には幸徳秋水らが処刑される。同年、肺結核と診断され、日暮里の岡田式静座道場に通い、木下尚向、田中正造に会う。1906年来「都新聞」に職を得て、1913年から『大菩薩峠』の連載を開始。1919年に「都新聞」退社、1922年に高尾山に草庵を結び、1930年に羽村に西隣村塾を開く。1931年に中国、朝鮮を旅行。1936年に衆議院選挙に立候補して落選。1939年にアメリカ旅行。1941年に『大菩薩峠』の最終巻「椰子林の巻」を脱稿。1942年に日本文学報国会の評議員に選ばれるも、これを拒否。1944年4月28日に腸チフスで死去。

 中里介山は『大菩薩峠』で時代を多面的に描こうとして、同時進行的に多様なキャラクターを登場させる。そして、その誰もが魅力的だが、終盤に入ると『大菩薩峠』の内容は、二つのコミューンづくりに収斂していく。二つのコミューンづくりとは、駒井の殿様のコミューンと、お銀様のコミューンである。駒井の殿様のめざすコミューンとは、近代的な理性と合理性にもとづく、民主的な協同社会である。-方、お銀様のコミューンとは、お銀様という知力、財力、指導力の優れたいわば独裁者によるソヴィェト型もしくは国家社会主義型の人民共和国である。しかし、竜之助はお銀様にこう言う。「拙者の考えでは、理想郷だの、楽土だのというものは、夢まぼろしだね。人間の力なんていうものも底の知れたものさ。・・・人間という奴は生むよりも絶やした方がいいのだ」と。

 書き始められてから30年近く経た『大菩薩峠』の最後の「椰子林の巻」は、駒井の殿様を中心とする一団が日本を脱出して、南の島でコミューンづくりを試みる話しである。そして、一団がたどり着いた南の島には既に西洋人の先住民がいて、駒井の殿様に、ロバート・オークェンの協同社会づくりの試みの失敗を例にして、駒井の殿様たちのコミューンづくりの失敗を予告するのであった。私は、長く協同組合に職を得ていて、ロバート・オーウェンを尊敬し、協同社会づくりを夢みながらも、それらの困難さをますます痛感するところであったから、『大菩薩峠』の最終巻にたどり着いた時には、もうほとんど目からウロコとなったのだった。

 中里介山は「すべての人が、その領土に於いて、その事を為している。たとえば、お銀様は山に拠り、駒井甚三郎は海に拠り、竜之介は夢の中に生きている」と書く。そして、中里介山自身は何に拠ったのかと言えば、1922年に高尾山に開いた草庵、1930年に羽村に開いた西隣村塾といった彼自身の領土であった。それらは農業と教育を一体化した、自らが拠って立つ根拠地であった。松本健一氏は、それを「一定の土地において自給自足の生活をつづけることによって、現実社会のありようと括抗する、いわば-種のコミューン形成の開始である」「農本的アナキズム」(『中里介山』)と書いているが、実際に、1942年に日本文学報国会より評議委員に選出された際、それを拒否できたのは、食料を自給自足でき、印刷所まで持った自らのコミューンに拠りえたであればこそであっただろう。

 1939年に、短期のアメリカ旅行をしたことも気になるところであるが、中里介山が自らもコミューンに拠り、そこに近代日本への思いを託して、明治から昭和へと生きながらも、『大菩薩峠』では明治維新にいたることが出来なかったというのは、思いと現実の落差は、いくら書きつづけようと、埋めようも無かったということであったのだろうか。コミューンへの思いと挫折は、戦後も幾多にも繰り返されるのである。

 さて、島崎藤村の『夜明け前』は、如何であろうか。中里介山が、日本文学報国会の評議委員を拒否したことに比べれば、藤村は1935年に日本ペンクラブの初代会長に就任、1940年には帝国芸術院会員、1942年には日本文学報国会名誉会員にもなっているし、陸軍大臣東条英機が示達した『戦陣訓』の文案作成にさえ参画している。謂わば、自他共に認める文豪であったのであろうが、1929年4月より『中央公論』に連載された『夜明け前』は、これを読むと、藤村が文豪であることを納得させられる。

 『大菩薩峠』においては、歴史上の出来事や人物はほぼ戯画化されて登場するが、『夜明け前』においては、ほぼそのものとして登場する。『大菩薩峠』においては、登場人物が漂白する場が舞台だが、『夜明け前』においては、メインの舞台は木曽路は馬籠の本陣でありながら、時代の趨勢はそこから的確にとらえられており、表現については、ハチャメチャなストーリーと、ですます調で文章の下手くそな中里介山に比べれば、藤村の写実と構成は圧倒的である。

