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2017年5月11日 (木)

労働社会と共同体&大内秀明氏からのメール

6.労働社会と共同体

最後にもうひとつ。一昨年の夏に、私はかつて幾多の労働争議を自主生産闘争で闘い抜き、24年間にわたる国鉄闘争をも勝ち抜いた元東京地評オルグの小野寺忠昭氏とその仲間を連れて仙台に行き、大内秀明氏から広瀬川水系を案内していただき、そのコミュニティ構想の説明を受けた。そして昨年の秋に、小野寺忠昭氏らの協力を得て、「変革のアソシエ」の講座として「新しい労働運動の構想――脱労働力商品化によるコミュニティの形成」という講座を立ち上げた。新しい共同体なり地域コミュニティなり社会的経済なりは、協同組合なり非営利企業なり社会的企業なりを中心にして構成されるとして、それが資本主義の全体性に絡め取られずにするための要諦は何かといえば、それはその核に労働運動としての生産協同組合を置くことであろうと思うわけだが、現在、協同組合や社会的連帯経済が語られる中で、労働組合や労働運動が語られることはほとんどない。労働組合に代わって協同組合や社会的連帯経済が広がっていけば、株式会社はそれらに取って代わられて協同社会になるみたいなレベルで語られるだけで、生産協同組合についても相変わらずの所有論的な位置づけのままで、労働力の商品化が問題にされることはない。

年内に出版予定の『自然エネルギーのソーシャルデザイン:スマートコミュニティの水系モデル』の第一部二章の「名取川・広瀬川水系「自然エネルギー・スマートコミュニティ構想・「構想」のスケルトン・フローチャート」には、以下のようにある。
1)自然再生エネルギーの選択と組み合わせ
2)地域産業構造の変革の視点
3)ライフスタイルの転換と新しい消費革命
4)「社会的企業」と新たなビジネスモデル
5)雇用労働から協働労働へ「働き方」を考え直す
6)新たな「コミュニティ」共同体の創出
7)ICTによるスマートグリッドの活用
私は、この内とりわけ「4)「社会的企業」と新たなビジネスモデル、5)雇用労働から協働労働へ「働き方」を考え直す、6)新たな「コミュニティ」共同体の創出」について、私は「脱労働力商品化」をキイワードに考えてみたいと思うわけだが、そこに必要なのは「脱労働力商品化」をめざす労働運動であると思うわけである。

昨年11月に立ち上げた講座「新しい労働運動の構想――脱労働力商品化によるコミュニティの形成」は、第1回目に小野寺忠昭氏から話をうかがい、小野寺忠昭氏は日本の労働組合運動を総括して、以下のように語った。
「日本の労働組合運動の重要な総括的ポイントは、企業内組合と一般的に言われてきたが、それは正解ではなく、職場労働組合として観ることを私は様々な機会を通じて主張してきた。労働運動の盛衰を貫いて、この職場労働組合を巡った労働・資本の攻防とその変容こそこの国の労働組合の戦後の在りようだったと私は結論付けている。総評解散以後この職場労働組合の時代は民営化戦略の下で国労が崩壊させられ国鉄争議をアンカーとして幕を閉じた。この職場労働組合にとって主流に変わったのが、日本的企業内組合であった」。「イギリスで生まれた労働組合は当初は未分化で労働組合も政党も協同組合も一緒の組織体であったと聞く。私流に解釈すれば、当初の組合は日本的労働社会と酷似したヒトとモノとコトであったと考える。言ってみれば働き人たちの生存協同体組織であった。・・労働組合は労働社会を土台に成り立つと考える」と。

かつて資本主義が成立する過程の中で、無産化した労働者の中から資本主義への対抗運動が起こり、それはロバート・オウエンのコミュニティづくりであったり、チャーティスト運動であったりするわけだが、その中から労働組合と協同組合が誕生した。28名の設立者の半数がオウエン主義者であったロッチデールの先駆者たちは、1844年にロッチデール公正先駆者組合を創って、その目的を「食料品、衣類等を売る店舗を設置する」こと以外に次のように宣言した。それは、「多数の住宅を建設または購入し・・・組合員の住居にあてる」ことであり、「失職した組合員に職を与えるため、物品の生産を始める」ことであり、「組合は若干の土地を購入し、失職した組合員にこれを耕作させる」ことであり、「実現が可能に なりしだい、本組合は生産、分配、教育および政治の力を備える。・・・自給自足の国内植民地を建設し、同様の植民地を創らんとする他の諸組合を援助する」ことであり、「禁酒ホテルを開く」ことであると。これを読むと、当初の先駆者たちの大きな目的に「失職した組合員に職を与えるための国内植民地(コミュニティ)の建設」があったことがわる。

しかし、ロッチデールの組合はやがて「利用割戻し」や「出資配当」といった功利主義的な運営によって成功への道を歩み始める一方、併設した生産協同組合を閉鎖し、協同社会建設の目的を放棄した。G・D・H・コールは、『イギリス労働運動史Ⅱ』に次のように書いている。「オーウェンの理念はなお或る程度人々の胸に懐かれていて、“協同主義共和国”は協同組合主義者の口に言葉として残っていた。しかしただ商業をするだけになってしまったこの運動の方法は、あまりによく節約と自助を説くヴィクトリア時代の支配的哲学に適合していたので、そのためそれ以前の一切のものが一掃されてしまった」と。要は、労働力が商品化されることによって資本主義はゆるぎないシステムとして成立し、その拡大の中で労働組合はより多くのパイを要求する運動に、協同組合は消費協同組合が中心になっていき、資本主義に対抗、修正するものとしては労働者政党がつくられて、それが担うようになったわけである。

