2016年7月19日 (火)

『校本・宮沢賢治全集』と「凡夫の俗論」

72「仙台・羅須地人協会」のMLに半田正樹氏が「宮沢賢治の世界は、なんびとに対しても開かれていながら、その扉を開けるのは容易なことではありません。何かのきっかけにスイッチが入らないととび込めない設計になっているように思います。スイッチを探り当てる難しを感じます。」と書かれているが、まったくその通りで、私も今年こそ天沢退二郎・入沢康夫編『校本・宮沢賢治全集』(筑摩書房)を読もうと全集を部屋に積み上げたのだが、難攻不落この上ない。何しろ厚くて重いから寝転がって読めない。そこで、編者が同じ天沢退二郎氏である新潮社版の文庫本をアマゾンで各1円で手に入れて、そこには主要な作品が網羅されていて、これをだいたい読んだところ。これまでも「宮沢賢治詩集」や「文学全集」や「文庫本」で代表作を拾い読みしてはいたけど、改めて読み直すと、その奥の深さは尋常ではない。

宮沢賢治の本で生前に出版されたは、詩集の『春と修羅 第一集』と童話集の『注文の多い料理店』の二冊だけである。作家の作品は、出版されて評価を得てそこに代表作も生まれるわけだが、宮沢賢治の場合、代表作の『銀河鉄道の夜』も『風の又三郎』も『グスコードリブの伝説』も『ポラーノの広場』も一部が雑誌に掲載された以外は未出版である上に、どれも最初の着想から何度も書き直しが行われている。『注文の多い料理店』は有名だけど、宮沢賢治の童話全体からすれば分量的にはその1%程度で、それ以上にシュールで面白い童話はほかにもいっぱいある。また、宮沢賢治の人生は36年と短いけど、実生活から精神生活までの多様さと深さは、どの切り口からでもユニークな賢治論や賢治伝が書けるほどであるから、いくら賢治論や評伝みたいなものを読んでも、「宮沢賢治の世界は、なんびとに対しても開かれていながら、その全体を理解するのは容易なことではない」となるのである。

天沢退二郎・入沢康夫編『校本・宮沢賢治全集』(筑摩書房)は、45年前の私がまだ学生の頃に出版が始まり、当時、私は時給150円で本屋でアルバイトをしながら、また学生を止めて本屋で働き出してからは3万円の給料から1冊4000~5000円するその全集を購入した。それは、当時、文学をしたかった私が、「作品行為とは何か、それを解く要諦は宮沢賢治にあり」と思ったからであり、そのサゼスチョンを天沢退二郎から受けたからであった。通常作家は、新聞なり雑誌なりに小説を書き、それが単行本になったところでその作品行為は終わる。それでも最初に書かれた原稿とその直し、新聞に載った字面、単行本に載った字面、さらには文庫本になって読みやすくされた字面には違いがある。一方、宮沢賢治の作品は、大半が本になることはなく、どの作品も最初の着想と書き出し、初稿から何度も推敲と書き直しが繰り返され、それは賢治が亡くなるまでつづいた。賢治の死後、それらは残された草稿を元に編集されて次々と本になったわけだが、ではそれが決定稿であるかというと、必ずしもそうではないものが多く、「編集者によるつじつま合わせの手の多く入った合成本が流布されていた」のであった。

そこで、1970年代に天沢退二郎・入沢康夫編『校本・宮沢賢治全集』は、宮沢賢治の全原稿から推敲して、各作品の成立過程と構造を明らかにして、決定版といわれるものを作ったわけである。当時、天沢退二郎と入沢康夫は明治学院大学の教授で、現代詩人として知られていた。入沢康夫は「詩は表現ではない」と喝破し、天沢退二郎はモーリス・ブランショの『文学空間』から「作品行為論」を展開していた。宮沢賢治が自費出版した『注文の多い料理店』はほとんど売れなかったから、賢治はその後の童話の出版はあきらめるわけだが、読まれるあてもなく童話は書き継がれ推敲され、プロットは転移され、消しゴムで字句が修正され、と書き直しが繰り返し繰り返し行われ、それは死ぬまでつづいたのであった。宮沢賢治の詩や童話、賢治ワールドは如何にして成立したのか、書くとは何か、文学空間とは何か、こういったことが天沢退二郎・入沢康夫編『校本・宮沢賢治全集』では解き明かされていると、私は思ったわけであった。

その後、生協に転職して以来、私は文学よりも協同組合や社会運動ばかりやって来た。そして一昨年に前期高齢者になり、仙台ヒデさんとの共著本を出し、最近やっとまた文学をと思い出し、今年こそ宮沢賢治を読もうと思ったわけである。しかし、難攻不落の『校本・宮沢賢治全集』、どこから攻めるかと思った矢先の2月28日に、前にも書いたけど、仙台ヒデさんから「貴兄の組合論、賢治の産業組合にひっかけた論稿をグリーン冊子の第三集に載せたいのです。くれぐれも宜しく。」とのメールをいただき、「宮沢賢治と産業組合」、「羅須地人協会と産業組合」みたいなテーマでならということで、これが私の宮沢賢治入門のスイッチになったわけである。

宮沢賢治をこういう切り口からとらえるというのは、一面的で宮沢賢治を語ることにはならないという意見はあるだろう。仙台ヒデさんとの共著本『土着社会主義の水脈を求めて』には、「夏目漱石を社会主義者と書くとはけしからん」という批判をする人もいた。その人からすれば、今回も同じにしか読めないだろうけど、夏目漱石と宮沢賢治には大いなる共通点がある。それは、凡夫には及ばぬ作品の奥の深さであり、思想の許容度の広さである。だから、凡夫にできることは、その一面を描くことだけ。「羅須地人協会」ひとつにしても、「羅須」とは何か、その解釈はつきない。だから私は、「羅須地人協会とは、宮沢賢治が考えた産業組合のことである」くらいに立てて、凡夫の俗論を目論むわけである。

しかし、これはあくまでも私の宮沢賢治入門だ。賢治の文学空間へのアプローチ、天退流には「宮沢賢治の彼方へ」は、私の協同組合論を始末つけた後に、あらためて取り組もうと思っている。70歳を過ぎてからになるだろうか、そしてそれを死ぬまでつづけようと思っているわけである。自分で言うのも何だけど、いい人生だ。しかし、とりあえずは「羅須地人協会と産業組合」をまとめよう。これが今夏の宿題だ。そろそろ梅雨明けか、大好きな8月、夏を楽しもう。

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2016年4月11日 (月)

柄谷行人、カール・ポランニーと宇野弘蔵、それからロバート・オウエン

Photo歳を取ると出不精になるのか、老人性引きこもりなのか、ただ金がないだけなのか、冬は寒いのもあって2、3月は家にいて本を読んだ。柄谷行人の『近代文学の終わり』(インスクリプト2005)、『日本近代文学の起源』(岩波現代文庫2008)、『哲学の起源』(岩波書店2012)ほかを読んだら、「僕は彼(ポランニー)から多くを学んでいます。・・僕が交換様式をA(贈与)、B(再分配)、C(商品交換)の三つに分けて考えたのは、そもそもポランニーの影響です」とあったから、ついでにカール・ポランニー『大転換』(東洋経済新報社1976)も読んだのであった。

 日本で『大転換』が出版されたのは40年前であり、私は当時それを読まなかったけど、カール・ポランニーを日本に紹介した玉野井芳郎の『地域分権の思想』(東洋経済新報社1977)などは読んだ。1977年から地域生協で働き出した私は農業や産直に関心を持ち、「転換期」が言われ出した時代の中で、私はソ連型社会主義に代わる新しい社会主義論、大内力らの自主管理論などを読んだわけである。そしてポランニーは、『経済の文明史』が2003年にちくま学芸文庫で復刊された時に読んだのだが、それはオムニバス版で散漫な印象を受けた。そして今回やっと『大転換』を読んでみると、ポランニーの論が宇野理論に通じること、マリノフスキーのトロブリアンド島のクラ交易が出てくること、ロバート・オウエンへの高い評価などが印象的であった。

 私は70年代の半ばから社会党の活動をやっていたのだが、当時、党内では新しい社会主義の模索が始まっており、私はピエール・ロザンバロン『自主管理の時代』(新地書房1982)や大内力『国家独占資本主義・破綻の構造』(御茶の水書房1983)、新田俊三『高度社会システムの創造』(第一書林1985)、『社会の変革と創造』(新地書房1987)や、大内秀明『「資本論」の常識』(講談社1984)や『ソフトノミックス』(日本評論社1990、『経済評論』1988年1月号より連載)から多くを学んだ。そして社会党もそれらの学者の協力で、80年代末には新路線を提起するところまでは来たのであった。

 下町の生協で働き、社会党の活動をし、地域の労働運動や平和運動、とりわけパラマウント製靴の自主生産闘争などを応援していたわけだが、1980年のICA(国際協同組合同盟)モスクワ大会においてカナダのレイドロウ博士の報告『西暦2000年の協同組合』が提起した「生産協同組合」と「協同組合地域社会」の可能性を、私は下町の自主生産闘争に見たのであった。そして、新しい社会主義の模索と併せて、新しい協同組合の在り方を考えるようになった。80年代はバブル経済とポストモダンの時代であり、情報化と国際化が急速にすすんでいた。

 90年代に入ると、ソ連はあっけなく崩壊し、社会党も解体して社民党となり党員の再登録が行われ、私はそこを離れた。90年前後に岡部一明氏と知り合いアメリカのNPOに関心を持ち、1993年に初めての海外旅行でサンフランシスコに行き、岡部一明氏に西海岸のNPOを案内され、彼の書いた『多民族社会の到来』(御茶の水書房1991)、『インターネット市民革命』(御茶の水書房1996)、『サンフランシスコ発:社会変革NPO』御茶の水書房2000)を読んで、もうひとつのアメリカについての大いなる啓示を受けた。キイワードは「市場経済」と「非営利組織」と「コミュニティ」であり、ガルブレイス、ドラッカー、D.H.コースから、ハイエク、フリードマンなども読んだ。

 日本を飛び出して世界を放浪し、カルフォルニア大学バークレイ校を卒業し、オークランドで日系NPOをやり、アメリカのNPOを日本に伝え、日本の大学でも教え、さらにそこを辞めて再びアジアを放浪する岡部一明氏はアナーキーな人であり、市場原理主義には批判的でも規制に縛られずに自由に生きること、いわば市場機能には理解がある。おそらくアメリカ革命と呼ばれる建国期のアメリカ、トクヴィルが見たアメリカ人の個人主義と利他主義、自治的なコミュニティへの共感と、現在もつづくそういった文化への共感なのであろうと思われ、私もそれらにシンパシーした。そしたら私は消費生協という産業社会型の協同組合に飽き足らなくなって、自分でもワーカーズコレクティブやNPOやSOHOといったものをやりたくなってきた、そんな矢先に職場で不祥事があって、2000年の春に私は生協を辞めたのであった。

 2000年の秋には、オークランドでの日米シニアNPOの交流会に参加する大内秀明氏のカバン持ちをして再度サンフランシスコに行き、また岡部一明氏の世話になった。そして、2004年に大内秀明氏が作並に「賢治とモリスの館」を立ち上げると、私は毎年そこに通って、出来たとたんに反故になってしまった今はなき日本社会党の「新宣言」のつづきをやろうと思ったわけで、作並での議論はウィリアム・モリス、宮沢賢治、夏目漱石、宇野弘蔵から一言でいえば「共同体論」に収斂していったのであった。この経過は2014年に大内秀明氏との共著で『土着社会主義の水脈を求めて―労農派と宇野弘蔵』(社会評論社)という本にまとめた。しかし、校正を省いてしまった本書は誤植が多くて落ち着かない、また内容的には歴史的経過が中心で本論には至っておらず、2006年の『世界共和国』(岩波新書)以来気になっていた柄谷行人氏の協同組合論も論じて、協同組合論としての増補改訂版を出し直そうと思い、そのための作業としてこの冬の読書をしたわけである。

柄谷行人は『哲学の起源』でアテネのデモクラシーは支配の一形態であったとする一方で、ハンナ・アーレントの『革命について』からインスパイアされて、イオニアにはイソノミアという自由で無支配な社会があったとする。そして「イオニアのイソノミアに類似するもう一つの例は、18世紀アメリカのタウンシップに見出される」とする。岡部一明氏もそういったアメリカの原像にシンパシーしていたものと思われる。荒っぽく我田引水すれば、宮沢賢治がイーハトーブに込めた思いも、イソノミア的世界の回復であったのではと思われるところで、この辺りに「共同体=コミュニティ」の原像をイメージするとこるである。

 カール・ポランニーは、「18世紀における統制的市場から(労働、土地、貨幣を商品化した)自己調整的市場への移行」を「根底的な転換」とし、「労働、土地、貨幣が本来商品でないことは明らかである」、「市場による購買力管理は企業を周期的に破産させることになるだろう」と書くわけだが、これは労働力の商品化によって資本主義は成立した歴史的なものであるとする宇野経済学にとても類似しており、唯物史観と階級闘争論には関心がないところも宇野弘蔵に通じている。ちがうのは、ポランニーには労働価値説、価値形態論といったマルクス経済学の理解がなく、代わりにマリノフスキーのトロブリアンド島のクラ交易からインスパイアされた互酬論ほかの人類学的な観点があることだろうか。

 カール・ポランニーは1886年にハンガリーに生まれ、マリノフスキーは1884年にポーランドに生まれ、ともに地元の大学で学んだ後はイギリス、そしてナチス政権の成立後はアメリカに渡って研究生活を送っている。ロシア革命後のヨーロッパにおける知性の繚乱とその交流は領域も広くまばゆいものがあり、20世紀の知性はすでにそこで出尽くしていると思われるほどであり、同じ頃の日本の知的世界がコミンテルンマルクス主義によって席巻されてしまったのとは大違いである。日本でポランニーや構造主義が迎えられたのはヨーロッパより半世紀も遅れたわけだが、同じ頃の日本にも世界と共時的な認識を持ちえた学者が少数だけどいた。ポランニーと同様にイギリスの資本主義成立過程から労働力の商品化による資本主義の成立とその歴史的特殊性を見抜いた宇野弘蔵もそうだが、社会学者の有賀喜左衛門などもそうである。

宇野弘蔵と有賀喜左衛門はともに1897年の生まれで、宇野弘蔵はドイツ留学後は東北大学に職を得るわけだが、有賀喜左衛門は仙台の二高から京都大学を経て東京大学文学部を卒業、卒論のテーマは担当教授に反対されながらも朝鮮美術であり、柳宗悦は1922年に「朝鮮の友に贈る書」を書き、有賀喜左衛門は柳宗悦から強い影響を受けたという。1922年はマリノフスキーが日本では1967年に翻訳出版された『西太平洋の遠洋航海者』(中央公論)を出版した年でもあるが、有賀喜左衛門はその頃すでにそれを読み、同じ頃に柳田國男と知り合って見込まれ、アナキズムに惹かれ、1934年に出た『宮沢賢治全集』を愛読したという。だから有賀喜左衛門は唯物史観の影響は受けずに、大塚久雄の共同体の発展段階論など講座派的な一元的発展段階論を批判している。有賀喜左衛門は伊那出身の人で、諏訪中学の後輩には村落共同体史の研究で知られる中村吉治がおり、中村吉治も卒論のテーマに「百姓の研究をやりたい」と平泉渉に相談すると「豚に歴史がありますか」と批判されたそうで、同郷のこの二人には会い通じるものがあり、中村吉治も柳田國男と親交があった。中村吉治は東北大学の教授になり、戦後に同じく東北大学の教授になった大内秀明氏のいわば先輩でもある。 

そこで、柄谷行人『柳田國男論』(インスクリプト2013)を読んでみた。出版されたのは最近だが、主要な論が書かれたのは70年代で、そこには柳田國男と田山花袋との交流など『日本近代文学の起源』につながるモチーフが読めるが、それと現在の柄谷行人の柳田國男論ある「遊動論」とは直接つながってはいない。次の言葉だけを反省的にメモをしておくところ。「〈外来思想〉とか〈土着思想〉とかがそれ自体あるわけではない。あるのは、いまだ抽象(内省)されたことのない生活的な思考と、それを抽象するかわりに別の概念にとび移った、つまり真の意味で《抽象》というものを知らない思考だけである」。「ひとはそれぞれ自分の固有の経験を照明することによってしか普遍的たりえない」。そして私は、私の生き方を顧みて、「増補改訂版」をどうするか考えるわけである。 

最後に、近年カール・ポランニーの評価は高く、リーマンショック後は市場主義経済への対案として『大転換』は中国など15ヶ国で翻訳され、韓国にはカナダにあるカール・ポランニー研究所のアジア支部がつくられるといった状況だが、ポランニーが『大転換』で最も評価したロバート・オウエンについては大した見直しはされていない。しかし、私的には『大転換』の肝はそこにしかない。オウエンはエンゲルスによって「空想的(ユートピア)社会主義者」とされてしまい、その影響が今なおロバート・オウエンの評価をためらわせているのかと思えるほどだが、オウエンは革命家と言うよりは企業家であり、「ロバート・オウエンほど深く産業社会の領域を洞察した者はいなかった」。「彼の思想の支柱は、キリスト教からの決別であった。オウエンはキリスト教を、〈個人主義〉という点で、すなわち、人格の責任を個人自体に負わせ、かくして社会の現実と人間形成に与える社会の強い影響を否定しているとして非難したのである。〈個人主義〉を攻撃する真意は、人間のもろもろの動機は社会にその起源があるのだという彼の主張のうちにあった」とポランニーは書いている。現在の格差問題や非正規を「自己責任」に帰す言い草を、オウエンは根底的に否定しているのである。 

さて、今日で67歳になった。髪はうすくなり、腹は出て、身体はボロくなった。物忘れが多く、こうしてメモをとらないと読んだ本のことはすぐに忘れてしまう。だから、この先に何ができるのだろうかと、考えるわけである。やりたいのはロバート・オウエンが試したようなコミュニティづくり、そのための論を考えながらすすめようと思っている。よろしく。

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2014年5月 6日 (火)

