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2017年5月11日 (木)

労働社会と共同体&大内秀明氏からのメール

6.労働社会と共同体

最後にもうひとつ。一昨年の夏に、私はかつて幾多の労働争議を自主生産闘争で闘い抜き、24年間にわたる国鉄闘争をも勝ち抜いた元東京地評オルグの小野寺忠昭氏とその仲間を連れて仙台に行き、大内秀明氏から広瀬川水系を案内していただき、そのコミュニティ構想の説明を受けた。そして昨年の秋に、小野寺忠昭氏らの協力を得て、「変革のアソシエ」の講座として「新しい労働運動の構想――脱労働力商品化によるコミュニティの形成」という講座を立ち上げた。新しい共同体なり地域コミュニティなり社会的経済なりは、協同組合なり非営利企業なり社会的企業なりを中心にして構成されるとして、それが資本主義の全体性に絡め取られずにするための要諦は何かといえば、それはその核に労働運動としての生産協同組合を置くことであろうと思うわけだが、現在、協同組合や社会的連帯経済が語られる中で、労働組合や労働運動が語られることはほとんどない。労働組合に代わって協同組合や社会的連帯経済が広がっていけば、株式会社はそれらに取って代わられて協同社会になるみたいなレベルで語られるだけで、生産協同組合についても相変わらずの所有論的な位置づけのままで、労働力の商品化が問題にされることはない。

年内に出版予定の『自然エネルギーのソーシャルデザイン:スマートコミュニティの水系モデル』の第一部二章の「名取川・広瀬川水系「自然エネルギー・スマートコミュニティ構想・「構想」のスケルトン・フローチャート」には、以下のようにある。
1)自然再生エネルギーの選択と組み合わせ
2)地域産業構造の変革の視点
3)ライフスタイルの転換と新しい消費革命
4)「社会的企業」と新たなビジネスモデル
5)雇用労働から協働労働へ「働き方」を考え直す
6)新たな「コミュニティ」共同体の創出
7)ICTによるスマートグリッドの活用
私は、この内とりわけ「4)「社会的企業」と新たなビジネスモデル、5)雇用労働から協働労働へ「働き方」を考え直す、6)新たな「コミュニティ」共同体の創出」について、私は「脱労働力商品化」をキイワードに考えてみたいと思うわけだが、そこに必要なのは「脱労働力商品化」をめざす労働運動であると思うわけである。

昨年11月に立ち上げた講座「新しい労働運動の構想――脱労働力商品化によるコミュニティの形成」は、第1回目に小野寺忠昭氏から話をうかがい、小野寺忠昭氏は日本の労働組合運動を総括して、以下のように語った。
「日本の労働組合運動の重要な総括的ポイントは、企業内組合と一般的に言われてきたが、それは正解ではなく、職場労働組合として観ることを私は様々な機会を通じて主張してきた。労働運動の盛衰を貫いて、この職場労働組合を巡った労働・資本の攻防とその変容こそこの国の労働組合の戦後の在りようだったと私は結論付けている。総評解散以後この職場労働組合の時代は民営化戦略の下で国労が崩壊させられ国鉄争議をアンカーとして幕を閉じた。この職場労働組合にとって主流に変わったのが、日本的企業内組合であった」。「イギリスで生まれた労働組合は当初は未分化で労働組合も政党も協同組合も一緒の組織体であったと聞く。私流に解釈すれば、当初の組合は日本的労働社会と酷似したヒトとモノとコトであったと考える。言ってみれば働き人たちの生存協同体組織であった。・・労働組合は労働社会を土台に成り立つと考える」と。

