かような時代には、かような時代の「文学と革命」を!
一昨日から、島崎藤村の『新生』を読み出した。『新生』は、女房を失った後、藤村宅の家事手伝いをしていた姪を孕ませ、1913年に日本から逃げるようにしてフランスに渡った藤村をモデルにした小説で、芥川龍之介は「『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出会ったことはなかった」と評した。藤村の小説はこの『新生』だけ未読であったので、晩冬の夜の手持ち無沙汰に買い置きした本を読み出したわけだが、昨晩読んだ上巻後半には、思いもかけず、戦争の始まりが描かれていた。「岸本がオーストリア対セルビア宣戦の布告を読んだのは、ちょうどその自分の仕事に取りかかっている時であった。・・・底気味の悪い沈黙は町々を支配し始めた」「来るべき大きな出来事の破裂を暗示する空気の中で、岸本は仕事を急いだ」「平和なパリの舞台は実に急激な勢いをもって変わって行った」「壮丁という壮丁は続々国境に向かいつつあった。・・・はやドイツ軍の斥候が東フランスの境を侵したという報告すら伝わっていた」と。そして明け方、眠る前に朝刊を開けると、その1面トップには「ロシア、ウクライナ侵攻」の大見出しのシンクロニシティ。そして昨日は、SNSもテレビも「ロシアのウクライナ侵攻」一色で、私も上記の藤村のような気分で一日を送り、深夜にそのつづきを読んだら、『新生』上巻末には藤村の父への回想が書かれてあった。上記にある藤村の「その自分の仕事」とは、「東京浅草の以前の書斎で書きかけた自伝の一部」であり、これは後の『桜の実の熟するとき』であろうか。そして「父への回想」は、『夜明け前』につながるものであろう。島崎藤村は3人のこどもを犠牲にして日本の自然主義文学の名作『破戒』を書き、名を成した後は姪を犠牲にしてフランスに渡り、これも近代文学の大作『夜明け前』を構想する。島崎藤村は「老獪な偽善者」である一方、やはり「文豪」なのであろう。それにしても、世界はすごいことになってきたなと思うところ。日本の底が抜けただけでなく、世界の底も抜けるかもしれない、もうなんでもありだ。柄谷行人は「近代文学の終わり」を語ったが、文学が終わったわけではない。私的には、
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