向坂逸郎と宇野弘蔵の差

先日、元日本社会党副書記局長の曽我祐次さんから電話があって、「『社会主義』で協会派の中心の山崎耕一郎が『ウィリアム・モリスの社会主義』を批評しているから読んでみたら」とあったから、飯田橋の社会主義協会に行って、『社会主義』3月号を分けてもらい、読んでみた。

協会派もウィリアム・モリスの社会主義を評価するようになったのかなと思いしや、親族の死によって故・向坂逸郎氏の蔵書が中央大学に寄付され、それを元に中央大学では『チョーサー著作集』を購入したようで、それはウィリアム・モリスのケルムスコット・プレス版であったので、山崎耕一郎氏はモリスに関心を持ち、ついでにモリスの共同体社会主義を評価して、エンゲルス流の国家社会主義を批判する大内秀明氏の『ウィリアム・モリスのムルクス主義』(平凡社新書2012)を読んで批判した文章のようである。

せっかくの向坂逸郎氏の蔵書が、ウィリアム・モリスのケルムスコット・プレス版『チョーサー著作集』になってしまった惜しさみたいなものもあるのだろうが、ものの価値を考えれば、向坂逸郎氏の残した蔵書が社会貢献をしたと言えるくらいなものと思われるのだが、社会主義協会からすれば、山崎耕一郎氏が「マルクス、エンゲルスの考えは、『革命後の国有=労働者階級を中心とする国民の共同所有』と言う意味である。この点は、はっきりしている」と断定するとおりだから、それを批判する「共同体社会主義」など認められないということなのであろう。

さらに山崎耕一郎氏は「共同体社会主義」を批判する主要な論拠を、「工業化と大量生産、大量消費への批判・・これだけでは社会全体の運営はできない」、「そうでないと、国際経済競争のなかで、低価格品との競争に勝てないので、その国の経済総体が敗者になりかねない」、「現在の世界では、すべての国・企業が参加する経済競争が激しい。ある国・企業がゆっくり進むということは、他の多くの国・企業との競争に敗れるということである」と書くわけだが、この論拠では「だから原発を再開して、雇用を緩和して」というアベノミクスと同様になってしまうしかない。

社会主義協会は、相変わらすソ連型の「国有=労働者階級を中心とする国民の共同所有」という一国生産力主義的国家社会主義への幻想を持ちつづけているようである。しかし、そこからは山崎耕一郎氏が本論の最後に、「このままでは。しかし資本主義諸国の経済は、恐慌にはならないが、進むも退くもできない。問題は、この後の経済・政治について、脚本も、登場人物もどこでも決まっていないことである」ととんちんかんなことを書くように、何の展望も見出せないだろう。

また、『社会主義』3月号に載っている善明建一氏の「社会民主主義の市場経済論を考える」なども読むと、今になってかつて彼等が批判した社会民主主義を読み直しながらも、「生産の無政府制に基づく市場万能主義では、労働者の窮乏化が強まり」とか、「私は資本主義の害悪の根源は私有財産制そのものにあり・・社会主義とは・・生産手段の社会的所有(国有化)が大前提であるという考え方である」とか、「科学的社会主義を否定るることを意図した社会民主主義論に与することはできない」とかで、その頭の固さと悪さにはあきれるばかりである。

そこで、山崎耕一郎氏が「著者は過去の論争で、相当に不愉快な想いをしたのかもしれない」と上から目線で述べる「著者」こと大内秀明氏の近論「マルクス、モリスの社会主義と唯物史観」(『変革のアソシエ』2014年4月)を読むと、同じくマルクスに学びながらも、頭の悪い人と良い人の差はここまでちがうものかと驚かされる。

ソ連崩壊から25年、社会主義協会が相変わらずであるのに対して、大内秀明氏のソ連型社会主義に代わる社会主義の探求と構想は、宇野弘蔵が『資本論』の非イデオロギー的な解釈と純粋資本主義論に基づく体系化によってスターリン経済学を批判したように、『恐慌論の形成』から『ウィリアム・モリスのマルクス主義』、そして今回の「マルクス、モリスの社会主義と唯物史観」まで、宇野理論をベースにウィリアム・モリスの『資本論』理解を晩年のマルクスに重ねながら、ソ連型社会主義のルーツとなったエンゲルス流の社会主義理解を体系的に批判している。一見、『変革のアソシエ』というマイナーな雑誌に載った小論のように見えて、その実たいへん重要な文章だと思ったところである。

社会主義の所有論的な解釈と唯物史観による否定の否定といったドグマに対して、モリスはバックスとの共著である『社会主義 その成長および成果』の注で、「中世期における労働は、メカニカルな場合では、個々別々に行われていたのだが、精神的な面から見れば、連合・アソシエーションの原理によって、かなり明確に支配されていたのだ」と書き、つづけて大内秀明氏は、「(中世期における労働は)ギルド共同体による組織的な労働であり、連合・アソシエーションの原理で結ばれた社会だった。・・・そうしたギルドの労働組織が基礎になり、共同体における生産と消費が繰り返される社会的物質代謝が行われていた、と認識していたのである。こうした歴史認識は、西欧社会では共通の認識だったのであり・・・コミュニティとしての共同体組織の復権を目ざす共同体社会主義が主張されたにおであろう」と書いている。

私的には、「脱労働力商品化によるコミュニティの形成」ということになるところだが、こうして宇野理論とウィリアム・モリスのマルクス主義から「共同体社会主義」が構想されるわけで、かつて私が感心した石見尚氏のマルクス主義の所有論的理解から生み出された労働者協同組合論と協同組合社会とは、結果は似ているけど原理とプロセスが異なることは、これで分かるところである。

また、大内秀明氏は「唯物史観で主張される生産力と生産関係の矛盾と発展についても、『資本論』の純粋資本主義の抽象と、そこでの景気循環の内部で説かれる法則的内容が理論的基準になるだろう。そうした法則的基準を抜きにして、唯物史観がドグマ化したまま、生産力の発展が肯定的に受け止められ、もっぱら生産関係との矛盾、そして桎梏が強調されると、生産力の無限の発展が志向されかねない。ここから生産力理論による、近代化主義の誤りも生まれてくる。レーニンが「全国の電化」を目指し、重化学工業化が推進され、それを実現する「プロレタリア独裁」の権力支配も、唯物史観のドグマと無関係ではないだろう。さらに原子力の科学的平和利用など、今日の科学技術立国のイデオロギーや「成長戦略至上主義」も生まれてくる」と書くわけだが、唯物史観のドグマや所有論敵アプローチによる社会主義~協同社会論では、定常化社会が不可能であることが分かる。

山崎耕一郎氏と大内秀明氏の差はどこから生じるのかと考えると、山崎耕一郎氏は「アダム・スミスの『国富論』も冒頭から「すべての国民の年々の労働は・・・」と書いてある。この真理は誰もが認めていることである」と書くように、アダム・スミスの労働価値説を「真理」とする一方、大内秀明氏はアダム・スミスの労働価値説に対して、マルクスの価値論は「価値形態論」であるとするところから生じている。要は、向坂逸郎と宇野弘蔵の差なのであろう。

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2014年2月12日 (水)

棄石埋草

 労農派には「学者グループ」というのがあって、この労農派系学者グループの生みの親は高野岩三郎であり、学者グループの中心には高野岩三郎の教え子である大内兵衛がいた。高野岩三郎は、一八九七年(明治30)に労働組合期成会を立ち上げた日本の労働運動の創始者である高野房太郎の実弟である。前述したように、兄の高野房太郎は片山潜との対立や運動の停滞に併せて、一九〇〇年(明治33)に公布された治安警察法によって労働運動が禁圧された後、失意のうちに清国に渡っり、一九〇四年(明治37)にそこで客死した。そして、兄からの仕送りで東京大学を卒業した高野岩三郎は兄の志を継いで労働運動に尽力し、後に労農派系学者グループの中心人物になる大内兵衛や森戸辰男を育て、東京大学の法文学部から経済学部を独立させると、そこに櫛田民蔵や権田保之助を招いた。また、高野岩三郎に学んだ鈴木文治が一九一二年(大正1)に「友愛会」を立ち上げると、「友愛会」の評議委員になってこれを応援した。しかし、一九一九年(大正8)に国際労働代表事件で高野岩三郎は東大を退官することになり、その直後に起こった「森戸事件」で大内兵衛と森戸辰男は起訴されると、高野岩三郎は大原孫三郎から任された大原社会問題研究所に森戸辰男や櫛田民蔵や権田保之助を集めて研究活動をし、東大を卒業した宇野弘蔵も大原社会問題研究所に就職した。
 一九二一年(大正10)に森戸辰男とともにヨーロッパに渡った大内兵衛は一九二三年(大正12)に帰国すると東大にもどり、その後十五年間教授をして、有沢広巳、脇村義太郎、向坂逸郎、高橋正雄、美濃部亮吉、安部勇、大森義太郎、脇村義太郎らと研究生活をする。このメンバーは高橋正雄、美濃部亮吉、安部勇が東京大学を追われたために、神田に安部事務所を構えて一九三〇年(昭和5)の『改造10月号に』からその「世界情報」欄に執筆を始め、それは一九三七年(昭和12)一〇月までつづいたのだが、一九三八年(昭和13)二月一日、「このグループの人々が一斉に検挙され、みんな警察のブタ箱にぶちこまれるという事件が起こった。・・・これが世にいう教授グループ事件である」(後掲書p248~251)となったのであった。
 大内兵衛は『経済学五十年』(東京大学出版会1960)に、「ぼくは労農派ではなかった。・・・それだのに、政府とわが東大のファッショ同僚諸君はぼくを労農派として告発したのである。彼らは学問とイデオロギーとの別を知らない。彼らはイデオロギーと実践との関係を知らないのである」(p260~262)と書く。そして一九四四年(昭和19)に無罪の判決を受けるのだが、このあたりは前に書いた宇野弘蔵の場合とよく似ている。無罪になっても復学のできなかった宇野弘蔵は東京に出て民間の研究所に勤めたが、大内兵衛は、戦争中の暮らしを以下のように書いている。
 「ぼくは刑務所から出て来てから終戦のすぐ前まで、すなわち七年間、世の中と全然無関係に暮した。東大からは追われ、ジャーナリズムからは嫌われ、収入の道は絶たれた。訪ねてくる人もなく訪ねる人もない。・・・それでも、誰もがしたように、ぼくも、野菜やさつまいもを買出しにリュックを背負って田舎へでかけたよ。・・・ただ、高野先生、森戸、久留間その他大原研究所の入々はぼくを許してくれて、ぼくをその研究のメンバーに加えてくれた。ぼくが家の門を出るのはここへ行くためであった。ぼくは、この柏木の静かな美しい庭をもった日本家の中で、また静かに読書した」(p293)と。
 労農派は一九二七年(昭和2)一〇月に堺利彦、山川均、荒畑寒村、猪俣津南雄、北浦千太郎、鈴木茂三郎、黒田寿男、大森義太郎らが創刊した雑誌『労農』に集った人に始まり、福本イズムに対して無産戦線の統一を基本理念とし、一九二八年(昭和3)に無産大衆党を組織し、同年一二月に七無産政党の合同により日本大衆党が結成されると堺利彦はその中央委員になり、翌一九二九年(昭和4)二月に日本大衆党より東京市会議員選挙に立候補してトップ当選した。一九三一年(昭和6)七月に労働者農民党・全国大衆党・社会民衆党合同賛成派が合同し、全国労農大衆党が結成されると堺利彦はその顧問となり、翌一九三二年(昭和7)七月に全国労農大衆党と友愛会=総同盟系の社会民衆党が合同して、社会大衆党が結成され、無産政党の統一が実現した。社会大衆党は安部磯雄が委員長、高野岩三郎はその顧問に就任し、労農派系からは鈴木茂三郎、黒田寿男、岡田宗司らが参加したが、労農派系は左派として非主流であった。
 やがて日本が負けて戦争が終わると、高野岩三郎、安部磯雄、賀川豊彦の呼びかけで、戦後の日本社会党が結成され、一九四七年(昭和22)には片山内閣が成立し、森戸事件で東大を追われた森戸辰男が文部大臣になる。高野岩三郎は、戦後NHKの会長になったが、労働争議で左派から批判され、一九四九年(昭和24)四月に亡くなった。築地本願寺で行われた葬式は、会葬者3500人、花輪200以上と「一生を貧乏で過ごした学者の最後をかざるものとしてはあまりにも華麗でやや奇妙であった」という。
 東京大学から大原社会問題研究所、NHKへと高野岩三郎に従った学者に権田保之助がいるが、宇野弘蔵は大学一年の時に権田保之助からドイツ語を教わり、当時、権田保之助はモリスや民芸運動を語ったという。権田保之助が社会主義の感化を受けたのは早稲田中学時代にそこの英語の教師をしていた安部磯雄からであり、外国語学校を出た権田保之助や櫛田民蔵を東大に呼んだのは高野岩三郎であり、安部磯雄は一八九七年(明治30)に高野岩三郎の兄の高野房太郎が立ち上げた日本初の労働団体「労働組合期成会」に参加した人であるとこう見てくると、日本の労働運動や社会主義運動のもうひとつの流れは、キリスト教社会主義系の友愛会系や社会民主主義系というか、よりリベラルなところにあったと言える。大内兵衛は高野岩三郎について、『高い山』(岩波書店1963)に以下のように書いている。
 「(高野岩三郎は)その漸進主義にもかかわらず、徹底的に社会主義者であった・・そしてこれが彼をしていつまでも生命ある実践家たらしめたのであるが、私見によれば、それは彼が早くから労働問題に興味を覚え、労働者の味方となろうと心がけたからである。・・・それについては彼の兄房太郎の感化を没することはできない。彼は書いている、『・・・私自身の社会観に対しこの兄の存在は一つの大きな影響を及ぼしたことは自ら疑う余地はない』と。・・・高野が一生を通じて、常にこの兄の志をのべようとした情は切なるものがあった。かの有名な治安警察法第十七粂というストライキ禁止法が第一次世界戦争後、高野らの奮闘によって廃止された日の高野の日誌には『これで兄のカタキを討ったような気がする』と言いてある」と。(P18-19)
 「先生の社会主義はマルクス主義ではなくほぼウェブ流またはフェビアン流であった(先生にはウェブの大著『産業民主制論』の訳がある)。・・・先生のように明治の前半期において、自由主義の思想の洗礼をうけて成長した人には例外としてこういう心の用意はあった。たとえば夏目漱石などその類である。・・・漱石でももう少し長生さして、高野先生のように直接に社会間題にふれていたら、きっと社会主義者になったと思われる」(前掲書P46-47)と。