 『夜明け前』は、藤村の父の島崎正樹をモデルにした小説である。主人公の青山半蔵は、木曽路は馬籠の本陣・問屋・庄屋であり、「古代の人に見るようなあの直ぐな心は、もう一度この世に求められないものか。どうかして自分らはあの出発点に帰りたい。そこからもう一度この世を見直したい」(第1部上巻p131)と書いて、平田篤胤派の門下生となって、「暗い中世の否定」を教えられ、御一新=革命に心血を注ぐ。革命理論は、本居宣長~平田篤胤の国学であり、その心は「漢ごころをかなぐり捨てて、言挙げということも更になかった神ながらのいにしえの代に帰れ」、「自然に帰れ」ということであった。

 藤村も介山も、共に描こうとしたのは「明治御一新の理想と現実」(第2部下巻p120)であり、直接にそれを生み出した幕末を背景に筆をすすめた。そして、その落差を埋めようも無かった介山は、維新の前に駒井の殿様ほかを船に乗せて日本脱出を計り、南の島におけるユートピアづくりにとりかかったところで筆を置いたが、『夜明け前』第1部に維新までの幕末を書ききった藤村は、第1部を次の文章で終わらせる。

 「最早恵郡山へは幾度となく雪が来た。半蔵が家の西側の廊下からよく望まれる連峯の傾斜までが白く光るようになった。一ケ月以上も続いた「ええじゃないか」の賑かな声も沈まって行って見ると、この国未曾有の一大変革を恵わせるような六百年来の武家政治も漸くその終局を告げる時に近い。街道には旅人の往来もすくない、山家はすでに冬篭りだ。夜となれば殊にひっそりとして、大の番の拍子木の音のみが宿場の空にひびけて聞えた」(第1部下巻p362)
「冬の日は茶屋の内にも外にも満ちて来た。食後に半截らは茶屋の前にある翁塚のあたりを歩き廻った。踏みしめる草鞋の先は雪溶けの道に燃えて、歩き回れば歩き回るほど新しい歓びが湧いた。一切の変革はむしろ今後にあろうけれど、ともかくも今一度、神武の創造ヘ--遠い古代の出発点へ--その建て直しの日がやって来たことを考えたばかりでも、半蔵らの眼の前には、何となく雄大な気象が浮んだ。
 日頃忘れがたい先師の言葉として、篤胤の道者『静の岩屋』の中に見つけておいたものも、その時半蔵の胸に浮かんで来た。
 「一切は神の心であろうでござる。」(第1部下巻p369)

 その後、介山とちがって藤村は、維新以後へと筆をすすめる。「革命は近い。その考えが半蔵を休ませなかった」(第1部下巻p322)のだが、青山半蔵の願う御一新は成就するのかと言えば、しないのである。結論から言えば、半蔵は維新後に「筑摩県の官吏を相手にして、尾州藩の手を離れてからこのかた、今や木曾山を失おうとする地方の人民のために争えるだけ争うとして」(第2部上巻p369)、山林事件の結果、戸長の役を解かれる。また、国学は神仏分離をおしすすめるも、かえって衰える中、半蔵は寺に火をつけ、その結果、座敷牢に閉じ込められて狂死するのである。

 藤村は、幕末と明治維新を時代背景にしながら、父の生き様を物語となし、明治維新以来の日本の歴史を問おうとする。藤村が『夜明け前』を書き始めた1929年からの年月は、昭和恐慌から15年戦争へと日本が歩みだした時代でもあった。果たして、『夜明け前』は藤村なりの「近代の超克」なのかと思わぬこともないが、藤村は文学者らしく、そんなことは言わない。故郷である木曽路の写実は見事であり、馬籠に視点を置きながらも、優れた考証による時代の活写も見事である。『夜明け前』は、日本近代文学史上の傑作であるというのが、読後の感想であった。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2007年1月14日 (日)

世界はつながっている

 さて、今回は「世界はつながっている」というテーマで、私がいかにして、そう思うにいたったかということを文芸評論的に書いてみる。

 この春で、私は会社勤めを辞めて満7年たつ。SOHO仕事とパート仕事、それに読書と遊びとNPOとで、ささやかに生きているのだが、会社勤めを辞めた直後の失業期間中は、働かずに本ばかり読んだ。辞めたら読もうと思っていた二葉亭四迷や夏目漱石などを再読したのだが、それらの本は、読み直した数だけ、新しい感慨を与えてくれる。失業当初、私は遊民みたいなものだと思って、代助になりきろうと漱石の『それから』を読み出せば、現実は、代助の友人で休職中の平岡であるにすぎないと知らされた。

