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2016年12月23日 (金)

柳田国男と宮沢賢治

バイク事故から3週間、肋骨は落ち着いてきたものの相変わらず右足が腫れていて、今日医者が曰く「直りが遅いのは歳のせいもありますね」とのこと、入院はしなくて大丈夫だろうとのことで、引きつづき自宅療養となった。自宅療養というのは、パソコンいじりのほかは、足を高くして寝ているだけ。今週からやりかけのDTP仕事『変革のアソシエ』27号つくりを始めて、やっと校了まであと一歩のところまできた。『変革のアソシエ』27号には、大内秀明氏が「宮沢賢治と産業組合」の論を書いていて、私も同じテーマで書こうとしているのだが、同じ切り口でというわけにもいかないから、私は「柳田国男と宮沢賢治」といった切り口で書こうと、『現代思想』2012年10月臨時増刊号「総特集・柳田国男」をネットで購入して読んだところ。

この本には、天沢退二郎氏が「遠野物語〈と〉宮沢賢治は可能か」という小文を書いているから、それで購入したわけだが、ほかも大方読んだ。柳田国男の代表作の『遠野物語』は、柳田国男が遠野出身の佐々木喜善からの語り聞きをまとめたもので、遠野といえば宮沢賢治の時代には花巻から軽便鉄道が通って、そこは宮沢賢治の童話の世界にもなっている所で、柳田国男と宮沢賢治はその世界を同じくしているし、「ざしき童子」と「ザシキワラ」シの同じような話も書いているし、後に佐々木喜善は宮沢賢治を訪ねて語り合いをしているから、「柳田国男と宮沢賢治」というテーマはありうるわけで、天沢退二郎氏の結論は以下のようになっている。

要するに、『遠野物語』を第一話から順々に読み入っていくとわかるのは、これが「物語」――西洋中世の物語、たとえばアーサー王物語部の語り出しに頻用される《物語の語るところによれば》という決まり文句が明示している〈物語〉の非人称性なる特質を指している。すなわち 『遠野物語』の魅力の根源は、西洋中世の騎士物語や、われらの『雨月物語』や宮沢賢治の童話などと共通の、非人称的な〈物語〉なるものの力によって支えられているのである。それでは、「遠野物語〈と〉宮沢賢治」の問題はどうなるのか? 決してあからさまにその名や体を見せることはないが(ざしき童子とザシキワラシの場合は稀にみる急接近だとしても)、「遠野物語」のいたるところに〈宮沢賢治〉がいるし、賢治テクストのいたるところに〈遠野物語〉があるのだと――かくのごとくに、「遠野物語〈と〉宮沢賢治」の「と」は、可能であると、言ってよいのではないだろうか。

と、以上のようになっているわけだが、私の考える「柳田国男と宮沢賢治」はこれではいけない。私的には、柳田国男と宮沢賢治のふたりの共通項には「遠野の世界」のほかに、もうひとつ「産業組合」があり、その扱われ方がある。幼い頃に飢餓を体験した柳田国男は、大学で農政学を学び、卒論には「社稷」の話を書き、農商務省に奉職すると1902年に『最新産業組合通解』を書き、産業組合の普及に力を入れた。柳田国男が『遠野物語』を書くのは1910年のことである。一方、宮沢賢治は『春と修羅』と『注文の多い料理店』を自費出版した1924年に「産業組合青年会」の詩を書き、1926年に花巻農学校を退職すると、同年6月に『農民芸術概論要綱』を書き、8月には「羅須地人協会」を立ち上げた。そして青年が力を合わせて産業組合を立ち上げる『ポラーノの広場』を書き、死ぬ間際には遺書のように「産業組合青年会」の詩を詩誌に送っている。しかし、多々ある柳田国男論でも宮沢賢治論でも、このあたりのことを書いたものは極めて少ない。『現代思想』の「総特集・柳田国男」もそうで、これを読んだところで、当文を書こうと思い立ったわけ。