 夏目漱石の弟子筋に作家の野上弥生子がいる。野上弥生子は一八八五年(明治18)大分県に生まれ、十四歳の時に上京して明治女学校に入学、夏目漱石門下の野上豊一郎と結婚して自らも「ホトトギス」に文章を書き、夏目漱石から小説を学んだ。一九九五年に九十九歳で亡くなるが、晩年に「私がもっとも影響を受けた小説」として以下のように書いている。
 「(私がもっとも影響を受けた小説)夏目先生の作品。この世に生きるといふことがどういふものであるかを、若い幼稚な私にはじめて教へてくださったのは先生の作品であり、また八十六の老媼になり果てた今日において、いよいよ深くその一事をおもひ知らせてくださるのも先生の作品です。その意味から『吾輩は猫である』より『明暗』にいたるまでのすべてが、一編の人間存在の書ともいふべきものかと存じます」。
 「夏目先生があの時代に、たとえば『坑夫』や『二百十日』というふうな題材を取り上げたということなども、やはり先生の傾向を示すものではないでしょうか。晩年にこそ″天に則って私を去る″(則天去私)というふうな思想の、大らかな高いイデーにまで到達してお隠れになったのですけれども、日記の中にあるように、「天子だからなんでもできる。しかし天子だからできない世の中がこないとも限らない」といったような意味のこと、そういうことなどもちゃんと書いておありになるっていうこと。私はそういう意味において先生が大正、昭和と生きてこられたら、日本に対してどういうふうなお考えをお持ちになっただろうか、ということに非常な関心をもっています。
 夏目先生の『行人』『三四郎』『門』などの作品の中にある苦悶は、権力者の苦悶ではなく、ほんとの一人一人の人間、どこにでもいるような、私たちが隣り合って住んでいるような、いわゆる庶民の苦悶であり、嘆きであり、怒りであるということ、そういうことが漱石をいまだに生きた人としているのではないでしょうか」と。
 野上弥生子の代表作のひとつに『真知子』がある。『真知子』は一九二八年(昭和3)~一九三〇年(昭和5)に書かれ、そこにはコミンテルン系の活動家たちが登場する。主人公の真知子もその末端に属する上流(ブルジョワ)階級と結婚話という舞台設定も含めて、『真知子』は『明暗』の延長にあると言っても過言ではないであろう。漱石は一九一五年(大正4)に『明暗』を書きかけたまま死んでしまうが、そのまま生きて『真知子』を読んだら、いかなる感想を述べたであろうか。『明暗』に造形された小林という社会主義者のタイプは、漱石の死後に起ったロシア革命以降、時代が昭和になる頃から日本中にうじゃうじゃと誕生した。
 ブルジョワ階級の末端に生活する真知子は、ある日、学校を辞めて三河島のセツルメントで働く友人の米子を誘って上野の美術館にロゼチやプリ・ラファエル派の絵画を見に行くのだが、その帰り道に「愛の精神を基礎としない社会主義の効果は、わたしは十分信じられないのだから」と言うと、米子から「さう云う人にはオーエンあたりが丁度いいのです」と言われてしまったりする。
 親や親類の勧める縁談を断りつづける真知子は、やがて米子の仲間の関という思想問題で大学を退学になり裁判中の活動家に惹かれていき、自立しようと家を出て関に抱かれるのだが、米子が関の子供を身ごもっているのを知り、関から離れる。もうひとり真知子に求婚して断られるブルジョワの御曹司で、考古学を研究する河井という男が登場する。物語の最後は、河井が役員をする会社に入り込んだ関の仲間たちが争議を起し、河井は「職工の共同管理で新たに経営させてみるために、研究所だけを残し、彼の不動産のほとんど全部を投げ出そうとし」、真知子は隠されていた河井への愛を感じたところで物語は終わる。
 私が要約してしまうと身も蓋もないが、四〇〇ページ近い小説で、登場人物の造形や物語の展開も、さすが漱石の教えを受けた人だけあって、とても上手い。場所的な背景が現在の文京区中心で、「谷中の墓地を抜けて田端まで歩いて」とか、「白山上の乗換場が来て」とか、「毎日学校へ行く時見て通る駕籠町の東洋文庫」などという表現に出合うと、私の父の実家もあの辺りにあってあの辺りは昔馴染みであったから、まるで昨今のような気にさえなる。
 それにしても、漱石が亡くなってから十年ちょっとで世の中はここまで変わるものなのか、ヴォルシェヴィズムはここまで跋扈したものなのか、またその時代の変化を漱石の一人の門弟の奥さんがここまで描けるものなのか、野上弥生子には脱帽である。当時、野上弥生子の次男の茂吉郎と高野岩三郎の息子の高野一郎とは家も渡辺町で近く、誠乃小学校時代からの同級生で、茂吉郎は高野一郎の妹の正子と結婚した。『真知子』に描かれた時代認識というのは漱石文学を引き継ぎながら、そういった環境から得られたものではなかったであろうか。真知子はコミンテルン系の友人から「さう云う人にはオーエンあたりが丁度いいのです」と揶揄されるわけだが、森戸辰男が『オウエン~モリス』を書いた如く、高野岩三郎系ではレーニンよりも「オウエン モリス」であったわけである。
 ついでに書けば、高野岩三郎の長女のマリアの亭主になったのは宇野弘蔵であるから、野上弥生子は宇野弘蔵にもつながっている。そして戦後のある日、野上弥生子は小田切秀雄らに頼まれて、宇野弘蔵に法政大学の総長になってくれるように頼みに行ったという。
 「(私立大学)の元締め役の椅子に、学究一途の頑固で融通のきかぬ点では全く標本のような人間を坐らせる。これ以上に無謀とも、矛盾ともいい得るものがあるだろうか。しかし・・・けっきょく・・私は、鵠沼の家へ出掛けた。・・・宇野夫妻はそれだけでも驚いたが、もって行った用事は宇野さんを殆んどびっくりさせた。とんでもない話だといった」という秘話である。
 もちろん宇野弘蔵は法政大学の総長にはならなかったのであるが、野上弥生子の夫の野上豊一郎は法政大学の総長であったから大内兵衛とも親しく、こう書いている。
 「高野老人の死後、大原研究所は法政の中に移され、野上の急死で総長を失った法政は、大内さんにお願ひしてその職について頂いた。このことの実現は誰よりも地下に眠る故人にとって大きな安心と、満足であることを信ずるものであり・・・」(岩波書店『野上弥生子全集』第22巻から)と。
 さらに野上弥生子は、「宇野さんからは著書のすべてを貰っても、ほんとうは皆目わからず、猫に小判です、が御礼のきまり文句になっていた」と書くごとく宇野弘蔵とも仲がよかったのであった。そして以上のことをブログに書いたら、大内先生からは以下のコメントがあったのだった。
 「『真知子』ご紹介頂き、ありがとう。昔、読んだので、もう一度読み直したような気になりました。宮本百合子との対比だったので、野上さんのほうが面白かったことだけしか頭に残っていません。「野上の婆さん」なかなかですよね!宇野先生も、野上さんの事、よく話題にしていましたが、嬉しそうに話していたのを思い出します」と。
 引用ばかりで恐縮であったが、要は人と人がつながり、思想が受け継がれ鍛えられしてきたということである。故・黒岩比佐子氏は遺作となった堺利彦と売文社を描いた名著『パンとペン』(講談社2010)に、「(売文社以降のこと※筆者注)を十分に語りつくすためには、もう一冊の本を書かなければならないだろう。そして、私にとってそれはかなり気が重い作業である。なぜなら、『冬の時代』が終わった後に、『春の時代』が到来したわけではないことを歴史は語っているからだ」と書いて、出版後に若くして亡くなった。二〇一〇年(平成22)の秋に、私のブログへのコメントで『パンとペン』の出版されることを知った私と大内先生はさっそく『パンとペン』を読んで感銘し、僕等もまとめようということになって、この論をすすえてきたところである。私は日本の土着社会主義の成立過程を書き、大内先生は労農派の成立から日本資本主義論争と宇野理論の成立と戦後までということにしたところで、私の分担はこれで終わりである。「冬の時代」の後には「春の時代」が来るものなのか、どの時代にも冬もあれば春もあるものなのか、藩閥政治からの復古主義的イデオロギーが再興し、リベラル派と左派が割れるという昨今の政治状況を見るにつけ、時代はめぐるものというのが実感である。故・黒岩比佐子氏の「『冬の時代』が終わった後に、『春の時代』が到来したわけではないことを歴史は語っている」という言葉が今なおリアリティをもつ時代の中で、歴史に学びながら、どんな時代にもめげずに生きる人々に心寄せて共に生きたいと思うところである。
 堺利彦は「冬の時代」が終わった後に、「春の時代」が到来したわけではない一九三三年(昭和8)一月二二日に永眠した。大内兵衛は、同年一一月に亡くなった片山潜と合わせて、以下のように書いている。
 「日本の共産党はコミンテルンの一支部であったことから、片山さんが誰よりも偉い社会主義者であるというふうにいわれ、今日、それが伝説化または神話化されている。・・片山さんと堺さんとを比べると、学問においても、人間においても、操守においても、要するに社会主義者としては段ちがいに堺さんが偉かった。・・しかるにその堺さんは、遂に神さまにはされなかった。堺さんはもちろんこれを喜んでいるに相違ないが、日本の社会主義はこういう偉い人を忘れてはよくないとぼくは思う」。
 「戦争で焼けたぼくの家の応接間には、堺枯川の『棄石埋草』という額がかかっていた。君たちの中で覚えている人があるかね。あれは、ステ石ウメ草とよむのだろうと思う。実に立派な字であった。あれは昭和六年の選挙に出たときに選挙費のために売ったもので、大森義太郎君がぼくに売りつけたものであった。ぼくは、あの字が好きであり、あの文句がすきであった。堺さんはステ石ウメ草だろうか。それ以上のものだろうか。日本社会主義がもし他日立派に立ち上がるとすれば、彼のステ石ウメ草の上にであろう」と。
 堺利彦の娘の近藤真柄は、父への『謝辞』を以下のように書いている。
 「明治三十七八年日露戦争当時の非戦論から、今日の世界大戦の危機をはらむ時の××××(戦争反対)まで、常に棄石埋草として働きたいとしていた父でありました。今日の父を、棄石とし、埋草として、全無産階級の××××(戦争反対)運動の肥料たり、口火たり、糸口たらしめていただけたらと私共は思うのであります」(『わたしの回想』ドメス出版1981)と。私もまた、そう生きたいと思うところである。

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2014年2月 6日 (木)

山川均と宇野弘蔵

 一九一八年(大正7)か一九一九年(大正8)の頃、ふたりの青年が山川均を訪ねてくる。東京大学の学生の宇野弘蔵とその友人の西雅雄である。宇野弘蔵は、戦後に宇野理論と呼ばれる経済学で名を成すマルクス経済学者であるが、宇野弘蔵の社会主義入門は、中学五年の頃に大杉栄の『生の闘争』に堺利彦が書いた序文を読んでからということで、当初は大杉栄のサンディカリズムの影響を受けたという。
 前述したように、宇野弘蔵は『「資本論」五十年』の冒頭の語りだしで、大杉栄の『生の闘争』に堺利彦が書いた序文の添えられた「社会主義鳥瞰図」を示して、当時「社会主義というのは・・恐ろしいものだと思っていた。ところが堺さんの一覧図を見ると・・ぼくははじめて社会主義というのはこういうものかと思ったんだな。つまり個人主義、それから国家主義、国家社会主義、社会主義、共産主義、こういうものが並んでいる。こういうものかと思って、初めて社会主義なるものに興味をもって、それで大杉のものに特別の興味を持つようになった」と語っている。
 宇野弘蔵の実家は本屋をやっていて、『生の闘争』はたまたま店にあったから読んだようであるが、高梁中学時代の友人の西雅雄から教えられて、その頃はまだ無名であった石川啄木を読み、その流れで高校に入ると土岐哀果を読み、高校2年の頃に土岐哀果の文芸的社会主義雑誌『生活と芸術』の叢書として出された大杉栄の『労働運動の哲学』を読んだという。これが宇野弘蔵のサンディカリズムとの出会いであり、大杉栄が「労働者のエネルギーを説くところは、非常にわかりやすかった」という。ほかにも、中学生の頃からの宇野弘蔵の読書暦は多彩である。中学時代には徳富蘆花や国木田独歩、高校時代にはクロポトキンやリッケルト、萩原朔太郎や有島武郎やドフトエフスキーを愛読したという。マルクスについては高校時代に西雅雄から『新社会』を教えられ、一九一七年(大正6)の二月から『新社会』に連載された高畠素之訳カウツキー『資本論解説』を読んでマルクスを知り、「高等学校の後半にぼくは『資本論』をどうしても知りたいと思うようになった」という。そして経済学をやろうと思うようになった宇野弘蔵は、同年に東京大学経済学部に入学すると、単行本になったカウツキー『資本論解説』をくりかえし読みながら「なんとかして『資本論』を読もうと思い」、「社会主義というより『資本論』です。これを知りたいと思っていた」(前掲書p101)と述べている。
 しかし、大学に入った当初の宇野弘蔵は「サンディカリズムとしての社会主義を知っているだけ」で、マルクスがどんなののかはほとんど知らなかったという。アナルコ・サンディカリズムの魅力について、宇野弘蔵は「つまり労働者の中のエネルギーが自然発生的に社会改造の新しいエネルギーと思想を展開してくるという考え方です」と説明する。そして大学に入ると、そこには権田保之助というサンディカリズムの煽動者がいて、権田保之助の研究会で宇野弘蔵がサンディカリズムの報告をしたら、大いにほめられたという。
 余談だが、当時、権田保之助はモリスに興味をもっていたそうだが、早稲田中学の生徒だった頃から『平民新聞』を配ったりした早熟の人で、早稲田中学では安部磯雄の教え子であり、騒動を起こして早稲田中学を辞めた後は外国語学校に入って、そこでは櫛田民雄といっしょになり、高野岩三郎に呼ばれて櫛田民雄とともに東大の助手になったようである。大学時代は美学を専攻して、その時の先生は夏目漱石の友人の大塚保治であったという。前述したように、大塚保治の妻は大塚楠緒子で、一九一〇年(明治43)に楠緒子が早死すると、漱石は「有る程の菊なげ入れよ棺の中」の句をたむけている。
 そして、東京大学に入学した宇野弘蔵は、社会主義運動をやろうとして上京してきた西雅雄と山川均を訪ねたわけだが、宇野弘蔵が「山川さんのところに初めて行ったとき・・夜訪れていったら、とても喜んで、上がれといって。そのとき英訳の『共産党宣言』をもらった。(私が近くの宇野さんの子どもだということは)そういう話をすればすぐ向こうはよく知っているんだ」と述べているように、山川均と宇野弘蔵は同じ「倉敷もん」であるだけでなく、家もご近所だったのである。山川均の『自伝』には「上のほうの姉は十六歳で、私の家とま向かいの林家に嫁入りした」とあり、宇野弘蔵の『「資本論」五十年・上』には、「(山川均は)『新社会』やその他で高等学校時代に読んでいる。もちろんそのときは山川さんをぼくの知っていた山川さんだということは知らなかったんだ。また初めは無名氏というペンネームで書いていて、それを読んで非常に感心したね」、「山川さんといったら昔社会主義者で、あのうちは閉門したうちだというだけなんですよ。・・・たとえばぼくのうちなんか山川さんの姉さんのうちとは非常に親しいんだけど、それでも全然話してない。だから無名氏が山川均氏で、山川均氏がぼくの近所の人だという、これには驚いた」(P89-90)とある。
 宇野弘蔵は、堺利彦や山川均からの影響のされ方については、「やっぱり山川さんのものをずいぶん読んでいるからね。堺さんのものはあまりそうたいして読んでいない」(前掲書p91)ということで、堺利彦を訪ねたのは二度だけ、大杉栄の北風会にも一回顔を出したそうだが、山川均のところへはその後も通って翻訳の手伝いもしたという。第一次共産党の母体になる水曜会にも顔を出して戦後に共産党の委員長になる徳田球一とも同席したりしているが、実践活動には誘われることも参加することもなかったという。山川均の知り合いということで、参加を認められていたといったところだろうか。
 宇野弘蔵は、「大学の三年間は河上肇と山川均に『資本論』の手ほどきを受けたようなものだ」と語っている。例えば、山川均は1919年(大正8)頃に「国家社会主義と労働運動」という以下の文章を書いている。
 「社会主義は多くの人々によって、資本私有制度の撤廃であり、資本公有制度の主張であると解せられている。しかしながら社会主義が、少なくとも現代の労働階級の社会主義が、資本私有の撤廃を主張して居るのは、賃銀制度廃止の方法として、これを主張しているものであることを忘れてはならぬ。社会主義が資本私有の廃止を主張しているのは、その廃止は必然に、賃銀制度の廃止を伴うという前提によるものであって、もし資本私有制度廃止が、同時に賃銀制度の廃止を意味せぬとしたならば、資本私有の廃止と存置とは、もとより社会主義の関知せざるところである。
 マルクスの経済学説によれば、剰余価値の搾取は、労働力が商品として売られることに基因するものである。労働力が商品として売られる問は、労働者は生産行程の支配者ではなく、したがって厳密なる意味での生産者ではなくて、単に原料や機械と均しく、生産費の一項目を構成する《労働と名付ける》商品の売手である。そして労働力が商品たる間は、剰余価値は正当に、詐欺または掠奪のごとき個人的の不正手段によらずして、生産者以外のものの収得に帰するものである。そして賃銀制度は必然に労働力を商品とみなすことを前掲としてのみ、なりたち得るものである。したがって賃銀制度は必然に、剰余価値の生産を意味するものである。そして剰余価値の生産の存続する限りは、労働問題は永久の宿題として存続するに相違ない。
 そこでこの最後の意味における国家社会主義が、労働問題を解決するかどうかという問題は、必ずしも単に国家社会主義の結果が、資本私有制度を撤廃するか否かという《ことによってのみ決定せられるものではなく、》その資本私有制度の撤廃が、賃銀制度の廃止を意味するや否やという一事にかかっている。・・・《賃銀制度の廃止を伴なわぬ国家社会主義は、畢竟、国家資本主義である。労働者はいぜんとしてその商品たる労働力を売って、その剰余価値を引き渡さなければならぬ。労働者はいぜんとして、賃銀という一様のあつもののために、生産物に対する相続の権利を売らなければならぬ。そして剰金価値に対する労働階級の奪還戦は、永久に歌われねばならぬであろう。》」(勁草書房『山川均全集・2』から)と。
 この論の背景には、当時の売文社内で国家社会主義を唱えだした高畠素之への批判があると思われる。山川均が国家社会主義への批判の論拠として「労働力の商品化」をあげ、社会主義を「賃銀制度=労働力の商品化の廃止」として、「単に国家社会主義の結果が、資本私有制度を撤廃するか否かという《ことによってのみ決定せられるものではなく、》その資本私有制度の撤廃が、賃銀制度の廃止を意味するや否やという一事にかかっている」とするのは卓見であろう。宇野弘蔵が言うように、「堺さんや山川さんたちはボルシェビズムより前からマルクス主義者であった」わけであり、山川均におけるマルクス事始は一九〇七年(明治40)に『大阪平民新聞』に連載した「マルクスの資本論」であり、それはモリスとバックスの共著である『社会主義』から学んだものであった。山川均がサンジカリズムを学ぶのはその後のことであり、いずれにせよ国家主義的な社会主義に否定的であるわけで、そこから「労働力の商品化の廃止」としての社会主義につながるのであろうと思うところである。宇野弘蔵は『「資本論」五十年』を語った時でさえ、「ぼくには思想的にはやっぱりサンディカリすティックなものが残っているかもしれない」と語っている。
 山川均について宇野弘蔵は、さらに以下のように語っている。
 「山川さんでも一時はサンディカリスティックだったのだが、本来はマルキスティックだったのではないか。そしてそれから後にはボルシェヴィズムにはいるというわけでしょう。ボルシェヴィズムにはいれば当然政党運動ということになる。おそらくそこに例の方向転換に行くきっかけがあるのじゃないかな」。
 「(ぼくは)ああいうことはできない。らっぱ吹いたり旗をふることはどうしてもできん。それが悪いというのではないが、できない。山川さんも、ぼくはそう思うんだけれど、政党政治家になれないのが当然だという感じがするんだ。それは性格的にそうだと思う。・・だから戦後、大分活動されたが、ぼくにはどうも山川さんのなさるべきことでけなかったような気がするんだね」と。
 一九二一年(大正10)に東京大学を卒業した宇野弘蔵は大原社会問題研究所に入所する。後述するように、大原社会問題研究所は一九一九年(大正8)二月に設立総会を開き、同年国際労働代表事件で東京帝国大学を辞職した高野岩三郎が所長となって一九二〇年(大正9)に開設された民間の研究所で、一九二〇年(大正9)に東京大学経済学部の機関誌『経済学研究』に森戸辰雄が書いた「クロポトキンの社会思想の研究」が発端となって森戸事件が起こると櫛田民蔵、森戸辰雄、権田保之助らはそこに移り、翌一九二一年(大正10)の春には宇野弘蔵もそこに入所したのであった。当時、堺利彦は森戸事件について、「大正九年のおめでたいとその酔いはまず森戸事件でさまされた。・・・なにしろ大学教授の朝憲紊乱という珍現象は著しく思想界を刺激する効果があった。マルクスの流行に食傷しかかっていた読書界は、たちまちにしてクロポトキンの流行を歓迎した」と書いている。
 大原社会問題研究所に入所した宇野弘蔵は、一九二二年に(大正11)の夏に高野岩三郎の娘と結婚をする。それについて宇野弘蔵は、「(彼女)を山川さんの姉さんの主人、前に話した薬屋をやっている林さんが見て、考えたことなのです。ところがそれを聞いて大原(孫三郎)さんがそれは非常にいい、自分が仲人をしてやろうというわけで、急にそういうことになった」(前掲書P176)と語っている。前に山川均の項でも書いたが、大原孫三郎は紡績事業で財を成した中国地方の財閥で、大原社会問題研究所をはじめ様々な社会事業で知られるロバート・オウエン的な実業家で、山川均とは中学時代からの友人で、山川均が不敬罪で入獄も刑務所に面会に訪れており、出獄して倉敷に帰った山川均は大原孫三郎からブルタニカを借りて読んでいる。また宇野弘蔵の父親は、大原孫三郎と非常に近い関係にあったようで、宇野弘蔵は、「山川さんのうちは倉敷の町でも貴族階級だけれど、ぼくのうちなんか・・中流ですね。・・山川さんの姉さんの嫁いでいた林さんは薬屋さんだったが、やっぱり貴族階級みたいな気がしていたね」とも語っている。要は二人のバックボーンに「中流~貴族階級」である「倉敷もん」の世界があったということなのだろうが、この世界は後述する所謂労農派の学者グループにも通じているように思うところである。堺利彦が一九二一年(大正10)に書いた「日本社会運動の人々」という文章には、大原社会問題研究所について、「大原社会問題研究所は岡山の紡績成金大原孫三郎氏の道楽事業である。・・・所長は高野岩三郎氏で、その下に森戸辰男、櫛田民蔵の二氏がいる。つまり何の事はない、元帝大教授の避難場所という形である。・・・クロポトキン学者の森戸氏と、マルクス学者の櫛田氏とは、何と言っても大原研究所の誇りである。・・・その外、研究所は多数の若い秀才を善っていると聞く。それがニワトリになるものやら、アヒルになるものやら」と。まあ、「ニワトリになるものやら、アヒルになるものやら」と書いているが、その中に宇野弘蔵もいたということであろうか。
  一九二二年に(大正11)九月に櫛田民雄に見送られて宇野弘蔵はドイツに留学する。そこから宇野弘蔵の本格的な『資本論』研究を始めるわけであるが、留学先のドイツでは学生時代の友人の向坂逸郎といっしょになる。ふたりは数少ない経済学部の学生で、学生時代から仲はよかったようであるが、宇野弘蔵が『資本論』の研究を目指してあれこれしゃべるのに対して、向坂逸郎はほとんど何も話さずにいて、マルクス・エンゲルスを全部読んでやろうと、ドイツ留学時はひたすら本を買いあさっていたというのが、性格が出ているようで面白い。
 宇野弘蔵は一九二四年(大正13)に帰国する船で、同じく留学から帰国する福本和夫と乗り合わせてあれこれ議論し、九月に帰国すると今度は森戸辰男が迎えに来ていて、「仙台にポストがある」ということで、一〇月から東北大学に就職することになった。当時の東北大学には新カント派の高橋里美だけでなく、現象学研究の三宅剛一、ヘーゲル研究の武市健人、それに同僚だった阿部次郎、木下杢太郎、小宮豊隆といった文学者がいて、同僚のフランス文学者の河野与一と名士訪問をやったようである。仙台に来た西田幾多郎の講演を聴きに行って、西田と高橋里美が論争を始めたことを面白そうに書いているのは、宇野弘蔵は旧制第六高等学校で新カント派哲学者の高橋里美からドイツ語を学び、哲学研究会に所属していて新カント派の哲学にもふれていたからであろうか。
 大学で経済政策論を講義した宇野弘蔵が、やがて起こった労農派と講座派の論争を遠くに見ながら独自の視点から自らの論考をすすめた背景には、若き日に堺利彦の「大杉栄君と僕」に書かれた社会主義の鳥瞰図に描かれた「思想の環が一周してさらに相近づかんとする形」に惹かれ、弁証法のヘーゲル哲学よりもアンチノミーのカント哲学に惹かれたということや、仙台という地で中央の喧騒に巻き込まれずに、夏目漱石の『三四郎』のモデルとも言われ漱石の一番弟子であった小宮豊隆らと語り合えたことなどもあったのかもしれないと思うところである。宇野弘蔵は、「東北大学というところにいたことが、ぼくには実に運がよかったと思う。・・・ぼくには『資本論』研究の天国といってよかった」と語っている。
 遠くに日本資本主義論争を見ながら、一九三五年(昭和10)に宇野弘蔵は「資本主義の成立と農村分解の過程」を書く。しかし、宇野理論の形成については私の手には負えないので、後段の大内先生におまかせするしかないところ。一九三七年(昭和12)五月に東京大学の有沢広巳が東北大学に集中講義にやってきて、いっしょに労農派の大森義太郎もやってきたのだが、これが嫌疑になって、翌一九三八年(昭和13)の人民戦線事件で宇野弘蔵は逮捕されてしまい、裁判と一年以上の入獄をする。東北大学学長の高橋里美らの熱心な弁護もあって無罪になるものの、大学の職は失うことになったのであった。