Photo_6  二葉亭の『浮雲』は日本初の言文一致小説だが、再読すれば日本初のリストラ小説であることも分る。『浮雲』の主人公の文三は、「人減らしで免職」になってしまう。そして「たとえ今課長に依頼して復職ができたといっても、とても私のような者は永くは続きませんから、むしろ官員はモウ思い切ろうかと思います」と腹を決めてしまうのである。こうなると私には、それが明治十九年に書かれた小説だとはとても思えないし、再びわが身の立場を知らされた。

Photo_7  漱石の『それから』だって、代助の友人の平岡を中心に見てみれば、リストラ小説でもあった。平岡は自分の部下が会計に穴をあけ、支店長から因果を含められて、所決を促されて会社を辞め、代助に職を頼む。代助は兄に相談するのだが、兄は「そう云う人間は御免蒙る。のみならずこの不景気じゃ仕様がない」と言ってにべもない。
 私も、会社の同僚が横領をしたとばっちりで、関連会社に飛ばされて、やがて会社勤めを辞めたのだったが、このリアリティは何だ。漱石の時代は、日露戦争後の不景気の時代だが、一方で資本家は株や土地でもうけてもいる。日本の近代社会は、百年経っても少しも変わっていないではないかと知らされた。

 二葉亭四迷と夏目漱石は、同じく朝日新聞社に勤め、また本郷西片町に住むなり、お互い近くにいることがあったが、言葉を交わす機会は少なかったという。漱石が『我輩は猫である』、『草枕』と本格的に小説を書き出した明治39年に、二葉亭は『浮雲』以来20年ぶりの小説として『其面影』を書いた。それは『浮雲』の二番煎じだという世間の評判であったが、二葉亭の死後、その追悼文で漱石は『其面影』について、それが出版された時に買って読み「大いに感服した。ある意味から云えば、今でも感服している」と評した。

Photo_5  翌明治41年に朝日新聞のペテルブルグ特派員となってロシアに渡った二葉亭は、病み帰国の途上、明治42年6月10日にベンガル湾上で死んだ。二葉亭の遺骨は、同30日に新橋駅に着いた。そして『漱石日記』によれば、翌31日から漱石は『それから』を書き出したのだった。『それから』が、姦通小説であることは知られているが、漱石が『それから』という日本近代文学のメルクマールとなる作品のモチーフに姦通を選んだきっかけは、まさに『其面影』にあったのだと私は思った。

 二葉亭四迷は「終わりまで理想に憧れ通す人は沢山はいない」と「理想」に見切りをつけて、自らは実業や国家や社会改良に思いをいたし、満州に渡る。そして、家と生活に負けた『其面影』の主人公の哲也にも、小夜子の面影を抱いて満州を彷徨わせる。一方、夏目漱石は代助に、実業家である父と兄を馬鹿にして「自己本来の活動を、自己本来の目的として」生き、平岡から三千代を奪い、社会からはみ出していく道を選ばす。近代人としては、哲也の生き方よりも代助の生き方の方が、より明示的ではあるが、哲也と小夜子がいたからこそ、代助も宗助もまたありえたのであると私は思った。

41  会社勤めを辞める頃、ハルビン出身の中国人の友人の誘いで、ハルビンに行く機会があった。その頃、ある日図書館に行くと、関川夏央という作家の『二葉亭四迷の明治四十一年』(文芸春秋1996)という本があったので借りて読んだのだったが、「一九五五年の夏から秋にかけて、私は中国東北・黒龍江省ハルビンですごした」に始まる書き出しで、会社勤めを辞めて私がやりたいと思ったところは、その本の中で関川夏央氏によって、もう既に行われていたのであった。

 『二葉亭四迷の明治四十一年』に関川夏央氏は、こう書く。
 「『三四郎』を構想していた明治四十一年夏、日本人は誰もそれとは気づかぬままに近代の危険な岐路に立っていたのである。
 二葉亭四迷長谷川辰之助の、よろめきによろめきを、迷いに迷いを重ねた生涯に私は日本近代そのものを感じ、近代文人の生活と精神の遍歴を思った。・・・明治人としてではなく現代人として、見知らぬ偉人ではなくつきあいこそなかったが親しい友として、その生を懐かしくも傷ましくも思いながら彼の後半生を書こうとこころざした。
 その過程で、思想的激動の明治後半期二十年を遠い昔ではなく、あたかもいまのごとく感じ、また二葉亭とその周囲の文人たちをもいま生ける人のごとく思ってしまったのは、私がその時代と人に没入しすぎたためばかりではない。現代の利便と、それがもたらしたいたずらに虚ろな気配とを除けば近代と現代ではなんら選ぶところはない。つまり、歴史に戦後日本人が信じた「進歩」の概念など適用できないのではないかと看じたからでもある」と。