かつて資本主義が成立する過程の中で、無産化した労働者の中から資本主義への対抗運動が起こり、それはロバート・オウエンのコミュニティづくりであったり、チャーティスト運動であったりするわけだが、その中から労働組合と協同組合が誕生した。28名の設立者の半数がオウエン主義者であったロッチデールの先駆者たちは、1844年にロッチデール公正先駆者組合を創って、その目的を「食料品、衣類等を売る店舗を設置する」こと以外に次のように宣言した。それは、「多数の住宅を建設または購入し・・・組合員の住居にあてる」ことであり、「失職した組合員に職を与えるため、物品の生産を始める」ことであり、「組合は若干の土地を購入し、失職した組合員にこれを耕作させる」ことであり、「実現が可能に なりしだい、本組合は生産、分配、教育および政治の力を備える。・・・自給自足の国内植民地を建設し、同様の植民地を創らんとする他の諸組合を援助する」ことであり、「禁酒ホテルを開く」ことであると。これを読むと、当初の先駆者たちの大きな目的に「失職した組合員に職を与えるための国内植民地(コミュニティ)の建設」があったことがわる。

しかし、ロッチデールの組合はやがて「利用割戻し」や「出資配当」といった功利主義的な運営によって成功への道を歩み始める一方、併設した生産協同組合を閉鎖し、協同社会建設の目的を放棄した。G・D・H・コールは、『イギリス労働運動史Ⅱ』に次のように書いている。「オーウェンの理念はなお或る程度人々の胸に懐かれていて、“協同主義共和国”は協同組合主義者の口に言葉として残っていた。しかしただ商業をするだけになってしまったこの運動の方法は、あまりによく節約と自助を説くヴィクトリア時代の支配的哲学に適合していたので、そのためそれ以前の一切のものが一掃されてしまった」と。要は、労働力が商品化されることによって資本主義はゆるぎないシステムとして成立し、その拡大の中で労働組合はより多くのパイを要求する運動に、協同組合は消費協同組合が中心になっていき、資本主義に対抗、修正するものとしては労働者政党がつくられて、それが担うようになったわけである。

コールはギルド社会主義を提起し、それはサンジカリズムと同じように「生産する労働運動」であり、若き宇野弘蔵はサンジカリズムに共感した。確かにサンジカリズムは運動的には敗北したが、それは単独で資本に立ち向かうからであり、その継続のためには生産と運動の核にある労働社会の形成と、それをもって成り立つコミュニティの形成が必要であろう。そして「脱商品化」とは、そのプロセスであると私には思われる。青木孝平氏は、労働力の商品化とは「あらゆる人間が、安く買って高く売る〈資本の人格化〉として現れざるをえない自我の病理現象を指していた」と言われるが、それは現世、資本主義社会では逃れようもないことというよりは、他者としての倫理、ともに働き生活する仲間への倫理をもって処方することができるであろう。自主生産闘争が勝ち抜けたのは、そういうものとしての労働社会を堅持しえたからであり、私はそういうものとしての、新しい労働運動「コミュニティ型の労働組合」を構想するところである。また、青木孝平氏はアソシエーショニズムを批判するが、それははコミュニタリズムの対立物というよりは、コミュニタリズムへ向かうプロセスであり、それもまた変化するであろう。

くり返せば、「脱労働力商品化」の実践とは、労働と政治闘争ではなく、労働と生活の一体化であり、そういうものとしての新しい共同体、地域コミュニティの形成のことである。資本主義はいつかは終わる、そして資本主義の終焉とともに労働力の商品化も終焉するのである。そしてそれまでの日々、人々は何をしたらいいのかといえば、宇野弘蔵的には「労働力商品化の南無阿弥陀仏」であり、それは労働の苦渋に耐えながらその日が来るのを念仏を唱えてひたすら待つというよりは、宮沢賢治的に労働を喜びに変える働き方と生き方をすればいいわけである。それが宮沢賢治の羅須地人協会であり、新しい共同体への入口であると思うところである。

※私は、「新しい協同組合の構想」として、新しい労働組合として構想する「コミュニティ労働組合」と一体的な「コミュニティ協同組合」を考え中だが、それについては別に論じたい。

