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2016年10月 7日 (金)

「労働力商品化の止揚」という表現はもうそろそろ再考を

9月21日のブログ「コミュニティの形成は可能か、青木孝平『「他者」の倫理学』を読む」に対して、青木孝平氏から以下のコメントをいただきました。
「〈労働力商品化の止揚〉という表現は、もうそろそろ再考された方がよいのではないかと思います。「止揚」は、あまりにヘーゲル的弁証法の発想が色濃くしみついており、社会主義の自然必然性を想起させるものではないでしょうか?」とありました。
それで、以下を書くところです。

私は社会主義というのは、彼岸にあるものというよりは現在ある運動だと思っていますから、革命による彼岸の獲得、もしくは「不可侵の無限者〈実践者〉、すなわち〈他者〉の〈他力〉」によってある日に現れるものだとも考えません。また、ヘーゲル哲学こそ近代哲学の完成品であり、それを否定しないことには近代社会は超えられないとも思っていませんから、ヘーゲル的弁証法なども全否定しません。ですから「労働力商品化の止揚」という表現は、運動論的に使うわけで、宇野派であっても、それを使う人もいれば、使わない人もいるということで、これも宇野派の場合、どちらかの意見が他の意見を批判はしても否定する、宇野派の見解が統一されることもありえないところです。純粋資本主義論争をやった大内秀明氏と岩田弘氏は、激しく論争をしながらも、お互いはリスペクトしあっていたようです。

異なる意見の否定、イデオロギー的一元化というのは、コミンテルン系左翼に共通することで、講座派とその亜流の新左翼には内ゲバが絶えませんでした。10月7日の朝日新聞の「異論のススメ」に、保守の論客とされる佐伯啓思氏は、以下のように書いています。
「(フランス革命を批判したエドモンド・バークは)改革は漸進的で、その社会の歴史的構造に即したものでなければならない、と彼は述べた。なぜならば、人間は既存の権威を全面的に否定して、白紙の上にまったく新しい秩序をうみだすことなどできないからである」と。
この保守の論客に、左翼はだいたい負けます。

また、社会学者の橋爪大三郎氏は、『労働者の味方マルクス』(現代書館2010)という本に、マルクス経済学における価値、労働価値説については、森嶋通夫の数式を解説して、以下のように書いています。
「森嶋通夫の『マルクスの経済学』(岩波書店1973)は、『資本論』の議論を、数式でモデル化し、労働価値説がどういうものか、明らかにしてみせた。これによると、マルクスが考えた資本主義経済のモデルは、線型の連立方程式で現すことができる」、「『資本論』のモデルは、無矛盾で合理的であるが、単純化のための多くの仮説のうえに成り立っている。価値は、そうした単純化によって、仮説的に構成されたものなのだ」と。
これは労働価値説が正しいとすれば、『資本論』に書いてあることは正しいけど、価値が定義できなければ『資本論』は成り立たないということだと思われます。
橋爪大三郎氏はマルクス主義者ではありませんが、マルクスを否定することなく若者を対象にして「働き者が幸せになる日本へ、マルクス主義者でなかったマルクスが、一番伝えたかったこと」を易しく解説しており、そのスタンスには佐藤優氏のスタンスに通じるものがあります。そして橋爪大三郎氏は、マルクスが『資本論』を書き直すとすれば「マルクスは、市場経済にあらためて注目し、その可能性をフルに使って、未来へのシナリオを構想するだろう、と私は思う」と書いています。

森嶋通夫は60年代末にイギリスに渡り、1973年に『マルクスの経済学』を出版したわけですが、同じ頃に柄谷行人は『マルクスその可能性の中心』を書いて、そこに以下のように書いています。
「マルクスの『資本論』の主要な課題は、価値形態に関する顕微鏡的な解明によって、経済学または貨幣経済の歴史と同じ位古い〈偏見〉を打倒することにある。微細なものとは、貨幣形態の謎であり、またそこにこそマルクスと古典経済学またはヘーゲルとの“差異”が存するのだ」。「価値形態論は、一見すれば、〈貨幣の必然性〉を、証明しているかのようにみえる。しかし、貨幣の自己実現というヘーゲル的展開にもかかわらず、マルクスは、貨幣の成立が商品あるいは価値形態をおおいかくすことを語っているのだ」と。

