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2017年1月 5日 (木)

柳田国男における文学と革命としての『遠野物語』

開国して資本主義が導入され、国の近代化がすすもうとする時には、積極的に新しい思潮を受け入れて旧いそれを批判していく人々と動きが起こる一方、安易にそれに同調せず、それに反発する人々と動きも起こる。明治20年代はそういう時代で、日清戦争を契機に資本主義が発展し始め、限定的とはいえ憲法と国会も開設されれば、自由民権運動の挫折を経た若い世代は文学やジャーナリズムに新たな方向を見つけ出そうとした。1893年(明治26)に北村透谷は『文学界』を創刊し、その周辺には樋口一葉も含めて文学を志す若者たちが集まり、後に田山花袋は「私たちのグルウプ」(岩波文庫『東京の三十年』p101)にこう書いている。

「『文学界』に透谷の死に対するくやみの歌を送ったのが、『文学界の人たちと触れて行く基となった。・・・その『文学界』の新年会、根岸に伊香保の一間、そこで私は島崎君や平田君や上田君や戸川君に逢った。レールに添った、汽車の通る度にガタガタと家の動くような細長い一間で、私は若い人たちの熟した気炎を聞いた。・・帰りはたしか島崎君と馬場君と一緒に池の端の向こう側を歩いて、本郷の通の方へ帰って来た。島崎君は色の白い感じの好い静かな若者であった。・・・柳田君が島崎君の大根畑の家に行くようになったのは、確か私が紹介したのだと思うが、下宿が近いので、後には柳田君と島崎君の交際が、私と島崎君の交際よりもかえって頻繁になった。柳田君は白い縞の袴を穿いて、興奮した顔の表情をして、よく出かけて行っては、詩や恋や宗教の話をした。一方私は宮崎湖処子を透して、国木田君に逢った。国木田君はその時、例のお信さんと別れた後で、渋谷の郊外の丘の上の家に住んでいた」と。

田山花袋(1871生)と国木田独歩(1871生)と島崎藤村(1872生)はほぼ同世代で、柳田国男(1875生)は少し若い。田山花袋は北関東の田舎から「小僧になって京橋に来て」、英語学校で英語を学び、桂園派歌人松浦萩坪に短歌を学び、1891年(明治24)にそこで松岡国男こと後の柳田国男と知り合い、当時の松岡国男のことを「非常な秀才」であったと書いている。そして田山花袋によれば、やがて彼らは上記のようにつながりあって「グルウプ」となり、1897年(明治30)頃には主に新体詩、抒情詩を書いていた。1897年(明治30)4月に田山花袋と国木田独歩と柳田国男は『抒情詩』を刊行し、同年8月に島崎藤村『若菜集』を刊行した。しかし、翌1898年(明治31)1月に『文学界』は終刊し、国木田独歩は『武蔵野』を書いた。国木田独歩は政治志向で東京専門学校に通い、日清戦争で従軍記者として『愛弟通信』を書いて評判をとり、従軍記者招待晩餐会で佐々木信子を見初めて結婚するも半年で離婚、離婚後は「渋谷の郊外の丘の上の家に住んで」、そこには田山花袋が「柳田君をも其処に伴れて行った」とある。そこで国木田独歩は、二葉亭四迷の『あいびき』にインスパイアされて、言文一致で武蔵野を描こうとするわけだが、その筆はツルゲーネフにも二葉亭四迷にも及ばず、例えばその文末は、以下のようなものである。

「必ずしも道玄坂といわず、又た白金といわず、つまり東京市街の一端、或は甲州街道とな  り、或は青権道となり、或は中原道となり、或は世田ケ谷街道となりて、郊外の林地田圃に  突人する処の、市街ともつかず宿駅ともつかず、一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈し居る場処を描写することが、頗る自分の詩興を喚び起すも妙ではないか。なぜ斯様な場処が我等の感を惹くだろうか。自分は一言にして答えることが出来る。即ち斯様な町外れの光景は何となく人をして社会というものの縮図でも見るような思をなさしむるからであろう。言葉を換えて言えば、田舎の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、而も哀れの深い物語、或は抱腹するような物語が二つ三つ其処らの軒先に隠れて居そうに思われるからであろう。更らにその特点を言えば、大都会の生活の名残と田舎の生活の余波とが此処で落合って、緩かにうずを巻いて居るようにも思われる。見給え、其処に片眼の犬が蹲って居る。この犬の名の通って居る限りが即ちこの町外れの領分である・・」(新潮文庫『武蔵野』p32)と。