7.大内秀明氏からのメール

※この間、大内秀明氏から以下のメールとご意見をいただきました。

>5月3日の大内秀明氏からのメール

小生、青木君のレジュメを読み、感想文を書いたので、貴兄からご紹介頂き、お役に立ったらと思います。我々の宣伝にもなればと愚考する次第です。
プリント配布も結構です。宜しく。

――戦後、宇野三段階論の提起で、「二人のマルクス」として議論が進みました――

 一人は、言うまでもなく初期マルクス・エンゲルスの唯物史観の若きマルクスです。この『経済学批判』までのマルクスは、科学的社会主義というより「社会主義的科学」で①科学とイデオロギー、②理論と実践、③歴史と論理の「弁証法的」統一だった。このマルクスでは、<外部の他者がいない>のは当然です。

 もう一人のマルクスがいる。57年恐慌でも革命は来ない、恐慌革命テーゼは破産、『剰余価値学説史』で古典派を勉強し直す、価値形態、貨幣の資本への転化、労働力商品化、そして本源的蓄積の見直し。『資本論』のマルクスの誕生です。しかし、「所有法則の転変」など、もう一人のマスクスが生き残った。

 宇野三段階論は、もう一人の『資本論』のマルクスを徹底させる。しかし、少し不十分な点が残り、とくに岩田理論の「世界資本主義論」の「流通浸透視角」への心情的譲歩があり、純粋資本主義の抽象が揺らぎ、宇野三段階論の崩壊をもたらした。『経済学批判』までの若きマルクスへの先祖返りで、これでは<外部の他者>は居なくなる。

 宇野の純粋資本主義の抽象は、<資本主義を閉じた円環体系として捉えることで、逆説的ではあるが、かえって「外部」に無限の可能性を秘めた「他者」の存在を示唆しているのではないか>YES!では、「外部の他者」から「内部の他者」の接点とは何か。宇野『資本論の経済学』などで示唆されているのは「経済法則」に対する「経済原則」だと思います。「経済原則」の認識こそ、資本主義の歴史性と所有論的な「コミュニズム」とは区別された『コミュニタリアニズム』=共同体社会主義への視角ではないのか?

 『資本論』以後の「もう一人のマルクス」も、1870年代を迎えて①パリ・コンミューンでエンゲルスのプロレタリア独裁論に距離を置き、②第一インターの分裂で組織責任を痛感し、モルガン『古代社会』を勉強し直す。さらに③ロシアのメンシェヴィキ、ザスーリチからの手紙への返事で『資本論』の「所有法則の転変」の修正を認める。さらに、④W・モリス、E・B・バックス共著『社会主義』の一人、バックスが1881年12月評論『現代思潮の指導者たち第23回カール・マルクス』を書いた。価値形態や労働力商品化の評価と共に、本源的蓄積と所有法則の転変へのコメントなど、マルクスはそれを「真正社会主義」とまで高く評価したまま83年に他界した。『資本論』以後のマルクスもまた、所有法則の転変に動揺と修正の必要を強く感じていた。
 
 「経済法則」の内部に基礎を置いた他者「経済原則」の目的意識的実現の主体形成こそ、コミュニタリアニズムではないか、どうでしょうか?    
                                              大内 秀明

>5月7日の大内秀明氏からのメール

小生から見ると、青木君の場合、経済法則が「経済原則」を実現する。「経済原則」を実現するから経済法則も成り立ち、純粋資本主義の抽象と原理論、つまり宇野三段階になる。ここが曖昧なようです。
 「経済原則」は単ある「外部」ではない、経済法則と接点がある。しかし「他者」として共同体社会で目的意識的に、組織的に実現する。内部と共に共通の基礎を持つ他者「経済原則」が無視されると「外部」の「他者」は単なる観念的世界に飛んで行ってしまうのではないか?
 実りある討論を期待します。宜しく。  

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