コールはギルド社会主義を提起し、それはサンジカリズムと同じように「生産する労働運動」であり、若き宇野弘蔵はサンジカリズムに共感した。確かにサンジカリズムは運動的には敗北したが、それは単独で資本に立ち向かうからであり、その継続のためには生産と運動の核にある労働社会の形成と、それをもって成り立つコミュニティの形成が必要であろう。そして「脱商品化」とは、そのプロセスであると私には思われる。青木孝平氏は、労働力の商品化とは「あらゆる人間が、安く買って高く売る〈資本の人格化〉として現れざるをえない自我の病理現象を指していた」と言われるが、それは現世、資本主義社会では逃れようもないことというよりは、他者としての倫理、ともに働き生活する仲間への倫理をもって処方することができるであろう。自主生産闘争が勝ち抜けたのは、そういうものとしての労働社会を堅持しえたからであり、私はそういうものとしての、新しい労働運動「コミュニティ型の労働組合」を構想するところである。また、青木孝平氏はアソシエーショニズムを批判するが、それははコミュニタリズムの対立物というよりは、コミュニタリズムへ向かうプロセスであり、それもまた変化するであろう。

くり返せば、「脱労働力商品化」の実践とは、労働と政治闘争ではなく、労働と生活の一体化であり、そういうものとしての新しい共同体、地域コミュニティの形成のことである。資本主義はいつかは終わる、そして資本主義の終焉とともに労働力の商品化も終焉するのである。そしてそれまでの日々、人々は何をしたらいいのかといえば、宇野弘蔵的には「労働力商品化の南無阿弥陀仏」であり、それは労働の苦渋に耐えながらその日が来るのを念仏を唱えてひたすら待つというよりは、宮沢賢治的に労働を喜びに変える働き方と生き方をすればいいわけである。それが宮沢賢治の羅須地人協会であり、新しい共同体への入口であると思うところである。

※私は、「新しい協同組合の構想」として、新しい労働組合として構想する「コミュニティ労働組合」と一体的な「コミュニティ協同組合」を考え中だが、それについては別に論じたい。

7.大内秀明氏からのメール

※この間、大内秀明氏から以下のメールとご意見をいただきました。

>5月3日の大内秀明氏からのメール

小生、青木君のレジュメを読み、感想文を書いたので、貴兄からご紹介頂き、お役に立ったらと思います。我々の宣伝にもなればと愚考する次第です。
プリント配布も結構です。宜しく。

――戦後、宇野三段階論の提起で、「二人のマルクス」として議論が進みました――

 一人は、言うまでもなく初期マルクス・エンゲルスの唯物史観の若きマルクスです。この『経済学批判』までのマルクスは、科学的社会主義というより「社会主義的科学」で①科学とイデオロギー、②理論と実践、③歴史と論理の「弁証法的」統一だった。このマルクスでは、<外部の他者がいない>のは当然です。

 もう一人のマルクスがいる。57年恐慌でも革命は来ない、恐慌革命テーゼは破産、『剰余価値学説史』で古典派を勉強し直す、価値形態、貨幣の資本への転化、労働力商品化、そして本源的蓄積の見直し。『資本論』のマルクスの誕生です。しかし、「所有法則の転変」など、もう一人のマスクスが生き残った。

 宇野三段階論は、もう一人の『資本論』のマルクスを徹底させる。しかし、少し不十分な点が残り、とくに岩田理論の「世界資本主義論」の「流通浸透視角」への心情的譲歩があり、純粋資本主義の抽象が揺らぎ、宇野三段階論の崩壊をもたらした。『経済学批判』までの若きマルクスへの先祖返りで、これでは<外部の他者>は居なくなる。

 宇野の純粋資本主義の抽象は、<資本主義を閉じた円環体系として捉えることで、逆説的ではあるが、かえって「外部」に無限の可能性を秘めた「他者」の存在を示唆しているのではないか>YES!では、「外部の他者」から「内部の他者」の接点とは何か。宇野『資本論の経済学』などで示唆されているのは「経済法則」に対する「経済原則」だと思います。「経済原則」の認識こそ、資本主義の歴史性と所有論的な「コミュニズム」とは区別された『コミュニタリアニズム』=共同体社会主義への視角ではないのか?

 『資本論』以後の「もう一人のマルクス」も、1870年代を迎えて①パリ・コンミューンでエンゲルスのプロレタリア独裁論に距離を置き、②第一インターの分裂で組織責任を痛感し、モルガン『古代社会』を勉強し直す。さらに③ロシアのメンシェヴィキ、ザスーリチからの手紙への返事で『資本論』の「所有法則の転変」の修正を認める。さらに、④W・モリス、E・B・バックス共著『社会主義』の一人、バックスが1881年12月評論『現代思潮の指導者たち第23回カール・マルクス』を書いた。価値形態や労働力商品化の評価と共に、本源的蓄積と所有法則の転変へのコメントなど、マルクスはそれを「真正社会主義」とまで高く評価したまま83年に他界した。『資本論』以後のマルクスもまた、所有法則の転変に動揺と修正の必要を強く感じていた。
 
 「経済法則」の内部に基礎を置いた他者「経済原則」の目的意識的実現の主体形成こそ、コミュニタリアニズムではないか、どうでしょうか?    
                                              大内 秀明

>5月7日の大内秀明氏からのメール

小生から見ると、青木君の場合、経済法則が「経済原則」を実現する。「経済原則」を実現するから経済法則も成り立ち、純粋資本主義の抽象と原理論、つまり宇野三段階になる。ここが曖昧なようです。
 「経済原則」は単ある「外部」ではない、経済法則と接点がある。しかし「他者」として共同体社会で目的意識的に、組織的に実現する。内部と共に共通の基礎を持つ他者「経済原則」が無視されると「外部」の「他者」は単なる観念的世界に飛んで行ってしまうのではないか?
 実りある討論を期待します。宜しく。  