『武蔵野』を書いた国木田独歩は自然主義とみなされることがあるが、国木田独歩は「自然」について「病床雑記」にこう書いている。

「人間は〈自然〉を直写し得る者でない。若しこれが出来るなら哲學も宗教も問題ではない。自然の奥には秘密がある。人は今以てこれに突入する事が出来ないのだ。然るに何で小説家が人間や人事の最後の秘密に入る事が出来るものか。自然がこれを許さない。詩人の書いたものが自然の作ったものと同一でないのは当然だ。自然すらも全く同一の者を一個作ることは出来ない。 そこで詩人は自からの自然を作るのだ。自からの人物を作るのだ。詩人の尊き所以はここにあるのだ」と。

そして柳田国男の国木田独歩、田山花袋、島崎藤村への評を読むと、柳田国男が「グルウプ」の中で肯定的に評価したのが国木田独歩であって、そこにはこうある。

「独歩はその無邪気なる詠嘆をもって、美しい多くの山水を友とし得たごとく、他の一面にはさらに明敏なる理解をもって、よく時代の最も重要なる知識性格と接触することができた。・・・弘く人生を観て、その最も幽かなるものの中に、幾多の〈忘れ得ぬ人々〉を見出したということは、もちろん時代が彼をしてかくせしめたのではなかったか。すなわちそういう時代が彼の手をもって、新たに開かれたのであった」と。

国木田独歩が「武蔵野」と「忘れえぬ人々」を書いた1898年(明治31)に『文学界』は終刊し、翌1899年(明治32)に島崎藤村は東京を離れて小諸義塾に赴任し、やがて散文の習作『千曲川のスケッチ』を書き始める。そして、1897年(明治30)に東京帝国大学入学し、松崎蔵之介から農政学を学んだ柳田国男は、1900年(明治33)に東京帝国大学を卒業して農商務省に入省し、早稲田大学で農政学を講義。翌1901年(明治34)に信州は飯田の柳田家に養嗣子として入籍し、10月から40日間にわたって信州で産業組合の講演旅行を行い、そのついでに小諸の島崎藤村のところに寄って、こう書いている。

「明治34年の初冬に、自分は髭などをはやして新しい島崎君を訪問した。・・・後に『千曲川のスケッチ』になった自然観察が、朝夕の日課だと聞いたときは嬉しかった。何日も何日も、雲のことばかり書く日があるとも言った。こういう余裕は時間だけが許すのでない。・・古城の石に夕陽のさすのを、影法師もない地点から斜めに見るような態度で、願わくは一度だけでもこの慧しい詩人に、われわれの心境も見てもらいたいものだと考えた。ところが人間だけはまだ完全に自然ではないのか、『破戒』の小学先生の背後にはやはり寂しい昔の島崎君が、立って苦悶しているように感じられた」と。

柳田国男の島崎藤村評には手厳しいものばかりの中、これはまだ心よせるところが見受けられる。国木田独歩も島崎藤村も柳田国男も、抒情詩では表現できない世界を発見し、それぞれが自分の道を歩み出したわけあり、農商務省の官僚としての仕事に精進しだした柳田国男は、1902年(明治35)に『最新産業組合通解』を書いた。産業組合は、産業組合法に基づく今でいう協同組合のことで、ドイツに留学した明治政府官僚の品川弥二郎や平田東助がドイツの産業組合法を参考に、1900年(明治33)に成立させたもので、日清戦争後の資本主義の成長期で労働運動なども起こる中で治安警察法とセットでの立法ではあったが、中小零細企業の保護育成をめざして、「加入脱退の自由、議決権平等、出資利子制限、利用分量配当といった協同組合原則の基本を組み入れた法律として制定され」、これを広めんと柳田国男の書いた『最新産業組合通解』は、協同組合の仕組みを解説したもので、それは現在の協同組合にもそのまま通用するような水準のものであった。

柳田国男がおもしろいのは、和歌を詠む兄に伴われて接することのあった高級官僚であるとともに大文学者であった森鷗外と同様に、官僚仕事と文学の両立であり、裃を脱いで文学サロンをも楽しんだことであろうか。1905年(明治38)に各地で産業組合について講演旅行をする一方で、麻布のレストラン龍土軒にて文学サロン龍土会をやりだした。これはそれ以前から自宅で開いていた土曜会を広げた集まりで、田山花袋が積極的であったようだが、国木田独歩や島崎藤村も時おり顔を出した。要は、いったんは解散したような「グルウプ」が再び継続されているわけである。おそらくそこでは新しい思潮が論じられ、参加者は虎視眈々と新しい文学を開くのは自分だと思っていたかもしれない。そして、同年小諸から東京に戻った島崎藤村は、翌1906年(明治39)3月に『破戒』を自費出版した。

