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2017年2月27日 (月)

牧民雄著『日本で初めて労働組合をつくった男 評伝・城常太郎』(同時代者2015)書評

Photo 変革のアソシエ講座で「新しい労働運動の構想」を企画する最中、『変革のアソシエ』編集委員会に牧民雄著『日本で初めて労働組合をつくった男――評伝・城常太郎』が届き、日本の労働運動の現状を顧みるに、これも何かのシンクロだろうと紐解く。日本における労働組合運動の発生は、明治三〇年における高野房太郎、城常太郎、沢田半之助による労働組合期成会の結成をもって嚆矢とするというのが定説である。明治三〇年というのは、日清戦争で得た巨額の賠償金により、日本の資本主義が急成長し出した頃であり、あわせて労働運動も発生するのであるが、それには前史があって、その最初のきっかけが明治二四年にアメリカのサンフランシスコにおいて、同じく高野房太郎、城常太郎、沢田半之助らによって結成された「職工義友会」にあるというのも、いわば定説である。しかし、どういう経過で「職工義友会」が結成され、後にそれが「労働組合期成会」につながるのかはについては、本書がそれを詳述したまれな著作になるのではあるまいか。

 明治になってから、国は優秀な官僚をヨーロッパに留学させてそこの制度や法律や技術を学ばせるのだが、一方向学心に燃えた貧乏人や出稼ぎのための貧乏人、さらには挫折した自由民権活動家らが多く渡った先はアメリカであった。城家は武士の家系で維新後は熊本で鍛冶屋を営んでいたが、西南戦争後、城常太郎は製靴業界の大物西村勝三の知己を得て靴職人になり、明治一九年に「靴職工同盟会」、明治二〇年に「職工同盟造靴場」を立ち上げ、明治二一年にサンフランシ スコに渡った。アメリカにおける靴工賃は高く、多くの日本人や中国人が靴屋を開業したわけだが、やがてそれらは白人の製靴労働者から排斥されるようになった。そこで城常太郎は仕事を靴の修理にシフトさせて工場をつくり、そこには明治二三年に洋服店出店の夢を抱いて渡米した沢田半之助の洋服店が同居し、同年末には対象を靴工より広げて「日本職工同盟会」を立ち上げ、さらに「他日、我が日本における労働問題の解決に備えんと」、明治二四年の夏には高野房太郎や沢田半之助らとともに、「労働義友会」を立ち上げたのであった。

 城常太郎がアメリカに着いた時に、サンフランシスコの港で最初に城常太郎に声をかけたのが高野房太郎であったという。高野房太郎は長崎生まれ、父親は神田で旅館兼回漕業を営むも火事で 消失、父の死後、横浜の叔父の旅館兼回漕業に奉公しながら高田早苗らに学び、明治一九年に家の再興をめざして渡米し、スクールボーイや製材所で働き、明治二一年にサンフランシスコで日本雑貨店を開業するも半年で破綻、再度製材所で働いている時に労働運動に慧眼、明治二三年『読売新聞』に「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」を寄稿、サンフランシスコに戻ってサンフランシスコ商業学校で学び、そこで「労働義友会」のメンバーになり、明治二四年『読売新聞』に「日本に於ける労働問題」を寄稿。著者によれば、「労働運動黎明期を率いたのは城であり、高野房太郎はその理論的な部分で運動を補佐したパートナーだった」とされるわけだが、語学が達者で各地で働きながら労働組合について学びつつあった高野房太郎と、日本から渡った英語の得意でない靴工や各種職工を身近に集めて組織した城常太郎、性格は異なるが友情は深かったこのふたりの結びつきがあって「労働義友会」は立ち上げられたといったところではあるまいか。

 城常太郎は、明治二五年に一時帰国して東京に「労働義友会」支部を新設し、東京支部は「日本靴工協会」の新設に寄与し、明治二五年秋に勃発した靴工兵制度反対運動に大きな影響を与えたという。靴工兵制度反対運動というのは、それまで製靴会社は利益の大部分を下請けした軍靴の生産に依存していたのであったが、陸軍省は軍内に直属の靴工場を設けて軍みずからが靴を生産するとしたために、それに反対する靴工たちの運動が起こり、明治二五年一二月には日比谷公園から日本で最初のデモも行われ、靴工たちは同一一月に結党された大井憲太郎を党首とする「東洋自由党」に援助を依頼したという。城常太郎は、自由民権運動の敗北後に渡米した壮士あがりが設立した「在米愛国同盟会」を通じて福田友作らとのつながりを持っており、明治二〇年代の日本には「大日本労働者同盟会」といった壮士系の団体が数多く結成されていて、明治二四年に城常太郎が日本の労働者に向けて送った檄文は、その方面で受け入れられている。