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2017年5月10日 (水)

柳田国男と宮沢賢治と産業組合+宇野弘蔵

5.柳田国男と宮沢賢治と産業組合+宇野弘蔵

先日、大内秀明氏から「宮沢賢治『ポラーノの広場』の産業組合――羅須地人協会とイーハト―ヴォ」の原稿が送られてきてた。ふたりで「宮沢賢治と産業組合」を語り合っているわけだが、以下は私の「宮沢賢治と産業組合」論のメモ。

柳田国男の代表作の『遠野物語』は、柳田国男が遠野出身の佐々木喜善からの語り聞きをまとめたもので、遠野といえば宮沢賢治の時代には花巻から軽便鉄道が通って、そこは宮沢賢治の童話の世界にもなっている所で、柳田国男と宮沢賢治はその世界を同じくしているし、「ざしき童子」と「ザシキワラシ」の同じような話も書いているし、後に佐々木喜善は宮沢賢治を訪ねて語り合いをしているおり、天沢退二郎氏は『現代思想』2012年10月臨時増刊号に、「『遠野物語』の魅力の根源は・・宮沢賢治の童話などと共通の、非人称的な〈物語〉なるものの力によって支えられているのである。・・「ざしき童子」と「ザシキワラシ」の場合は稀にみる急接近だとしても)・・『遠野物語』のいたるところに〈宮沢賢治〉がいるし、賢治テクストのいたるところに『遠野物語』があるのだ・・」と。

そして、柳田国男と宮沢賢治のふたりの共通項には「遠野の世界」のほかに、もうひとつ「産業組合」があり、その扱われ方がある。幼い頃に飢餓を体験した柳田国男は、大学で農政学を学び、卒論には「社稷」の話を書き、農商務省に奉職すると1902年に『最新産業組合通解』を書き、産業組合の普及に力を入れた。柳田国男が『遠野物語』を書くのは1910年のことである。一方、宮沢賢治は『春と修羅』と『注文の多い料理店』を自費出版した1924年に「産業組合青年会」の詩を書き、1926年に花巻農学校を退職すると、同年6月に『農民芸術概論要綱』を書き、8月には「羅須地人協会」を立ち上げた。そして青年たちが力を合わせて産業組合を立ち上げる『ポラーノの広場』を書き、死ぬ間際には遺書のように「産業組合青年会」の詩を詩誌に送っている。

柳田国男と宮沢賢治の共通項としての産業組合といっても、それぞれにおける産業組合への取り組みの流れはちがう。若き松岡国男は「文学界」の同人になり抒情詩を書いたわけだが、自然主義を批判して、田山花袋や島崎藤村と決別し、やがて『遠野物語』を書いた。柳田国男は貧しい農民を救済すべく各地を回って産業組合の普及を説いたのであるが、土着の現実にも突き当たったであろうと思われる。そして山人を知り、「国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と序に書いて『遠野物語』を自費出版した。そして、西洋の自然主義にあこがれる田山花袋に、「君には僕の心持は解るまい」、「君には批評する資格がない」とさえ言ったそうである。

天沢退二郎氏が書くように『遠野物語』は反自然主義の物語であり、日本の近代化と近代文学を批判して、その後の柳田国男は民俗学に向かう。一方、宮沢賢治は柳田国男よりも21歳若く、盛岡中学時代から同校の10年先輩の石川啄木の影響を受けて短歌を作るようになり、盛岡高等農林学校では同人誌をやり、やがて法華経を読んで救済の道を志すようになり、童話を書くようになった。実家の仕事を嫌い、東京への憧れもあったが、妹トシの死を契機に日本近代文学では前人未到の作品行為をなし、やがて教員を辞めて新たな理想に生きようとして羅須地人協会を立ち上げた。宮沢賢治の構想した羅須地人協会をは、系統に組織された組合というよりは、イーハトーヴォにつながる「語りえぬ組合」であったと私には思われる。

柳田国男は抒情詩を捨て、産業組合の普及仕事から『遠野物語』を自費出版する道を歩み出し、宮沢賢治は『春と修羅』と『注文の多い料理店』を自費出版した後に産業組合に心寄せた。だから、これは反対の歩み方かといえば、そうではない。柳田国男が田山花袋に「君には僕の心持は解るまい」と言い、天沢退二郎氏が「賢治における〈書くこと〉のプライヴェートな射程が、ついにひとりの真の標的・真の読者の影もないまま終始した――まさにそのことの意識の中でかれの詩作品・詩作行為が進行した徹底的な事情にこそ、宮澤賢治の孤独が存するのである」と書くのと同じように、宮沢賢治の産業組合に寄せる心持を理解しようとする人は少ない。「羅須地人協会の〈羅須〉とはどういう意味か」という問いを人々はするけど、宮沢賢治はあえてそれを意味のない「語りえぬ組合」としたわけである。

東北大学に奉職して農村共同体のことを研究した学者に中村吉治がいる。中村吉治のことも大内先生から「唯物史観じゃない共同体学者なら中村吉治さんがいるよ」と教えられたわけだが、大内先生が東北大学に奉職された時に中村吉治さんがいて、お互い宇野弘蔵つながりということで懇意にしていただいたという。要は、中村吉治も東北大学に奉職した時に、宇野弘蔵がいて大いに啓発されたということであるが、中村吉治には同郷の学者仲間に有賀喜左衛門という学者がいて、ふたりとも南信州の伊那谷の出身なのだが、松岡国男は飯田の柳田家の養子になったから、伊那谷つながりで有賀喜左衛門は柳田国男の弟子になり、その関係で中村吉治も柳田国男とつながっていたのであった。というわけで、柳田国男と宇野弘蔵から啓発を受けて共同体論をやった中村吉治は、『武士の歴史』(岩波新書1967)にこう書いている。

