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2022年1月15日 (土)

羅須ゼミⅢ「甦るマルクス、甦る宇野理論」

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※以下は、今日行われた仙台・羅須地人協会の羅須ゼミでのZOOM講演「甦るマルクス、甦る宇野理論」です。

1.私の初夢
年が明けて何がおめでたいかと言えば、それは自民党政権において「新しい資本主義」が模索され、元旦の日経新聞は「資本主義 創り直す」と書くように、資本主義の限界があからさまになったことであろうか。「ポスト新自由主義の資本主義はあるのか?」、それとも「資本主義のオルタナティブは可能か?」ということになるわけだが、それがあるとして果たしてポスト新自由主義の資本主義はいかなるものになるのかを問えば、新自由主義の徹底による労働力の商品化を100%やりきった資本主義が迎えるのは、地球規模の資本主義の破産と最後の世界大戦の勃発であろうか。いわばハルマゲドンであるわけだが、これまでの資本主義が恐慌を通じて蘇生するように、ポスト新自由主義はAIでロボットを産業予備軍化させ、資本が地球外も含めて新たな市場を開発出来るかと言えば、消費する労働者を消滅させた世界は、千年王国の到来というよりは、地球規模の専制型世界政府によるデストピアになるというのが、2022年の私の悪夢的初夢であった。

2.新自由主義と宇野理論
資本主義の運命はすでにきわまったとする論考は、半世紀前に出版された大内力『現代資本主義の運命』(東大出版会1972)で語られ、その続編となる大内力『現代社会主義の可能性』(東大出版会1975)では、大内力さんが冒頭「もし資本主義のもっとも基本的な規定が労働力の商品化にあるとするならば、その否定としての社会主義は労働力の商品化の否定でなければならない」と語り、宇野系の学者(日高、馬場、矢吹、中山、高橋、田中)たちによって、エンゲルスにおける所有論的な、初期マルクスにおける否定の否定な社会主義理解への疑問や、「ザスーリチ宛ての手紙」や『ゴータ綱領批判』における協同組合やパリコミューンへのマルクスの着目が語られている。この流れは、当時の日本社会党におけるソ連社会主義をベースにした「日本における社会主義への道」の見直しにつながって、1980年代に入ると、フランスにおける自主管理を標榜したミッテラン政権の成立やユーロソシアリズムのの影響もあって、80年代半ばに「ニュー社会党宣言」にまとまった。しかし、その後の歴史経過はソ連型社会主義の廃止であり、社会党の実質的解党であり、天敵をなくした資本主義は、グローバル化と新自由主義によって延命しつづけて、地球の底さえ抜こうとしており、今回羅須ゼミが「オルタナティブ」をテーマにするのも、私が「資本主義のオルタナティブは可能か?」を語ろうとするのも同根であろう。昨年末の末永さんのメールには、「宇野理論は(政治的)実践活動? にはほとんど役に立たないという感触の方に傾いてしまいますね。少なくとも私自身は」とあったわけだが、今日の話を結論から言ってしまえば、悪夢の初夢に対する私の処方箋は、宇野理論によって「資本主義のオルタナティブ」を構想し、「労働力商品の止揚」の在り様を実践的に模索し、それを現実の「脱労働力商品(アソシエーショニスト)的働き方」や「アソシエーションやコミュニティの形成」へとつなげていくことであり、宇野理論はそのための最高の学問であるということである。

3.甦るマルクス―福留久大氏の「人新世時代の社会主義」論
「宇野理論は(政治的)実践活動? にはほとんど役に立たない」というのは、宇野理論は学問であってイデオロギーではないからである。イデオロギー的なマルクス主義によれば、革命運動とは唯物史観のイデオロギーで革命政党によるプロレタリア独裁をめざして階級闘争を行うことであり、新左翼的にはそれに世界資本主義論から世界同時革命論と過渡期世界論を付け加えたイデオロギーであったわけで、これらはソ連崩壊後はほぼ力をなくした。そしてそれと入れ替わりに全世界を新自由主義が跋扈する中で、再び見直されようとしえいるのは『資本論』であり、「甦るマルクス」であろうか。「甦るマルクス」につついては近年斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』が評判になっているが、現在刊中の大内先生の「晩期3部作」もそうであり、その両著について、福留久大氏が昨年、社民党系の『進歩と改革』に「人新世時代の社会主義」を連載され、そこに仙台・羅須地人協会を以下のように紹介しているので、そこから見ていきたい。

