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2018年4月30日 (月)

訪中記

Dscf3562b70歳を前にして忙しいというか、気忙しいというか、体調もいまいちで、今年になって初めてブログを書く。最近はfacebookばかしなわけだが、facebookに細切れに書いた話をまとめたところ。今月行った中国の訪中記です。

1.植樹
 4月19日から中国に行って来た。1998年、2000年、2015年につづく4回目の訪中で、今回は旧日本社会党系のじいさん達が2000年来行っている中国植樹旅行が、18回目にになる今回は延安に行くというので参加したところ。
 20年前に初めて中国に行った時もその近代化に驚いたものだが、近年はさらにそれにも増して物凄いスピードで道路、鉄道、空港、都市、住宅といったインフラの拡充がすすみ、どこに行っても外国車の見本市的にクルマがあふれ、ホテルの部屋ではPCとWi-Fiが利用でき、誰もがスマホで買物をするといった現代化もすすんでいた。しかし産業化がすすむ一方で、どの都市でもPM2.5などによる大気汚染はひどく、連日曇り空日ばかりで、大気汚染による視界不良による高速道路の通行止めにもでくわした。そんなこともあって、近年中国では全国土で植樹による美化がすすめられている。
 まあ、そんな背景もあったのか、1970年代には日本社会党友好訪中団に参加していた人たちが、社会党解体の後に「日中友好21の会」という会をつくって、20年前から中国の辺境部で植樹活動を始めると、それが中国政府(中国共産党対外連絡部)の協力を得られるようになった。中国には「水を飲む時には、井戸を掘った人のことを忘れてはならない」という諺があるけど、それもあるのか、スケジュールの前半は行く先々で歓迎のレセプションがあった。到着初日の夜は、河北省石家庄のホテルで中国全国政治協商会議外事委員会副主任(元北朝鮮大使)劉洪才氏の参加する宴席があった。
 4月20日は、今回の植樹場所の河北省行唐県東井底村という寒村で、いちじくの木の苗の植樹と地元の小学校を訪問して交歓を行い、それらの模様はテレビに取材され、団長の曽我祐次氏へのインタビューは翌日のテレビで全国放映されたのであった。その後飛行機で陝西省西安に移動して宿泊、4月21日は西安から少し離れた彬県に、8年前に植樹した八重桜のその後を見に行った。花は散っていたけど、植樹した八重桜は立派に成長していた。この旧日本社会党親中派系の人々による中国植樹企画に、曾我祐次氏とともに初期から関わった方に元日本社会党労働運動局長の笠原氏がおり、その死後、氏の遺志により笠原氏の遺骨はここに散骨されたわけだが、その後は兄の意志を継いだ弟の笠原忠夫氏が参加し続けている。
 彬県では彬県党委員会による宴席がもうけられ、彬県の知事に当たる方が「彬県では日本の長野県から苗木の協力を得てりんご(おうりんと紅玉)の生産が盛んで、りんごジュースやりんごジャムもつくっている。また彬県の酒は、中国の4大名酒のひとつです」とあいさつがあったから、交歓ついでに「いま日本では若い人の間でアップルシードルが人気になっているので、ぜひ彬県でも生産してみたら」と言うと、それはいい考えだとばかりの顔をされ、宴席後に知事さんは、バスの中まで見送りにきてくれたのであった。
 中国での公式スケジュールはここまでで終わり、スケジュールの後半は、中国文明発祥の地である黄河流域の高原を高速道路で延安に向かい、その後は謂わば観光となる。