 その頃のある日、NHKテレビで、「漱石はなぜ東大教授をすてて小説家になったのか」というような番組をやっていて、見ていたら解説者に関川夏央氏が出てきた。見れば、私と同年輩の中年のオヤジでぼそぼそとしゃべり、その辺のスーパーで買ってきたようなジャケット姿であった。そして私は、私もそう生きたいと思ったのだった。

 そう生きたいと思ったというのは、別に作家になろうと思った訳ではない。私も、二葉亭四迷や夏目漱石の生きる世界に遊びたいと思った訳である。『二葉亭四迷の明治四十一年』は何度も読み返し、その都度、私は明治四十一年の文学世界に遊ぶことができる。
 そしてそのことは、単に読書の世界だけでなく、日常の世界でもありえた。私が会社勤めを辞めた頃から癌を患った母は、3年前に亡くなった。マザコンの私は、気が狂うかと思ったが、死を超える世界のあり方を了解できれば、それをしのぐこともできたのだった。

Photo_9  私は自分を文学青年であると思わぬこともないが、ある友人から「万年哲学青年」だと言われ、我ながら納得するところがあった。私にとって、昔から「文学と革命」という言葉は “魔語”であったし、文学にあこがれながらも、いつも世界の成り立ちと社会変革に惹きつけられていた。

 会社勤めを辞めた後の読書では、 二葉亭四迷と夏目漱石のほかに、フッサールとハイデッガーを読んだ。フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』からは、経験に先立つ「先験的領域」のあることを知り、ハイデッガーの『存在と時間』からは、表層の世界をあらしめる「無の世界」があることを知った。そしたら、それらはブランショの言う「文学空間」なり、ユングの言う無意識のさらに奥にある「普遍的無意識」に通底する世界であると思った。そして私は「世界はつながっているのだ・・・」と確信したのだった。

 そして、ブログを書き出すようになると、テーマを「コミューン論」としたものの、内容的には文芸評論的に書くことにしたのだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月 7日 (月)

100年前の可能性

 1905年に幸徳秋水がアメリカに渡り、丁度その頃にアメリカではIWW(世界産業労働組合)が結成され、それと接触した幸徳秋水は帰国後サンジカリズムを唱え・・・と、まあこういったことをこれまで書いてきたのだが、その訳は、100年前のグローバリゼーションに立ち返って、さらにグローバリゼーションのすすむ現在を見直してみたいからである。

 IWWが1905年に結成されてサンジカリズムを掲げたことの背景には、当時の資本主義と労働運動のグローバリゼーッションがあった。今から丁度100年前の1906年に、フランスではフランス労働総同盟(CGT)のアミアン大会で、サンジカリズムを唱えるアミアン憲章が採択されている。一方、やはり1906年にイギリスでは、社会民主同盟、フェビアン協会、独立労働党の3団体により議会主義政党の労働党が成立している。

 片やサンジカリズムであり、片や議会主義であるが、当時の労働運動においては、経済闘争と政治闘争、直接行動と議会主義が激論をかわす。フランスの労働運動で、サンジカリズムを唱えるアミアン憲章が採択された背景には、ドイツの社会民主党が展開した議会主義的政治闘争への反発があるという。一方、ドイツにおいてはマルクス主義の影響を強く受けていたが、1896年には資本主義崩壊論を否定するベルンシュタインの修正主義も提起されている。

 さて、日本における社会主義運動は、安部磯雄。片山潜、堺利彦、幸徳秋水、木下尚江、西川光二郎らによって1900年1月に結成された社会主義協会と、日露戦争への非戦論を主張して『萬朝報』を退社した幸徳秋水と堺利彦が、1903年11月に立ち上げた平民社がさきがけである。政党としては、社会主義協会のメンバーによって、1901年に社会民主党が結成されたが、これは結党2日後に結社禁止となり、1906年に堺利彦や片山潜らによって、最初の合法無産政党である日本社会党が結成されている。

