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2017年8月30日 (水)

「純粋資本主義論の構築」と「宇野弘蔵と宮澤賢治」

8月26日に、「仙台・羅須地人協会」主催の「資本論セミナー」に参加してきた。第3回目になる今回のテーマは、私的な理解では、大内秀明氏による「宇野弘蔵ならびに大内力氏の所説に関する疑問」の提起。テキストは、宇野弘蔵『資本論の経済学』(岩波新書1969)で、例えばそこの「労働力の商品化は・・本来は商品化すべきものではなかったものが、商品化するのであって資本主義はそれによって全生産過程を商品関係に入れるという、妙なことになっているのです」(p25)について、大内秀明氏は以下のようにコメントする。

「労働力は特殊性があるから商品ではないみたいなのはおかしい」、「商品形態や価値形態はもっと広く、労働力も含めるべきだ」。「単純商品史観から世界資本主義史観が生まれた」、「労働力や土地や自然、エネルギーも含めて商品とは何かを考えて、その上で価値法則を論じるべきではないか」と。思えば、宇野理論のあいまいなところを批判的に論じて、それをふまえて純粋資本主義論の構築を目されているようで、新たな純粋資本主義論による共同体社会主義の形成こそが、労働力商品の廃絶につながるものだと、私には思われたところ。

思うに、大内秀明氏は1964年に『価値論の形成』(東大学出版会1964)を出され、その41年後の2005年にはその続編となる『恐慌論の形成』』(日本評論社2015)を出されてたわけだが、ひょっとすると、さらに『純粋資本主義論の形成』を構想されているのではあるまいか。そう思ったのは宇野弘蔵の『資本論の経済学』(岩波新書1969)をテキストとする「資本論セミナー」で、大内秀明氏が『恐慌論の形成』にもふれたからであった。思えば、私の作並通いも正にこの二著によって始まったと言ってよい。

2005年10月15日に、私は以下のブログ「恐慌論の形成とコニュニティの形成」を書いたわけだが、それは大内秀明氏が書かれた『恐慌論の形成』(日本評論社)の書評であり、そこで私は「宇野弘蔵―大内力―大内秀明」の純粋資本主義論の系譜を知り、それを私のめざす「コニュニティの形成」につなげられないかと思ったものであった。
http://daruma3.cocolog-nifty.com/nh/2005/10/post_0053.html

そして、翌2006年8月12日に、私は以下のブログ「リカード派社会主義と宇野理論」を書き、そこで私は学生時代に読んだ宇野弘蔵の『資本論の経済学』を読み直して、そこから私は「脱労働力商品化によるコミュニティの形成」というシェーマを思いつき、それに対して大内秀明氏より丁寧なコメントをいただき、以降、毎年の作並通いを始めたわけである。
http://daruma3.cocolog-nifty.com/nh/2006/08/post_eef1.html

そして3年前に、大内秀明氏と共著で『土着社会主義の水脈を求めて』(社会評論社2014.11)という本を出したわけだが、それは私的には「脱労働力商品化によるコミュニティの形成」というテーマの序論みたいなものであった。そして、本論を書かねばと思っていたら、社会評論社の松田社長から「今度は上下巻の二分冊にして出しましょう」との話があり、今回の仙台行きにはその相談もあったわけである。

大内秀明氏は「資本論セミナー」のまとめを、宇野弘蔵の『資本論の経済学』のように新書版で出したい意向のようであった。そこで私は、「ならば共著本の分冊再販本には、ぜひ宇野派の楽屋落ち話も書いてください」と大内秀明氏に頼んだのであった。例えば、宇野弘蔵と向坂逸郎は『資本論』の理解をめぐって論争し、岩田弘と大内秀明氏は「世界資本主義論」VS「純粋資本主義論」をめぐって大論争をしたわけだが、実際の交友は実に友情に満ちたものであったという。ぜひ大内秀明氏の「宇野経済学五十年」を読みたいところである。

私の作並通いは、作並に「賢治とモリスの館」が出来た2004年に始まり、今年で13年になる。私が帰った次の日に「館」のリニューアルをやるということであったが、どう新しくなるのかが楽しみである一方、初めて「館」を訪れた時の異次元の感動が忘れられない。それは実際に、宮澤賢治の『注文の多い料理店』のように、それは森の中に突然現れたのであった。

ところで、大内秀明氏は今回の「資本論セミナー」を「宇野弘蔵と宮澤賢治」の話から始められた。宮澤賢治は1896年に生まれ、翌1897年に宇野弘蔵は生まれた。宮澤賢治が1921年1月に上京して本郷菊坂に下宿した同じ年に宇野弘蔵は東京大学を卒業し、宇野弘蔵が東北大学に赴任した1924年に、宮澤賢治は『春と修羅』と『注文の多い料理店』を出版し、宇野弘蔵が経済政策論を担当した1925年に宮澤賢治は仙台を訪れ、1926年に花巻農学校を退職した宮澤賢治は「羅須地人協会」を立ち上げている。直接の出会いはないにしても、同時代的なからみはあるだろう。

予定される分冊再販本での、私と大内秀明氏との共通のテーマは「宮澤賢治と産業組合」である。それを私は「柳田国男と宮澤賢治」の線から、大内秀明氏は「宇野弘蔵と宮澤賢治」の線から書こうとしているのかもしれない。果たして書けるか?

そしてもうひとつ、「資本論セミナー」の冒頭で大内秀明氏は吉本隆明の宮澤賢治論(『悲劇の解読』から)にふれて、以下を読んだ。
「宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』が、モリスの『ユートピアだより』の結構に倣ったのは明瞭だが『ユートピアだより』の「わたし」がテムズ川の流れに沿ってユートピア社会の現実を視察するのにたいして『銀河鉄道の夜』のジョバンニは岩手軽便鉄道の「心理学」的な幻想化である「銀河鉄道」によって、幻想のユートピアを旅する。この質の相違がきわめてよく宮沢賢治のユートピアと芸術とを象徴している」と。
このあたりは、私は天沢退二郎氏の『宮澤賢治の彼方へ』から学んで書くところである。

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