「私自身、今まで封建概念につして、ずいぶん考えもし、書きもしてきている。これからも書くだろう。そして比較史的に、世界史的に意味かあるとすれば、日本の歴史の事実を明らかにすることが大切だという考えかたから、目本の歴史事実の究明につとめ、目本における封建概念を考えようとしている。だから、西欧の封建概念に対して、それに対応するような現象を、しかも断片的に、ひろしだして、日本の封建制を云々するような安易な方法がとられていることに、反撥を感じているのである。封建的土地所有とか、封建的村落共同体とか、封建的小農民とか、面倒なところは封建的という形容詞一つつければすんでしまうというやりかたが多すぎると私は感じている」と。

昨今の「社会的連帯経済」という言葉にも、私は中村吉治に近い感慨を持つ。「これからは社会主義ではなくて社会的経済だ、カール・マルクスよりもカール・ポラニーだ」ということになると、みんなイタリアとかスペインのバスクとかカナダのトロントに出かけて行き、「向こうでは〈社会的経済〉ではなくて〈社会的連帯経済〉と言っている」とかの話になるのである。私は日本の東北に行く方が安上がりだし(※私の最近の仙台通いは片道3100円の高速バスで行って1泊2500円のゲストハウスに泊まる)、勉強になると思うのだが、貧乏人のヒガミだろうか。

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現状分析と「語りえぬ共同体」への道

4.現状分析と「語りえぬ共同体への道」

上記は何を言いたかったのかと言うと、宮澤賢治の作品行為と羅須地人協会の関係は、そのどちらかが否定されるべきものというよりは、それはブランショで言えば『文学空間』、書くことと『明かしえぬ共同体』、1968年のパリ五月革命への参加との関係にアナロジーするらば、問題は、「共同体が現れるのは、いかなる〈他者〉によるのか」ということになる。ホロコースト体験がなかったらレヴィナスの思想も生まれなかったであろうし、このアナロジーは成立する。「無辜の現前」とは何か、以下、暴論を試みる。

さて、松田社長に今日の私のコメントのテーマを伝えた後、4月30日に松田社長から「平山さんの現代資本主義観を問題提起されたらどうでしょうか」とのメールがあったので、少しは経済学みたいなことにも触れなくてはと思うところだけど、私は2004年に大内秀明氏が作並に「賢治とモリスの館」をつくられて以来、大内先生から宇野経済学の薀蓄を聞きくために毎年そこに通いながらも、大内先生がびっくりするほど経済学の覚えが悪く、少し乱暴に問題提起をします。

最近、伊藤誠『資本主義の限界とオルタナティブ』(岩波書店2017)と進藤栄一『アメリカ帝国の終焉』(講談社現代新書2017)の2冊の新刊書を読んだ。そしたら4月30日の朝日新聞の書評に進藤栄一『アメリカ帝国の終焉』が取り上げられていて、進藤栄一氏が言わんとしているのは「我々がいま目にしているのは『資本主義の終焉』などではなく、欧米からアジアに資本主義の中心軸が移動する歴史的大転換だというのが、本書の中核的主張だ」ということで、この「まだ資本主義は終焉しない」論は、論拠は異なるけど、青木孝平氏の『「他者」の倫理学』でもそうであり、それを評価する佐藤優氏も、「どれだけ閉塞状況に陥っているとはいえ、予見される未来に資本主義に代わる新たなシステムが到来することは考えられない」(『資本主義の極意』NHK出版新書2015)と書いている。

一方、伊藤誠氏は『資本主義の限界とオルタナティブ』にこう書いている。
「新自由主義は、たしかに理念としては社会民主主義的福祉国家やケインズ主義にくらべて整合的で首尾一貫しているように見えるものの、現実的には、理論的には拒否してきたケインズ主義的な財政・金融政策を緊急経済対策として、反復されるバブルとその崩壊の過程で、不断に、不整合に強力に動員し続ける、まさに矛盾にみちた、しかも目的としている合理的で効率的経済秩序を達成しえない政策体系といわなければならない。・・・なぜこうなるのか。そこには、市場取引の自由を基本イデオロギーとして、社会的諸規制から解放されたはずの新自由主義的体制のもとで、もともと労働力を商品化してあつかい、自然資源や環境を営利活動の手段として利用するほかないという資本主義経済に内在する矛盾の本質に深くかかわる限界が、経済政策の理念と現実の乖離として現代的に鋭く露呈しているともいえるのではなかろうか」と。
さらに、進藤栄一氏は「『資本主義の終焉』論は神話である」とするわけだが、それを書いた水野和夫氏の『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書2014)ほかは大きな評判になっており、それについて大内秀明氏は、前に以下のコメントを送ってきてくれた。
「利潤率ゼロ、ゼロ成長は、stationary state として、リカードやマルサスの時代から論争のテーマでした。資本主義が行き詰ると必ず論じられてきた。内部的には非正規雇用の拡大とか、周縁や半周縁の利用もそうですが、政治を利用して戦争、それも熱戦だけでなく冷戦も利用する。原子力で破壊しながら利殖を続けるのが資本主義の金権体質、対抗的にはstationary state の理想郷を説得的に描き切ることでしょうね」と。