 1904年11月発行の週刊『平民新聞』第53号には、新聞創刊1周年の記念として、日本における最初の『共産党宣言』の翻訳で、堺利彦と幸徳秋水の共訳により『共産党宣言』が訳載されている。
 また、「『平民新聞』は、第1面に英文欄を設け、アメリカ合衆国やイギリス、さらに日本にとっては敵国であるロシアの社会主義者らへ情報の発信をおこない、国際的な連帯を訴えた。その成果のひとつは、戦争中の1904年8月にアムステルダムで開催された第二インターナショナルの第6回大会で、片山潜とロシア代表のプレハーノフがともに副議長に選出されて会議場で握手を交わし、社会主義者の国境を越えた連帯と協力を確認したことである。この握手は、国際的連帯の成果として週刊『平民新聞』はもちろん、各国の社会主義陣営の機関誌等で報道された」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)とあるように、100年前の世界にはもうひとつのグローバリゼーションが成立しかかったが、20世紀の戦争がこれを大きく変えていく。

 最初の戦争は、1904年に勃発した日露戦争である。そしてその最中、1905年に第1次ロシア革命が起き、その後ロシアにおける革命は、第1次世界大戦の最中、1917年にボルシェビキ革命として、ロシアに社会主義国家を成立させた。運動家たちにとって、それまで夢のごとく語られ論議されるだけだった社会主義が眼前に登場したことの衝撃は、計り知れない程である。そして、それまでの多様な労働運動のグローバリゼーションは、ソ連共産党を中心とするインターナショナリズムに収斂していったのであった。

Anavol_1  1920年代の初頭に「アナ・ボル論争」というのがあった。当時の労働運動の分裂と再編を背景として、大杉栄と山川均との論争であるのだが、ロシア革命の影響と重化学工業化のすすむ時代、自由連合か中央集権かという論争をつうじて、これを期にアナキズム、サンジカリズムの運動は衰退していく。
 その後、70年ちょっとでソ連が崩壊した後から見れば、中央集権がいいわけもなく、大杉栄の言う「労働運動とは労働者の自己獲得運動である」という方が、現在でも新鮮味を持っているが、山川均にしても、「マルクスはこう言っている」みたいな論はまったくなく、当代一の理論家であったことがわかる。

 山川均は、当初は幸徳秋水に影響を受けたサンジカリストであったが、大逆事件後、堺利彦の売文社で糊口をしのぎ、1922年に堺利彦らと日本共産党を結成する。この第1次共産党は、関東大震災後に、堺利彦の提案で解散してしまうが、再建された共産党では福本イズムがはびこり、山川均は福本和夫から批判を受け共産党を離党、その福本和夫もコミンテルンの「27年テーゼ」で批判され、その後、共産党は現在につづく共産党になっていき、山川均は1927年に『労農』を創刊して労農派の中心になり、共同戦線党論を展開、戦後は日本社会党左派の理論的支柱となった

Yamakawa_2  ロシア革命以降、社会主義運動の中心は共産党になってしまうが、上記に見たとおり、1922年の日本共産党の結成も含めて、日本の社会主義運動のルーツは、平民社を立ち上げた堺利彦、幸徳秋水以下、大杉栄、山川均、荒畑寒村といった人々であった。(※左写真:右から大杉栄、堺利彦、山川均)
 幸徳秋水が大逆事件で死刑になり、アナ・ボル論争の一方の雄であった大杉栄が1923年の関東大震災直後に天皇制国家によって虐殺されてしまい、それ以降、いわゆるコミンテルン系が左翼運動の中心となってしまい、戦後の新左翼も含めて、社会主義のあり方もその発想内でしかなくなってしまった。

 さて、これをイギリスに見てみるとどうなるかと言えば、100年前の日本とイギリスとでは資本主義も議会主義も労働運動も、その成熟度は比較にならないほどだが、またそうであるが故に、イギリスではコミンテルン系左翼が主流になることはなかったと言える。純粋な資本主義の発達がみられ、それをもとにマルクスが『資本論』を書き上げたイギリスではあるが、『共産党宣言』の翻訳が出版されたのが1888年であるように、マルクス主義の影響はドイツほど強くはなかったようである。それは労働運動や政治運動にも反映している。

 1881年にヘンリー・ハインドマンによってマルクス主義政治団体の社会民主主義連盟が結成されるが、1884年にはそこからウィリアム・モリスらが脱退している。同年にウェッブ夫妻らによってフェビアン協会が設立され、イギリスでは議会の発達がどこの国よりもすすんでいたから、ウェッブらは「これを利用しない手はない」と考えたのであろう。1906年には労働党ができて、同年の総選挙で26議席獲得し、以後、保守党との2大政党政治が始まった。
 また、1910年代にはトム・マンによるサンジカリズム、D.H.コールらのギルド社会主義、1920年代には職場世話役運動(Shop Stewards Movement)などが展開されているように、ロシア革命後も、運動は多様であった。

