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2018年7月 2日 (月)

小野寺忠昭『地域ユニオン コラボレーション論』

400前回のブログ「社会的連帯経済と労働運動」に、私は「社会的連帯経済とは何か、それはもはや研究対象でもなければ理想でもない、かつてマルクスが書いたように、それは〈現実の運動〉である」と書いたわけだが、ではそれがどこで現実の運動になっているのかといえば、それは労働運動の場においてである。協同組合を持ち上げる社会的連帯経済の研究者からすれば、労働組合はもう時代遅れだということになるわけで、確かに工業社会をベースにしてきた労働組合は企業別組合も産業別組合も終わったか、終わらされた。その前兆は1970年代からあったわけだが、1980年代以降急激にすすんだ情報化、脱工業化、グローバル化、市場原理主義の新自由主義による規制緩和と労働組合つぶしによって、先進国の労働組合はどこも組織率を大きく低下させている。一方、併せてどの国でも倒産による失業者の増大、ホワイトカラーのリストラ、非正規労働者や外国人労働者の増加がすすんでいる。

では、それに対する抵抗や対案はなかったのかといえば、確かに総評解散後に、大半の組合は連合に行ってしまい、闘わない企業内組合としてますます存在理由を喪失させているわけだが、その一方には少数ながら、前述したように下町の中小企業や日本最大の労働組合であった国鉄労働組合中から、長年にわたる解雇争議を闘い抜き、新しい時代の労働運動を切り拓こうとする人々と運動は継続されている。自主生産闘争を仕切った東京地評オルグの小野寺忠昭氏は、こう書いている。
「総評の終わりは戦後労働運動の終焉でもあり、その労働運動家の絶滅でもあった。・・ だがしぶといオルグたちのある者は、1990代の終わり頃から、戦後労・資がネグレクトしてきた縁辺に、多様なユニオンを立ち上げ、従来の組合運動では、例えば総評時代においては全く手つかずたった外国人労働者、非正規労働者や中高年・管理職労働者を組織化していく。また反倒産の闘いで、ある者は自主生産を一歩進めて、経営活動そのものを労働運動側に引き寄せ始めている。総評亡き後、そうやってそれぞれが自立した一人オルグとして生き残ってきたのである。そこには大上段に振りかぶった労働運動家とは違った、新たなオルグ稼業と労働運動家へつながっていく運があった」と。(小野寺忠昭『地域ユニオン コラボレーション論』インパクト出版会2003、p111)

小野寺忠昭氏は、さらにこう書く。
「争議運動の自立。そこには逆境であっても普通の労働者だちの熟い仁義が育まれ、労働運動の気概があり夢があった。・・・ ここで見た夢はなかなか陽気な夢であったと思う。また、その運動理念(目的意識)は、それぞれ労働者の夢が一致し重なる部分が濃くなり、広がれば広がるほどに、労働者の自立した社会的ビジョンが創られるのではないか。そのような運動の堆積と広がりから共通する意識=労働者の未来社会像が創出されるのではないかと考える。その視点から社会運動を見直せば、生協、住民、市民、NPO、農民運動などによって創られたそれぞれの社会的ビジョンと重なり合う部分が多々あり、それらを今までに重ね合わせることができれば、すでに広範な社会的ネットワーク形成が可能であった」と。(前掲書p171)

また、カール・ポランニーに学んで、こうも書く。
「市場経済の虚構性を暴いたカール・ポランニーは、経済的という言葉の意味を、実体=実在的(サブスタンティブ)定義と形式的(フォーマル)定義の二つに厳密に区別した(『人間の経済』岩波書店)。ここで言う実在的とは、広義においては物質的手段における生産であり、狭義の意味では、生計維持的な機能、パンやミルクなどのことである。そして、労働組合はフォーマル経済(儲けを生み出す経済)の単なる反対制度であるばかりではなく、サブスタンティブ黄体)経済の体現者となり、その実在的経済=人間の経済の地球的規模での犬ネットワークの核になる可能性を持っているのである。かつてのテーゼとされた労働者、農民、中小業者、知識階級などの政治統一戦線の狭い意味ではなく、市場経済に対抗する社会的な統一戦線という意味を持っているのである。労働組合はフォーマルな経済の反対者であると同時に、新たな人間経済の対案や協同的価値(友愛)を創出することが必要な時代なのである。そしてこの時代、労働運動のこのようなモチーフの延長に、社会・国家再建のコンセプトがある。
結論づければ、労働組合にとって、長い歴史を通して形成してきたヒト生存のために、社会に埋め込まれてきた非市場的な民衆側の公共の秩序=社会防壁をぶっこわす側に立つのか、ヒト社会再建の側に立つのか、その社会的意義が今まさに問われているのである。そして労働組合の新たな理念は、サブスタンティブ(実体)経済を担うさまざまな人々と共に、友愛による社会的な団結を再生する役割の一つを担っていくことであると考えられるのである」と。(前掲書p242)

最後に小野寺忠昭氏は、「組合は未来への贈与」と題してこう結論する。
「日本における民衆の大衆主義(ポピュリズム)には、村的共同体を起点とした協同的な生産主義が、さまざまな時代においても底流として流れてきたという結論を、筆者は主張したい。労働組合のコンセプトを制度論として再認識すれば、西欧的な組合主義が重要視しなかったもの、日本の民衆が普遍化してきた内側の生産主義に突き当たるのではないかと考える。これは近代社会の中においては二重の意味を持っていた。一方では過労死と言われるほどの仕事への隷属意識。もう一方では、大衆が作り出した、労をものともしない仕事への積極的な協同意識である。日本の労働組合にとって重要なことは、いわば労働者が制度化してきた生産主義=二重化されてきた意識をハッキリと内在化(認識)し、生産する労働組合論として積極的に取り人れることである。労働組合のポジティブな再認識によって、この生産する労働組合のコンセプトは、主体を抜きにした経営論とは全く違うのである。それは、ちまたに氾濫している俗論としての、経営=資本に従属した労働者の消極的な経営参加ではなく、自主生産運動に見られる労働者による積極的な経営運動であり、その運動が組合運動論として普遍化されることだと考える。同時にその運動論の延長線上に、企業内に限定化された従業員としての利己的なワークシェアリングではない、社会的な仕事の分かち合い運動が導かれるのではないか。そしてこの失業時代に、二つの課題を同時に行うことは、全く矛盾しないばかりか、積極的な意義があるのである」と。(前掲書p264)

下町の自主生産闘争は1970年代から始まった。1980年にICAモスクワ大会があって、そこでカナダのレイドロウ博士は生産協同組合と協同組合地域社会を提起したわけだが、下町の工場では自主生産と地域共闘の実践が、その前から始まっていたわけである。「レイドロウ報告」は、日本の協同組合にインパクトを与えたけど、真面目にそれを実践したのは生活クラブ生協くらいであっただろうか。生産協同組合の提起は、否定的にさえ受け取られていた。一方、自主生産闘争は東京総行動をもって地域共闘を広げ、やがて国鉄闘争に引き継がれ、いまなお生産する労働組合と、それを支えるコミュニティユニオンほかのネットワークといった新しい労働運動と地域社会づくりを模索しているのである。モンドラゴンを見に行くのもいいけど金はかかるし、足元にもモンドラゴンに劣らぬ実践はあるのである。小野寺忠昭『地域ユニオン コラボレーション論』は現在絶版であるので、ここにそのエッセンスを載せるところです。

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