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2014年2月 1日 (土)

堺利彦と大杉栄・つづき

120304 堺利彦と山川均と大杉栄の写った写真がある。おそらく山川均が売文社に参加した後くらいの頃の写真だろうか。堺利彦は「山川均君についての話」(1924.11)という文章で、「大逆事件以後、大杉、荒畑の二君はサンヂカリストとして立ち、山川君も同じくサンヂカリストであった。しかし大杉君のは無政府主義からきたサンヂカリズムであり、山川君、荒畑君のはマルクス主義から転じたサンヂカリズムであった」と書いている。しかし、この頃から堺利彦、山川均、荒畑寒村と大杉栄は少しずつずれていく。
 前述したように、大杉栄は一九一九年(大正8)三月に革命的労働運動家集団「北風会」を結成、同年一〇月には近藤憲二らと月刊『労働運動』を創刊、渡辺政太郎が住んで研究会を開いていた書店の南天堂が、一九二〇年(大正9)頃に新たに白山上に建て直されて書店の二階にレストランが併設されると、そこは大杉栄らのたまり場になっていく。白山周辺には印刷工場が多く、労働運動社も大杉栄もその近辺に住んだから、そこらがアナキズム、サンジカリズムの拠点になっていくという「南天堂時代」となり、南天堂には大杉栄や宮嶋資夫らのアナキストのほかに、辻潤や林芙美子や萩原恭二郎らのダダイストの詩人たちが集まったという。
 一方、山川均は一九一九年(大正8)六月から、大杉栄と別れた荒畑寒村と有楽町の服部浜次方で「労働組合研究会」を開く。同年三月に、売文社は国家社会主義に転向した高畠素之と別れて解散し、新たに立ち上げた新社会社はマルクス主義の旗を掲げて『社会主義研究』を創刊すると、その運動の中心は堺利彦から山川均にうつっていった。山川均は次第にボルシェヴィズムとレーニン主義、ソヴィエト体制の研究と紹介をやりだし、併せて日本社会主義同盟の発足に力を入れた。
 「進歩主義の思想的大同団体」をめざした日本社会主義同盟は、大杉栄も発起人の一人たなって、一九一九年(大正9)一二月に準備会を立ち上げ、翌一九二〇年(大正9)五月に発足するも、ただちに解散命令が出されたわけだが、同じ頃に堺利彦と山川均のところにコミンテルン主催の極東社会主義者大会参加への招待があったという。しかし、堺利彦と山川均は応じることをためらい、大杉栄が行くことになった。大杉栄にしてみれば、まだボルシェヴィズムがどうのと言うよりは、ボルシェヴィズムとソヴィエト体制を知りたいということでもあったのであろう、コミンテルンから活動資金を受け取って日本に帰ると、一九二一年(大正10)一月から第二次『労働運動』を再開して「アナ・ボル共同戦線」を試みたるも、同年末には第二次『労働運動』を創刊して、ボルシェヴィキ批判を始めた。一方、山川均は同年一二月に堺利彦と荒畑寒村の協力を得て『前衛』を発行する。所謂「アナ・ボル論争」の始まりである。
 「アナ・ボル論争」は、一九二二年(大正11)頃に、大杉栄らのアナキスト派と山川均らのボルシェヴィキ派との間でロシア革命の評価と、当時の労働運動の分裂と再編を背景に自由連合か中央集権かという論争であったのだが、私的には論争というほどのものではない。大杉栄がトロッキーのマヌーバー的な協同戦線論を批判して書いた「トロッキーの協同戦線論」(1922.9)という以下の文章がある。
 「協同戦線は階級闘争の上の労働者の必要だ。最近日本の労働者の間に起つてゐる協同戦線の計劃、即ち労働組合全国総聯合の計劃は、第三インタナショナルの協同戦線の決議とは全く独立して、又其の決議に基づいたヨオロッパ諸国での協同戦線の運動とも全く独立して、日本の労働者が其の資本家との難戦苦闘の間に痛感して来た必要だ。此の必要は、飽くまでも労働者自身の必要として進めて行かなければならない。其の必要から生じた労働者自身の計劃として進めて行かなければならない」と。
 しかし、この文章の言わんとする協同戦線は、前述した堺利彦の「日本社会運動の人々」の「思想的大同団体」とあまり変わらない。「第三インタナショナルの協同戦線」といったイデオロギーでは「思想的大同団体」など不可能であるからだ。この論争の最中にコミンテルンから共産党結成の指令が届き、一九二二年(大正11)七月に堺利彦を委員長にして日本共産党(第一次)が創立される。そして、創立大会に出席しなかった山川均は、『前衛』七、八月号に『無産階級運動の方向転換』を発表する。
 大杉栄が「労働運動の精神」(1919)に言う「労働運動は労働者の自己獲得運動、自主自治的生活獲得運動である」は正しい。サンジカリズムの洗礼を受けた山川均もそれは分かっているわけだが、『無産階級運動の方向転換』に山川均はこう書く。
 「吾々は、生産は生産者によって管理されねばならぬことを知って居る。けれども若し労働階級の大衆が、まだ生産の管理を要求しないで、現に一日十銭の賃銀増額しか要求して居らぬなら、吾々の当面の運動は、この大衆の実際の要求に立脚しなければならぬ。吾々の運動は大衆の現実の要求の上に立ち、大衆の現実の要求から力を得て来なければならぬ」と。
 一九二三年(大正12)六月の第一次共産党事件で堺利彦は逮捕されて入獄する。しかし、そのおかげで同年九月一日の大震災後の社会主義者の虐殺を免れることができた。同年末に出獄した堺利彦は、以下のように書き残している。
 「年末になって保釈で帰ってくると、間もなくわたしの机の上に大杉君の『自叙伝』が置かれてあった。・・・不和だの、けんかだのと言っても彼とわたしとの交わりは、生死の際において知らぬ顔をすべく、あまりに深かったのである。いわんや今、彼がああいう殺され方をしたあと、わたしはその形見の書に対しているのである。わたしはただ、満腔のなつかしさをもってそれを繰りひろげるより外はない・・」と。
 堺利彦は一九二四年(大正13)の春に共産党を解党してしまったが、一九二五年(大正14年)の春に、コミンテルンの意向で共産党が再建されることになり、荒畑寒村が堺利彦と山川均を訪ねて来てふたりを説得し、その時のことを山川均は『山川均自伝』(岩波書店1961)に以下のように書いている。
 「ああいうものは、運動全体にとって大きなマイナスになる。・・・ロシアではそれで行けたかも知らぬが、日本ではそうゆかない。それでああいう運動をまたくりかえすことは、私が方向転換論で書いた考え方とどうしても一致しない、それで私はやはり私の道を進もう、こういうふうに考えたからです。すると荒畑君は堺さんに、あなたはどうですと聞くと、堺さんは、僕も山川君と同意見だと答えました」と。
 要は、堺利彦と山川均はコミンテルン=共産党的なものとは水が合わなかった訳である。まあ、土着種と外来種では水は合わないものだが、後年堺利彦は「大杉、荒畑、高畠、山川」(1931.6)de,山川均の「無産階級運動の方向転換」について、後に以下のように位置付けている。
 「かくて日本の社会主義運動は、まず無政府主義化し、サンヂカリズム化することによって、腐敗と堕落とから自己を防衛した。しかしサンヂカリズムには、無政府主義からの発展と、社会主義からの発展とがあった。そしてボリシェヴィキの影響が日本に及んできた時、無政府主義的サンヂカリストはついに本来の無政府主義に立ち返り、社会主義的サンヂカリストは、新しい共産主義的立場において、ただちに安住の地を見いだした。そして大胆なる方向転換論が発生したのであった」。「山川と極左主義との戦いが、いかに戦われたか。昔の極左たる無政府主義と、今の極左の小児病とが、いかなる異同をもって山川の前に清算されつつあるか。山川の共同戦線党論がいかに発展されたか,雑誌『労農』がいかに無産党合同の展開を指導しつつあるか。・・その大勢のすすむところ・・ほぼ見とおされたはずだと私は信ずる」と。
 要は、かつて論争した議会主義や国家社会主義に対してサンジカリズムを位置付けて、さらに「昔の極左たる無政府主義と、今の極左の小児病」とも区別して、山川均の「無産階級運動の方向転換」は「社会主義的サンヂカリズム」の結果だと言う訳である。「昔の極左たる無政府主義」とは大杉栄のこと、「今の極左の小児病」とはボルシェヴィキのことであるから、堺利彦と山川均、雑誌『労農』は共産主義というのをボルシェヴィキ型の一党独裁ではなくて、「社会主義的サンヂカリズム」としてイメージしていたことが分かる。そしてここから、全国政治機関誌をもつ中央指令の一体型の党組織をつくらない「共同戦線」という運動論が出てくるわけである。これについては、大杉栄も同じであろうと思われる。
 参考にと『アナ・ボル論争』(同時代社2005年)という本を読んだら、著者の大窪一志氏は「日本の左翼運動は1990年代の前半にほぼ壊滅した」、「昭和マルクス主義諸党派は・・・すべて山川を中心とした大正ボル派を源流としている」と書いて、すべての責任を山川均に被いかぶせて、おそらくは自らをも含む過去を清算しようとしていた。どっちかというと講座派系であった人が自らのことを棚に上げて、こういう言い方をするのはいかがなものか、清算主義と新たなる西欧の経験の移植からは何も生まれはしないというのが、私の感想であった。

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2014年1月11日 (土)

大正ユートピアと永井荷風

 大正ユートピアと言うと、誰もが思い浮かべるのは、白樺派は武者小路実篤の「新しき村」であろうか。武者小路実篤は一九一八年(大正7)に日向の地に創設した「新しき村」に、一日六時間の労働のほかは本を読むも、詩を書くも、絵を描くも自由、やがては図書館、美術館、公会堂、病院もつくろうと理想社会を想い描いた。そこは米作もし、出版用に印刷機も備えたいわばコミューンであったが、現実的には慣れない農作業と粗食にたえられずの離村者も多く、武者小路実篤の執筆活動による収入と村外支援者によって支えられており、社会主義者から見れば白樺派のボンボンのお遊びに見え、開設当初は耳目を集めたもののマルクス主義が社会思想の主流になって以降は、省みられることもなくなった。
 しかし、武者小路実篤が考えていたのは資本主義を否定して共産社会をつくるというよりは、階級闘争のない資本主義とは別個の理想社会、人類の意思による共同体をつくることであった。一九二三年(大正12)に「新しき村」の出版社である曠野社から出した『理想社会』に武者小路実篤は「理想的社会の三要件」として、以下の三点を書いている。
 「一、すべての人が人力で得られる限りにおいて長生きするように十分注意されていること。
  一、各個人が、出来るだけ自己の趣味、自己の正しき要求、天職、個性を発揮出来るように注意されていること。
  一、すべての人が出来るだけ多くの喜びを感じて生きられるように注意されていること。     この三つの注意が十分に行われていない社会はそれだけ理想に遠い社会で、この注意が十分に実行されている社会は、理想的な社会である」と。
 武者小路実篤的には「新しい社会」とは、生産力と生産関係や国家権力の問題ではなく、どちらかと言えば、労働力が商品化されることがないように注意されている社会なのである。出入りは多いものの三十名以上の村民が継続し、一九三一年(昭和6)には開墾した田から米を自給できるようにもなったが、三方を川に囲まれたその土地はダム建設のために湖底に沈み、一九三九年(昭和14)に村の大半は埼玉県の毛呂にて移った。そして、経済的にも成り立ち、現在もなお継続しているというのは立派なものである。
 白樺派にはもうひとり共同体つくりを実践した有島武郎がいる。有島武郎は一八七八年(明治11)生まれ、学習院を経て札幌農学校に入学、新渡戸稲造の家に寄宿し、やがてキリスト教に入信、一九〇三年(明治36)にアメリカに留学。留学中はホイットマンの詩に親しみ、学業終了後はイギリスに渡ってクロポトキンにも面会、一九〇七年(明治40)に帰国。一九一〇年(明治43)発行の雑誌『白樺』の同人になった。
  武者小路実篤の「新しき村」に遅れること四年、有島武郎は一九二二年(大正11)に、自らが所有する父親から継承した四五〇町歩の北海道の農場を小作人たちに解放し、産業組合法に基づく「有限責任狩太共生農団信用利用組合」とした。有島武郎がその翌年に書いた「生活革命の動機」という文章には、「私有財産と云ふものに対して私が次第に罪悪を感ずる様になった事が、主なる原因となって居ます。勿論現在の様な我が国の社会組織の中におっては、全然私有財産を無視する訳にはゆきませんから、私も出来るだけは働きもしませうし、お金を溜める事もあるでせう、が、ただ親譲りの有り余る財産を受けついで豪奢な生活をすると云ふ事は、矢張り罪悪ではないかと考へるのです」とあり、ひとつにはそれが動機であり、もうひとつには、その先に相互扶助による農民の共同体を構想したのであろうと思われる。
 有島武郎は一九二三年(大正2)三月の『解放』上の対談「私有農場から共産農園へ」で、「実は共済農園を共産農園にしたかったのです」、「共産組合の組織にしようとしているのです」と語っているが、「農場を小作人の共有にする」という私有財産の否定は認められず、それでも土地が再度買い取られて再び小作人に転落しないようにと「農場の土地分割禁止条項」を入れて、土地は産業組合による共同所有にして各耕作者は組合員として運営参加するということで「有限責任狩太共生農団信用利用組合」となったわけであった。有島武郎は、この仕組みを東北帝国大学以来の友人で共にアメリカ留学した森本厚吉に相談してつくったわけで、組合の定款の第一条には以下のようにある。
 「本組合ハ狩太有島農場主故有島武郎氏ノ遺志ニヨリ相続人有島行光氏ヨリ土地建設物備品水利権灌漑債権債務全員ヲ無償ニテ譲受ケ継承シタル外組合員各自ノ出資ヲ為シ左ノ事業ヲ行フヲ以テ目的トス」と。
 「狩太共生農団」は有島武郎による私有財産の自己否認であり、小作人の解放を成し遂げたわけである。戦後の農地改革で「狩太共生農団」の組合員たちも自作農となり、「狩太共生農団」は解体することになるが、所有と組合と共同体を考える上でも、有島武郎の実践は先駆的なものであったと言えるであろう。
 私は、もし漱石が官費によるイギリス留学ではなくて、私費でアメリカ留学してホイットマンを勉強していたらと考えることがあるのだが、正にそれをやったのが有島武郎だったわけである。それでどうなったかと言うと、父が横浜税関長で、幼い頃から英語による教育を受けた有島武郎にとって、欧米文化の受容は自然であった。三四郎にとって美祢子はアンコンシャスヒポクリシーであったが、『或る女』の葉子はあからさまにコンシャスヒポクリシーなのである。有島武郎が、『白樺』に『或る女』の連載を始めたのは一九一一年(明治44)で、それは夏目漱石の『門』が朝日新聞に連載されるわずか一年前のことである。同じく不倫、姦通を扱いながらも、その表現はまるでちがう。夏目漱石は景を描いて心を表すのに対して、有島武郎は『或る女』にひたすら心を描いた。
 一九一四年(大正3)に夏目漱石は『こころ』に明治の終焉を描く。夏目漱石と有島武郎のちがいは、明治と大正のちがいであろうか。夏目漱石の潰瘍を礎に、大正ユートピアは可能になったと言えなくもない。有島武郎は『或る女』の広告文に、「畏れる事なく醜にも邪にもぶつかって見よう。その底には何かがある。若しその底に何もなかったら人生の可能性は否定されなければならない。私は無力ながら敢えてこの冒険を企てた」と書いた。大正期とは、「敢えてこの冒険を企て」ることが可能な時代であったのである。
 一九二二年(大正11)に大杉栄は、ベルリンで開催される国際アナキスト大会に出席するために日本を脱出するが、その金策のために大杉栄が最後に頼ったのが有島武郎であった。訪ねて来た大杉栄に、有島武郎は千円という大金を渡したという。有島武郎は、一九二三年(大正12)六月に「婦人公論」記者の波多野秋子と情死し、大杉栄は同年九月に憲兵隊の甘粕大尉によって虐殺された。
 夏目漱石の潰瘍を礎にしてというのは、武者小路実篤においても同様であった。武者小路実篤は、一九一〇年(明治43)に志賀直哉らの学習院の生徒たちで雑誌『白樺』を発行し、その創刊号に「『それから』について」を書いて、その終わりに以下のようにを書いている。
 「終りに自分は漱石氏は何時までも今のままに、社会に対して絶望的な考を持っていられるか、或は社会と人間の自然性の間にある調和を見出されるかを見たいと思う。自分は後者になられるだろうと思っている。そうしてその時は自然を社会に調和させようとされず、社会を自然に調和させようとされるだろうと思う。そうしてその時漱石氏は真の国民の教育者となられると思う」と。
 前述したように、一九一四年(大正3)に夏目漱石は学習院で「私の個人主義」を講演したわけだが、武者小路実篤は漱石、とりわけ『それから』を追うようにして文学活動を開始する。大正時代は、大衆とデモクラシーの出現と共に「私の個人主義」が育まれた時代であり、それは、大逆事件以降に冬の時代から生み出されたとも言えよう。