 20世紀は戦争と革命と冷戦の時代であったが、それが終わってみれば、それらが特殊20世紀的なことであったことが分かる。ソ連とは、大工業化・トラスト化の時代の社会主義であったとすれば、ポスト工業化のすすむ現在から見直せば、プレ・ロシア革命の100年前の時代は、とてもリアリティのある時代だと言える。
 それは、大内先生の言われるように、工業化に対するオルタナティブとしてのウィリアム・モリスの世界であり、モリスの描いたユートピアは、宮沢賢治にとっては羅須地人協会であり、イーハトーブの世界であったのであろう。

 1918年に武者小路実篤は、宮崎県に“新しき村”をつくる。白樺派なりの理想社会(共同体)づくりである。また、1919年に佐藤春夫は『美しい町』という小説を書いた。これは「隅田川に浮かぶ小さな中州にユートピアのような町を建設しようとする夢想家たちの夢物語」であるが、そのモダニズムは、ベラミーの『かえりみれば』にも似ている。さらに中里介山は、大逆事件を契機に構想した一大長編小説の『大菩薩峠』にコミューンの可能性を追い、自らも奥多摩に小さなコミューンをつくり、そこに拠って生きた。

 要するに、私の言わんとしていることは、100年前には多様なコミューン=コミュニティの構想があったのであり、ポスト工業化のすすむ今、再びその在り方を考え直してみたいということなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月 4日 (水)

ディケンズ『アメリカ紀行』

america1あけましておめでとうございます。

年末から三が日にかけて布団は敷きっぱなし、夕方から酒を飲んで布団に入って本を読む、読みながら少しうたた寝をして目が覚めるとまたつづきを読んで、明け方くらいに眠りにつき、目が覚めてまた飲食してから布団に入って・・・というようなスタイルで、ディケンズの『アメリカ紀行』(岩波文庫)を読んだ。

前に書いたように、若干26歳のフランス人貴族のトクヴィルがアメリカを見て歩いた時より10年後の1842年に、イギリスの作家チャールズ・ディケンズもアメリカに渡り、半年あまり各地をみてまわり、それをまとめたのが『アメリカ紀行』である。1838年に若干26歳で、貧救院育ちの少年の物語の『オリバー・ツイスト』(今、読み始めたところである)を書いたディケンズは、新大陸に同胞がつくった自由・平等・民主主義の共和国に期待するものがあったのではないかと思われるが、結論から書けば、ディケンズにとっては「私はアメリカを訪れて、思っていたほどの美点を発見できませんでした」ということであった。

 amerika2 当時のアメリカでも多数の読者を得ていたディケンズは、どこに行っても歓迎されるが、肝心の著作権については、まるで認められない。アメリカ人についてディケンズはこう書いている。「ドルと政治、彼らの話題はいつもこの二つで、それしかしゃべることができないのです」、「この商取引への愛好は、アメリカの文学がいつまでも保護されないままでいる理由の一つでもある。<俺たちは商業国民なんだから、詩なんかどうでもいいのさ>というわけである。ついでながら言えば、私たちイングランド人は自国の詩人たちを大いに誇りにしていると明言してやまない。ところが、商売という実用一点ばりの功利的喜びの前には、健康的な娯楽や快活な気晴らし、それに健全な空想といったものは色褪せてしまうしかないのである」と。(下巻P137)

 私は船が好きだから、嵐の大西洋を渡る外輪船や客室の描写や、ミシシッピー河をはじめアメリカ国内を外輪の蒸気船で旅する情景など、興味深い描写が多々あるのだが、次の光景なども文学者ならではの描写で、とても印象深い。

「このような光景の中を、この不格好な機械の塊はしわがれ声をあげながら不機嫌そう に進んで行く。外輪が回転するたびに、騒々しい高圧の空気をシューッと吹き出しながら。その音は、向こうの大きな塚に葬られている多くのインディアンたちを目覚めさせるのに十分だろう。その塚はたいへん古いもので、巨大な樫の木やその他の森の木々が土の中深く根を張っている。また、その塚はとても高く盛り上がっているので、自然の女神がそのまわりに造った丘の間にあっても、一つの丘となっている。何百年も昔に、白人の存在を知らないという祝福された状態でここで楽しく暮らしていた、今はなき部族に対する憐れみの情を分かち合うかのように、この川は、その本流からそっと逸れてこの塚の近くにさざ波を寄せている。オハイオでは、このビッグ・グレイヴ・クリークほど明るく輝いている場所はまずない。このような光景すべてを、私は、先ほど述べた小さな船尾の歩廊に坐ったまま眺める。夕暮れがその風景にそっと忍び寄り、目の前でその風景を変える。それから、数人の移民を降ろすために停止する」。(上巻P354)