2.延安
 4月21日14:00頃に彬県を出発したバスは、黄河文明を生み出した肥沃な高原を貫く高速道路を延々と走った。そこは大昔は海であったところが隆起してつくられたとう高原で、流れ出した水によってつくられたのであろうグランドキャニオンのような峡谷が台地を刻むわけだが、高速道路と高速鉄道は谷があれば橋をかけ、山があればトンネルを掘り、内陸部にも縦横につくられていた。しかも都市や空港や道路や鉄道といったインフラの整備は近年急速にすすんだというから、リーマンショックに際して提供された巨大な資金がそれらに使われたのであろうと思われた。このエリアでは、陝西省西安の共産党の方がガイドをしてくれたのであるが、彼は「西安は古くからシルクロードの入口でありましたが、現在は〈一帯一路〉の推進によって、さらに西に向かって道路や鉄道の拡張と周辺の開発をすすめており、西安空港は第5ターミナルまで拡張され、すでにドイツからの物質は西安から入ってくるようになり、そこから高速道路を使って配送されます」と語るのであった。その昔、国民党軍によって瑞金から追われた毛沢東&紅軍は、3年がかりの長征で延安へたどり着いたのであったが、今では西安から延安までは半日足らずで行けるのである。
 バスは、日の暮れる頃に延安に入った。むかし毛沢東の『矛盾論・実践論』やアーネスト・スメドレーの『中国紅軍は前進する』やエドガー・スノーの『アジアの戦争』を読んで、延安には「中国革命の聖地」という特別のイメージがあったわけだが、山間の谷間に高層マンションとドイツ製のクルマで大渋滞する延安の市街地を抜けて泊まったホテルは、新築でリゾートホテルのようであった。そして翌日訪れた「延安革命記念館」は5年前に大改築されたという大きな建物で、毛沢東の巨大な像が立ち、多くの人々が訪れていた。そして、2時間がかりで中国革命史の大パノラマを見て、そこが中国革命の「聖地」というか「原点」であったことがわかるのであった。今回の中国旅行での私の目論みは、延安からあらためて現在進行中の中国の社会主義市場経済を考えてみようということであり、やっと延安に来たかという感慨があった。
 蒋介石の国民党軍によって、江西省瑞金につくった革命エリアの中華ソヴィエト地区を追われた中国共産党&紅軍は、徒歩による1万2500kmの長征の後、1937年に陝西省延安に革命の根拠地を構えた。黄河流域のその一帯は土壌が肥沃で米も採れて自給自足が可能であり、毛沢東らはヤオトンと呼ばれる洞窟住居に住んだわけだが、山間のそこは空からも攻められにくく、毛沢東は自ら畑を耕し、そこに政府機能を構え、大学や各種学校をつくり、合作社と呼ばれる生産協同組合をつくり、10年近くにわたって延安に社会主義空間をつくった。
 毛沢東に会見したエドガー・スノーは、『アジアの戦争』にその印象をこう書いている。「頭髪は短く剪っていたし、いつものような一般兵士の制服を着ていた。そして依然として素朴な平凡人であり、貧民とインテリとの奇妙な混合、偉大な政治的賢明さと世俗的常識との異状な結合を示していた。その革命に対する楽天主義はゆるがぬままであった」と。政治権力をとる前の毛沢東には空想的社会主義者の面影があり、毛沢東は魯迅の弟で日本で武者小路実篤の「新しき村」を訪れた周作人からそういった話を聴いて共感したというから、延安につくった社会主義空間が自らの社会主義の原点的イメージとなり、やがて人民公社づくりにつながり、さらに大躍進にまでいったのかもしれない。
 しかし、社会主義とは何かと問うた時に、大別すれば、それは多数の生産協同組合(アソシエーション)から小社会主義空間(コミュニティ)の連合というプルードン的イメージと、生産手段を国家的所有としたソ連型社会主義のイメージがあって、一般的には後者が社会主義とされてきた。果たして、国家主義に統合されることのない小社会主義空間の連合は可能なのか、ソ連型社会主義のみならず、権力を取った後の毛沢東の社会主義も全国画一的な大躍進運動で小社会主義空間を壊してしまったし、現在の習近平政権も、経済成長を拡大し続けてチャイナ・イズ・ナンバーワンになることを国家目標にしている。