柳田国男と宮沢賢治の共通項としての産業組合といっても、それぞれにおける産業組合への取り組みの流れはちがう。若き松岡国男は「文学界」の同人になり抒情詩を書いたわけだが、自然主義を批判し、田山花袋や島崎藤村と決別してやがて『遠野物語』を書いた。私見では、柳田国男は貧しい農民を救済すべく各地を回って産業組合の普及を説いたのであろうが、土着の現実にも突き当たったであろうと思われる。そして山人を知り、「国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と序に書いて『遠野物語』を自費出版した。田山花袋には「君には僕の心持は解るまい」、「君には批評する資格がない」とさえ言ったそうである。天沢退二郎氏が書くように『遠野物語』は反自然主義の物語であり、日本の近代化と近代文学を批判しており、その後の柳田国男は民俗学に向かう。一方、宮沢賢治は柳田国男よりも21歳若く、盛岡中学時代から同校の10年先輩の石川啄木の影響を受けて短歌を作るようになり、盛岡高等農林学校では同人誌をやり、やがて法華経を読んで救済の道を志すようになり、童話を書くようになった。実家の仕事を嫌い、東京への憧れもあったが、妹トシの死を契機に日本近代文学では前人未到の作品行為をなし、やがて教員を辞めて新たな理想に生きようとして「羅須地人協会」を立ち上げ、その内実は、宮沢賢治流の産業組合であったと思われる。産業組合は今でいう協同組合であり、農業、信用、消費の各分野で系統化をすすめながら広がりつつあり、1924年に「産業組合青年会」の詩を書いた頃には、宮沢賢治の中でそれは農民の理想と一体化していたと思われる。

柳田国男は、抒情詩を捨て、産業組合の普及仕事から『遠野物語』を自費出版する道を歩み出し、宮沢賢治は『春と修羅』と『注文の多い料理店』を自費出版した後に産業組合に心寄せた。だから、これは反対の歩み方かといえば、そうではない。柳田国男が田山花袋に「君には僕の心持は解るまい」と言ったように、宮沢賢治の産業組合に寄せる心持を理解しようとする人は少ない。要は、ふたりが「これではだめだ」と思ったことを、相変わらず人々はつづけているということだ。宮沢賢治は、1933年(昭和8年)に亡くなった。今の時代状況は、その頃と似ていないだろうか。

ここでおとなしくしていないと、いつまでも傷を引っ張りかねないから、年内の外出は来週の病院行きくらいであろうか。酒は年内は禁酒予定。だから、それまでは本を読むくらいしかすることがない。せっかくだから、柳田国男の『遠野物語』や産業組合論、宮沢賢治の『風の又三郎』や「ポラーノの広場」などをを再読してみよう。以下は、今年の春に書いたもの。やっと、ここに戻って来た。来年の春までには、「柳田国男と宮沢賢治の産業組合」をまとめたい。
http://daruma3.cocolog-nifty.com/nh/2016/04/index.html

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2016年12月17日 (土)

産業組合青年会

11月11日 のブログ「さて、何を書くか?」に、私は宮沢賢治論について「私的には論の主要な傾向は二つで、ひとつは天沢退二郎の『宮沢賢治の彼方へ』に代表される作品行為論的読み方と、もうひとつは〈羅須地人協会〉に代表される宮沢賢治の思想や生き方に共鳴するところから入る読み方である」と書いたわけだが、昨日のブログにつづけて以下のことを思いついたからメモするところ。

天沢退二郎氏は、宮沢賢治の作品行為は「ほぼ同じ時期に賢治の文学と深部で照応しあうはずの試行をすすめていたフランツ・カフカやアンドレ・ブルトンの営為」に通底していたとするわけだが、同様に私は、宮沢賢治の思想的営為は同時代のギルド社会主義や産業組合(協同組合)思想にも通底していたと思うとわけある。これは『春と修羅』第一集で極められた賢治の詩的営為が、その後「羅須地人協会」から農民への捨て身の献身を経て「雨ニモ負ケズ」の無惨なメモ書きにまで零落してしまったと言うよりは、そういうものとしての宮沢賢治の短くも永遠につながる「未完の完」の人生があったのではないかと私には思われ、宮沢賢治の文学カフカやブルトンに通底していただけであるよりは、その何倍も素晴らしいことなのではないかと思うわけである。

宮沢賢治は1924年に書いた「産業組合青年会」の詩を、死の直前1933年9月に『北方詩人』(福島県須賀川市の北方詩人会)に発表するために送っている。「産業組合青年会」は、以下のとおり。

 祀られざるも神には神の身土があると
 あざけるやうなうつろな声で
 さう云ったのはいったい誰だ 席をわたったそれは誰だ
   ……雪をはらんだつめたい雨が
     闇をぴしぴし縫っている……
 まことの道は
 誰が云ったの行ったの
さういう風のものでない
祭祀の有無を是非するならば
卑賤の神のその名にさへもふさはぬと
応へたものはいったい何だ いきまき応へたそれは何だ
  ……ときどき遠いわだちの跡で
    水がかすかにひかるのは
    東の畳む夜中の雲の
    わづかに青い燐光による……
 部落部落の小組合が
 ハムをつくり羊毛を織り医薬を頒ち
 村ごとのまたその聯合の大きなものが
 山地の肩をひととこ砕いて
 石灰岩末の幾千車かを
 酸えた野原にそそいだり
 ゴムから靴を鋳たりもしよう
   ……くろく沈んだ並木のはてで
     見えるともない遠くの町が
     ぼんやり赤い火照りをあげる……
 しかもこれら熱誠有為な村々の処士会同の夜半
 祀られざるも神には神の身土があると
 老いて呟くそれは誰だ

この詩は、前半分と後半分とで作品行為と思想的営為が交差している。最初から4、5行めの「雪をはらんだつめたい雨が 闇をぴしぴし縫っている」のフレーズと、最後から4、5行めの「見えるともない遠くの町が ぼんやり赤い火照りをあげる」とを対比させてみると、かつての詩人の顔とフレーズと、「産業組合青年会」を見守ろうとする農民思想家の顔が浮かび、ひとつの詩の中で無理なく転移しているように思えるわけである。

大内秀明氏は、『変革のアソシエ』27号に書いた小論「宮沢賢治と産業組合」の中で、死の間際に送られた「産業組合青年会」の詩は、賢治の遺書であったと書く。私もそう位置づけてもさしつかえなく思うし、「産業組合青年会」の志を受け継ぐことから「新しい協同組合の構想」、「新しい地域社会の構想」を始めようと思うところです。よろしくです。

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2016年12月16日 (金)

β版の人生

バイク事故から2週間、安静にして寝ているだけの日々、病院行き以外の外出はなく、やりかけの仕事少しとSNSの読み書きと本読みの日々、楽しみは食事だけでまた太ってしまった。本読みは、エドガー・スノー『アジアの戦争』(筑摩書房1973)、速水健朗『東京β』(筑摩書房2016)、山本一力『大川わたり』(祥伝社文庫2005)を読了、それに天沢退二郎編『宮沢賢治万華鏡』(新潮文庫)をぺらぺらと再読している。

『アジアの戦争』は1937年に始まった日中戦争のルポルタージュで、1941年の日米開戦の前頃までのことが書いてある。エドガー・スノーはアメリカ人ジャーナリストで、満州事変のことを書いた『極東戦線』を以前に読んだ。『アジアの戦争』はそのつづきを書いた本で、そこに描かれているのは、安倍政権やネトウヨの類ががなかったことにしたくても否定できない日本による中国侵略の史実なのだが、今回の私の読みどころは中国の「生産合作社」についてであった。生産合作社というのは生産協同組合のことで、日中戦争期から建国期にかけて、中国では生産合作社が盛んであった。これは、戦前の中国工業の中心地であった上海から揚子江沿岸の都市を日本が占領し、工場を略奪、破壊してしまったために、奥地に逃れた人々は小規模な機械で生産協同組合をつくって生産を支え、それは中国各地に広がったという話である。エドガー・スノーは毛沢東に会見して、その印象をこう書いている。「頭髪は短く剪っていたし、いつものような一般兵士の制服を着ていた。そして依然として素朴な平凡人であり、貧民とインテリとの奇妙な混合、偉大な政治的賢明さと世俗的常識との異状な結合を示していた。その革命に対する楽天主義はゆるがぬままであった」と。政治権力をとる前の毛沢東には空想的社会主義者の面影があり、毛沢東は魯迅の弟で日本で武者小路実篤の「新しき村」を訪れた周作人からそういった話を聴いて共感したというから、そのことは中国革命の後に権力を取った毛沢東が、文化大革命と人民公社というコミューンもどきを始めたことにも影響しているかもしれない。しかし、権力的なコミューンづくりと小生産による「大躍進」は結局は権力闘争の手段にしかならず、その後の中国は国家資本主義的な社会主義市場経済と称するものになってしまったわけだが、やがては行きづまるであろうその路線から再び社会主義を構想するなら、再度生産合作社による革命の原点に立ち返るべきであろうと思うわけである。小型協同組合を作ってそのネットワークによるコミュニティをもって市場経済とは別の道を行こうとする運動は、現在世界各地に立ち上がっている。そのポイントは、資本主義(=労働力の商品化)とは別の道を行くことにあるだろう。