 著者は、明治二五年の日本初の近代労働団体「労働義友会」の結成をもって日本における近代労働運動のはじまりと見るわけだが、これまでの通説では明治三〇年の「労働組合期成会」がその嚆矢とされている。そして城常太郎は、そのどちらでも大きな役割を果たしており、ならば明治二五年と明治三〇年の差はどこにあるかといえば、それは日本における資本主義の成長の差にあって、明治二〇年頃までは工業といっても紡績といった軽工業が中心で、労働運動も最初は製靴工や船大工など手工業的な職人仕事に近かった軽工業から生まれたわけだが、日清戦争に勝利した後の日本では資本主義が急速に成長して、鉄工や造船や鉄道といった大工場に労働者が増え、各地で同盟罷工が起こるようになり、やっと労働者が階級として登場してきたということであろうか。そのことは在米の城常太郎や高野房太郎にも伝わり、日本に労働組合を普及させるべく、明治二九年になると彼らは次々と日本に帰ってきたのであった。

 城常太郎は明治二九年に日本に帰ると、木下源蔵と「職工義友会」を立ち上げ、内幸町に事務所をもうけてパンフレットによる工場労働者への啓蒙活動や「労働組合法」制定のための署名集めを始めた。そして城常太郎は、沢田半之助が京橋で洋服店を開業しているのを知るとすぐに訪ねて労働運動へ誘い、さらに高野房太郎もすでに帰国していて横浜で英字新聞の記者をしていることを知ると、「常太郎は高野を有能な同志として職工義友会に迎え入れたいと強く願った。というのは、始まったばかりの日本の労働運動を成功させるためには、その理論面に精通した高野の存在が不可欠だと確信したからだ」という。高野房太郎は、明治二四年にサンフランシスコでの「労働義友会」の結成に参加した後、各地で仕送りのための労働をしながら労働騎士団やAFLに接触して労働運動への理解を深めていき、明治二七年にAFLのゴンバースから日本担当オルグに任命され、アメリカの軍艦の乗組員になって明治二九年に帰国した。そして城常太郎からの誘いを受けると英字新聞の記者を辞め、明治三〇年一月に上京してここにかつての「労働義友会」の顔ぶれが再度集い、明治三〇年の労働運動が始まるのであった。

 高野房太郎には高野岩三郎という弟がおり、房太郎は東京帝国大学の学生であった岩三郎のために毎月一〇ドルの学費をアメリカから送金しつづけた。房太郎の帰国後は大学院生になっていた岩三郎は、上京した房太郎を社会政策学会の会員に誘い、房太郎はそこで日本最大の印刷会社の秀英社社長の佐久間貞一らの有識者と知り合い、佐久間貞一から「東京工業協会」総会における講演を依頼される。「東京工業協会」総会と高野房太郎による講演は、明治三〇年四月六日に神田の錦輝館で行われ、房太郎は講演に合わせて秀英社で印刷したパンフレット『職工諸君に寄す』を配布した。引きつづき六月二五日には神田美土代町の青年会館において「職工義友会」による演説会が開催され、参加者は千二百余名に達し、「労働組合期成会」の結成が呼びかけられると、即座に応じる者が四七名いたという。七月五日には「労働組合期成会」の発会式が行われ、高野房太郎、城常太郎、沢田半之助の三氏が仮幹事長に推薦された。こうしてサンフランシスコの粗末な靴工場で「いつの日にか日本に労働運動を持ち帰ろう」と誓い合った城常太郎たちの夢は六年の歳月を経てようやく実現した。そして、パンフレット『職工諸君に寄す』の執筆も含めて、その運動の中心にいたのは城常太郎であったのではないかというのが、本著が解き明かしたところである。

 「労働組合期成会」についてのこれまでの通説は高野房太郎を中心に語られてきたから、城常太 郎のひ孫にあたるという著者のひい爺さんを再発見して見直そうという思いと努力がひしひしと伝わる好著である。一方、これは知られざる城常太郎の物語であるから、やはり高野房太郎についての記述がなおざりになるというのは仕方のないことではあるが、ふたりの友情が書き足されたらと惜しまれる。「労働組合期成会」は、「一年を経た明治三一年七月には、その会員数は二千五百人にも膨れ上がり、日本唯一の労働運動団体としてまさに飛ぶ鳥をも落とす勢いで躍進を続けていた」にもかかわらず、やがて組織拡大は行きづまり、財政破綻や方針をめぐって高野房太郎と片山潜の内部対立も発生し、明治三三年三月の「治安警察法」の公布で息の根を止められる。同年八月に高野房太郎は清国に渡航。高野房太郎は城常太郎を清国行きに誘い、明治三四 年七月に城常太郎も天津に渡って事業を起こすも、清国でふたりが共に事業を行うことはなかった。明治三七年三月、日本で結核の療養をしていた城常太郎に高野房太郎が青島の病院で客死したという 知らせがもたらされ、明治三八 年七月には城常太郎も亡くなった。

