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2019年1月11日 (金)

労働と生産のレシプロシティ

Photo志村光太郎『労働と生産のレシプロシティ』(世界書院2018)を読んだ。「レシプロシティ」とは相互主義とか互恵主義のことで、本の内容は労働者自主生産をしている企業のフィールドワークと、その可能性についてである。フィールドワークの対象となったのは、全統一労働組合が主宰する「自主生産ネットワーク」に参加する12社の中から、オートバイ用品店のビックビート、給食用食材の仕入れ配送の城北食品、化粧品製造と販売のハイム化粧品の3社、みな株式会社だが営利至上主義ではない。3社とも会社の倒産争議を経て、その過程で全統一労働組合の分会がつくられ、全統一の指導で争議解決後は自主生産企業として再建された小企業である。自主生産企業として共通するのは、労働者と経営者が分離しておらず、査定のない平等な給料と合議による運営で、参加者の誰もが自社は自主生産企業であるというアイデンティティイを自覚しており、全統一労働組合、自主生産ネットワークに加盟する他社の労働者、さらには、地域住民などとの間での相互扶助を重視しているといったところであろうか。

日本には現在、こういった労働と生産に関わる社会的企業グループとしては、ワーカーズ・コレクティブ・ネットワーク・ジャパン(WVJ)と日本労働者協同組合(ワーカーズコープ)連合会(労協)、それに自主生産ネットワークがある。労働者自主管理(自主生産)は、必ずしも労働者協同組合の形態行われているわけではなく、また、自主生産は企業の倒産争議等を経て、労働組合が企業再建をしたものが多いが、労協はこのことを必須の条件とはしていない。そもそも「協同労働の協同組合」であるとする労協には、基本的に労働組合は存在せず、労協傘下の事業所における自主管理活動は、私物化とされるという。WVJと労協は、そのベースが協同組合であるが、自主生産ネットワークは協同組合ではなく、企業形態は株式会社であり労働組合があるわけだが、最も生産協同組合的な実態を持っている。近年、グローバリズムの跋扈と市場経済に抗するものとしての社会的連帯経済が模索され、その中核には協同組合が位置づけられるが、社会的連帯経済は既存の協同組合や共済組合が中心というよりは、広くは労働組合やNPO、NGO、コミュニティも重要な構成主体であり、とりわけ生産協同組合の内実を有する労働者自主生産企業の位置づけは決定的に重要であると私は考えるところ。

資本主義は労働の商品化を成立の要諦とするわけだが、志村光太郎氏によれば、20世紀以降の〈産業民主主義体制〉というのは、要約すれば以下のようになる。「〈産業民主主義体制〉という資本のヘゲモニーのもとで、労働者は自己を、非人間的労働力とその人格的所有者へと分裂させている。労働組合も基本的にシステムであり、労働者労働力化装置であり、労働者における労働力と人格の分裂を前提に、非人格的労働力をどこまで高く売るか団体交渉を行い、そのかぎりにおいて労働者の盾となっている。しかし、〈産業民主主義体制〉は1960年代後半以降、深刻な不況により経済成長が不可欠なフォーディズムのカルノーサイクルが機能しなくなり、現在は、それに代わりうる支配的なヘゲモニーが成立していない混迷期にある。一方、それに対して、労働者自主生産は、労働者が自己を労働力と人格に分裂させずに、労働することを可能ならしめた。これは、現代の支配的ヘゲモニーである〈産業民主主義体制〉とは異なる対抗的ヘゲモニーと位置づけることができるだろうし、規模は小さくとも、労働者自主生産を行っている労働者が、対抗的ヘゲモニーを形成しえている。その存在意義はけっして小さくないであろう」と。

日本の社会的連帯経済の議論の中で、労働運動は等閑視されがちであるのは、生協が拡大した一方、労働組合が衰退しているからでもあるわけだが、労働運動の役割と必要性がなくなったわけではない。上記にあるように、例え小さな試みであろうと、労働者自主生産は資本主義に対抗するヘゲモニーになりうるし、それとの連携なくしては、社会的連帯経済は資本主義への対抗的ヘゲモニーにはなりえないと、私は考えるわけである。志村光太郎氏は、フォーディズムともうひとつコーポラティズムが資本主義の根幹をなしているとする。コーポラティズムとは、システムが本来、公共空間に回送すべき問題を、自ら他のシステムとの妥協・調整によって処理してしまうことであり、団体交渉は本来ボランタリズム的公共空間であったが、コーポラティズム的デバイスになった時、形骸化した。対抗的ヘゲモニーは「熱い討議と熟慮ある選択」をとおして、自薦的に公共空間を獲得することによって拡大するわけだが、昨今の安倍政権は嘘と居直りで、自由な言論と言う公共空間を圧殺するが、日本ではそれに抗議することさえ少ない。日本における社会的連帯経済というものは、生協が拡大したとしてもそれによって成立するものではないだろう。老婆心を言えば、対抗的ヘゲモニーを持ち得ない限り、私はそれがコーポラティズムに収斂しかねないと危惧している。そして、労働者自主生産は自主生産を機能させうる公共空間をシステムに内包しているが故に、勢力は小さくても自由な行為主体として継続することが、社会的領域、公共空間への扉を開くことにつながるが故に、日本における社会的連帯経済には欠かせないとと思うわけである。

そして、志村光太郎氏は以下のように本書をまとめる。
「それぞれの労働者自主生産事業体、労働組合、NPO、NGO、コミュニティ、一般の企業さえもが、それぞれ基本的にシステムでありながら、広範囲に公共空間を内包することで、近代の村、同職集団のように、市民社会を形成している。それが、現代市民社会に代わりうる、新しい市民社会のイメージである。それぞれの成員が、一定の職業、地域、関心、価値観、あるいは目的などのもと、相互に認知できる固有のシンボルを分有し、情報交換、問題解決といった相互扶助を行う市民社会である。そこは、労働において労働力と人格を分裂させない、第三の道が聞かれている社会である。労働がすべてでない社会である。誰もが、フィクションに基づくのでなく、リアルに市民となりえる社会である」。「労働と生産の公共性を突きつめていけば、かならず労働者の互酬に行き着くはずだ」と。

昨年来、私は労働運動本を企画編集中なのであるけど、なぜ身銭を切ってでもそれを作りたいかといえば、70年代以降に私が体験した労働組合による自主生産の試みとその現在を、日本の社会的連帯経済づくりにつなげたいと思うからであり、そこに労働運動本には自主生産ネットワークの話を載せたかったわけだが、その中心人物の鳥井一平さんは外国人労働者問題の第一人者でもあって、その原稿を書いてもらうことになり、忙しい鳥井さんに二つの原稿は無理そうだから、自主生産ネットワークの話はさてどうしたものか、少しはそれを体験しているから志村光太郎『労働と生産のレシプロシティ』を読んで、コラム程度のものを自分で書くかと思ったわけだが、志村光太郎氏の緻密な論考に感心した私は、志村光太郎氏に原稿をお願いしてみようと鳥井さんに相談して志村光太郎氏に連絡すると、実に心よく引き受けていただけたのであった。本は『労働運送の昨日 今日 明日』の書名で、社会評論社から5月頃に出版の予定、よろしくです。

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