  一九一〇年(明治43)一二月、この年から慶応義塾文学科教授になった永井荷風は大学に通う途中で、大逆事件の被告を護送する馬車に出会い、それから九年たった一九一九年(大正8)に、「午飯の箸を取ろうとした時ボンとどこかで花火の音がした。梅雨もようやく明ぢかい曇った日である」の書き出しの『花火』に以下のようにそれを書いた。
 「明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ケ谷の通で囚人馬車が五六合も引続いて日比谷の裁判所の方へ走って行くのを見た。わたしはこれまで見聞した世上の事件の中で、この折ほど云うに云われない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。しかしわたしは世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入れをさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来ようが桜田御門で大老が暗殺されようがそんな事は下民の与り知った事ではないーー否とやかく申すのはかえって畏多い事だと、すまして春本や春画をかいていたその瞬間の胸中をば呆れるよりはむしろ尊敬しようと思立ったのである」と。
 それに対して、永井荷風に私淑した佐藤春夫は『小説永井荷風伝』に、それは「英雄人を欺くの類の一種の気取りにしかすぎず、あまり正直に額面どおりに受取るべきではあるまい。・・・日本の文学者すべての社会的地位の低さと無力とを歎じた一般論的文明批評と見る方が適切であろう」と書いていて、ふつうは世間でもそう受取られている。そして永井荷風自身も一九二五年(大正14)に書いた「文士の生活」の中で、「人生観や哲学観の余り露骨に出て居るものは嫌ひである。私は哲学などの権威を認めぬから。所謂傾向小説は好まぬ。描写の面白味のあるものが、私には矢張嬉しい。「懐手で小さくなって暮したい」--夏目さんは夏目らしい事を云ふ。私も夏目さんと同感である、私は引込み思案である・・・。静かな処で小さく暮すのが、私に一番適当して居るやうに思はれる」。と書いていて、おそらくそのとおりなのであろうと思う。
 しかし、永井荷風が「静かな処で小さく暮す」生活に入ったきっかけは、やはり『花火』にあるように市ケ谷の通で囚人馬車を見たことにあったのだと思う。一九〇八年(明治41)に五年にわたる外遊から帰った永井荷風は、翌年に『ふらんす物語』と『歓楽』を刊行して発売禁止処分を受ける。慶応義塾文学科教授になった永井荷風は『三田文学』を創刊、一九一〇年(明治43)一二月六月の『霊廟』という文章には、「われわれは丁度かの沈滞せる英国の画界を覚醒したロセッチ一派の如く、理想の目標を遠い過去に求める必要がありはせまいか。自分は次第に激しく、自分の生きつつある時代に対して絶望と憤怒とを感ずるに従って、ますます深く松の木陰に超えもなく居眠っている過去の殿堂を崇拝せねばならぬ」と書いている。荷風の『日和下駄』は、西洋の猿真似でしかない日本の近代化への嫌悪と、その裏返しとしての江戸趣味への志向であり、読み返せば、ヴィクトリア期のブルジョワ文化を嫌悪したラスキンの中世志向に通じるものがあると言うか、ほとんど同じだと私には思われる。そして、一九一二年(明治45)に書いた『妾宅』には、下記のようにウィリアム・モリスまで登場するのである。
 「考へずとも或種類の藝術に至っては決して二宮尊徳教と抵触しないで済むものが許多もある。日本の御老人連は英吉利の事とさへ云へば何でもすぐに安心して喜ぶから丁度よい。健全なるジョン・ラスキンが理想の流れを汲んだ近世装飾美術の改革者ウイリアム・モオリスと云ふ英吉利人は、現代の装飾及工藝美術の堕落に対して常に、趣味のGoutと贅沢Luxeとを混同し、また美Beauteと富貴Richesseとを同一視せざらん事を説き、趣味を以て贅沢に代へよと叫んでる。モオリスは其の主義として藝術の専門的偏狭を憎み飽くまで其の一般的鑑賞と実用とを欲した為めに、時には却って極端過激なる議論をしてゐるが、然し其の言ふ処は、敢て英国のみならず、殊にわが日本の社会なぞに対しては此の上もない教訓として聴かれべきものが尠くない」と。
 『妾宅』の書き出しは、「どうしても心から満足して世間一般の趨勢に伴って行くことが出来ないと知ったその日から、彼はとある掘割のほとりなる妾宅にのみ、一人倦みがちなる空想の日を送る事が多くなった」で始まる。これを読むと私には、永井荷風は大逆事件の時代の中で、「とある掘割のほとりなる妾宅」に引きこもったというよりは、そこに「ひとりユートピア」をつくったように思われるのである。「ひとりユートピア」というのは、H・D・ソローの『森の生活』などがそうであるが、社会と隔絶することではない。ウォールデンで暮らした間にソローは「測量、大工の仕事、それに村のいろいろな日雇いの仕事など、十指に余る仕事をこなし」、「市民としての反抗」も行ったわけだが、ひとりでそれが出来なければ、ユートピアをあてにする人ばかりでユートピアをつくれば、指導者の下にユートピアはデストピアに陥るのが落ちである。永井荷風は、佐藤春夫が「英雄人を欺くの類」と書いたのとは逆の意味で、愚かな人々と国家を欺いたのであり、その拠点こそ「掘割のほとりなる妾宅」であり、偏奇館」であったと思われるところである。
 『花火』は一九一九年(大正8)に発表されるが、その前年には米騒動が起こり、荷風は『花火』に「米騒動の噂は珍らしからぬ政党の教唆によったもののような気がしてならなかったが、洋装した職工の団体の静に練り行く姿には動しがたい時代の力と生活の悲哀とが現われていたように思われた」と書く。永井荷風は、一九一七年(大正6)から『断腸亭日乗』と名づけた日記を書き出す。『花火』の「洋装した職工の団体の静に練り行く姿」は、一九一八年(大正7)十一月廿一日の日記の以下の部分から来ていると思われる。
 「この日欧洲戦争平定の祝日なりとて、市中甚雑踏せり。日比谷公園外にて浅葱色の仕事着きたる職工幾組とも知れず、隊をなし練り行くを見る。労働問題既に切迫し来れるの感甚切なり。過去を顧るに、明治三十年頃東京奠都祭当日の賑の如き、また近年韓国合併祝賀祭の如き、いまだ深くわが国下層社会の生活の変化せし事を推量せしめざりしが、この日日比谷丸の内辺雑踏の光景は、以前の時代と異り、人をして一種痛切なる感慨を催さしむ」。
 永井荷風は『断腸亭日乗』を読まれることを前提に書いたと言われる。しかし、それが読まれるのは戦後になってからであり、それまではあくまでも日記である。そして作品と日記を比べれば、どちらに本心を書くかと言えば、それは日記であろう。一九一七年(大正6)から書き始められた『断腸亭日乗』は、壮大な反時代主義、やがて太平洋戦争期には壮大な反軍国主義の作品として書かれたと思うところである。『花火』にはそれを可能にした永井荷風のユートピア空間が描かれており、『花火』の終わりの一文「花火はしきりに上っている。わたしは刷毛を下に置いて煙草を一服しながら外を見た。夏の日は曇りながら午のままに明るい。梅雨晴の静な午後と秋の末の薄く曇った夕方ほど物思うによい時はあるまい………」の心境こそ、荷風のユートピアであろうと私には思われる。
 大正期に、文学者の想い描いたユートピアで言えばもうひとつ、これも一九一九年(大正8)に書かれた佐藤春夫の『美しい町』がある。日本人を母に、アメリカ人を父にもつと称するアメリカ帰りの男が、隅田川河口の中洲に「美しい町」をつくろうとする話である。男は「美しい町」に住む人の資格として「彼自身の最も好きな職業を自分の職業として択んだ人。さうしてその故にその職業に最も熟達して居てそれで身を立ててゐる人。商人でなく、役人でなく、軍人でないこと」をあげ、時々、ウィリアムモリスの『何処にもない処からの便り』を読んでいる。そして折にふれ、「今、我々が生活している社会生活は、金銭の無限な勢力という可笑しくて奇怪な言説・・危かしく醜悪な建築物で・・それの改善を叫ぶ人々でさへもそのグロテスケンの一種をもう一つ加へるに過ぎない」と語る。『美しい町』は御伽噺のような小説であるが、佐藤春夫には「愚者の死」という、以下のような詩がある。

 千九百十一年一月二十三日
 大石誠之助は殺されたり。

 げに厳粛なる多数者の規約を
 裏切る者は殺さるべきかな。

 死を賭して遊戯を思ひ、
 民俗の歴史を知らず、

 日本人ならざる者
 愚なる者は殺されたり。

 「偽より出でし真実なり」と
 絞首台上の一語その愚を極む。

 われの郷里は紀州新宮。
 彼の郷里もわれの町。

 聞く、披が郷里にして、わが郷里なる
 紀州新宮の町は恐惺せりと。
 うべさかしかる商人の町は歎かん、

 ――町民は慎めよ。
 教師らは国の歴史を更にまた説けよ。

 詩にあるように、佐藤春夫は大逆事件で刑死した大石誠之助と同じく紀州新宮の生まれ、一高の受験を放棄して慶応義塾文学部の予科に入り、あまり授業には出なかったというが永井荷風に学び、詩を書き、絵も描く才人で、大杉栄や辻潤とも交流があった。大正の半ばに書かれた『花火』と『美しい町』は、短かった大正期を象徴するようなユートピア小説である。隅田川が小名木川と合流する万年橋の横に芭蕉記念館の別館があり、その屋上から見ると目の前に優雅な形状の清洲橋があって、その先が中州である。芭蕉記念館の別館の屋上には芭蕉の像もあって、夕暮れに、芭蕉の像に重ねてライトアップされた清洲橋の向こうに『美しい町』の幻影を見るのが、私は好きである。

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2013年10月31日 (木)