と言うことで、私の問題提起は「果たして資本主義は終焉するのだろうか、ポスト資本主義はあるのだろうか」となるわけだが、私の見立ては青木孝平氏や佐藤優氏と同じでというかそこから学んで、「資本主義は〈ヨーロッパの低温化→羊毛需要の増加→エンクロージャー・ムーブメント〉という資本の本源的蓄積過程から偶然に生まれたものなので、偶然に生まれたものはまた偶然に終わる。だから資本主義はいつかは終わるだろう」ということになる。一方、私が青木孝平氏や佐藤優氏と異なるのは、現状の資本主義を放置したままにすることはできないということで、これがそもそも私の『「他者」の倫理学』批判のきっかけであった。青木孝平氏は、「資本主義の超克は・・いかに迂遠に見えようとも、それは自我への妄執の無根拠性を根源的に暴露することによってしか方向づけることはできないであろう。それ故その実践は・・〈自己〉を不断に審問し続けること意外にないのである」と書くわけだが、「〈自己〉を不断に審問し続けること」とは、私的にはそれが宇野経済学でいう現状分析ではないのかと思うところ。

2年前に鎌倉孝夫氏が『帝国主義支配を平和だという倒錯――新自由主義の破綻と国家の危機』(社会評論社2015)という本を出された時に、大内秀明氏に「鎌倉先生は相変わらずお元気ですね」と言うと、大内秀明氏は「ああいうのはアジビラと言うのだよ、宇野派の本当の現状分析というのは、いま私たちがやろうとしていることだ」と言って、仙台・羅須地人協会が取り組み始めた「スマート・コミュニティ構想」の話をされた。仙台・羅須地人協会というのは、3.11東日本大震災の後、「文明の転換による東北の復興」をかかげて大内秀明氏らが立ち上げた自由学校みたいな団体で、「スマート・コミュニティ構想」というのは、自然エネルギーによる地域循環型社会づくりのソーシャルデザインで、仙台宇野派を中心に東北大学工学部の先生たちの協力を得てまとめられ、年内くらいに『自然エネルギーのソーシャルデザイン:スマートコミュニティの水系モデル』といった書名で鹿島出版会から出版される予定である。

ソ連型社会主義の崩壊以来、社会主義は語られなくなり、代わりに協同組合やアソシエーションや社会的経済といったことが流行りだした。では、仙台・羅須地人協会のめざすものがそれらと同じものなのかと言うと、そうであるようでもあり、またそうではない。協同組合やアソシエーションや社会的経済といったものが、それまでの社会主義の代替物として導入された感があるのに対して、仙台・羅須地人協会の構想は東北という土壌を背景に、3.11東日本大震災をきっかけとして立ち上げられた。それは、大内秀明氏が2004年に作並につくられた「賢治とモリスの館」や共同体社会主義の研究の延長にあると言ってもいいし、大内秀明氏は2005年に半世紀前に書いた『価値論の形成』(東大出版会1968)の続編になる『恐慌論の形成』(日本評論社)を出されたわけだが、大内秀明氏の宇野経済学研究の延長にあるとも言える。

私は「賢治とモリスの館」に通いながら、「宇野理論はどこから生まれたのか、その誕生の背景にはこの地(仙台)があるのではないか」という議論をしばしばやった。宇野弘蔵は、1924年にドイツ留学から帰国すると、東北帝大の助教授になった。そして1932年に『日本資本主義発達史講座』岩波書店より刊行されて日本資本主義論争が起こると、仙台にあってそれと距離をとり、1936年に「資本主義の成立と農村分解の過程」(『中央公論』1935年11月)を発表し、1937年の人民戦線事件につづく翌1938年の教授グループ事件に連座して検挙され、1年間の留置場暮らしをした後、裁判では無罪になったものの1941年に東北帝国大を辞職した。宮澤賢治もそうだけど、天沢退二郎氏が書くように、歴史的時間と作者の内的時間をむやみに混同してはいけないというのはそうなのかもしれないけど、二人の作品と思想が成立することの低音部には、戦前期の昭和という時代と東北という風土があるように私には思える。

東北では45年に一度の頻度で大地震と津波がくり返され、宮沢賢治は1896年の明治三陸津波の年に生まれ、1933年の昭和三陸津波の年に亡くなった。また、東北は中央からは「白河より北ひと山十銭」と言われ、最近も自民党の復興担当大臣であった今村雅弘が「あれは東北でよかった」と現在もなお変わらぬ差別意識を丸出しにして、その少し前には東電株主でもある今村雅弘は、原発被災者を「自己責任だ」と言い切り、安倍政権は原発の再稼動とハコモノ建設による復興をすすめている。しかし、1933年の昭和三陸津波からの復興には「産業組合が主体となり・・総合的な復興が行われ」たということが、最近出版された岡村健太郎『「三陸津波」と集落再編』(鹿島出版会2017)に書かれている。昭和不況で資金を出したくない国の新官僚(革新官僚)が、被災者に産業組合をつくらせて、そこに低利の資金を貸し出すかたちでの復興計画であったわけだが、近年の東日本大地震からの復興と比べても革新的なやり方であったと思うところで、その復興のモデル集落であった岩手県大槌村吉里吉里集落は、後に井上ひさしによって吉里吉里の人々が中央からの独立運動を起こす物語『吉里吉里人』のモデルでもあった。昭和三陸津波があったのは1933年3月3日、宮沢賢治が亡くなったのは同年9月21日、宮沢賢治は亡くなる直前に「産業組合青年部」の詩を『北方詩人』に発表したわけだが、その心は何であったのか。

また、宇野弘蔵も昭和三陸津波の地震を体験している。当時、宇野弘蔵は中央での資本主義論争には距離をおいて、「資本主義の成立と農村分解の過程」を書く過程にあったわけだが、宇野弘蔵は『資本論五十年』(法政大学出版会1970)に、以下のように述べている。

「(山田義太郎君との)『資本論』に対する理解・・考え方の違いを述べてみたいという意味で『農村分解・・』になったわけです。しかもこの揚合にはマルクス自身がぼくの『農村分解』のようには考えていないかも知れない。後進国の問題をどうも明確にしていない。これは何とかしてマルクスを理解しようと考えていた当時のぼくには非常に大問題だったわけです。だからなかなかそれをはっきりそういえない。マルクスと違ってもいいじゃないかというふうにまだいっていないので、あれでも非常に忠実にマルクスによりながら、それでもなにか進うのじゃないかということがいいたかったわけです。ほとんどマルクスによりながら違うことを書いているのです。これはこの前話した〈価値形態論〉のときと同じだった。なにか労働価値説はこれではいかんのじゃないかという予感はあるのです。〈価値形態論〉をやりながら、マルクスの労働価値説の論証によっていてはいかんのじゃないかと思いながら、しかしマルクスを批評するということはとても自分にはできない、足らないのではないかという感じが非常に強かった。これはあとがら考えると、どうも自分の関係していない実践運動に対するコソプレ。クスだったのではないかとも思うんだが、それだけでなしに、やはり『資本論』を本当に自分で自分のものにして、それから訂正すべき点は訂正する、そこまでなかなかいかなかったのだ。わからないところが非常に残っていたのだと思う」と。

宇野弘蔵は、実践へのコンプレックスがあったために、マルクスとの違いを断言できなかったというわけだが、この後1936年に『経済政策論・上』、1947年に『価値論』、「労働力なる商品の特殊性について」、『経済原論』を書いて、やがて「原理論-段階論-現状分析」の宇野三段階論となり、宇野弘蔵もマルクスとはちがうものになったと確信したところであろう。そして、経済学は現状分析を課題にして、宇野弘蔵は「労働力の商品化」について「南無阿弥陀仏」の言葉を残して、1977年に亡くなられた。宇野弘蔵の「南無阿弥陀仏」について、青木孝平氏はそれを「資本主義のもつ物神的イデオロギーから片時も逃れられない人間(自己)の宿業」と言われるわけだが、それと気になるのは宇野弘蔵の「実践運動に対するコンプレックス」はどうなったのかということがあるが、宇野理論は完成しても、おそらくコンプレックスは残っていただろうと思われるから、宇野理論の課題は現状分析と実践として残されており、そこに「労働力の商品化」の問題を解く鍵もあると思うところである。

1990年代以降、ソ連型社会主義の崩壊と新自由主義の跋扈に合わせて、それまでの社会主義者たちが、前述したように「協同組合やアソシエーションや社会的経済」を語り出したのは、唯物史観と階級闘争論が破綻して、それに基づく政治的実践も破綻したからであろう。1980年代に大内秀明氏を代表とした宇野派の学者クループによってまとめられた日本社会党の「新宣言」は、唯物史観と階級闘争論と連型社会主義を否定して、参加や中間組織を重視した社会民主主義の新路線であったわけだが、当時、共産党や新左翼からは「右転落」として批判された。しかし、やがてその批判者たちも社会主義崩壊の後は、社会民主主義や協同社会とか非営利協同とか社会的連帯経済を言い出すわけだが、社会的連帯経済の内容などは、社会党の「新宣言」にある「中間組織」と似たようなものなのに、横滑りするだけでかつての自らを省みることがない。

私は1970年代から社会党の活動をしていたから、2004年から作並に通い出すと、そこでは「新宣言」のことも度々話題になり、我田引水に語れば、それは「新宣言」のつづきの話としての「脱労働力の商品化によるコミュニティの形成」という話になり、さらに前述したように3.11東日本大震災の後に大内秀明氏とその仲間たちによる「仙台・羅須地人協会」の立ち上げと「自然アネルギーによる地域循環型社会」の構想になり、大内秀明氏はフィールドワークと実践をともなう宇野経済学の真打的な現状分析に取り組まれだしたのである。前述したように、それは「社会的連帯経済」と似ているようで、同じでない。それらがさまざまな協同組合や非営利企業やコミュニティビジネスやNPOなどで構成するネットワークか地域コミュニティであるところは似ているけど、その要諦に「脱労働力商品化」があるかないかで決定的にちがうのである。例えば「社会的連帯経済」を語る人の協同組合理解は、ほとんどが「協同組合は共同所有だから非営利で正しい」みたいな所有論的理解である。しかし、ベンサムの功利主義そのものの協同組合をいくら組み合わせても、青木孝平氏が言われるように、資本主義の全体性に同化されるだけである。

そして、このことの要諦は何かとなれば、最初に紹介した青機孝平氏の「コミュニタリズムと経済学批判~マッキンタイアあるいは宇野弘蔵の社会哲学~」に、「宇野の薫陶を受けた理論家の中から、類似の共同体構想が次々と登場しているのも事実であります。・・・これらの諸研究は、出発点となる宇野弘蔵自身に、根源的な共同体志向があったことを裏付けているのではないかと思います」とあるように、おそらくそれは「共同体とは何か」、「資本主義の次に来るものは何か」ということになるであろう。要は、宇野弘蔵が「労働力の商品化」について「南無阿弥陀仏」の言葉を残したのは、まだ「語りえぬ共同体への道」であり、それは現れるまで見ることも考えることも出来ない向こう側から現れるもので、そこにつながるだろうと信じる実戦としての現状分析の課題であったと私には思われる。だからこそ「南無阿弥陀仏」なのである。

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主体の消失と復活―M.ブランショ 宮沢賢治 共同体―

5月13日のポスト資本主義研究会でのコメントノレジメを書いている。私は話べたですぐに上がって話がつづかなくなるから、上がったら読めばいいように話すことを書いていたら長くなってしまった。全7章になる予定で、書けたものからアップする。最初の2章は以下で、3章以降が今回GWに書いたものです。ここに載せておけば、パソコンが壊れても残るから、いわばバックアップのつもりでもあります。