これは、白人に追われて滅び行くインディアンへのオマージュでもあり、次の一文も同様であるが、これが書かれたのは1842年で、アメリカがこのような事実を認めるのは、それから1世紀以上経た後なのである。

また、その署名の中に、すべての真実と誠実を込めた手と心が表わされている素朴な戦士たちに対して、多くの悲しい思いを抱かざるを得なかった。白人たちの行為からやがて彼らが知ったのは、誓いの破り方、また書類や契約書のごまかし方だけだった。私はまたこうも思いめぐらした。ひとをすぐに信じるビッグ・タートル族の酋長が、また、ひとをすぐに信頼するリトル・ハチェット族の酋長が、彼らに対して虚偽の説明がなされた協定文書に、何度自分のサインをしたのだろうか、と。あるいはまた、なんだか分からずに署名し、しまいにはそれによって自分の土地から未開人として追い出され、その土地が新しい所有者の手にわたるはめになったことが何度あったことだろうか、と」(上巻P318)。

ディケンズは、アメリカの奴隷制度については、さらに手厳しくくり返し批判し、アメリカの共和主義の実態をこう書いている。

「奴隷制度の極まりなく歪んだ醜悪さこそが、自由の身に生まれた無法者たちによる勝手し放題の原因であると同時に結果でもあるということが分からないのか?」(下巻P128)

「この地上の<自由>の唱導者たち・・・異教のインディアンたちがお互いにやった拷問の伝説にはめそめそ泣き言をいい、キリスト教徒たちの残忍さには微笑むのか? このようなことが続く間はずっと、あちこちに散らばって生き残っている黒人奴隷たちに対して勝ち誇り、彼らを所有する白人としての勝利の喜びに酔いしれるのか? 否!それより森とインディアン村を復興するがいい!星条旗の代わりに素朴な羽根を微風になびかせ、通りや広場をインディアンのテント小屋で置き換えるがいい!百人の傲慢な兵士たちによる弔いの歌が大気を満たそうと、それは、一人の不幸な奴隷の叫びに比べれば、甘い調べにすぎないのだ」(下巻P130)。このあたりのアメリカ人の自己憐憫は、現在もそう変わってはいない。

「そして、今現在この奴隷たちを必要なものとし、これから先も、ほかの国々の憤りが彼らを自由の身にするまで、彼らを必要とするであろうもの、それこそ、いいですか、かの惨めで哀れな独立の精神、高邁とは程遠い些事に嬉々とする独立の精神であり、かの下劣な共和主義、誠実な者に対する誠実な奉仕はためらいながら、ビジネスとあらば、どんな策略、謀略、奸計もためらわない、かの共和主義なのです」と。(下巻P307)

本書の序論で、ディケンズはすでにこう書いている。「もし私が示してきたいかなる点においても、アメリカが誤った方向に進んでいるという証拠に気づくならば、皆さんは、私が書いたことには理由があったことを認めるであろう」。また、友人のジョン・フォスター宛の手紙には、こう書いている。「自由に対する最大の打撃は、まさにこの国によって与えられることになるだろう、ということです。自由のお手本が崩壊するのを、全世界に身をもって示すという形です」と。 もうほとんど、イラクで戦争をすすめるブッシュ大統領にと共和党政権にささげてもいいくらいの結論でもある。

 さて、私がディケンズを読もうと思ったのは、前のブログにも書いたが、ひとつには19世紀のイギリスの下層社会のことを知りたかったからである。そして、『アメリカ紀行』から読み始めたのは、もうひとつの知りたいこと、イギリスとアメリカはどうちがうのかということを知りたいからである。

イギリスとアメリカは、元は同じくアングロサクソンであり、イギリスで生まれた古典派経済学が実態として展開し、さらに新古典派経済学を生み出して市場原理主義を世界中に広めているのもアメリカである。しかし、これについては次回以降に書くとして、今回、ディケンズからそのことを学べば、イギリスとアメリカは同じではない、とりわけアメリカにおける<自由>と<共和主義>というのは、イギリス人のディケンズが考えたものとは違っていたというのが、ここでの結論である。