3.中国社会主義の可能性
 延安革命記念館を見学した後の昼食の場で、今回のツアーのガイドをしてくれた日本への留学経験のある若い共産党員の方に、「レーニンは『社会主義は電化プラス国有化』だと言いましたけど、中国の場合は『AIプラス共産党』ですか」と嫌味な質問をしたら、彼が「それは怖いですね、それではジョージ・オーウェルの『1984年』になってしまう」と言うから、「そんなこと言って大丈夫ですか」と訊くと、「『1984年』は中国のどこの本屋でも売っていますよ」と言うのであった。それから話は、「一帯一路」のことと中国主導の「パクスアシアーナ」の話題になったわけだが、彼は「中国はまだ遅れているし、一帯一路も難しいと思います」と言うのであった。謙遜ともとれるわけだが、彼が安易にことを考えているわけではないのが伝わった。
 さらに、彼とは「孔子学院」の話もした。「一帯一路」を主導することによって、遠からず中国は経済的にアメリカを追い抜くだろうが、中国がパクスアシアーナの盟主として世界に君臨できるかといえば、彼が「中国はまだ遅れている」と言うがごとく何かが足りない。そしてそれは、欧米的な価値観を超える価値観を中国が提起できるかということではあるまいかと、孔子学院の話をしたわけだが、彼には自信なげであった。
 西安のホテルに泊まった時、ホテルの庭に孔子の像と老子の像を見つけた。方や「忠孝」、方や「無為自然」の人で、対極的な思想である。そこで彼にその話をして、「孔子学院だけでなく、老子学院もつくったら。老子&荘子はタオと呼ばれて欧米ではけっこう人気があるよ」と言ったわけだが、彼は「うーん」と考えているのであった。「無為自然」の老荘思想では、壮大な「老荘記念館」や国家主義には似つかわしくないし、ともすればそれは国家権力への対抗思想として民衆反乱につながりかねない。しかし、現在の中国がかかえるの環境や格差問題なども、老荘思想のような文化を背景にしてこそ改善できるだろうし、それは世界にも受け入れられるだろうと思うところである。
 中国では、高速道路のSAやどの観光地でも、年配者も含めて、小額の買物もスマホで決済していた。情報化により共有経済をすすめて、巨大なAIを活用して市場を管理するという非市場経済的な方向をめざしているのだと思われる。中国に招かれて講演したジェミリー・リフキンは、『限界費用ゼロ社会』に「資本主義はその核心に矛盾を抱えている」と書き、それは競争とイノベーションの結果、限界費用がゼロになるところにあって、そのことは第三次産業革命によって急激にすすんでおり、その結果、大型化と中央集権型の企業経営は終焉して、共有経済と協働型コモンズにとって代わられると書いている。リフキンの言う「共有経済と協働型コモンズ」は、果たして中国がすすめている「共有経済と中国型社会主義」と同じものなのだろうか。
 アメリカが保護貿易に走り、中国が自由貿易を唱えるという時代に、ヨーロッパやアジアでは韓国が「社会的連帯経済」という謂わば社会民主主義を模索し出している。これは新たな市場を開発して経済を回してその波及効果でといった謂わば「一帯一路」的な政策ではないし、基礎的な規模はずっと小さなもので、非国家主義的でさえある。同時に欧米の政治状況には、市場経済に対抗的な謂わば社会主義的な主張が若者の指示を得出してもいる。先日、ソウル宣言の会から「GSEF2018ビルバオ大会」の案内が届いた。膨大な資金を投入してすすむ中国の社会主義的市場経済の一方で、デフォルト化の危機のすすむ南欧で模索される社会的連帯経済とは何か、かつて合作社づくりをすすめた中国で社会的連帯経済はいかに可能か、考えてみたい。
 4月22日は延安革命記念館と毛沢東らが住んだ洞窟住居のヤオトンなどを見学、4月23日は黄河の壷口にて大瀑布を、それから韓城に寄って司馬遷の墓詞を見学した。4月24日の帰国の日に北京空港に向かうバスの中で、訪中の感想をきかれたので、私は「毛沢東の『実践論』にある〈実践を通じて認識せよ〉は至極明言であるけど、凡人の私的には多くの日本人は現在の中国のことをほとんど知らないから〈百聞は一見にしかず〉が大切だと思う。今後の日中友好のためには、お互いの国をもっと知り合うことだ」と述べたところ。社会主義的に見れば、現在の中国はネップすなわち新経済政策期であり、それはソ連とはちがって100年単位になるであろうと思われるが、中国社会の成長と成熟は著しく、引きつづき中国社会主義の可能性を考えてみたい。

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