「人新世時代を生き抜く知恵を求めて各地で模索が続その一つに仙台・羅須他人協会がある。羅須他人協会は、1926年、宮澤賢治が花巻に開いた地域農民との共同研讃の組織。その精神の継受とともに、マルクス-モリスの社会主義の要素を摂取して2013年に仙台に設立されたのが、仙台・羅須他人協会。発案し中心を担うのは、大内秀明・東北大学名誉教授。宇野弘蔵の直弟子として『資本論』の学説史的解明を軸とする学術活動とともに中央・地域の各種社会活動、で著名である。半田正樹(東北学院大学)・田中史郎(宮城学院女子大学)の二人の経済学者をはじめ尊敬する師への支援に尽力する老若男女の集いが形成され、『資本論』読書会、地域問題討論集会、出版活動が継続的に行われる」(『進歩と改革』2021年5月号)。
「モリス研究を進める大内秀明は、『資本論』の理解、特に「否定の否定」の論理の解釈に感嘆して、モリスを高く評価するに至る。また宮沢賢治の「芸術をもて、あの灰色の労働を燃せ」という標語がモリスの芸術論に由来することを知って、「賢治ファン」の仲間入りともなった。2003年には、仙台郊外・作並の地に森のミュージアム「賢治とモリスの館」が開設された。2013年に、仙台・羅須地人協会が設立された。『賢治とモリスの環境芸術』(時潮社2007)、『ウィリアム・モリスのマルクス主義』(平凡社新書2012)、『土着社会主義の水脈を求めて―労農派と宇野弘蔵』(平山昇との共著、社会評論社2014)、ウィリアム・モリス、E.B.バックス・共著『社会主義、その成長と帰結』(晶文社2014)、『日本におけるコミュニタリアニズムと宇野理論』(社会評論社2020)と、関連著作の刊行も続いている(※別紙「資料」参照)。特筆すべきは、志を共にする人々によって、将来社会の展望を内包した形で、東北の地を舞台とした具体的な地域循環型社会の構想が練り上げられていることである。大内秀明ほか共編著『自然エネルギーのソーシャルデザイン』(鹿島出版会2018)では、仙台都市圈における広瀬川水系を中心とする地産地消型エネルギー構想が論じられる。篠原広典・半田正樹・編著『原発のない女川へ-地域循環型の町づくり』(社会評論社2019)では、女川に焦点をあてながら、いずれの原発立地自治体でも適用可能な「原発に頼らない地域循環型」社会構想が打ち出されている」(同6月号)。

福留久大さんは大内秀明『日本におけるコミュニタリアニズムと宇野理論』(社会評論社2020)に着目して、以下のように書く。
「そこでは、恩師・宇野弘蔵に即した『資本論』理解が提示されるだけに留まらず、宇野に欠けた論点を挙げてその補完に努める意志の表明が行われている。・・・「所有論アプローチ」について、こう述べられている。「自己の私的労働に基づく私的・個人的所有、その否定である社会的労働に基づく私的・ブルジョア的所有、さらにその否定である社会的労働に基づく社会的・公共的所有の『所有法則の転変』を、宇野『原理論』は厳しく批判したのである。こうした批判は、後期マルクスの『資本論』そのものにも向けられ、『科学的社会主義』の基礎づけとなった。宇野理論の真髄は、単なる価値形態や労働力の商品化の強調だけではない。唯物史観のイデオロギーに他ならぬ『所有法則の転変』の全面的否定だった」(153-4頁)。大内には宇野に対する望蜀の念も残る気配である。「宇野は唯物史観の残滓とも言える『所有法則の転変』を否定し、いわゆる『窮乏化法則』などのドグマを排除したが、モリスなどに積極的に関説しなかったことにもよるだろうが、『共同体』の位置づけなど、コミュニタリアニズムについて積極的に踏み込んではいない。価値形態論を強調し、労働力の商品化の矛盾を資本主義経済の『基本矛盾』として設定したうえで、社会主義の目標についても、宇野は『労働力商品化の止揚』を強調した。しかし、それがコミュニタリアニズムに結びつく点には一切触れることなく、超然と『南無阿弥陀仏』としていたのであり、そうしたイデオロギー的禁欲を続けたままだった」154-5頁)。このような望蜀の念を越えて、宇野に対する学問的批判の一端も垣間見ることができる。「宇野による『資本論』冒頭の労働価値説批判は、スミスの労働=『本源的購買貨幣』の批判であり、商品経済的富を『労働生産物』に還元、非労働生産物の労働力だけでなく、土地・自然をも排除されていた。宇野の冒頭商品論は、『労働生産物』ではないが、『資本の生産物』に限定し、一方で価値形態論を重視しながら、スミスや『資本論』とともに、労働力や土地・自然を除外している。そのため『貨幣の資本への転化』『地代論』に難点が生ずるだけでなく、土地・自然に結びつく『共同体』の位置づけ、さらには『人間と自然の物質代謝』との関連も、不明確になっているように思われる」。そう述べた後で、「別稿を準備したい」と明記されたところが注目点である」154-)。(同8月号)