刷り上った本を大八車に積んで自ら運んだという『破戒』は、大きな反響をよんだ。『破戒』の出現に夏目漱石は驚き、「荀も文学を以て生命とするものならば単に美といふ丈では満足が出来ない。丁度維新の当士勤皇家が困苦をなめた様な了見にならなくては駄目だらうと思ふ。間違ったら神経衰弱でも気違いでも入牢でもする了見でなくては文学者になれまいと思ふ」と書いて、やがて大学を辞めて作家の道に入った。田山花袋は、多分してやられたと思った。福田恆存によれば、田山花袋は『破戒』にたいする競争意識から『蒲団』を書き、ひきつづき『生』を書いたという。そして、おそらく柳田国男も少なからず驚いたと思われる。『破戒』が出てすぐの『早稲田文学』に書かれた「『破戒』を評す」では、「小説としては十分納得できない点が多いのです。その一つは新平民と普通の平民との間の闘争があまりに劇し過ぎるように思う」とか、柳田国男の『破戒』評は批判的なものであるのだけれど、この点などは部落解放同盟などからすれば、描き方が足りないとなるのであって、必ずしも当たっていない。「ずいぶん悪口を言いましたが、悪口を言わなかった所は皆好い所で、それは別に言わなくても好いでしょう」と、柳田国男に似ずあたふたしたところがある。だいたい文学「グルウプ」というものは、同人雑誌などがそうだけど、内部での競争意識にはすさまじいものがあるものである。田山花袋の『蒲団』は、『破戒』に勝る反響があり、1908年(明治41)に島崎藤村は二葉亭四迷の斡旋で朝日新聞に『春』を書き、同年田山花袋は『生』を書いた。柳田国男は、官僚仕事を忙しくした。『破戒』や『蒲団』の反響を尻目に、ひきつづき全国各地で産業組合について講演を行い、やがて遠野出身の佐々木喜善と出会い、1909年(明治42)に遠野を訪れ、翌1910年(m43)に『遠野物語』を自費出版した。そして、おそらくこれが柳田国男の文学的回答であったと思われる。そこで柳田国男が目論んだことは、島崎藤村や田山花袋が理解する西洋文学の模倣である日本の自然主義文学への批判であり、近代文学への意趣返しであろうか。解りやすく言えば、柄谷行人氏が『柳田国男試論』(インスクリプト2013)に、こう書いているとおりである。

「明治以来の学者は、西欧から導入した概念や規範を以て日本の現実を説明し、またそれによって政策を立てていた。この際の演鐸的なやり方は少しも疑われていなかったのである。それは今日でも基本的には同じであって、西欧の概念によって日本の歴史や現実を解釈すればすべて事足りるのである。それは対象を実際に知ろうとすることではなく、むしろ論理的に説明することだ。実験的でない学問は学問ではないという柳田の声が、きわめて破壊的な意味を帯びてきこえるのは、こういう状況においてである」(p74)。
「日本の現実に、封建制とかフアシズムとか民主主義といった規定をし、命名と同時にその字義にこだわってあたかもそれが実際に存在するかのように考える錯誤がまかりとおっている。実質的なものとはなれた言葉の上での争いが、知識人の論議の大半を占めているのである」(p85)。
「柳田にとって〈まだはっきりとわかつていない〉事柄を、丸山具男はいともたぞすく裁断してはばからない。それは科学的な外見をそなえているが、実はその逆であって、〈精神を精神自身から保護する〉(ベーコソ)かわりに、精神を論証によって説得し支配するのである。戦後知識人とはそういう論証によって閉じこもった呪術的な入たちのことである」(p86)と。

このことは、幼い頃に飢饉を体験した柳田国男が、「農民は何故に貧なりや」と農政学を志し、農商務省の官僚として、産業組合の普及こそが貧農を救う手立てであると確信して取り組んだ中においても、以下のようにぶつかった壁であったであろう。これも柄谷行人『柳田国男試論』から。

「柳田が農政学者の時代から腐心してきたのは、ドイツの制度の形式的な適用が、当面する農政の根本問題を解決(治療)できないのみならず、ますますそれを紛糾させているという事態に対して、日本の現実に根ざした農政学を確立するということであった。これはドイツの農政学がまちがっているということではない。ただ日本の官僚・学者の、言葉を換えればそれとひとしい現実が存在するかのような考え、そして次にそのようにして存在した現実にとりくむという考えがまちがっているのだ。この錯覚はコミュニストや市民主義者にもあるが、すでに奈良朝時代の官僚・学者においてその傾向は典型的に示されている」(p259)。
「農政学者時代の柳田にとって、〈現実〉とは、実際の農民の生活と所有の形態にほかならなかった。が、民俗学者としての柳田にとって、〈現実〉とは言葉であった。いいかえれば、そのようなものとしての言葉の発見が、「飢饉を絶滅させる」という実際的な仕事よりも、いっそう。〈現実的〉な仕事として民俗学を見出さしめたのである。これは農政学者・官僚としての挫折という面だけから考えることもできないし、たんなる方向転換ということもできない」(p261)と。

(つづく)

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