第1章は、2013年12月 9日のブログ、「宇野弘蔵の〈南無阿弥陀仏〉」
http://daruma3.cocolog-nifty.com/nh/2013/12/post-36ad.html
第2章は、2016年9月21日のブログ、「コミュニティの形成は可能か、青木孝平『「他者」の倫理学』を読む」
http://daruma3.cocolog-nifty.com/nh/2016/09/index.html

3.主体の消失と復活――M.ブランショ 宮沢賢治 共同体――

※上記のブログに対して、青木孝平氏から、「《労働力商品化の止揚》という表現は、もうそろそろ再考された方がよいのではないかと思います。《止揚》は、あまりにヘーゲル的弁証法の発想が色濃くしみついており、社会主義の自然必然性を想起させるものではないでしょうか?」というコメントをいただき、私はまたコメントを書いたのだが、その後『コミュニタリアン・マルクス』を読んだら、私のコメントが的外れであったと気づいたので、今回その部分ははしょりますが、それにしても私はレヴィナスを読んだことはないし、どうするかなと思っていたら、4月29日に松田社長から「青木孝平氏の発言の要旨」が送られて来て、そこに「たとえばフッサールの現象学は、世界の一切を自我の内部に超越論的に還元することを志向したが、これを否定したレヴィナスは、自我の全体性の外部に顕現する《他者》にこそ倫理の根拠を見出した」の一文があり、これを読んだ時に、むかし少し読んだモーリス・ブランショの文学空間論を思い出して、レヴィナスのいう「他者」を「文学空間」に、「倫理」を「文学」に置き換えれば、レヴィナスはブランショに通底しているのではないかと思い、試しにパソコンで「レヴィナスとブランショ」を検索してみると、上田一彦『レヴィナスとブランショ』(水声社2005)という書名の本もあるし、レイヴィナス著の『モーリ・ブランショ』(国文社1992)という本まであった。さっそく取り寄せて読むと、レヴィナスとブランショはストラスブール大学で出会って以来70年間の親友で、翻訳者の内田樹氏も「私たちはレヴィナスを論じる際に、しばしばブランショを引く」と書かれていたので、私もそうするというか、上記のブログの最後に、私が「宮沢賢治の文学作品が〈他力的文学空間〉において成立したとして、その行為は彼の〈自力〉と一体であった。果たして〈脱労働力商品化によるコミュニティの形成〉は可能か?」と書いたのは、昨年2月に大内秀明氏から「貴兄の組合論、賢治の《産業組合》にひっかけた論稿を・・くれぐれも宜しく」とのメールをいただき、大内秀明氏と「宮沢賢治と産業組合」を共通のテーマにして取りかかったところで、私としては宮沢賢治を論じるには『宮沢賢治の彼方へ』(思潮社1968)に代表される天沢退二郎氏の論考とモーリス・ブランショの『文学空間』(現代思潮社1962)を避けては通れないだろうと思っていたからであった。

ブランショの『文学空間』には、こうある。
「書くとは、幻惑におびやかされる孤独の断言のうちに入り込むことだ。永遠の繰返しが君臨する、時間の不在の冒険に、身を委ねることだ。これは、「私は」から「彼は」へ移行することだ、だから、私に起ることが、誰にも起らず、それが私に関わるという事実によって誰の名も附されぬものであり、限りない散乱状態のなかで繰返されるのだ。書くとは、幻惑にとらえられつつ、雪隠を排列することだ。また、言語を通して、言語のうちにあって、あの絶対的な場と触れあっていることだ、そこでぱ、事物は、再びイマージュとなり、またそこでは、ある形態への暗示であったイマージュが、何の形態も持たぬものへの暗示となる。また、不在の上に描かれた形だったのが、この不在の何の形も持たぬ現存となる、もはや世界が存在せず未だ世界が存在せぬ時に存在するものへと通ずる透明で空虚な開示となるのだ」と。

そして天沢退二郎氏は、ブランショと宮沢賢治をこうつないでいる。
「作者の顔立ちとか風采とか来歴とかがさまざまな情況下に流布されて――そうした情況は偶発的なものではないがおそらくはすでにいささか時代錯誤的だ――どれほどじかに照明をあてられているにせよ、一見したところ著者への考慮が非常に大きな役割を果しているごとく思われるあらゆる読書も、作品を作品自体に、その無記名の現存に、作品が存在するという荒々しい非人称的な断言に返してやるために、著者への考慮を廃棄するひとつの問責行為なのである」(『文学空間』)というブランショの指摘は、宮沢賢治の場合を考察する際のために云われたかと錯覚するほどに示唆的かつ基本的なものである」(『宮沢賢治の彼方へ』)。
「まさに書いていたときの宮沢賢治の孤独は、たんに当時の詩壇や文壇からの孤立に存したのではない。また、ほぼ同じ時期に賢治の文学と深部で照応しあうはずの試行をすすめていたフランツ・カフカやアンドレ・ブルトンの営為からの殆ど絶対的な孤絶に存したのでもない。それらの事情をはるかな背景としながら、賢治における〈書くこと〉のプライヴェートな射程が、ついにひとりの真の標的・真の読者の影もないまま終始した――まさにそのことの意識の中でかれの詩作品・詩作行為が進行した徹底的な事情にこそ、宮澤賢治の孤独が存するのである」。(『《宮沢賢治》論』筑摩書房1976)と。