この「別稿」については、間もなく『甦るマルクス―「晩期マルクス」からコミュニタリアニズムへ』(社会評論社)として発行される予定。上記のほかに福留久大氏は、「直球勝負の趣で骨太に〈労働力商品の止揚〉に基づく社会主義論を展開するのは、鎌倉孝夫氏である」として、鎌倉孝夫氏が『進歩と改革』2015年9月号に書いた「『資本論』の社会主義論」を解説して、「・・・こうして先の章句を巡るマルクスの真意が次のように解明される。〈マルクスが強調したのは、私有―労働者による私有の問題ではなく、結合した労働者こそ社会の主体であり、その社会的労働こそ社会存立・発展の根拠であること、土地・自然力は、社会の主体である結合した労働者による共同利用の対象と捉えなければならない、ということであった〉」とまとめ、「宇野弘蔵に始まり、大内秀明や鎌倉孝夫によって継承された「労働力の商品化」の概念は、如何なる形で問題とされるのか。少なくとも次の三特質が労働者にとっての弱点として指摘される。①商品の販売の困難。貨幣の直接交換可能性―雇用の不安定、失業の、引いては生存の危機。②賃銀―労働市場で他律的に決定される。③労働が資本家の意志と指揮の下で行われる。労働における労働者の主体性の排除。疎外された労働。・・・・これらの弱点を如何に克服するか、そこに「労働力商品化の止揚」の道が開かれることになる。その点を、次号以下において探りたい」と書いた。そして、最終回の『進歩と改革』2021年9月号でのまとめは、以下のとおりであった。

 「異常な酷暑、未曽有の豪雨被害、確実な環境危機の顕現である。貧困と格差の拡大、先進経済圏の人□減少の深刻化、確実な文明危機の顕現である。底知れぬ暗い閉塞感が人々を覆うのも当然の成り行きである。そのとき、「顕在化してきた危機の根本原因は資本主義、問題解決には資本主義からの脱却が必要」と言い、「唯一の解決策は、マルクスの唱える、潤沢な脱成長経済だ」と叫ぶ斎藤幸平の『人新世の「資本論」』(集英社新書)が、新鮮な響きを発して多くの人々に迎えられたのも自然の成り行きであろう。斎藤さんは、驚くほど丹念に『資本論』を読み込んでいる。資本主義批判にも稀有の鋭さが認められる。彼が、大学・大学院を米国や独逸で過ごしたことが、正負両面の影響をもたらしている。一方では、活発な国際交流を可能にしたが、他方で、戦後日本のマルクス経済学の研讃の成果を摂取できずに、古い旧来の『資本論』解釈から脱却できないことになった。・・・・筆者は、「労働力の商品化」を資本主義の核心的矛盾として捉え、その止揚・廃絶をもって社会主義への接近とする見地に立ちたいと思う。したがって、労働大衆の団結に基づく経済的地位と政治的意識の向上が基本的課題となる。・・・如何に迂遠であれ、地道に努力を重ねる以外に妙案は有り得ない。ただ政治的意識の面では、環境危機と文明危機に特別に強い関心を払う必要が生ずる点が、「入新世時代」の特徴となるであろう」と。

