2022年新春の読書
2022年1月3日
今日で三が日も終わり、大晦日からの読む&飲むの4日間、3連敗したけど、今日は飲まずで、新年は、1勝2敗。読んだのは、年末に購入した西谷修『私たちはどんな世界を生きているか』(講談社現代新書2020.10)と藤井達夫『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』(集英社新書2021.11)。西谷修氏は、以前にM.ブランショ『明かしえぬ共同体』(ちくま文庫1997)を読んだ時にその翻訳者であったから、文学系の方なのかと思っていたわけだが、とても視野の広い方で、西洋の近代200年と日本の近代150年を重ね合わせてグローバルヒストリーを展開し、近代化の果てに新自由主義化した世界と日本の現状をきめ細かく解き明かす。とりわけ日本の場合、危機への対応が、世界の流れとは逆ドライブになっていることを大化の改新まで遡って解説していて、書名どおり「私たちはどんな世界を生きているか」を知るには好著であった。西谷修氏は、「選挙も政策という商品販売競争で、じつは各人の欲望をもとに市場原理で決定される。そして権力を手にした者は、選挙に勝ったことを根拠にしてそれを私物のように行使することができる、といった体制を生むことになります」と、政治の民営化にもふれるわけだが、このことをテーマに書かれているのが、藤井達夫氏の『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』である。両著に共通のキイワードは「新自由主義」であり、新自由主義を妄信して政治を私物化する愚かな政治の果てに、日本は社会の底が抜け、展望を描くことさえ困難になった時代の中で、最後に西谷修氏は以下のように書いている。
「国民が主の政治をせよと要求する人たちは、せいぜい20%ぐらいかもしれません」。「いますでに、システムによって周辺に吹き飛ばされた人びとが、民主主義に飽きたり、社会に興味を持てなくなったりしている。彼らはどうすればいいのだろうか。投票しない人が50%もいる。その人たちは・・・自分と世界との関係を内部観察して、対象化するようなことをしません」。「それが私たちの役目だと思っています。そういう人たちが日々あくせくして、そんなことなんか考えていられないところで、望まれても望まれなくても私たちはものを考える。ただしそれは近代の「啓蒙」ではない。万古不易の人間の考えるという営みです。そしてそれが多くの人の考えになって、少なくともいま問答無用で進んでいる濁流に堰を立てる。この「無思考化」の流れのなかに生きた思考を些かでも埋め込む。それが務めだと思っています」。「政治の場を確保する、生きる人間を生かすのが政治等々、現代に問われているのはそのことなのです」と。
私はこれに賛成で、西谷氏が意外とサルトル的なのに感心した。
一方、藤井達夫氏はこう書き出す。
「この国はいま、どんな状態にあるのだろうか。まず思い浮かぶのは、労働の不安定化による生活の安全の破壊、格差問題という名で偽装された貧困化、ポスト工業化社会に不適合となった社会保障制度の持続不可能性など、「社会問題」が噴出していることだ。この現状をさらに深刻にしているのは、近年、そうした「社会問題」が隠しがたいものとなっているにもかかわらず、政治が長期的な視野に立った抜本的な解決策を実施することはおろか、構想さえできていないことだ」と。そして、権力の私物化を禁じ、専制に対抗する民主主義として古代アテナイの民主主義について、「古代の民主主義と近代の民主主義の・・・最も重要な違いは、古代の民主主義がその理念を実現するためにクジを用いたのに対して、近代の民主主義は選挙でそれを実現しようとしてきた点にある」とする。ほかにも「メリトクラシーに依拠する中国モデル」や、「政策よりも政治リーダーのパーソナリティが重視され・・・選挙がアイドルの人気投票あるいは有権者のアイデンティティイの承認の機会になる」といった選挙の形骸化など「ポスト工業化社会の代表制度がポピュリズム化しやすいこと」等々、最後に「代議制度の改革は、現代の民主主義が直面する真の危機を克服するための、不可避にして喫緊の、そして何より実行可能な課題なのである」とある。私は代議制度の改革の要諦は、「くじ引きと輪番制」であると会得するとともに、前ログの年賀状に書いたように、昨秋に立ち上げたワーカーズ・コレクティブ「アソシエーションだるま舎」をくじ引きと輪番制で運営して、アソシエーションを広めることを今年の目標とするところ、今年もよろしくです。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント