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2016年11月11日 (金)

さて、何を書くか?

1 9月までに新潮文庫ほかで宮沢賢治の作品を大方読み終えた後、宮沢賢治論をあれこれ読んだ。図書館に行くと、宮沢賢治論は夏目漱石論に次いで数が多いのだが、私的には論の主要な傾向は二つで、ひとつは天沢退二郎の『宮沢賢治の彼方へ』に代表される作品行為論的読み方と、もうひとつは「羅須地人協会」に代表される宮沢賢治の思想や生き方に共鳴するところから入る読み方である。そして今回、無名であった宮沢賢治を発見して世に紹介した草野心平を少し読んだ。

 昭和40年代に出版された新潮社版『日本詩人全集』の草野心平編『宮沢賢治詩集』(1967)と、今回読んだ新潮文庫版の天沢退二郎編『宮沢賢治詩集』(1991)を読み比べると、選ばれる作品が少しちがうのが分かる。前者はオールラウンドなのだけど、後者は例えば『春と修羅』でいえば、3集、4集からのものはあまりない。童話で言えば、宮沢賢治の代表作は『風の又三郎』、『銀河鉄道の夜』、『グスコードリブの伝記』、『ポラーノの広場』の4作のうち、『ポラーノの広場』への言及は少ない。
 その訳は、天沢退二郎の宮沢賢治論を読むとすぐ解る。『《宮沢賢治》論』(筑摩書房1976)には以下のようにある。

 作品行為論的には、「作品は存在する。だが存在するとは・・時間の中を生と死をくりかえして変身・転生しながら、それ自らの時間をつくり出し、それなりに変わっていくのである」(天沢退二郎『《宮沢賢治》論』p155)。「実生活上の事件や体験と作品行為とは、ぬきさしならぬ深い関係をもちながらも、本質的にはきびしく峻別されるべきである」(同p162)。「宮沢賢治の〈作品〉とはいったいなにか、それは作品AからA′へA″へと動かしていく、非常な力業である。作品を動かしていくアクションですね。このアクションと、それからそれによって次々に実現されていくテキストのすべてである、と。アクションだけに限定してもいけないし、また固定されたテキストだけを作品だと思っても、やはり不完全である。・・つまり個々であると同時に全体であるもの、これを作品というべきではないだろうかと思うわけで、このような個と全体との、いわば二つの面を同時に追求していく・・と。全体の幸福がないうちは個人の幸福はあり得ないというのは、人生論的な彼の命題として有名ですけども、これは彼の作品を論ずる場合にも言えるだろうと思いますね」(同p271)と。

 要は、「実生活上の事件や体験と作品行為とは・・本質的にはきびしく峻別されるべきである」ということであり、文学とはそういうものであるのだということである。一方、宮沢賢治が多くの人に愛されるのは、詩集『春と修羅』の「無声慟哭」もあるだろうけど、それよりも『銀河鉄道の夜』など多くの童話や「イーハトーブ」、「羅須地人協会」や農民のために駈けずりまわる生き方と「雨ニモ負ケズ」への共感みたいなことが多いのではあるまいか。だから宮沢賢治論というのは、「未完成の完成」である作品のテキストクリティクになるか、宮沢賢治「人生論的な彼の命題」とその実践活動やユートピア論に引き付けて論じるのかになり、前者の立場からすれば、「何をいったい〈作品〉とよぶのか」となり、後者の立場からはそれそれの共感の仕方から敷衍された宮沢賢治が論じられる。さて、私は何を書くか?

 草野心平は、『春と修羅』を読んでびっくりして自分の雑誌に宮沢賢治を誘い、宮沢賢治の死後、残された原稿を読んでまたびくりして、「全集」を発行して宮沢賢治を世に知らしめた人。草野心平は詩人だけど、詩よりもその生き方が断然おもしろい。このあたりも書きたいよね。

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