4.甦る宇野理論
 上記の福留久大氏による仙台・羅須地人協会の説明(3のゴチック部分)を読めば、福留氏が実に的確かつ理論的に仙台・羅須地人協会をとらえて、そこに期待していることが解る。とりわけ重要なのは、福留氏が「大内には宇野に対する望蜀の念も残る気配である」としながらも、「望蜀の念を越えて、宇野に対する学問的批判の一端も垣間見ることができる。・・・「別稿を準備したい」と明記されたところが注目点である」と書くところで、これは私的には「甦る宇野理論」への期待となる。要は、福留氏は「労働大衆の団結に基づく経済的地位と政治的意識の向上が基本的課題」とするわけだが、現在の連合を見れば、労働組合によるそれは、限りなく困難であると思われる。新自由主義化した資本主義は、少数の正規社員による特権的組合と、圧倒的多数の非正規の未組織労働者を分断するからであり、今日的な労働運動の課題は、労働者の脱労働力商品化をいかに図るかにあるからであり、福留氏が「次の三特質」とする「労働者にとっての弱点」があるからである。
 第1回目で話したように、私は生協で働きながら消費型の生協よりも生産協同組合に関心を持ってきた。そして22年前に生協を辞めて、脱労働力商品的働き方と生き方を模索してきたわけだが、2004年来「賢治とモリスの館」に通い出し、2005年に出版された大内秀明『恐慌論の形成』(社会評論社)を読んで以降、宇野派を自称するようになった。そして宇野弘蔵をはじめ、大内力、大内秀明、鎌倉孝夫らの先生たちが唱える「労働力商品の止揚」とはいかなるもので、いかにしてそれをすすめるのかを無い頭で考えてきた。そしてこれは、ただ考えればいいという問題ではなくて、新自由主義によって格差の底辺に押しやられる圧倒的多数の労働者や社会的弱者が、公平に職を得て搾取なく働けるようになるためには、さらには資本主義を変えるためには、宇野理論に基づく「労働力商品の止揚」と「アソシエーションの形成」、道はここにしかないと確信するところ。最初に書いたように、①「資本主義のオルタナティブ」を構想し、②「労働力商品の止揚」の在り様を実践的に模索し、③それを現実の「脱労働力商品(アソシエーショニスト)的働き方」や、④「アソシエーションやコミュニティの形成」につなげることが必要だと、前回お話したように、昨秋に宇野理論と社会的実践活動を媒介するワーカーズ・コレクティブ「アソシエーションだるま舎」を立ち上げた。そして今春そこからの初出版として、「反貧困・反差別」をテーマにした瀬戸大作『この暗黒社会に光を』と、大内秀明『甦るマルクス』を刊行する。また、この福留さんの「人新世時代の社会主義」も本にしたいと考えている。

前述したように大内先生の「晩期3部作」の「2作目」は近々刊行予定。そして残る「3作目」は、大内兵衛『経済学五十年』(東大出版会)、宇野弘蔵『「資本論」五十年』(法政大学出版会1970)にならって、『宇野経済学七十年』もしくは、大内先生は今年で90歳になられるから、『大内秀明(おおうちしゅうめい)九十年』の書名にして、先生はまだまだお元気だけど、遺書を書くつもりで存分に語っていただいて、本にまとめたいと考えている。これが私のもうひとつの初夢で、これはいい夢だと自賛中。オミクロン株の急激な拡大が気になるけど、三度目のワクチン接種とPCR検査を受けたら、仙台にうかがいますので、よろしくです。
当初私は、このゼミで「アソシエーションの形成によるオルタナティブな地域社会づくりへ」を予定していたけど、未だそこに行けない。来年は仙台・羅須地人協会創設20周年になるだろうから、そこに向けていっしょに考えて行きたい。来年の初夢に向けて、これもよろしくです。

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2022年1月 7日 (金)

大田英昭『日本社会主義思想史序説』

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facebookをやるようになってから、ブログを書かなくなった。しかし、facebookで過去の書き込みを探すのは難しく、結局は埋もれてしますので、残しておきたいログはここに再生させることにした。探し出した順に載せるので、日付的には順不同だが、私的にはタイトルでカテゴリー分けをするから、facebookよりは検索やすいだろうと思うわけ。