速水健朗『東京β』は、バイク事故の二日前に図書館から借りた本、私の住む湾岸エリアから書き出された「更新され続ける都市の物語」。ベイエリアの開発物語は1958年にできた公団晴海団地から始まり、次に1983年の森田芳光監督の映画『家族ゲーム』の舞台となった「東京都住宅供給公社東雲都橋住宅」が出てきて、この住宅は私の住む住宅で当時も住んでいたわけだが、松田優作がそこでロケをしていたのは知らなかった。次に1986年に放送された鎌田敏夫脚本のテレビドラマ『男女7人の夏物語』の話になって、この物語は同じ鎌田敏夫脚本で「ろくな就職活動もせず、大学卒業後もアルバイトをしながら気ままにいきている」主人公を中村雅俊が演じた『俺たちの旅』のその後を描いたものであるとする。ヒッピーからヤッピーになった『男女7人の夏物語』の主人公は、清洲橋西側のマンションに住んでいるわけだが、ヤッピーにならなかった私はもっとはずれの臨海部である東雲の公社住宅に住んで、相変わらずのヒッピーふうのままに、この先オリンピックでさらに変わっていくだろうベイエリアを見ながら老いていくのだろうと思われた。「東京β」のβとは、パソコンソフトのβ版と同じ意味とのこと、私は永遠のβ版の人生といったところだろうか・

山本一力『大川わたり』は、大川(=隅田川)沿いの西と東、江戸の下町とりわけ深川を舞台とする渡るに渡れぬ永代橋、「男の矜持と人情」を描いた物語。『アジアの戦争』は10日以上、『東京β』は3日かけたけど、『大川わたり』は一昨晩一晩で読んだ。3,4日前に病院に行った時に、医者から「今がヤマかな」といわれたけど、昨日で事故から2週間経って傷も痛みも峠をこえたといったところか。昨日の医者も「入院はしなくて済みそう」と言うので、昨晩はうれしくなって一杯やりたくなり、旧い友人の健三君からは「俺もサッカーで骨折したけど、骨折の痛みがひいたら酒飲んじゃえよ、そのうちくっつくから、我慢なんか体に悪いよ」と励ましのメールをいただいたから、久しぶりの晩酌をして、山本一力の「男の矜持と人情」話を読んだ後の熱燗はことのほか旨かったのであったが、夜中に気がつけば、骨の痛みはまだ消えていないのであった。

12月からはいよいよ『定本・宮沢賢治全集』(筑摩書房1973)にとりかかる予定であったわけだが、本が重たくて肋骨4本骨折の身には寝ては読めず、代わりに新潮文庫の天沢退二郎編『宮沢賢治万華鏡』をぺらぺらしている。宮沢賢治は、よく知られた童話と詩以外に散文や小説も書いているし、絵も描き作曲もしたし、書簡やメモもたくさん残しているわけだが、これらもよく知られた童話と詩なみにおもしろい。どの作品も「未完成の完成」そのもので、メモされた言葉やプロットは様々に転移されている。『農民芸術概論綱要』を読み直していたら、そこにある『つめくさの灯ともす宵のひろば たがいのラルゴをうたいかわし 雲をもどよもし夜風にわすれて とりいれまぢかに歳よ熟れぬ』という詩は、『ポラーノの広場の歌』の最後で歌われる『つめくさの灯ともす夜のひろば むかしのラルゴをうたいかわし 雲をもどよもし夜風にわすれて とりいれまぢかに年ようれぬ』とほぼ同じであることに気づいた。『農民芸術概論綱要』は、「羅須地人協会」の立ち上げを前に講義された講義録であるわけだけど、その思いは『ポラーノの広場の歌』のテーマの若い仲間による「産業組合」づくりにつながっている。この辺りのことは、いま私がDTPしている『変革のアソシエ』27号に大内秀明氏が『宮沢賢治と産業組合」という小論に書いており、大内先生も私も宮沢賢治の「羅須地人協会」は賢治流の産業組合構想であったと見立てるわけだが、『アジアの戦争』に書かれた中国の生産合作社も、それを推進する中国工業合作社が設立されたのは1938年であるから、まさに晩年の宮澤賢治と時代的にクロスしているわけである。