また天沢退二郎氏は、作品行為のもつに時間構造と歴史的時間との混同をこう戒めている。
「宮澤賢治の作品とは何か・・この問いは、賢治に限らず、およそ文学とは、作品とは何かという、普遍的問題にも通じている」。「作品は存在する。だが存在するとは・・時間の中を生と死をくりかえして変身・転生しながら、それ自らの時間をつくり出し、それなりに変わっていくのである」。「留意すべきは クロノロジーの一つのアスペクトである。賢治の作品行為の″順序″は、一方で1920年代から1930年代にかけての歴史的時間の流れの中を継起した。しかし他方で、それらの作品行為はそれ自体のうごきのうちに時間構造をもち、生死し転生し、それぞれに連通するもうひとつの内的クロノロジーをあみ出したからである。およそ文学を論じ文学作品を論じ、あるいはその作家の思想を論じる場合、この二系列のクロノロジーをむやみに混同してはならず、むやみに一方をネグレクトしてはならないことを思い返したいのである」。「伝記上の事実と作中世界の出来ごととはすでに峻別されねばならない」。「実生活上の事件や体験と作品行為とは、ぬきさしならぬ深い関係をもちながらも、本質的にはきびしく峻別されるべきである」(『《宮沢賢治》論』)と。

宮沢賢治は、多くの根強い読者をもつわけであるが、読者が宮沢賢治に惹かれる主な傾向は二つで、ひとつは詩や童話の作品そのものに惹かれる天沢退二郎『宮沢賢治の彼方へ』に代表される作品行為論的読み方と、もうひとつは「イーハトーヴォ」や「羅須地人協会」や「雨ニモ負ケズ」に代表される宮沢賢治の理想や生き方に共鳴するところから入る読み方である。前述したように、大内秀明氏と私は「宮沢賢治の羅須地人協会とは宮沢賢治龍の産業組合であり、理想郷イーハトーヴォにつながる共同体の構想」であろうと見立てるわけで、それは上記の二つの見方からすれば、宮沢賢治の思想や生き方に共感した読み方になるのであるが、作品行為論的観点からすれば、そういった見立てそのものが宮沢賢治の作品からの逸脱となる。さらに、前述したように、近代文学は自我の成立と内面の対象化によって成立し、それは近代国家の成立と一体であるとするなら、宮澤賢治本人はどうあれ、宮沢賢治の思想への主体的な共鳴による共同体へのアプローチというのでは、近代を超えられないのではあるまいか、となるのかもしれない。

レヴィナスの『モーリス・ブランショ』の訳者である内田樹氏は、「レヴィナスとブランショの分岐は〈倫理〉が問題になるときに始まる」とする一方、「しかし、それにもかかわらずブランショがある種の倫理によってみずからを律していることに間違いはない。・・・それは・・〈六八年五月〉への真摯なかかわり方のうちにも見て取ることができるだろう」。「ブランショのうちには明らかにレヴィナスが言う意味での無私性に動機づけられた倫理が見て取れる。」と書いている。自らの文学理論に作品以外の痕跡を残さないブランショではあったが、若い頃から政治活動に参加し、1968年のパリの五月革命では「学生‐作家行動委員会」の主要メンバーとして参加し、1983年に『明かしえぬ共同体』(ちくま学芸文庫1997)という本を書いて、そこに以下のように書いている。

「六八年五月は、容認されたあるいは期待された社会的諸形態を根底から揺るがせる祝祭のように、不意に訪れた幸福な出会いの中で、爆発的なコミュニケーションが、言いかえれば各人に階級や年齢、性や文化の相違をこえて、初対面の人と彼らがまさしく見なれた‐未知の人であるがゆえにすでに仲のいい友人のようにして付き合うことができるような、そんな開域が、企ても謀議もなしに発現しうるのだということをはっきりと示して見せた。・・・〈企てなしに〉というこの点に、存続すべくも定着すべくも運命づけられてはいない捉えようのない比類ないある社会形態の、覚つかなくもあるが幸運にめぐまれた特徴があったのである。・・・権力を奪取してそれをもうひとつの権力に置き換えることや、・・また古い世界を転覆することがねらいだったのでもなく、各人を昂揚させ決起させることばの自由によって、友愛の中ですべての者に平等の権利を取り戻させ、あらゆる功利的関心の埓外で共に在ることの可能性をおのずから表出させることこそが重要だったのである。・・・権威は覆され、あるいはほとんど無視され、いかなるイデオロギーもそれを取り込んだり自分のものだと主張したりすることのできない、未だ嘗て生きられたことのなかった共産主義の一形態がここに出現したのだと、人びとは感じることができたのだ。しかめつらしい改革の試みなど存在せず、あるのはただ無辜の現前だけだった」と。

『明かしえぬ共同体』の翻訳者でレヴィナスを訪ねたある西谷修氏は、『明かしえぬ共同体』についてレヴィナスは「すばらしい本だとブランショに一言書き送った」と述べたと書いている。

蛇足だが、一昨年にSEALsが話題になって、それは明治学院、日芸、上智、ICUといった女性の多い大学から始まって広がり、奥田愛基氏が明治学院の学生であると知った時に、私はなんとなくSEALsのバックボーンが分るような気がした。明治学院は偏差値のあまり高くない大学で、私はそこの文学部を中退したわけだけど、当時から天沢退二郎や入沢康夫といったブランショ系の仏文学者がいて、ブランショの『明かしえぬ共同体』(ちくま学芸文庫1997)の翻訳者の西谷修氏もそうであった。西谷修氏や現在もそこで教える高橋源一郎氏は、「公的な共同体の理想の形は、組織ではなく、一時的な共同体だ。市民が自発的に突然集まり、集会をし、目的が達成されれば解散する。突然、公的な声が可視化され、そして消える」みたいなことをはSEALsの学生たちにサジェスチョンしたのではあるまいか。さらに蛇足だが、東大の大学院を卒業して1960年に明治学院大学の専任講師になった大内秀明氏は女子学生と国会デモに参加し、60年代末の全共闘運動の最中に教え子と結婚した天沢退二郎氏は、ヘルメット姿で結婚式を挙げたという。

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