2021年12月4日 ·
大田英昭『日本社会主義思想史序説』(日本評論社2021.11.30)を読了。この本は、鄭玹汀さんが彼女のfacebook(11月24日)に、「木下尚江の思想について極めて精緻な分析が行われており、大変役に立ちました。これまでの社会主義研究を批判的に総括するとともに、近代日本の思想史をまったく新しい観点から捉え直したことに、本書の意義があると思います」と紹介され、本の副題には「明治国家への対抗構想」とあったから直ぐに購入した。要は、11月末に総選挙が終り、明治憲法への復古や、家族制度の維持や、嫌韓嫌中の排外主義や軍拡をあからさまに語る改憲勢力が国会の2/3を超えるその結末を見れば、いま対応が必要なのは、正にこの課題「明治国家への対抗構想」であるからだ。鄭玹汀さんが、本書を出版前に読まれているのを見ると、おそらく鄭玹汀さんは大田英昭氏から謹呈されたのであろう。前に大田英昭『日本社会民主主義の形成』(日本評論社2013)を読んだら、片山潜における労働組合と協同組合、総じて社会民主主義への先駆的取り組みと併せて、木下尚江への言及があり、「あとがき」には「草稿段階の博論について有益なご批評をいただいた東京大学の鄭玹汀氏」への謝辞があった。鄭玹汀さんの『天皇制国家と女性』(教文館2013)も同年の発売であるから、ふたりは研究仲間であったのであろうか。今回の『日本社会主義思想史序説』は、日本に於ける社会主義の受容を、東洋社会党の結成や、アメリカ帰りのクリスチャンによる社会主義思想の導入や、片山潜における労働運動や移民の実行、さらには堺利彦における家庭(小さな共同体)と非戦論の形成、そして木下尚江と田添鉄二における韓国やアジアにおける被圧迫民族との連帯に見ながら、それらに対する国家によるシフトと弾圧はその時代のことと言うよりは、現在においてなお同様な構造で反復再生することを問題提起している。大田英昭氏はまだ40代で、中国の大学で先生をしながらも、明治期の第一次資料に徹底的に当たる姿勢には驚かされる。アジアとの連携の中から、明治以降の日本の近代化が見直されるのは、とても重要なことであるだろう。だから『日本社会民主主義の形成』、『天皇制国家と女性』、『日本社会主義思想史序説』は、「明治国家への対抗構想」形成に向けて、多くの方に読まれることを願うわけだが、『日本社会民主主義の形成』はA5版600頁の大著で定価は6200円+税、鄭玹汀さんの『天皇制国家と女性』は同400頁で定価は4200円+税、『日本社会主義思想史序説』は同300頁で定価は4300円+税で、おそらくどれも初版は1000部程度であろうから、購入にはハードルが高い。だからこの3著の思想を多くの人たちに伝えるには、それぞれを要約した新書版くらいの本も書いてほしいところ、無理だろうか。『日本社会主義思想史序説』は「序説」だから、今後は本論が書かれるであろう。鄭玹汀さんの「木下尚江評伝」も書き進められていることだろう。しかし、それらを楽しみにする一方で、総選挙の結果を受けて、明治憲法への復古的改憲や、政治社会状況の戦前的翼賛化への反復は、怒涛のようにすすむ可能性がある。コロナのせいもあるけど、例年よりも静かな年末、果たして来年はいかなる年になるのか。今日は仙台・羅須地人協会のゼミがZOOMであって、ZOOMを開いたら大内秀明さんがいて、「平山君、本を頼むよ」と言われた。年明けには出版出来るよう、年内はこれに集中するする。