今日は病院に行かないから、痛みも和らいできたから、この間に読んだ本のことを少し書いた。『変革のアソシエ』27号のレイアウト作業は昨日に終わり、著者校正に入った。来週初めにはそれが返ってきて、校正作業がすめば校了となるわけだけど、さてどうなるか。こんな暮れもあるものなのか、折れた骨は時間が経てばつながるというから、早く今年が終わることを願うばかりである。

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2016年12月 6日 (火)

いっぱい折れていますね

事故から5日目だけど、身体の痛さは増すばかり。そんで昨日、右足の腫れがひどいので聖路加国際病院に行くと、最初に診てくれた若い女医さんはパンパンに腫れあがった右足を見て、少し年上の男の医者を呼び、彼は感染症になっているかもしれないと血液検査をやり、明日また来るように言う。そんで、今日また病院に行ったわけだが、診てくれたのは別の若い男性の医者で、血液検査の詳しい結果は1週間後になりますと言い、胸のレントゲン写真を見せてくれて、折れているのはこの部分ですと言うのだった。しかし、示された折れた骨の部分と実際に痛い部分がちがうのでそう言うと、事故当日は前面からしか撮っていないからと、側面からも取り直すことになり、すぐにレントゲンを撮った。ER系の患者は、待たされることなくレントゲンが撮れて、撮り終わって診察ブースに戻ると、すでに若い医者は今撮ったばかりの画像を見ており、あきれた顔をしながら「いっぱい折れていますね。ざっと見ただけでもあと3本折れてる」と言うのであった。聖路加国際病院と言えども、緊急医療への対応は必要最小限なのであろうが、初日にここまで分っていれば、即入院ということになったかもしれない。ただ、最高のホスピタリティの聖路加国際病院の入院費は最低でも1日で3、4万円かかるというから、別に私は入院したいわけではないのだけど。私は肋骨を折ったのは初めてだったから、1本折れてもこの痛さかと思っていたわけだけど、あと3本以上折れていると聞かされると、痛さは3倍になったのであった。悪運で救われた後に、この痛さのお仕置きが待っていたとは。身体を横たえると肋骨が圧迫されて痛いから、眠る時は座椅子に座って眠っている。それでもあれこれ分ってよかった。若い医者は、新しい痛み止めを出しておきます、明後日また来てくださいと言い、来週には血液検査の結果も聞きに来ることになった。バイク共済に入っていて通院は1日4000円出るというから、それはまあいい。肋骨1本程度の骨折なら1週間もすれば動けるようになるだろうと当初は高を括っていたのだったが、当面動くのはほとんど無理そうである。何せ夜中にトイレに行くのに、蒲団から起き上がるのに20分くらいかかるのである。やりかけの『変革のアソシエ』27号のDTP作業は来週中に終わらせる予定だけど、さてどうなるか。26日に予定した労働運動講座「新しい労働運動の構想」第2回は、来年に延期することにする。あちこちに迷惑をおかけしそうである。いちばん手間をかけさすのはこの人だ。昨日も今日も、かみさんが付き添ってくれて、診察後には病院のレストランで日替わりランチで昼食をした。今年の年末は、こんな日々で終わりそうである。