『明暗』と漱石の個人主義

 堺利彦が『へちまの花』に書いた「一膳飯たぬき」という以下の文章がある。
 「ある日『たぬき』という雑誌が舞いこんで来た。小石川関口水道町すなわち江戸川電車終点の一膳めし屋「たぬき」の機関紙である。・・機関紙の表紙裏に左のとおり書いてある。『夜は電車運転中火を落とさず候、文芸等に関する雅会には二階無料にてお貸し申し候、酒は灘の生一本一合一〇銭という方外の安価に候、貧乏につきすべて現金に申し受け候』・・これを読んでチョット心が動いたのでさっそく・・夕方から出かけた。ところが、飯田橋の停留所で電車を乗り換えようという時恐ろしいドシャ降りの雨に会って、やむをえずそこの何とかバアという所でビールを引っかけ、三銭均一の刺身、枝豆、すりいも、なんどいう豪奢を窮め、それからヤット小降りになったところを見すまして先方にかけこむと、なアんのことだ、二、三日前の出水以後今日まで休業という。仕方がないからすぐその隣の鳥屋にはいってともかく夕飯の腹をこしらえた」と。
 これは『へちまの花』の大正3年(1914)10月1日発行の第九号に書かれたもので、当時早稲田方面にはこのような一膳飯屋があり、飯田橋の停留所辺りにはバアなぞがあり、堺利彦はバアで三銭均一の刺身でビールを引っかけたりすることが分かる。そしてなぜここから書くかと言うと、この辺り、おそらく早稲田方面は、それから2年後の大正5年(1916)に書かれた夏目漱石の『明暗』の主要な舞台のひとつにになっているからである。
 『それから』では代助、『門』では宗助が主人公で、『明暗』では津田という男がいわばそうなのであるが、彼の周囲に登場する妻のお延、妹のお秀、義理ある年上の吉川夫人、それに津田の昔の恋人であった清子が配置されると、津田はまるで狂言回しにしか見えない。『それから』や『門』とちがって、津田は意のあった女に去られてお延といっしょになる。津田は吉川夫人の主人の会社に勤めてはいるが、気分は高等遊民で親からの援助も受けていて、自立できているわけではない。そして津田は、自分から去って行った清子への未練がすてきれずにいながら自己中心的に対処するのであるが、そこに津田のかつての学友で貧乏ジャーナリストをやっている小林という男がいてからんでくる。
 津田には藤井という育ての親の叔父がいる。藤井は「彼は未だかつて月給といふものを貰った覚えのない男であった。月給が嫌ひといふよりも、寧ろ呉れ手がなかった程我儘だったといふ方が適当かも知れなかった。・・一種の勉強家であると共に一種の不精者に生まれ付いた彼は、遂に活字で飯を食わねばならない運命の所有者に過ぎなった。斯ういふ人にありがちな場末生活を、藤井は市の西北にあたる高台の片隅で、此六七年続けて来たのである」と描かれており、藤井の家は「津田の宅から此叔父の所へ行くには、半分道程川沿の電車を利用する便利があった」とある。川とは飯田橋から早稲田に向かう江戸川(現・神田川)であり、堺利彦の「一膳飯たぬき」にもあるように、川沿いに市電が走っていたわけである。そして、ある日叔父を訪ねた津田はそこで藤井の出す雑誌を手伝っている小林と出会い、その帰りがけに津田は小林からバアで飲もうと誘われる。津田は気がすすまないが、小林から「そんなに嫌か、僕と一緒に酒を飲むのは」と言われると、その気はないのに「じゃ飲もう」と応える性格である。ふたりが店に入ると後から入って来た男がいて、小林は「彼奴は探偵だぜ」という。小林には尾行がついているのである。小林は津田にドフトエフスキーを語って涙を落とし、とうとう東京に居たたまれなくなって朝鮮に渡ると言う。やがて店を出たふたりは歩き出。やりとりがあって、小林は「津田君、僕は淋しいよ」と言い、以下の情景がある。
 「津田は返事をしなかった。二人は又黙って歩いた。浅いい河床の只中を、少しばかり流れてゐる水が、ぼんやり見える橋杭の下で黒く消えて行く時、幽かに音を立てて、電車の通る相間々々に、ちょろちょろと鳴った」と。これもまた坂の下の流れであろうか。小林は「旅費は先生から借りる、外套は君から貰ふ、たった一人の妹は置いてき堀にする、世話はないや」と言いはなち、ふたりは分かれ、津田は後も見ずにさっさと家に急ぐ。
 果たして漱石は、「僕は未だかつて損になるべき何物をも最初からもっていないんだからね」と居直り、幸徳秋水とドフトエフスキーを語り、津田から外套や金を巻き上げる存在感たっぷりの小林という人物をどこから造形したのであろうか。ゴロジャーナリストであるところには『それから』の平岡を引き継いで発展させたようでもあるが、ここは私的にはそのルーツを『三四郎』に出てくる佐々木與次郎におきたいところ。與次郎は「専門学校を卒業して、ことし又専科へ這入つた」という設定で、かの日本は「滅びるね」の広田先生を「偉大なる暗闇」だとする御仁である。
 漱石の小説においてその主人公は、だいたい本郷にある大学の卒業生という設定になっている。それに対して、『明暗』の津田と小林、それに藤井なんかもそうだが、舞台の設定エリアからして本郷というよりはどっちかというと早稲田あたりという感じがしないでもない。明治38年(1905)9月に高浜虚子に「とにかく辞めたきは教師、やりたきは創作」と書き、明治40年(1907)3月に大塚保治のすすめる東大教授の口を断って朝日新聞に入社し、西園寺公望首相の文士招待会の出席を断り、明治44年(1911)2月には文部省からの文学博士号授与を辞退した漱石に一貫してあったものは、国家の接吻は死の接吻、そんなものを受けたら創作なんぞ出来はしないといった思いだったのではあるまいか。一方、早稲田は藩閥政治への批判と日本の自然主義文学の中心であった。西欧の自然主義の日本におけるデフォルメされたその受容に対して批判と危機意識があった漱石は、小林というお延に「生まれて初めての人に会ったような気がした」と思わせる人物を造形し、大正5年(1916)という時代の中で自然主義の受容の先に来るだろうものを予測しつつ、『明暗』本来のストーリーを超えて惹かれていく。『夏目漱石』において江藤淳は、『明暗』の小林についてこう書いている。
 「社会の片隅に置き去られたような群小ジャーナリストや不遇な文士・・・教養と敏感な感受性を持ちながら社会的地位に恵まれない。つまり彼らは、自分たちの悲惨な生活を悲惨とみとめ得る知的能力と自尊心を持つ故に一層みじめな劣敗者なので、漱石は後に「インテリ」と侮称されるこの「文明開化」の私生児をいちはやく問題にしているのである」。
 「これは所謂「自然主義」という文芸思潮を潔癖に排した漱石が、所謂「自然主義作家」の生まれる土壌に対して、冷淡でなかったことを物語っている。・・・そして小林というプロレタリア意識のある人物を描くことによって、作者は、これら鈍才達の感傷的な芸術に対する信仰の底に押しかくされている、ひがみや憎悪に照明をあて、それらの感情に、直截な、知的な表現をあたえたのではなかったか。小林は、このような不遇なインテリが、容易に熱狂的な左翼思想家になり得ることを強く暗示しているのである」
 「則天去私の作家は世俗的な感情である階級的復讐心をもった小林を、貧乏インテリのすね者に設定した時、不幸にも則天去私を放棄したのである・・・・作家漱石は、自らの東洋文人風の趣味よりも、ここで世俗的日常茶飯の塵にまみれて、小林という新しい人間を創り出すことに、格段の興奮を覚えているのである」。
 「この事実は、一つの可能性を暗示している。それに若し漱石が生き永らえたとして、この可能性に忠実であったとするなら、来るべき新しい作品の主人公は、小林や藤井のような人物達、『明暗』で印象的なわき役を演じている貧乏インテリ達ではないかということである」と。
 以上の前段で江藤淳は「(漱石はロンドン留学中に)社会主義思想に対する関心をすら示していたのではないか」と書いている。漱石がそうであったことを是認しないかしたくないという観点から『明暗』を読めば、小林のような「貧乏インテリ」は「ひがみや憎悪」を持った「一層みじめな劣敗者」であるとかという品のない表現になってしまうわけだが、漱石は密かに社会主義に関心を持っていたという前提で読めば、『明暗』は難解なばかりの小説ではない。江藤淳は「(漱石は)小林を、貧乏インテリのすね者に設定した時、不幸にも則天去私を放棄した」と書くわけだが、私的には漱石は社会主義にシンパシーしたがゆえに『明暗』はあえて「則天去私」の心境を表したものとし、後に信頼する弟子の小宮豊隆にそう書かせたと思うところである。宮沢賢治の「羅須地人協会」の「羅須」もそうで、賢明な作家が馬鹿な国家から身を守るには、ありがたい意味不明さをもって馬鹿には理解できないように表現するしかないわけである。大正5年(1916)12月9日に漱石は亡くなり、翌年2月にロシアに革命が起こる。小宮豊隆は、『漱石の芸術』において「『明暗』全篇に與へられた傾斜から考へると、小林の預言は、同時に作者の預言であり」と書くのである。
 では、存命中に漱石はそのあたりのことを何も語らなかったのかと言えば、小説ではなくて講演会において語れる範囲のことは語っている。代表的なものは『現代日本の開化』で語られた「内発的開化」と『私の個人主義』とあろうか。『現代日本の開化』は、大阪朝日新聞社が企画し1911年(明治44)8月に和歌山で行われた講演であり、外発的な開化とその「一大パラドックス」に対して「内発的な変化」が提起されている。
 漱石は、活力には人間活力の発現という積極的なものと楽をしたいという消極的なものがあって、「この二種類の活力が上代から今に至る長い時間に工夫し得た結果として昔よりも生活が楽になっていなければならないはずであります。けれども実際はどうか? 打明けて申せば御互の生活は甚だ苦しい。昔の人に対して一歩も譲らざる苦痛の下に生活しているのだという自覚が御互にある。・・・昔の人間と今の人間がどの位幸福の程度において違っているかといえば、あるいは不幸の程度において違っているかといえば、活力消耗活力節約の両工夫において大差はあるかも知れないが、生存競争から生ずる不安や努力に至っては決して昔より楽になっていない。・・・これが開化の生んだ一大パラドックスだと私は考えるのであります」。「もし一言にしてこの問題を決しようとするならば私はこう断じたい、西洋の開化(即ち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である」。「現代日本の開花は皮相上滑りの開花であるという事に帰着するのである」と。
 「生存競争から生ずる不安や努力に至っては決して昔より楽になっていない」ということなど、それから百年以上経った現在でもなお同様であるところで、文学者でありながら百年前にこうした視点を持っていたということが漱石文学の背景にあって、「ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申した通り私には名案も何もない。ただ出来るだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうー」と言わしめる。「内発的に変化して行く」そういう生き方とは、国家と外発の間にあってはなかなか困難であるわけだが、その要諦を漱石を語ったのが『私の個人主義』と私は思うわけである。
 『明暗』の藤井の家から「広い谷を隔てて向に見える小高い岡」の先には学習院があり、もうひとつの講演『私の個人主義』は、大正3年年(1914)11月に学習院で行った講演で、聴衆は学習院に学ぶ支配階級の子弟たちであった。漱石は、支配階級の子弟たちに向けて以下のように語る。
 「必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方の御家族のために申し上げる次第でもありません。貴方がた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申し上げるのです。・・もし何処かにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目でしょ」。
 「御存じの通り英吉利という国は大変自由を尊ぶ国であります。それほど自由を愛する国でありながら、また英古利ほど秩序の調った国はありません。実をいうと私は英吉利を好かないのです。嫌いではあるが事実だから仕方なしに申し上げます。あれほど自由でそうしてあれほど秩序の行き届いた国は恐らく世界中にないでしょう。日本などは到底比較にもなりません。しかし彼らはただ自由なのではありません。自分の自由を愛するとともに他の自由を尊敬するように、小供の時分から社会的教育をちゃんと受けているのです。だから彼らの自由の背後にはきっと義務という観念が伴っています。・・・彼らは不平があると能く示威運動を遺ります。しかし政府は決して干渉がましい事をしません。黙って放って置くのです。その代り示威運動をやる方でもちゃんと心得ていて、むやみに政府の迷惑になるような乱暴は働かないのです」。
 「それで私は何も英国を手本にするという意味ではないのですけれども、要するに義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます。・・・私は貴方がたが自由にあらん事を切望するものであります。同時に貴方がたが義務というものを納得せられん事を願って已まないのであります。こういう意味において、私は個人主義だと公言して憚らないつもりです」と。
 後段の発言は、永井荷風が『あめりか物語』に、「何につけても、吾々には米国の社会の、余りに、常識的なのが気に入らない。・・フランスに於いて見るような劇的な社会主義の運動もない。・・激烈な藝術の争論もない。何も彼も、例の不文法(Unwritten law)と社会の輿論(Public opinion)とで巧に治って行く米国は、吾々には堪えがたいほど健全過ぎる」と書くのに通じている。
 漱石はイギリスを嫌っても、イギリス流の自由主義と個人主義は会得していたし、荷風はアメリカを嫌ったが、アメリカ流の自主独立にして公共的な市民精神は会得していたわけである。個人主義とは、一般的にはブルジョワ民主主義のベースとなる概念であり、漱石も荷風も西欧のブルジョワ民主主義を評価していただけとも言えなくもない。しかし、大逆事件とすれちがった荷風が『花火』を書いて戯作者となり、やがて『断腸亭日乗』を書いて愚かな軍国主義者への批判も含めて戦中をしのぐのを見れば、そこにはブルジョワ民主主義概念ではない、国家に対して自らを拠って立たしうるものとしての個人主義があることが分かるのである。
 大正3年(1914)4月に普通選挙法が成立し、大正4年(1915)3月の第十二回衆議院選挙へ馬場孤蝶が立候補すると、漱石は馬場孤蝶の衆院選立候補の推薦人となり、推薦状の筆頭に名を連ね、選挙資金活動のために出版された『孤蝶馬場勝弥氏立候補後援現代文集』(1915年実業乃日本社)に『私の個人主義』を寄稿し、それはその巻頭に掲載された。
 馬場孤蝶は、前にも触れたように、明治20年代の日本のロマン主義運動『文学界』のメンバーであり、一葉が「故馬場辰猪君の令弟なるよし」と日記に書いたように、アメリカに客死した自由民権運動家の馬場辰猪の弟である。『文学界』の後、彦根と浦和での中学教員を経て、日本銀行の行員となり、1906年(明治39)に慶応義塾の教授になり、自由主義的な社会改良運動家として大逆事件後に大杉栄等の近代思想社の集会や、平塚らいてう等の青鞜社の講演会に参加し、山川均と菊栄の結婚式の媒酌人でもある。1912年に出版された『樋口一葉全集』の編集を行い、そこに樋口一葉の「日記」を載せたのも馬場孤蝶であった。一葉の妹のくに子が、一葉本人からは焼くように言われながらも、焼かずに残した一葉「日記」は、斎藤緑雨が預かり、1904年(明治37)に緑雨が危篤になった際に、緑雨から馬場孤蝶に託されたわけであった。
 馬場孤蝶立候補の仕掛け人のひとりである堺利彦は、『孤蝶馬場勝弥氏立候補後援現代文集』に以下のような『辰猪と勝弥』の一文を書いている。勝弥というのは、馬場孤蝶の本名である。
 「明治三年の末に生れて、明治の十年代を少年として過した私は、自由党改進党の諸名士に対して特別なる欽仰愛慕の感情を養うて居る。馬場辰猪君の名声の如きは最も深く私の頭に染みこんで居る。馬場勝弥君は明治二年の生れと聞く。辰猪君の名声が遠く九州の一少年に汲ぼした感化から考へて、勝弥君が直接に其の兄君から受けた感化の大なる事は私によく想像が出来る。
 馬場孤蝶の名が初めて文壇に現はれた時、あれは馬場辰猪の弟だと云ふ事を聞いて、私は特に深く注意を引かれて居た。・・・
 後、私が幸徳秋水と交るに及んで、秋水の土佐人たるが為に、殊に馬場兄弟に就いて語る事が多かった。秋水が最初の出獄の後、間もなく瓢然として米国に遊んだのは、馬揚辰猪の跡を学んだのだと評されて居た。私もそう考へて一種の面白味を感じて居た。そして若し秋水が辰猪君と同じく彼地に客死するの運命を持って居るのではあるまいかとさへ気遣って居た。・・・
 (大杉栄宅で初めて孤蝶君に会った帰り道に)私はもはや辰猪君の事を話しださずには居られなかった。すると孤蝶君も頗る気の乗った様子で色々辰猪君の事を私に話して呉れた。殊に其中で、私の確と覚えて居るのは、辰猪君が出獄して間もなく米国に赴く時、特に勝弥君に対して、男は一度やそこら牢にはいる位でなくては駄目だと云って別れたが、それきり辰猪君は米国で客死したのであるから、勝弥君に取っては、其の一言が亡兄の遺言となって居ると云ふ話である。
 私は大いに此話に動かされて、前に記した秋水の米国行の事なども話した後、あなたも一つ兄君の適意を継いで大いに政治界に活動を試みては如何ですかと、少し立入った話にまで及びかけた・・・」と。(※岩波書店『馬場辰猪全集』から)
 これを読むと、馬場辰猪は出獄後アメリカに亡命する直前に最後に会った弟に、「男は一度やそこら牢にはいる位でなくては駄目だ」と言って別れ、馬場孤蝶が1915年という「冬の時代」に選挙に出馬したのは、堺利彦からうながされたからと言うよりは、アメリカに客死した悲運の兄の志を継いでのことだとも分かるのである。
 馬場孤蝶は「立候補の理由」(『反響』1915年3月号)について、次のように述べている。
 「民族の興隆は、その民族の原子たる各個人の充実せる活動にまだ無ければならぬ。 一国の政治は、斯の如き民人の充実せる活動を基礎として行はるるもので無ければならぬ。成人の充実せる活動は、各個人の国民としての自覚より始まるべきものである。故に一国の法規は、各個人の自覚、各個人の正常なる活動に対して妨碍となり、不便であるといふ如きものであってはならぬ」(水川隆夫『夏目漱石と戦争』平凡社新書p242)と。そして「孤蝶は、このような基本的理念のもと、具体的な改革案としては、選挙権の大拡張、軍備縮小、新聞紙法の改正、治安警察法の撤廃などを提示し、特にこの選挙の争点であった陸軍の二個師団増設については絶対反対を表明」(同)している。
 結果的に馬場孤蝶は選挙に落選したのではあったが、夏目漱石と堺利彦が並ぶその盛り上がりは大正デモクラシーの幕開けとなった。この馬場孤蝶の出馬がいかに企画されたのかについては、私のブログにおそらく郷土の堺利彦研究家であろう安本次郎氏は、「資料的な根拠を示すことができないのだが、堺と漱石の間を取り持ち、漱石が堺の衆議院議員総選挙を支援する背景に犬塚ありと推定される」とコメントを寄せてくれた。おそらく漱石門下の森田草平とその仲間の生田長江が親交のあった馬場孤蝶に出馬を求め、森田草平の雑誌『反響』に参加していた小宮豊隆から犬塚武夫、堺利彦とネットワークが広がって、最終的には堺利彦が馬場孤蝶のに立候補を決意させたのであろう。そして、門下生たちが始めたこの動きに漱石も共感、賛同したものと思われる。

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2013年10月20日 (日)

坂の下の流れ

 司馬遼太郎は1968年に『坂の上の雲』を書き始め、「余談ながら、私は日露戦争というものをこの物語のある時期から書こうとしている。小さな。といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかなかった。この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。その対決に、辛うじて勝った。その勝った収穫を後世の日本人は食いちらしたことになるが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の智恵と勇気と、そして幸運をすかさずつかんで操作する外交能力のかぎりをつくしてそこまで漕ぎつけた。いまからおもえば、ひやりとするほどの奇蹟といっていい」(第一巻「真之」)と書き、関川夏央は2006年に『「坂の上の雲」と日本人』という本を書いて、「司馬遼太郎は日露戦争までの日本を、若い健康な日本と考えました。若くて健康な日本の受難とその克服を、『坂の上の雲』にえがききったわけです。しかし、その健康であったぱずの明治の四十年がその後、昭和二十年に至る不健康な四十年をなぜ生んだのかと考え続けたのでもありました」と書いた。
 関川夏央によれば、司馬遼太郎は『坂の上の雲』で、1968年当時の世相と戦後民主主義的なものの見方に対して、日露戦争前にあってその後失われた近代日本の原像を示そうとし、「その健康であったぱずの明治の四十年がその後、昭和二十年に至る不健康な四十年をなぜ生んだのか」を考えたと書いた。内田樹は『「坂の上の雲」と日本人』の解説に、「『坂の上の雲』を「健全な」ナショナリズム賛歌のようなものとみなして、それを高く評価する人も、それゆえ批判する人もいまだに多い。けれども、この作品に伏流しているものが、その「健全さ」がどれほどたやすく失われるかについての不安であることを日本人そのものに対する不安であることを見抜いた人は少ない。関川さんはその数少ない一人である」と書いた。
 司馬遼太郎が『坂の上の雲』を書き始めてから四十年経って、関川夏央や内田樹や私の世代がそろそろ還暦を迎える頃、2009年の年末にNHKは大河ドラマ『坂の上の雲』をやり、2010年の年末にもその再放送をやった。そして私は、それが繰り返されたことに不安を感じ、その不安は2011年3月11日を経てますますリアルなものになりつつある。『坂の上の雲』に描かれた「ひやりとするほどの奇蹟」をもって上りつめた近代日本は、日露講和条約の調印と同時に起こった講和反対国民大会によって暗転し、司馬遼太郎は「この大会と暴動こそ、むこう四十年の魔の季節への出発点ではなかったか」(『この国のかたち・1』)と書くわけだが、私には『坂の上の雲』のリバイバルは「不健康な四十年」のリバイバルになりかねないと思われたからであった。
 新たな「不健康な四十年」の始まりに対処するには、やはり「その健康であったぱずの明治の四十年がその後、昭和二十年に至る不健康な四十年をなぜ生んだのか」を問わねばならず、それは「若い健康な日本」のリバイバルと言うよりは、その反省的な見直しであり、もうひとつの近代日本の源流をたどることであった。それで私はこの文章を書き出したわけだが、その時に浮かんだイメージは「坂の下の流れ」であったのだった。例えば、先に書いた樋口一葉は本郷菊坂下辺りに住み、竜泉に転居して駄菓子屋を営んだ後に丸山福山町に住んだが、竜泉は山谷堀に近く、菊坂下や丸山福山町はは小石川台地と本郷台地の間にを流れる千川沿いの湿地であり、そこを舞台にして『たけくらべ』や『にごりえ』を書いた。また、次のイメージもあった。