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2022年新春の読書

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2022年1月3日
今日で三が日も終わり、大晦日からの読む&飲むの4日間、3連敗したけど、今日は飲まずで、新年は、1勝2敗。読んだのは、年末に購入した西谷修『私たちはどんな世界を生きているか』(講談社現代新書2020.10)と藤井達夫『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』(集英社新書2021.11)。西谷修氏は、以前にM.ブランショ『明かしえぬ共同体』(ちくま文庫1997)を読んだ時にその翻訳者であったから、文学系の方なのかと思っていたわけだが、とても視野の広い方で、西洋の近代200年と日本の近代150年を重ね合わせてグローバルヒストリーを展開し、近代化の果てに新自由主義化した世界と日本の現状をきめ細かく解き明かす。とりわけ日本の場合、危機への対応が、世界の流れとは逆ドライブになっていることを大化の改新まで遡って解説していて、書名どおり「私たちはどんな世界を生きているか」を知るには好著であった。西谷修氏は、「選挙も政策という商品販売競争で、じつは各人の欲望をもとに市場原理で決定される。そして権力を手にした者は、選挙に勝ったことを根拠にしてそれを私物のように行使することができる、といった体制を生むことになります」と、政治の民営化にもふれるわけだが、このことをテーマに書かれているのが、藤井達夫氏の『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』である。両著に共通のキイワードは「新自由主義」であり、新自由主義を妄信して政治を私物化する愚かな政治の果てに、日本は社会の底が抜け、展望を描くことさえ困難になった時代の中で、最後に西谷修氏は以下のように書いている。

「国民が主の政治をせよと要求する人たちは、せいぜい20%ぐらいかもしれません」。「いますでに、システムによって周辺に吹き飛ばされた人びとが、民主主義に飽きたり、社会に興味を持てなくなったりしている。彼らはどうすればいいのだろうか。投票しない人が50%もいる。その人たちは・・・自分と世界との関係を内部観察して、対象化するようなことをしません」。「それが私たちの役目だと思っています。そういう人たちが日々あくせくして、そんなことなんか考えていられないところで、望まれても望まれなくても私たちはものを考える。ただしそれは近代の「啓蒙」ではない。万古不易の人間の考えるという営みです。そしてそれが多くの人の考えになって、少なくともいま問答無用で進んでいる濁流に堰を立てる。この「無思考化」の流れのなかに生きた思考を些かでも埋め込む。それが務めだと思っています」。「政治の場を確保する、生きる人間を生かすのが政治等々、現代に問われているのはそのことなのです」と。
私はこれに賛成で、西谷氏が意外とサルトル的なのに感心した。

一方、藤井達夫氏はこう書き出す。
「この国はいま、どんな状態にあるのだろうか。まず思い浮かぶのは、労働の不安定化による生活の安全の破壊、格差問題という名で偽装された貧困化、ポスト工業化社会に不適合となった社会保障制度の持続不可能性など、「社会問題」が噴出していることだ。この現状をさらに深刻にしているのは、近年、そうした「社会問題」が隠しがたいものとなっているにもかかわらず、政治が長期的な視野に立った抜本的な解決策を実施することはおろか、構想さえできていないことだ」と。そして、権力の私物化を禁じ、専制に対抗する民主主義として古代アテナイの民主主義について、「古代の民主主義と近代の民主主義の・・・最も重要な違いは、古代の民主主義がその理念を実現するためにクジを用いたのに対して、近代の民主主義は選挙でそれを実現しようとしてきた点にある」とする。ほかにも「メリトクラシーに依拠する中国モデル」や、「政策よりも政治リーダーのパーソナリティが重視され・・・選挙がアイドルの人気投票あるいは有権者のアイデンティティイの承認の機会になる」といった選挙の形骸化など「ポスト工業化社会の代表制度がポピュリズム化しやすいこと」等々、最後に「代議制度の改革は、現代の民主主義が直面する真の危機を克服するための、不可避にして喫緊の、そして何より実行可能な課題なのである」とある。私は代議制度の改革の要諦は、「くじ引きと輪番制」であると会得するとともに、前ログの年賀状に書いたように、昨秋に立ち上げたワーカーズ・コレクティブ「アソシエーションだるま舎」をくじ引きと輪番制で運営して、アソシエーションを広めることを今年の目標とするところ、今年もよろしくです。

 