 晩年は家族や旧い運動仲間から見守られた城常太郎の方が幸せであったであろうか、「労働組合期成会」から身を引いた後の城常太郎は、関西にあってなお運動を継続している。一方、高野房太郎にはコスモポリタン的な放浪の果ての異郷での客死という切ないイメージがつきまとうが、 弟の岩三郎は兄の志を引き継いで見事に生きた。東大に経済学部をつくり、そこを離れては大原社会問題研究所を立ち上げて多くの学者を育て、大阪に大阪労働学校をつくり、戦前最大の労働組合の友愛会も育て、岩三郎の娘は宇野弘蔵の嫁になった。関西と東京と東北を結ぶ私たちの「協同センター」の運動は、広くはその流れの中にあるといっても過言ではなかろう。先人たちの志し継ぐべし、闘うべしである。

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2017年2月 5日 (日)

労働運動講座の第2回は鳥井一平氏の「移民と労働運動」

昨年の11月に立ち上げた変革のアソシエ講座「新しい労働運動の構想」は、私のバイク事故のために立ち上げ早々に2ヶ月間のお休みとなってしまったのだが、ここで再開しなければと、2月に入ってすぐに、第2回目の講座の講師に予定する全統一労働組合特別中央執行委員の鳥井一平氏と打ち合わせをした。鳥井一平氏はNPO「移住者と連帯する全国ネットワーク」の代表理事でもあり、講演のテーマは「移民と労働運動」となった。「移民と労働運動」というのは、世界中ではあたりまえの運動であるのだけど、難民や外国人労働者の入国を厳しく制限する日本では、ありえない運動とされている。しかし「研修制度」と称する外国人のいわば「人身売買」はかなり以前から問題になっており、それに取り組んできた鳥井一平氏は、2013年にアメリカ国務省から「人身売買と闘うヒーロー」として表彰された。
http://www.labornetjp.org/news/2013/0920torii
しかし鳥井一平氏をヒーローとして表彰したアメリカは、トランプ政権になって移民の締め出しをやりだし、まともな国々がそれを批判する中、安倍政権はわが意を得たりとばかりにトランプ大統領に追随しようとしている。そしてそれは、この先も日本ににおける移民労働者とその労働問題を認めないという対応になるだろうし、正規社員中心の企業別組合である日本の労働組合もそういうものとしてわが身(組合)を守ろうとするだろうことは目に見えている。というわけで、講座「新しい労働運動の構想」第2回のテーマは、いま世界はこの問題の真っ只中にあるといえる「移民と労働運動」、日本の労働運動の現状と問題点も大きく浮かび上がるでしょう。開催日は3月25日か26日を予定、詳しくは続報で、ご期待ください。

もうひとつ鳥井一平氏は、倒産争議を勝ち抜いて自主生産企業として生き残った零細労働者企業をまとめて、困難ながら「自主生産ネットワーク」をやっている。私も失業後に「自主事業サポートセンター」というNPOを立ち上げて、そこに参加していたことがあり、下記はその頃2008年12月23日に書いたブログだが、「自主生産ネットワーク」の忘年会は倒産争議中の占拠した会社で行われ、そこはまた「研修先」から逃げてきた若い中国人女性のシェルターにもなっていたのであった。
http://daruma3.cocolog-nifty.com/nh/2008/12/index.html

さらにもうひとつ鳥井一平氏のことを書くと、50歳を過ぎての失業後、私は自分のSOHO仕事だけでは食えない分をあちこちでアルバイトしたのであったが、ある会社にいた時に、ある日社長から「客商売なのにお前はジジくさいから首だ」と言われた。金正日ばりのワンマンで社員から恐れられていた社長で、それまでも社員の入れ替わりの激しい会社で、私は「辞めるのはいいけど、直ぐに辞めろというなら前賃金一ヶ月分を下さい、さもなければ辞めるのは一ヵ月後で」と言ったら、「何を、直ぐに辞めろ、前賃金など払わない」と言い、連日「辞めろ辞めろ」と言うので、仕方なしに鳥井一平氏に相談したことがあった。そしたら、全統一労働組合から会社に一通の申し入れ書が送られて、後日団交と相成ったのであったが、団交にやって来たのは鳥井一平氏ひとり。私は働いている時には団交を受ける側にいたこともあり、団交にはだいたい強面の労働組合員が何人か来て大声でやるものだが、鳥井一平氏は静かな口調で理路整然と会社側の対応の不当性を述べると、その後社長は自らの団交要員と相談に入り、そこから戻るや、こちらの要求、①前賃金を払え、②半年に遡って雇用保険をつけて会社都合退職とせよ、③解決金が必要だ、の3点を全て飲んだのであった。団交前には社長と談笑していた鳥井一平氏であったが、いざ団交が始まると全身から団交オーラが立ち上り、会社側は蛇ににらまれた蛙の如くにそれに飲まれてしまったわけである。時間にして小1時間、私はあまりの手際にあっけにとられたものであった。

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