そして柄谷行人氏は、1975年にアメリカに渡ってイェール大学で明治文学を講義する中で、『日本近代文学の起源』を構想し、近代文学の誕生は内面を対象化して三人称客観という視点を確立したところに成立し、それは言文一致によって可能になり、さらに言文一致による近代小説の成立は「想像の共同体としてのネーションの基盤になり」、近代国家(ネーション=ステート)を成立させたとします。そして『近代文学の終わり』(インスクリプト2005)に、「現在、世界中のネーション=ステートは、資本主義的なグローバリゼーションによって文化的に侵食され」、「グローバルな資本主義経済が、旧来の伝統志向と内部志向を根こそぎ一掃し」、「今日の状況において、文学(小説)がかつてもっていたような役割を果たすことはありえない」と書きますが、とりたててヘーゲルを批判、否定するわけでもなく、「近代文学が終っても、われわれを動かしている資本主義と国家の運動は終らない。それはあらゆる人間的環境を破壊してでも続くでしょう。われわれはその中で対抗して行く必要がある」と書いて、反原発や協同組合、護憲の運動などに連帯しつづけています。

青木孝平氏は、「〈労働力の商品化〉とは、ひとり労働者の〈従属労働〉や〈疎外された労働〉のことではない。むしろそれは、流通が生産を包み全社会関係が市場メカニズムに支配される接合点であり、あらゆる人間が、安く買って高く売る〈資本の人格化〉として現れざるをえない自我の病理現象を指」すものであると書き、一方、柄谷行人氏は「生産過程から流通過程へという理論的な転倒は大事だと思う」と書いて協同組合を中心にしたアソシエーション運動に期待するわけですが、それに対して青木孝平氏は、そういった「生産者と消費者の協働組合による独立小生産者型のアソシエーション運動、地域通貨による小市場圈のネットワーク化運動」をやってもしょうがないものと批判して、「我のエゴイズムそれゆえ資本主義の〈全体性〉そのものを克服するためには、いったい何が残されているのであろうか。それは、あえて言えば、依然としてなお、不可侵の無限者〈実践者〉、すなわち〈他者〉の〈他力〉であると答えるしかない」と結論します。

近代文学の成立もそうですが、「自我の病理現象」は労働者というよりはインテリの中に発生して、思想として流布されます。私から見れば、ヘーゲル的弁証法の否定というのも、また再びの「自我の病理現象」のくり返しなのであって、インテリの業みたいなものにしか思えません。だから業を捨てて他力だというのはいいのですが、「自我への妄執の無根拠性を根源的に暴露」せねばとそれを確信する人を集めたりすれば、それはまた無間地獄にしかならないとおもいます。

これまでの経験では、資本主義に対抗するのに、社会主義もアナキズム的なユートピア主義もうまくいかない。それはヘーゲルやマルクスといった参考書が間違っていたからなのか、読み間違えをしたのか。確かなことは、歴史的でありながら「全体性」を有する資本主義のグローバル化がすすんでいるということであり、それを分析するのに比較的正しそうなものとして宇野経済学と『恐慌論』があるということであるのですが、資本主義への処方箋について、宇野弘蔵は「南無阿弥陀仏」としか言い残しませんでした。青木孝平氏は、「〈労働力商品化の止揚〉という表現は、もうそろそろ再考された方がよいのではないか」とおっしゃるわけですが、道は「不可侵の無限者〈実践者〉、すなわち〈他者〉の〈他力〉」に拠りながら「自我への妄執の無根拠性を根源的に暴露」することなのか、同じ他力でも「〈百姓のもちたる国〉として栄えた加賀一向門徒による共和国」づくりをすすめることなのか、あれもこれも人それぞれなのである、というのが私の意見です。