 「何所か静かな所はないでせうか」と女が聞いた。
 谷中と千駄木が谷で出逢うと、一番低い所に小川が流れている。・・美禰子の立っている所は、此小川が、丁度谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋の傍である。
 「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いて見た。・・・
 二人の足の下には小さな河が流れている。・・美禰子の視線は遠くの向こふにある。向こふは廣い畠で、森の上が空になる。空の色が段々変って来る。・・・

 これは夏目漱石の『三四郎』で、団子坂の菊人形見物の折、三四郎と美禰子が二人きりになった場面である。この後に「迷子の英訳を知って入らしつて」「教えて上げませうか」「ストレイ・シープ、解って?」という美禰子の謎の言葉がつづく。明治36年(1903)に英国留学から帰国した夏目漱石は、本郷区駒込千駄木町57番地に転入して、そこで『吾輩は猫である』などの小説を書いた。千駄木町57番地は団子坂と眼と鼻の先であるから、時には漱石もその坂下辺りを散歩するくらいのことはあったであろう。森の上には雲があり、だんだん変わっていく空の色を見ながら、漱石は何を思ったであろうか。漱石が『三四郎』を書いたのは明治41年(1908)の9月から、明治38年(1905)の日露講和条約の調印と講和反対国民大会の大暴動からちょうど3年経った時である。そこで漱石は広田先生をして「滅びるね」と言わしめ、三四郎をして「ストレイ・シープ」に迷わせるのである。
 関川夏央によれば、司馬遼太郎は講和反対国民大会の大暴動にモッブの登場を見て、それに1968年の学生モッブをアナロジーさせたようだが、講和反対国民大会を主催したのは頭山満らの右翼壮士と河野広中らの野党政治家であり、そこに集まった群集たちは賠償金のとれない講和に激怒した。政府は戦争の継続は不可能であることを理解していたが、それを国民に知らせることはなく、韓国の保護国化を講和条約における獲得目標とした。司馬遼太郎的には「経済的利益を求めての満韓進出に喝采」する群衆を背景に統帥権を掌握した軍隊によって「不健康な四十年」が生み出され、「国家そのものが滅ぶ」ことになったということなのだろうが、「このちゃちな帝国主義」は軍と群集が作り出したと言うよりは「若い健康な」国家が作り出したものである。
 「若い健康な」日本は、帝国主義がちゃちである以前に資本主義がちゃちであった。日本が資本主義らしくなるのは日清戦争を経てである。そこで得た賠償金をもって日本は近代化をすすめ、併せてその販路を求めたわけだが、一番近いそれは韓国であった。明治37年(1904)2月10日にロシアに宣戦布告した日本は、同月23日には韓国と「韓国従属化の第一歩となった」日韓議定書を締結し、同年8月22日には第1次日韓協約調印して、日本が韓国の財政を掌握することとなった。明治38年(1905)1月は、元旦に旅順開城があり、3月10日には奉天大会戦、5月27日日本海海戦があったというまさに「坂の上の雲」のメインステージの時代であったわけだが、同年9月のポーツマス条約で日本による韓国の保護国化が承認されると、同年11月に伊藤博文は韓国の皇帝と会談し強圧的に第2次日韓協約、韓国保護条約を認めさせて外交権を奪い、12月には韓国統監府を設置して伊藤博文自らがが初代統監になった。
 明治9年(1876)の江華条約以来、日本は朝鮮の開国と独立を唱えながら、実際はその保護国化を謀て陰謀をめぐらせては失敗してきたわけだが、「ひやりとするほどの奇蹟」、日露戦争の勝利という「幸運をすかさずつかんで操作する外交能力のかぎりをつくして」一挙に保護国化をすすめたわけである。この策動は明治40年(1907)のハーグ密使事件を機にした韓国皇帝の譲位と韓国の内政権を剥奪した第3次日韓協約の調印、それらを通じて韓国国民の恨みを買った明治42年(1909)のハルビン駅頭における伊藤博文の暗殺を経て、明治43年(1910)8月22日の韓国併合の条約調印と29日朝鮮総督府の設置までつづいた。そして、日露戦争に始まり韓国併合で終わるこの時代は、平民社を中心にした明治の社会主義運動と、『吾輩は猫である』から『門』にいたる夏眼漱石の文学活動と全く重なるのである。
 日清戦争の結果は機械工業の勃興を促し、多額の賠償金の獲得は日本の資本主義の形成を早め、併せて労働問題を惹き起こして、明治30年(1897)の労働組合期成会の立ち上げにつながったわけだが、労働組合の興隆に対して、藩閥政府は治安警察法をもってそれをつぶした。しかし、これまで見てきたように民権運動から引き継がれた精神と儒教的教養や藩閥政府に対する佐幕派系の矜持の中からは、やがて社会主義が自覚され学ばれ、日露戦争に対して平民社を立ち上げてそれに反対するにいたった。組織された労働者はいなかったが、『平民新聞』は全国に数千人のの読者を得て、啓発活動や海外の運動との交流もすすめ、鉄道や坑山や造船所ではストライキが次々と発生すると、藩閥政府からはひそかにこれを根こそぎにする策動をすすめだした。
 明治37年(1904)11月の創刊1周年記念号に『共産党宣言』を掲載して発行禁止になった週刊『平民新聞』は明治38年(1905)1月に廃刊になり、それを引き継いだ『直言』も同年10月に発行禁止となって平民社は解散し、『平民新聞』の筆禍事件で入獄していた幸徳秋水は出獄後の12月にアメリカに渡った。また、同年11月には第2次日韓協約(韓国保護条約)が調印され、12月に伊藤博文は設置された日韓国統監府の統監になるのだが、国内では明治39年(1906)1月7日に桂内閣に代わって第1次西園寺内閣が成立し、一時の春の中で2月24日に日本社会党結党が結党された。日本社会党結党は同年8月に堺利彦の提起で電車賃値上げ反対の運動を起こし、それへの同調者とみなされないように注意する手紙に対して夏目漱石は、前述したように「堺枯川氏と同列に・・」の返信を書き、9月には『二百十日』をを書き、10月には「命のやりとりをする維新の志士の如き烈しい精神で文学をやってみたい」と鈴木三重吉に返信した。同年7月にアメリカから帰国した幸徳秋水は、それまでの普通選挙に対して直接行動を提起し、築地新富町に新たに平民社を構えて日刊『平民新聞』の発行をすすめる。明治40年1月に日刊『平民新聞』は発行されるも、同年2月4日に足尾銅山で暴動が発生、同月17日の第二回社会党大会で党則が「本党は社会主義の実行を目的とす」と改正されると、同月22日に政府は結社禁止になり、同月14日には日刊『平民新聞』も廃刊に追い込まれ、同月25日に発売になった幸徳秋水の『平民主義』も出版即日発禁となった。先に書いた山川均の書く「柏木団」の話はこの頃のことで、山川均が「私はたちまちその日から無収入になった」と書いたように、柏木には生業に事欠く社会主義者たちは身を寄せ合って暮らしていたのであろう。
 明治40年(1907)6月に片山潜と田添恭二らは「憲法の範囲内において社会主義」をめざすとした日本平民党を結党したが、政府は翌日これを禁止した。さらに、同年末に片山潜は無政府主義者を除外して党でもない「平民協会」を結社して、「本会は労働者をして騒動組合を組織せしめ、以って其経済的独立を計り、国家産業の基礎を堅固にすることを努む」とした綱領を掲げたが、これも即日結社を禁止された。山川均曰く「たとえどこまで後退してみても弾圧から免がれることはできないことが立証され」たわけである。
 この頃、先にアメリカに渡った幸徳秋水が帰国に際してオークランドでつくった社会革命党周辺のビラに「暗殺」があるのを伝え聞いた元老の山県有朋は、西園寺内閣の社会主義取締りを怠慢としてその倒閣をすすめるのと併せて社会主義者への監視とシフトを強め、「巨魁ハ幸徳秋水」であるとした。明治41年6月22日に開かれた山口孤剣の出獄歓迎会の途中で、大杉栄や荒畑寒村らによって「無政府共産」「無政府」「革命」と書かれた赤旗が打ち振られ、さらに街頭に出ようとした時に、待ち受けていた警察官と乱闘になり、これを止めようと仲裁に入った堺利彦や山川均、管野スガら14名が逮捕されるという事件が起こった。これが赤旗事件で、逮捕者は数ヶ月の入獄だろうと思っていたところ、12名の被告に重禁錮2年6ヶ月という判決が下された。病気療養のために明治40年10月に土佐に帰り、クロポトキンの『麺麭の略取』の翻訳をすすめていた幸徳秋水は「サカイヤラレタスグカエレ」の電報を受け取ると、明治41年7月21日に土佐を発ち、東京に向かった。後に大逆事件で取り調べを受けた幸徳秋水は赤旗事件の謀略を見破り、検事に向かって赤旗事件は「政府の予定の計画」であるとし、管野スガらは赤旗事件の警察官の態度に憤慨したのだと言ったという。しかし、幸徳秋水が土佐からの上京の途中で立ち寄った先々の人々は、みな大逆事件の陰謀の加担者とされてしまうという一大フレームアップがまた政府によって仕掛けられ、幸徳秋水もまたその罠にはまるという逃れようのないシフトが敷かれていたわけである。大逆事件の主任検事小山松吉は、後にこう語っている。「いったいこの事件がなぜ起こったかというと・・・四一年六月いわゆる赤旗事件が起こったのである。このため東京の同志がほとんど全部入獄したことを聞き、幸徳は政府が同志を迫害したとて憤怒し、七月に中村を出発し、紀州の新宮町に大石を訪ね、そこの同志を集めて、『赤旗事件の報復をせねばならぬ一と結束を堅くし、また大石は医師だから薬のことが分っているとて爆弾の製法を研究することとなった。・・」と。明治44年(1911)1月18日に、連座した者24名に死刑の判決が下った。
 上京後の明治41年11月30日の大條虎介宛ての手紙に、幸徳秋水は以下のようにある。
 「殊に近来政府の我党に對する圧迫は益々甚しく、小生の住居の前後には常に三四人の探偵が張番し居り、小生の来往に必ず尾行し、来訪の客には一々姓名を尋ねるのみならず、屡々同志と称して種々の廻し者を遣はし来るやうの有様にて、殆と手心足も出申さず、叉社會生殺に関する出版印刷は、あらゆる手段にて禁絶するの方針とかにて、都下の印刷處は皆々此種の印刷物を拒絶しますので困るのです」と。
 この頃、夏目漱石は『三四郎』を脱稿し、同年12月に幸徳秋水は『麺麭の略取』を秘密出版し、翌明治42年1月30日に『麺麭の略取』の出版を届け出るも即日発禁となり、同年5月に管野スガと雑誌『自由思想』を発行するも即日発禁、第2号も同様で管野スガには多額の罰金刑が課せられた。この頃、漱石は小宮豊隆と共にアンドレーエフを読んでいる。そして前述したように同年5月10日にベンガル湾上で二葉亭四迷が亡くなり、同月31日に漱石は『それから』を起稿する。先に引用した『それから』の一プロット「平岡はそれから、幸徳秋水と云ふ社会主義の人を、政府がどんなに恐れてゐるかと云ふ事を話した。幸徳秋水の家の前と後ろに巡査が二三人づつ昼夜張番をしてゐる。一時は天幕を張って、其中から覗つてゐた。秋水が外出すると、巡査が後を附ける。万一見失ひでもしやうものなら非常な事件になる」は、上記の幸徳秋水の手紙に書かれた状況が朝日新聞に載り、漱石はそれを参考にを描いたと思われる。同年9月20日から10月17日まで、漱石は旧友の中村是公の招きで満州と朝鮮を旅行する。帰国後の10月26日にハルビン駅頭で伊藤博文は暗殺され、それらを時代背景にして翌明治43年(1910)2月下旬に漱石は『門』を書き始める。そして同年6月1日に伊豆湯河原で徳秋水が逮捕され、6月5日のそれが新聞発表になったのを読むと、漱石は「うん、然し叉ぢき冬になるよ」と書いて『門』を脱稿し、同年8月22日に韓国併合の日韓条約の調印がなされ、8月24日の夜に漱石は修善寺温泉で大吐血し、一時危篤状態に陥った。私はこれらの流れに因果があるとは言わないが、「坂の下」から見れば、「坂の上」に上りつめた明治40年代とはそういう時代であったわけである。
 明治43年(1910)9月に赤旗事件で大逆事件を免れた堺利彦と山川均は千葉監獄を出獄する。『山川均自伝』には、以下のようにある。
 「私はいちおう守田の家に落ちつくことになり、停車場への途すがら、守田は幸徳さんのことを断片的に話してくれ、ことの意外におどろかされた。・・・守田は・このさい東京でまごまごしていても運動ぱまるきり出来ないし、第一、生活の方法が絶対にない、それで少しも早く、東京を離れていちおう田舎に行くことが賢明だ、明日にも、できれば今夜にでもと勧めてくれた。・・あくる日、私は東京を立った」と。
 堺利彦の『社会主義運動史話』にはこうある。
 「わたしは九月二十二日、予定のとおり出獄した。そして初めて「大逆事件」の進行中の話をだいたい聞いた。それから一月半ばかりの後十一月八日付けの幸徳秋水の手紙が市ケ谷監獄から初めて来た。わたしは四谷の南寺町に住んでいた」と。
 明治43年(1910)11月8日の堺利彦宛の幸徳秋水の手紙は「二年目に君に書く、嬉しくて堪らぬ」で始まり、明治44年(1911)1月1日の幸徳秋水の手紙には、以下のようにある。

 愈々四十四年の一月一日だ、鉄格子を見上けると青い空が見える、天気が好いので世間は嘸ぞ賑かだらう、火の気のない監房は依然として陰気だ、畳も衣服も鉄の如く凍って居る、毛布を膝に巻て蹲まり、今は世に亡き母を懐ふ、▲母の死は僕に取ては寧ろ意外ではなかった、意外でないだけに猶ほ苦しい、去十一月末、君が伴ふて面会に来た時に、思ふ儘に泣きもし語りもしてくれたなら左程にも無ったらうが、一滴の涙も落さぬ迄に耐えて居た辛らさは、非常に骨身に徹えたに違ひない、イクラ気丈でも帰國すれば屹度重病になるだらうと察して、日夜に案して居だのは先頃申上けた通りだ・・・▲君も知てる通り、最後の別れの析に、モウお目にかかれぬかも知れませんと僕が言ふと、私もさう思って来たのだよと答えた、ドウかおからだを御大切にといふと、お前心シツカリしてお出で、と言捨てて立去られた音容が、今もアリアリと目に浮んで来る、考へで居ると混が止らぬ、▲其後僕が余り気遣ふもんだから、いつも健康だ健康だと言て来た、訃報の来る二三日前に受取た手紙も、代筆ではあったが「お前の先途を見届けぬ中は病気なぞにはならぬから、ソンナことを心配せずと本を読たり詩を作ったりして楽しんでで居なさい」と書てあった・・・▲ア、何事も運命なのだ、悔て及ばぬことに心を苦しめ身體を損ふのは、最後まで僕をアベコベに慰め励ましてくれた母の志にも背くのだから、力めて忘れやう忘れやうとして居る、が語るに友なき獄窓の下にボツ然として居る身には、兎もすれば胸を衝いて来る・・・▲長々と愚痴ばかり並べて済まなかつた許してくれ、モウ浮世に心残りは微塵もない、不孝の罪だけで僕は萬死に値ひするのだ。  一月一日   明治四十四年

 そして明治44年(1911)1月19日、死刑宣告を受けた翌日の手紙は、「未練らしいが今一度告別の面会を得たいものだ」で終わっている。

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2013年9月25日 (水)

夏目漱石の文学とその時代

 1908年(明治39)の年が明けても漱石の神経衰弱は一進一退で、漱石は年頭から「大学を辞めたい」と洩らしていたという。そして三月に突然『坊ちゃん』の構想を得てそれを書き始め、四月に島崎藤村の『破戒』を読んで深く感動し、七月に『草枕』を書き、八月には先に書いたように市電の運賃値上げ騒動に関して、「都下の新聞に一度に漱石が気狂になったと出れば小生は反ってうれしく覚え候」と書き送り、九月に『二百十日』を書き、十二月には『野分』を書いた。先の「断片」を書いていたのはこの頃のことであり、『二百十日』以降の小説には社会批評が目立つようになる。
 『二百十日』は「華族と金持」批判の書であるから、漱石が「気狂になったと出れば小生は反ってうれしく覚え候」と書き送ったのは、あながち誇張ではなく本心であったのかもしれない。そして、『野分』はまさに市電の運賃値上げ騒動を背景にした話で、物語の最後で主人公で文学者の白井道也は「現代の青年に告ぐ」というテーマの演説会を開き、それはそのまま当時の漱石の声であるように思える。『野分』に、演説会に行こうとする白井道也と行かせまいとする妻との間で、以下のやりとりがある。

 「今日の演説は只の演説ではない。人を救ふための演説だよ」
 「人を救ふって、誰を救ふのです」
 「社のもので、此間の電車事件を煽勤したと云ふ嫌疑で引っ張られたものがある。所が其家族が非常な惨状に陥って見るに忍びないから、演説会をして其収入をそちらへ廻してやる計画なんだよ」
 「そんな人の家族を救ふのは結構な事に相違ないでせうが、社会主義だなんて間違へられるとあとが困りますから・・」
 「間違へたって構はないさ。国家主義も社会主義もあるものか、只正しい道がいいのさ」。

 そして、演説会で白井道也は以下のような話をする。

 「自己は過去と未来の連鎖である」。
 「人間が腐った時、叉波瀾が起る。起らねば化石するより外に仕様がない。化石するのがいやだから、自ら波瀾を起すのである。之を革命と云ふのである」。
 「英国を鼓吹して憚からぬものがある。気の毒な事である。己に理想のないのを明かに膨露している。・・凡ての理想は自己の魂である。うちより出ねばならぬ。奴隷の頭脳に雄大な理想の宿りやうがない。西洋の理想に圧倒せられて眼がくらむ日本人はある程度において奴隷である」。
 「金は労力の報酬である。だから労力を余計にすれば金は余計にとれる。・・然し・・高等な労力に高等な報酬が伴ふであろうか・・今の世でも教師の報酬は小商人の報酬よりも少ないのである。・・労力の高下では報酬の多寡はきまらない。・・金があるから人間が高尚だとは云へない。金を目的にして人物の価値をきめる訳には行かない」。

