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2018年7月18日 (水)

「34年前に提起された『社会連帯部門』」つづき

現在編集中の労働組合本に書く原稿を、思いつくたびにノートのつもりでブログにあっぷしているわけだが、fniftyのブログには解析機能があって、何が一番読まれたかなどが分るのである。それで見るとこの間の一番人気は、7月4日アップの「34年前に提起された『社会連帯部門』」で、この間首位をゆずらない。ならばサービスで少しつづきを書こうと、それに少し付け足したとこなう。

しかし社会党のこの「新宣言」は、発表されるや共産党や新左翼から「社会党の右転落」という批判をあび、社会党内左派の社会主義協会派も「新宣言」が党大会で決定された後も、その実行をネグレクトした。1989年の総選挙で土井社会党はフロックで大勝したものの、社会主義協会派が多数の執行部は「新宣言」を棚上げしたままで、その年にベルリンの壁が崩壊し、やがてソ連が崩壊すると、社会党は名称だけは社会民主党と変えたものの「新宣言」がめざした社会民主主義路線を実行することなく、実質解体した。まあ、よかったのはソ連崩壊の前に「階級闘争」と「プロレタリア独裁」を清算できたことであろうか。その後、左派と称した人たちが「階級闘争」と「プロレタリア独裁」をどう総括したのかはあまり聞かないけど、やがて「社会民主主義」や「協同社会」や「社会的連帯経済」が語られ、「連帯」という言葉が新発見のように語られるようになった。

私は新しい運動をすすめるには旧い運動の総括や反省も必要と思うわけで、例えば社会党の「新宣言」で言えば、その資本への「参加・介入」の中身は労線統一による連合の結成を前提にしていたところがあるわけで、小野寺忠昭氏はそういった参加論を、「経営の民主的改革と参加論は、組合の自主生産・管理と組み合わせができれば有効な戦術と思われる。だが労働組合の主体が企業と一体化している今日、経営の民主的改革や参加論は、労働者の排除と切り捨ての体のいい隠れ蓑でしかなかった。労働組合が問われるものは、主体の質、社会性と自立性である。労働者・労働組合の自立思想がなければ、全てがマイナスに帰する論理になってしまうのだ」(『地域ユニオン コラボレーション論』p167)と批判するわけだが、大内秀明氏もまた30年以上前に自らがまとめたその部分について、2018年に出版した『自然エネルギーのソーシャルデザイン』において、こう反省している。

「20世紀の「プロレタリア独裁」型中央集権・指令型のソ連・国家社会主義が1990年代に崩壊した。集権型計画経済の破綻である。さらに国家社会主義に対抗した西欧型社会民主主義の参加介入・同権化の潮流も、そもそも「福祉国家主義」とも言える性格を持ち、それが財政破綻の「ソブリン危機」など、既に行き詰まりをみせている結果も大きいだろう。近代国家の権力を暴力的に奪取する、あるいは議会主義による「参加・介入」による同権化も、要するに権力による集権的指令型の上からの計画化であり、そうした計画化の歴史的限界を克服する必要が高まっている」(『自然エネルギーのソーシャルデザイン』(p92)と。

ソ連型社会主義の崩壊以降、多くの社会主義者たちは社会主義を語らなくなり、新たにヨーロッパ型社会民主主義の周辺に「社会的連帯経済」を見つけ出して、またぞろそれを語りだしているように私には思える。そして先の大内秀明氏の反省は何かといえば、「新宣言」から30年、この間に1870年以降の「晩期マルクス」とフランス語版『資本論』、ならびにウィリアム・モリスの社会主義研究から新たに「共同体社会主義」を構想し、なおかつそれを大震災後の東北の復興の中で実践的に提起しているわけである。

大内秀明氏はこの間、地域にある再生エネルギーを活用した復興計画「広瀬川水系モデル」を提起して、東北大学を中心とする研究者を集めて研究会を行い、今年4月に大内秀明編『自然エネルギーのソーシャルデザイン――スマートコミュニティの水系モデル』(鹿島出版会2018.4)を出版して、広瀬川水系において小型水力発電による再生エネルギーを活用した「地域循環型社会」=「共同体社会」の再生を以下のように構想している。