前回の書き込みに沢山の方々から励ましをいただき、つくづくあり難いものだと感謝に限りなし。「神様から生かされたのだよ」と言われればそうとも思えるし、また仏様が「お前も林住期だから」と、いい歳をしてのバイク乗りをいさめたのかもしれない。いずれにせよ年内は安静&断酒して、新年からに備えよう。新しい年は、励ましをいただいた方々に何かを返せる年にしたいと思う。何人かのコメントに書いたけど、私の悪運の持ちポイントは今回の事故でゼロになった。だから、次回何かあれば私は死ぬだろうから、これからは一期一会の覚悟で生きようと思っている。

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2016年12月 3日 (土)

実にそうとしか思えないのである

昨日、生まれて初めて救急車に乗った。昨日は天気もよく暖かだったので、午後バイク乗りをしたのだが、湾岸の海底トンネルの中で転倒してしまったのである。海底めがけて下りになる走行車線上に落下物があって、それを踏んでバランスを崩し、アンコントローラブルのまま追い越し斜線に入って、その右側の縁石に接触して転倒したのであった。そこがどんなに危険な場所かはすぐわかった。バイクはエンジンがかかったまま前方に転がったままだが、私ははって幅50センチほどの縁石に上がって横になった。幸い私の後ろを走っていた大型トラックは直前で止まってくれて、下りてきた運転手さんはやはり走行車線上に止まったトラックの運転手と話をするとこちらにやって来て、「いま行ったクルマが事故連絡すると言っていた。ここはみんな猛スピードで下りてくる所だから」と言って、倒れたバイクを起こすと、ハザードランプをつけたトラックに戻って行き、やがてパトカーが来るのと入れ替わりに、そのトラックは走り去った。その時は気が動転していたから、名前も会社も訊かないままだったけど、思えば命の恩人である。そんなこともあって、ここに書き残しておきたいわけ。それから救急車が来て、私はそこに乗せられて、救命士さんは受け入れ先の病院をあたり、やがて聖路加国際病院が受け入れてくれることになった。警察の方は自損事故ということで、自宅に電話を入れるのと、エンジンのかからなくなったバイクを運び出すための牽引業者に連絡してくれた。聖路加国際病院ではほとんど待たされずに、着くと直ぐに急患用のブースに運ばれて、3人の可愛い看護師さんがヨイショと重い私をベッドに移して、アンダーシャツ以外を脱がしてくれた。こんなことになろうとは思ってもいなかったけど、出かける時に暖かめの衣料に着替えていたから、下着は新しく恥をかかずにすんだ、多分。しかし冬用の裏地つきのGパンと冬用のシンプソンのジャケットとその下に来たオイルドセーターは裂けてしまっていた。それから頭と首のCT、足と手と胸のレントゲンを撮った。その後、これも大して待たされることもなく若い美人の女医さんが来て、結果を説明してくれた。足は腫れていたけど傷は深くはなく骨も折れていない、右の肋骨が1本折れていただけであった。折れた肋骨を直すには薬はなく、1ヶ月ほどでつながるだろうとのことで入院になることもなく、痛み止めとサポーターのようなものを胸に巻いてくれた。そんで、迎えに来たかみさんとタクシーで帰ったのであった。

以上が、昨日の顛末である。気がついたことは、日本における事故や緊急医療への対処はなかなかよく出来たものであるということ。聖路加国際病院は、以前にも日曜日にサッカーをやって肉離れをおこし、夜に駆け込んだことがあったわけだが、高級ホテルを思わせる施設、ホスピタリティの高さで1、2の人気のある病院ではあるけど、私のような貧乏人が駆け込んでも対応には何の差もない。それと、あちこち痛くて身体を動かすのが難儀である。おそらく高齢化がすすんで寝たきりになるというのは、こういう状況になるのだと思わされ、それも遠い話ではないだろうと思われ勉強になった。また、かみさんは「あなたはテレビで高齢運転者の事故を見ると、『また高齢者が子供の列に突っ込んだ、免許書を取り上げないとダメだな』と言っているけど、あなたも同じ。今回は特別に神様があなたを助けてくれたけど、もうバイクは止めなさい。」と言うのであった。これで、来年最後のバイクに買い換えようと思っている計画も、ほぼご破算になりそうだけど、「今回は特別に神様があなたを助けてくれた」というのは、実にそうとしか思えないのである。

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