 白井道也が演説会をやる神田の演説会場は、社会主義者もよく使う場所であり、市電賃値の値上反対の運動は堺利彦らが起こしている。先に書いたように漱石は市電賃値の値上反対の運動に加担していると書かれた新聞記事を送ってくれた友人に対して、「小生もある点に於て社会主義故、堺枯川氏と同列に加わりと新聞に出ても毫も驚ろく事無之候ことに近来は何事も予期し居候」と書いたのは、私には本心であったと思われる。荒正人は『野分』は「小説としてみれば、未熟である。だが・・漱石の文学の原型を探るうえには、思いがけず大切な作品である」(集英社『漱石文学全集』4巻解説)と書いている。

 1907年(明治40)の1月に日刊『平民新聞』が発行され、二月には足尾銅山で坑夫の蜂起が起き、2月17日には日本社会党第2回大会が開かれ、前述したように直接行動派と議会政策派の片山潜らとの間で論争があり、その直後に日本社会党は禁止になり、四月には『日刊平民新聞』も廃刊となった。漱石は同三月に東大教授である旧友の大塚保治から「英文学の講座を担任し、教授になってはどうか」との交渉を受けるが、より文筆活動が自由になる朝日新聞社に入社し、『虞美人草』を書き始め、六月に首相の西園寺公望から他の文士とともに「我国小説に関する御高話拝聴旁素飯差上度」という招待状を受けたが、漱石は二葉亭四迷とともにこれを辞退。九月頃に二葉亭四迷の『其面影』を買って読み、賞賛の手紙を二葉亭に送る。1907年(明治40)は足尾銅山以外でもストライキや暴動が起こり、同年末から漱石は『杭夫』を書き始める。1908年(明治41)の6月に、出獄した西川光二郎の歓迎会で「赤旗事件」が起きて、堺利彦と山川均と大杉栄が入獄し、7月には穏健な西園寺内閣が総辞職して、桂太郎内閣が成立した。そして、ここから大逆事件の起こされる1910年(明治43)までの間に、漱石は『三四郎』と『それから』と『門』を書いたのであり、それは明治社会主義のクライマックスと重なるのである。
 『三四郎』は、1908年(明治41)9~12月に朝日新聞に連載された。同年4~8月には島崎藤村の『春』が朝日新聞に連載されており、漱石は7月27日の高浜虚子宛の書簡に、「『春』と申す長編掲載了のあと引き受ける事に相成り九月初より・・」と書き、8月19日の渋川柳次郎あての書簡には、「『春』今日結了最後の五六行は名文に候。作者は知らぬ事ながら小生一人が感心故候。・・あの五六行が百三十五回にひろがったら大したものなるべくと藤村先生の為に惜しみ候」と読後感が記されている。
 『春』の「最後の五六行」は、近代文学者にはえらく評判が悪く、江藤淳的には近代文学への「反革命」の狼煙みたいにも言われ、漱石も自然主義には批判的であるわけだが、漱石が「あの五六行が百三十五回にひろがったら大したもの・・惜しみ候」と書いたのは、藤村の『春』が、理想をめざす明治の青春群像を描きながらも自然主義に流れて行くのに対して、漱石はまさに漱石の「技巧」をもって漱石の「理想」を描こうとしたものにほかならないからであろうと思われる。
 物語は、三四郎がが大学に入学するために東京に向かう汽車の中から始まる。ひとつは、三四郎と汽車に乗り合わせた女と爺さんの話がある。旅順に出稼ぎに行ったまま帰って来ない亭主を持つ女に同情した爺さんはこう言いだす。「自分の子も戦争中兵隊にとられて、とうとう彼地で死んで仕舞った。一体戦争は何の為にするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない。世の好い時分に出稼ぎなどと云ふものはなかった。みんな戦争の御蔭だ」と。荒正人は、「『三四郎』の初めに、女の示した底の深い謎と日露戦争への批判が提出されているのは驚異である。・・・後者の展開は余り追求されていなかった」と書いている。
 ふたつ目は、「三つの世界」の話で、その中の「第二の世界」に生きる人は、以下のように書かれている。「第二の世界に動く人の影を見ると、大抵不精な髭を生やしてゐる。あるものは空を見て歩いてゐる。あるものは俯向いて歩いてゐる。服装は必ず穢い。生計は屹度貧乏である。さうして晏如としてゐる。電車に取り巻かれながら、太平の空気を、通天に呼吸して憚らない」と。これは、廣田先生と野々宮さんに代表される。
 三つ目は、「露悪家」であり、これは以下のようである。
 「臭いものの蓋を除れば肥桶で、美事な形式を剥ぐと大抵は露悪になるのは知れ切ってゐる。形式丈美事だって面倒な許だから、みんな節約して木地丈で用を足してゐる。甚だ痛快である。天醜爛漫としてゐる。所が此爛漫が度を越すと、露悪家同志が御互に不便を感じて来る。其不便が段々高じて極端に達した時利他主義が叉復活する。それが又形式に流れて腐敗すると又利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はさう云ふ風にして暮して行くものと思へば差支ない。さうして行くうちに進歩する。英國を見給へ。此両主義が昔からうまく平衡が取れてゐる。だから動かない。だから進歩しない。イブセンもでなければニイチェも出ない。気の毒なものだ」と。こうなると「露悪家」とは、アダム・スミスで言えば『道徳感情』と『国富論』の間を行ったり来たりする人でもある。廣田先生は「露悪家」の典型をアメリカ人に見て、「(露悪家は)丁度亜米利加人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である行為程正直なものはなくって、正直程厭味のないものは無いんだから、萬事正直に出られない様な我々時代の小六づかしい教育を受けたものはみんな気障だ」と語る。
 「第一の世界」とは、「明治十五年以前の世界」であるから、漱石流には日本の近代は「第二の世界」と「第三の世界」で成り立っていることになり、「第三の世界」の広がりを描いたのが『三四郎』であろうか。廣田先生曰く「亡びるね」であり、漱石文学の羅針盤は「第二の世界」を指している。ついでに書けば、二葉亭四迷の『浮雲』で言えば、文三の世界は「第二の世界」であり、昇の世界は「第三の世界」ということになるだろうか。以上の三つのテーマは、漱石最後の『明暗』まで、ずうっとつながっている。
 『三四郎』と『それから』と『門』は三部作と言われ、どれも私の好きな小説で、何度も読んだ。『それから』を最初に読んだのは高校生の時で、その時に「一日本を読んだり、音楽を聞きに行ったり」する「高等遊民」という言葉を覚え、憧れた。二度目に読んだのは、大学を辞めて父と喧嘩して家を出た時で、その時は志賀直哉の『和解』にも通じる「父と子」というテーマで読んだ。三度目に読んだのは、会社勤めを辞めた時で、その時は同じ頃に再読した二葉亭四迷の『浮雲』もそうであったが、謂わば「失業」小説として読んだ。私は代助というよりは、失業中の平岡に近いのであったが、最後に代助自身が「僕は一寸職業を探して来る」で終わるところなど、当時ほとんどわが身のことであった。
 『それから』は、1909年(明治42)6~10月に朝日新聞に連載された。『三四郎』は、島崎藤村の『春』の次の朝日新聞の連載小説であったが、『春』と同じ時期に漱石の推薦で、大塚楠緒子の『空薫』の連載があった。大塚楠緒子は漱石が思いを寄せたとされる女性だが、1895年(明治28)3月に漱石の旧友の小屋保治と結婚した。同年4月に漱石が松山の尋常中学に赴任したのは失恋をしたからだという漱石失恋説があるところだが、先に書いたように、東大教授であった大塚保治は帰国後小説書きになろうとする漱石に東大教授の職を勧めている。しかし、漱石はそれを断り、自由に小説を書く道を選んだ。
 1909年(明治42)5月10日、病を得てロシアからの帰国の途上、ベンガル湾上で二葉亭四迷が亡くなり、同月末に漱石は『それから』を起稿する。だからそれは、大塚楠緒子の連載小説にインスパイアされた漱石が、二葉亭四迷の『其面影』をモチーフにして書いた姦通小説であると私は思っていたのだが、そこは反自然主義の漱石のことだから、自らや大塚楠緒子をモデルにして登場人物を造形するわけではない。代助と三千代は、「彼は三千代に對する自己の責任を夫程深く重いものと信じてゐた。彼の信念は半ば頭の判断から来た。半ば心の憧憬から来た。二つのものが大きな濤の如くに彼を支配した」とあるように、あくまでも漱石が観念的に造形した人物であり、平岡もまたそうである。そして、そこに登場する唯一の実在の人物は幸徳秋水なのである。以下のように赤新聞の記者になった平岡の口から突飛に幸徳秋水の名が出てくる。

 平岡はそれから、幸徳秋水と云ふ社会主義の人を、政府がどんなに恐れてゐるかと云ふ事を話した。幸徳秋水の家の前と後ろに巡査が二三人づつ昼夜張番をしてゐる。一時は天幕を張って、其中から覗つてゐた。秋水が外出すると、巡査が後を附ける。万一見失ひでもしやうものなら非常な事件になる。・・・是も代助の耳には、真面目な響を与へなかつた。「矢っ張り現代的滑稽の標本じゃないか」と平岡は先刻の批評を繰り返しながら、代助を挑んだ。代助はさうさと笑つたが、此方面にはあまり興味がないのみならず、今日は平生の様に普通の世間話をする気でないので、社会主義の事はそれなりにして置いた。

 これは、山川均が「柏木団の人びち」に書いた頃の幸徳秋水であろうか。柏木団を外から見れば、こんなふうに見えたのかもしれない。
 旧友の妻と通じ合うという禁断の姦通を描いた『それから』は衝撃的ではあるが、代助をして「此方面にはあまり興味がない・・社会主義の事はそれなりにして置いた」としながらも、漱石が密かにそこに隠したのは、禁断の思想としての社会主義があったのではなかろうか。代助には社会主義への興味はないのかもしれないが、漱石には大いにあったように思われる。
 『それから』の時代背景は、日露戦争後の不景気な時代であり、「明治40年初めには株価が急落し、さらに同年10月アメリカに起きた経済恐慌の波が日本にも押しよせ、41年以降、不況状態が続いた。実業家である代助の父や兄は、その影響をまともに受けている」(荒正人編『漱石文学全集』集英社刊第5巻解説より)という設定になっている。
 「第一の世界」に生きる父と、「第三の世界」に生きる兄は、わけの分からない代助の生き方について、兄をしてこう警告する。「世の中に分らない人間程危険なものはない。何を為るんだか、何を考へてゐるんだか安心が出来ない。御前は夫れが自分の勝手だから可からうが、御父さんやおれの、社会上の地位を思って見ろ。御前だって家族の名誉と云ふ観念は有ってゐるだらう」と。
 それに対して代助は、「是等を切り抜けても大きな社会があった。個人の自由と情実を毫も斟酌して呉れない器械の様な社会があった。代助には此社会が今全然暗黒に見えた。代助は凡てと戦ふ覚悟をした」。『三四郎』で提起した「第二の世界」を生きる覚悟をしたわけである。
 代助は、幸徳秋水にはあまり興味がないと言いつつ、イギリスの画家ブランギンの絵を見るのだが、ブランギンの絵を知らない読者にはその意味が分からない。そこには漱石がイギリス留学で学んだ知識で二重、三重にフィルターがかけてある。イギリス人の漱石研究家ダミアン・フラナガンは『日本人が知らない夏目漱石』(世界思想社2003年)で、「漱石の作品における、もっとも意味深いラファエル前派的なイメージが現在まで全く注目されていないままであることを指摘」し、ウィリアム・ホルトマン・ハントの絵画で『三四郎』の絵解きをしてみせた。漱石とラファエル前派との関係など、数ある漱石論数があえて避けたか見逃したか、いずれにせよ、それが漱石文学の技巧であり、理想の著し方であると思われる。1907年(明治40)4月に東京美術学校で行われた講演『文学の哲学的基礎』において、漱石は以下のように述べている。

 理想とは何でもない。いかにして生存するかがもっともよきかの問題に対して与えたる答案に過ぎんのであります。・・・いわゆる技巧と称するものは、この答案を明瞭にするために文芸の士が利用する道具であります。道具は固より本体ではない。

 我々に必要なのは理想である。・・・一般の世が自分が実世界における発展を妨げる時、自分の理想は技巧を通じて文芸上の作物としてあらわれるほかに路がないのであります。

 『それから』には社会主義の影がある。戦前から国民文学者であった夏目漱石が社会主義に関心をもっていたなど誰も言えなかったであろうし、1967年にロンドンのギャラリーを訪ねた江藤淳はさすがそれに気づいたであろうが、見方は異なるようだ。以下の『それから』の最後の文章は、代助が精神錯乱を起こした状況と言われるが、狂気と神経衰弱は漱石にとっても、漱石を国民文学者にしておきたい側にとってもカムフラージュなのである。以下、私には「赤=社会主義」宣言にしか読めないのだが、それは私の短絡だろうか。

 忽ち赤い郵便筒が眼に付いた。すると其赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し姶めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい眞赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸けて来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはつと電車と摺れ違ふとき、叉代助の頭の中に吸ひ込まれた。煙草屋の暖簾が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が眞赤になった。さうして、代助の頭を中心としてくるりくるりと炎の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗って行かうと決心した。

 以上が『それから』のエンディングである。思うに、漱石の言う「三つの世界」は、漱石がロンドンに留学した経験からの着想ではあるまいか。イギリスは階級社会で、保守的な階級社会(第一の世界)でありながら、市場経済(第三の世界)が大いに発展している。その真っ只中で漱石は、神経衰弱になりながら、必死になって「第一の世界」でも「第三の世界」でもないものを探し求めてたくさんの本を買い込み、カーライルやモリスの世界(第二の世界)を知り、帰国後に東大教授にならずにそれをモチーフに小説を書いた、とまあこう思うところである。 漱石はイギリスで何を見たのか? おそらくそれはキャピタリズムとその行く末ではなかろうか。

 1909年(明治42)8月に『それから』を書き終えた漱石は、旧友の中村是公の誘いで満韓旅行へと出かけ、翌1910年3月からは『門』の連載を始めるが、執筆途中に胃潰瘍で入院。伊豆の修善寺に出かけ転地療養するも、所謂「修善寺の大患」と呼ばれる大吐血をおこして、生死をさまよった。そして、1910年(明治43)11月に大塚楠緒子が35歳の若さで死んだ時に、漱石は「有る程の菊抛げ入れよ棺の中」という激情のこもった句をたむけている。
 『門』は、1910年(明治43)3~6月に朝日新聞に連載された小説で、『それから』の続編的な作品であり、私はいつも『それから』とセットで読んだ。『それから』は松田優作主演の映画のイメージと、私は高等遊民ではないということもあって、代助には距離を感じてしまうのだったが、『門』の宗助には、そのつつましやかな暮らしぶりからして、読むたびにリアリティとシンパシーを感じるのであった。
 主人公の宗助は、毎日電車で丸の内にある役所に通う謂わば腰弁である。日曜日にふらりと街に出て、駿河台下で電車を降りて「本屋の前を通ると、屹度中へはい入って見たくなったり、中にはい入ると必ず何か欲しくなったりするのは、宗助から云ふと、既に一昔前の生活である」。そして、日曜日も終わる頃になると、「明日から・・叉せっせと働かなくてはならない身体だと考えると・・残る6日半の非精神的な行動が、如何にも詰まらなく感ぜられた」りするのであった。宗助とその妻の御米の日常風景は下記の如くで、こんな質素で貧乏な世帯は、いつの時代にもけっこうあるのではあるまいか。

 「毎日役所に出ては叉役所から帰って来た。帰りも遅いが、帰ってから出掛けるなどといふ億劫な事は滅多になかった。客は殆ど来ない。・・夫婦は毎夜同じ火鉢の両側に向き合って、食後一時間位話をした。話の題目は彼等の生活状態に相応した程度のものであった」。
 「苦しい時には、御米が何時でも宗助に、『でも仕方ないわ』と云った。宗助は御米に、『まあ、我慢するさ』といった」。
 「宗助はそれから湯を浴びて、晩食を済まして、夜は近所の縁日に御米と一所に出掛けた。さうして手頃な花物を二鉢買って、夫婦して一つづつ持って帰って来た。夜露にあてた方が可かろうと云ふので、崖下の雨戸を明けて、庭先にそれを二つ並べて置いた」。
 「『外套が欲しいって』、『ああ』、御米は夫の顔を見て、さも気の毒だと云ふ風に、『御拵へなさいな。月賦で』と云った。宗助は『まあ止さうよ』と急に侘しく答えた」。
 「・・事に乏しい一小家族の大晦日は、それで終わりを告げた」。

 と、まあこんな具合である。「彼の慢心は・・既に銷磨し尽していた。彼は平凡を分として、今日迄生きて来た」という宗助が、「僕は一寸職業を探して来る」と言って出掛けた代助の「それから」であるとすれば、宗助もまた漱石が観念的に造形した人物であると思われる。宗助にとって役所勤めは「つまらない」「非精神的な行動」であるということは、宗助は「第二の世界」に生きる人のその後の生き様として描かれていると、私には思えるところである。
 「第二の世界」に生きる人というのは、『三四郎』においては廣田先生と野々宮さんであり、『それから』においては代助であると言える訳だが、廣田先生とか野々宮さんとか代助みたいな学者や遊民は、世の中から見れば、ごく少数の人である。しかし、宗助みたいに一見腰弁として生きている人たちの中にも「第二の世界」に生きる人がいるとすれば、「第二の世界」に生きる人の数はずっと多くなる。『門』は始めの辺りで、伊藤博文の暗殺事件が語られているから、物語の背景は1909~1910年の冬が終わる頃までで、漱石の執筆時期とそう変わらない。そして1910年6月3日に幸徳秋水逮捕の記事が新聞に載り、同6月5日に漱石は『門』を脱稿したという。『門』は、「うん、然し叉ぢき冬になるよ」の宗助の言葉で終わっている。

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