 最後に、文学関係について、少しふれておきたい。ボストンに立ち寄ったディケンズは、そこからおこった超越主義について、こう書いている。

emason 「大地の実は腐敗した物の中で育つ。ボストンでは、これまで述べてきたような腐敗した物から、超越主義者として知られる哲学者たちの一派が出現した。この呼称が何を意味していると考えられているのかを調べてみると、理解し得ないことはすべてまさに超越的である、という説明であった。この説明にあまり満足できなかったので、私はさらに調べ続け、超越主義者たちは私の友人カーライル氏の信奉者であるということ、いや、彼を信奉するラルフ・ウオルドー・エマソン氏の信奉者であるということが分かった。この紳士は一巻のエッセイ集を書いているのだが`その中には、夢のような空想的な多くの事柄に混じって、真実で高潔な、また正直で勇敢なさらに多くの事柄がある。超越主義はいくつかの突飛な考えを持っているが(そのような要素を持たない派なんてあるだろうか)、しかし、そういったものがあるにもかかわらず、多くの健全な特質を持っている。・・・それゆえ、もし私がポストンの人間だったら、私は超越主義者になるであろう」と。(上巻P130)

 また、ジョン・フォスター宛の手紙には、次の一文がある。

  「しかし一方、私の屈託のない笑いは、まったくもってP・Eのおかげによるものです。彼はフィラデルフィアの文芸詐論家で、文法的にも慣用的にも完璧に英語を使いこなす唯一の人で、つやつやしたストレート・ヘアで、折り返し襟のシャツを着、イングランドの文筆家たちを残らず容赦なく批評する人ですが、私が彼の心に<新時代を目覚めさせた>とも言ってくれました」(下巻P301)。

 P・Eとはpoe、エドガー・アラン・ポーのことである。ポーは、旅役者の子として生まれ、幼くして両親と死に別れ、養子に出て1826年にヴァージニア大学に入るが、賭博で借金をつくって退学、その後は陸軍に入り、やがて詩を書き出した。ポーはディケンズから影響を受け、またディケンズを高く評価していたというが、ディケンズがアメリカを見てまわっていたその時代、ディケンズの書くとおり、ドルと綿花と市場以外の価値を認めないアメリカ社会にあって、極貧の中で作品を書きつづけ、1849年に泥酔してのたれ死んだ。

 トクヴィルは『アメリカの民主主義』に「アメリカが偉大な著作家たちをまだもっていない・・・すなわち、精神の自由なきところに、文筆的天才は存在しない。そしてアメリカには精神の自由というものはないのである」(中巻P183)と書いたが、アメリカでは評価されなかったポーが書いた詩や小説は、フランスの象徴主義に大きな影響を与え、ボードレールはポーを高く評価して世に知らしめ、マラルメはその詩を訳した。

 少し遅れて1855年、印刷工や新聞記者などをしながら詩や小説を書き、奴隷制に反対していたウォルト・ホイットマンは、詩集『草の葉』を発行、唯一エマソンから評価を受け、後にウォールデンの森の生活者H.D.ソーローは彼を訪ねた。

 陸軍に入ったポーは、1830年頃までヴァージニア州モンロー要塞に勤務していた。その30年後の1860年に、日米修好条約の調印のためにワシントンを訪れた幕府の使節団は、このモンロー要塞から上陸したという。そして、ニューヨークのブロードウェイで、この日本からの使節団の行列を見たホイットマンは、「壮麗なマンハッタンよ! わが同胞のアメリカ人よ! われわれのところへ、この時遂に東洋がやってきたのだ」と詩を読んだ。

 1892年にホイットマンが死ぬと、同じ年の明治25年に夏目漱石は、「文壇における平等主義の代表者『ウォルト・ホイットマン』の詩について」の一文を書き、1900年にはイギリスに留学して、カーライルを学んだ。そして、私は40年前に漱石と出会い・・・

 正月の酔いの回った布団の中で、本をもったままうつらうつら、これは初夢か今年の世界か、夢とも現実ともつかぬ世界が回りだして、つながりだす。私の今いるところと、ディケンズの世界というのも、思ったほど遠く離れているわけではないと思われ、ますます世界は時空を超えてつながっているのだとの感を強くする。さあ、今晩から『オリバー・ツイスト』の世界である。

※エマソンとポーの写真は、岩波文庫『アメリカ紀行・下巻』から

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月26日 (月)

海辺の錆落とし

海辺の錆落とし

錆びついた輝き砂に落とし

落ちない錆は指にからめて

あの頃と今のめぐり合い

錆びつくのもいいものだ

夏の終わりの風に吹かれて

※「過ぎ去った海の思い出」への梶山さんのコメントを読んだら、久しぶりに詩がひとつ書けました。梶山さんに感謝、感謝。

| | コメント (1) | トラックバック (0)