「もともとスマートグリッド(次世代送電網)が、自然エネルギーの地域分散型ツーウェイ双方向性、さらにネットワーク循環型のメディア特性を特つ以上、エネルギーの地産地消、生産と消費の地場型産業構造、そして協働労働と社会的企業、それらをトータルにネットワーク化するメディアとして機能できるはずである。さらに加えて、もともと地域金融としての協同組合組織である「信用金庫」や「信用組合」による貨幣・金融の機能と結び付くことも十分に可能である。こうしたトータルなメディア機能こそ、スマートグリッドがさらに「スマートコミュニティ」を形成することになる点が重要である」。「共助・互酬の協働労働、非営利組織の社会的企業、そして地産地消の循環型組織・集団としてゲマインシャフト=共同体社会の再生、復活が要請されている」(『自然エネルギーのソーシャルデザイン』p65-6)。
「労働力・ヒトについても、賃労働から協働労働に転換し、地域共同体としてのコミュニティの復権が図られる。ビジネスについても、労働力の商品化が前提となった賃労働から協働労働への転換に対応してコミュニティ・ビジネスなど、社会的企業のイニシヤティヴを積極的に位置づけることになる」(前掲書p93)と。

 ここで大内秀明氏が構想していることは、いわば社会的連帯経済にも通じる内容なのであるが、その根拠を大内秀明氏は「賃労働から協働労働に転換し、地域共同体としてのコミュニティの復権」というふうに「共同体社会の再生」を位置づけるわけである。同書の共著者の半田正樹氏は、さらにこう書いている。
 「人々がその生活日常を、完結する地域社会において営むことをむしろ積極的に選びとろうとする傾向は、いわゆる共同体に対する社会意識ないし時代意識の変化を示すものにほかならない。それは端的には、例えば共同体を封建遺制とみなし、したがって否定ないし超克の対象と捉える視点から、むしろ近現代の様々な負の側面を相対化する契機をそなえ、人と自然との共生を実現し得る可能性を特つものとして、再生ないし、より積極的に創発(Emergence)すべき対象として捉える視点に転換したことを表している。言い換えれば共同体が、人類の歴史のある段階に特有のものとする見方から、人間社会にとって普遍的であり、したがって歴史貫通的な性格を持つものだとする見方に転換したことを意味する。しかも、日本の共同体は、その底流に自治の仕組み、それも自然と人間の自治という点に本質を特つ自治の仕組みを持続させてきた点は注目に値する。あくまでも人間社会の自治でしかないヨーロッパに生まれた自治とは差異化される性格を特つからであり、特に 大震災後に前景化している人と自然の共生としての地域循環型社会の創発にも大いに関わると思われるからである」(前掲書p187)と。

 柄谷行人は『柳田國男論』(インスクリプト2013)に、「〈外来思想〉とか〈土着思想〉とかがそれ自体あるわけではない。あるのは、いまだ抽象(内省)されたことのない生活的な思考と、それを抽象するかわりに別の概念にとび移った、つまり真の意味で《抽象》というものを知らない思考だけである」。「ひとはそれぞれ自分の固有の経験を照明することによってしか普遍的たりえない」と書くわけだが、半田正樹氏ら仙台宇野派の人たちは、「社会的連帯経済」とか「モンドラゴン」を意識することなく、そういうものを社会的連帯経済というよりも「共同体」として地域の歴史から位置づけて、さらにかつてそこに原発がつくられようとした時からそれに反対した人々と共に、女川原発の再稼動に反対する運動とあわせて、「地域循環型の女川町をめざして、原発のない町づくり」へと取り組みをすすめている。

社会的連帯経済とは何か、それは市場経済とどういう関係になるのか、社会的連帯経済の議論からはいまいち分らないのであるが、宇野派にとっては簡単である。「共同体と共同体の間に生まれた市場経済は、共同体経済を補足するものになるだろう」(前掲書p67)ということで、これは宇野経済学のテーゼである「共同体と共同体の間から商品はうまれた」をベ-スにしているわけだが、労働力商品によって商品が生み出されるのが資本主義であるなら、脱資本主義はその逆をやればいいということにつながるわけである。共同体を市場経済に浮かぶ島などと考えるんではなく、あちこちに脱労働力商品化をすすめる事業体による大小の共同体をつくればいいわけである。この発想はレイドロウの「協同組合地域社会」も同じで、かつてそれが提起された時に、それを批判した人たちは「またぞろ生産協同組合の亡霊が」と批判したものだが、ここでいう「共同体」も謂わば34年前の「社会党の新宣言」と同じで、その「新たな亡霊の復活」なのである。

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