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ブログ再開

  Photo_20220107103001      3年間のブランクがありましたが、ココログを再開したいと思います。まずは、3年前の初日記から。

2019年1月4日 ·
プライバシー設定: あなたの友達
一昨年に父が、昨年には義父が他界して正月なしがつづき、三が日は本読みと酒飲み。壇一雄『夕日と拳銃』上巻を読了するも活劇調に気が乗らず、下巻は読まずに新刊の小田中直樹『フランス現代史』(岩波新書)を読んだ。日本では憲政史上最悪の安倍政権に対しても批判の声はさして上がらない一方、フランスでは燃料の値上げ反対するイエローベストを着た民衆の決起が、マクロン政権打倒まで言い出した。フランスでは3年前に「立ち上がる夜」という「深夜の自由討論集会」みたいなムーブメントがあったわけだが、それと民衆決起はつながっているのか、興味深深であった。『フランス現代史』はフランス戦後史の概論で、フランス戦後史は「分裂と統合の弁証法」であったとして、その対抗軸は「上(資本家やエリート官僚)」対「下(労働者や農民)」であったものが、戦後の経済成長が滞るようになった1960年代のとりわけ五月革命を契機に、社会がかかえる諸問題を、集合的アイデンティティにもとづいて社会を「内」と「外」に区別することによって解決しようとする「アイデンティティ・ポリティクス」が登場し、1980年代をつうじて、フランス社会の分裂の対抗軸は「上か、下か」から「内か、外か」に移動していったという。フランスには戦後の経済成長期にかつての植民地であった北アフリカからのイスラム系移民が増え、成長期の終わった60年代以降は非移民系でも若者には失業者が増えたわけだが、そこでは非移民や移民を含む有職者が「内」であり、移民や非移民を含む失業者は「外」である。この分裂はフランス特有のものでなく、アメリカや近未来の日本もそうなるであろう。またフランスは、フランスの栄光をめざして欧州統合をすすめる一方、1981年には社会党のミッテランが大統領になり、共産党との連立内閣が誕生して、大企業の国有化と地方分権化と労働者参加をすすめる労働法の改正などがすすんだ。しかし、ミッテラン政権の課題は不況の克服であり、そのためには企業の生産性向上や国際競争力の強化が必要であったわけで、ミッテランの実験は失敗に終わった。(※この辺りの経験は、韓国の文在寅政権にも通じると思われる)。80年代以降、「内か、外か」という対抗軸にもとづくアイデンティティ・ポリティクスに立脚する国民戦線や緑の党が国策政党として登場し、90年代のフランスは、「上か、下か」、「右か、左か」、「内か、外か」、「親欧州か、反欧州か」という四つの対抗軸があるという。そして2007年に新自由主義を擁護するアメリカ好きのサルコジ政権が誕生し、サルコジ政権と国民戦線は、テロを口実に、移民・移民二世、アラブ系、イスラムを目に見える敵に設定してポピュリズムの政治を行い、マリーヌ・ルペン率いる国民戦線は大躍進した。そして2017年の大統領選挙は、社会党右派的なマクロンと国民戦線のルペンとの一騎打ちになって、マクロンが勝利したわけだが、第一次投票における国民戦線らの得票は4割を超えた。マクロンは新自由主義的な路線をとる中道派であるわけだが、中道化に対する不満は、とりわけ民衆層には大きいという。イエローベストを着た民衆の決起の背景は、そういうことなのであろうか。グローバリズムと新自由主義が世界を席巻する時代、それを信奉する政治家のやることや経済政策は、安倍政権も含めてどの国でも大して変わることはない。1%の「上」と99%の「下」の世界で、ポピュリストは「99%の下」の間隙をついて、その分断を図るだろう。フランスの労働組合は、80年代にはその組織率を10%前後まで低下させ、その一方で新しいナショナルセンターをつくる動きが始まり、1998年に「連帯労働組合連合」ができた。一方、80年代以降、貧困層や失業者を援助したり、移民を支援する自発的な運動、失業者やホームレスに食事を提供するボランティアによるレストラン、空家を占拠してホームレスに提供するスクワットが行われているという。昨今、日本でも同様な試みは行われている。春には統一地方選挙が、夏には参議院選挙があるから、なんとかして「下」&「外」をまとめて「内」も巻き込んで、安倍政権を打倒したい。正月のない今年の目標は、これくらいであろうか。年末から1週間飲みつづけ、今日やっと休肝日して、1勝3敗。今年も、よろしくです。

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