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コメント

ご高説をありがとうございました。
私がお尋ねしたかったのは、なぜ、労働力の商品化の「止揚」なのか?なぜ、「廃絶」や「廃棄」では、いけないのか?という点です。「止揚」というと、資本主義の内在的矛盾によって、自動的に変革が起こるという、エンゲルス的唯物史観を想起させます。さらに、「止揚」という以上は、そこから何かをポジティブに継承する必然性を感じてしまいます。いったい何を高次に継承するのでしょうか?
私が「他者」というのは、ちょうど労働から商品が生まれず、労働力商品の成立にも歴史的必然性ではなく、エンクロージャという暴力的断絶があることを強調するためであり、資本主義の終焉も、そうした外部的な契機による断絶があることを言いたかったのです。それが内在的必然性ではなく、非法則的な契機である以上、やはり「止揚」という表現は適切でないと思います。

投稿: 青木孝平 | 2016年10月11日 (火) 15時09分

「エンゲルス的唯物史観」は、資本主義の崩壊を待ち続けるという客観主義、もしくはそういうものとしての社会民主主義に行き着くと私は思います。かつての社会主義協会や現在の共産党がそうです。そこには「労働力の商品化」という認識がないからです。労働運動において、労働組合主義や左翼労働運動でなくて、「労働力の商品化」を軸に労働運動を考えれば、労働力の「廃絶」とか「廃棄」では意味不明で、それこそ永遠の待機主義になります。「止揚」というのは必然性というよりは、マルクスが『ドイデ』に言う如く現実の運動過程だと思います。宇野弘蔵のサンディカリズムへの共感もそうですが、大内力、降旗節雄、岩田弘から大内秀明、さらには柄谷行人から佐藤優まで、宇野派が共同体論に行き着くことにこそ必然性があると思うところです。

今日のブログに書きましたが、宇野派の先生たちと自主生産闘争をやってきた労働運動の人々をコーディネイトして「労働力商品の止揚によるコミュニティの形成」という講座を企画しました。これは、以前少し話したかもしれませんが、大内秀明氏の作並の別荘に宇野派の先生方を集めてやろうとしたことを、公開講座でフィールドワーク的にやろうとする企画です。「労働力商品の止揚」には百年単位の年月がかかり、ある日それまでの努力と何の関係の無いところから資本主義は終わるのかもしれませんが、運動とは念仏みたいなものと思えばいいわけです。

投稿: | 2016年10月12日 (水) 22時59分

追記、
もともと私は「労働力商品の止揚」というよりは、「脱労働力の商品化によるコミュニティの形成」という表現をつかっていました。それは、私はヘーゲル・マルクス系というよりは、プルードン系であったからです。
※下記のブログ参照

脱労働力商品論と歴史の見方
http://daruma3.cocolog-nifty.com/nh/2007/01/post_8351.html
脱労働力商品への道とコミュニティビジネス
http://daruma3.cocolog-nifty.com/nh/2007/06/index.html
脱労働力商品への道と「コースの定理」
http://daruma3.cocolog-nifty.com/nh/2007/07/post_0e89.html

その後、宇野派の先生方とおつきあいするようになって、最近ですが、理解し易いタームとして「労働力商品の止揚」という表現をするようになりました。しかし、青木さんに言われてみれば、止揚はおっしゃるとおりですから、今後は再度「脱労働力の商品化」に戻すことにします。

例えば、ひとりひとりの労働者が、被雇用状態から離脱して、そうすると個人で生きるのは難しいですから、プルードン的にはアトリエとなる小生産コミュニティを形成して生業をするというのが「脱労働力の商品化」の最初のイメージです。実際に見てきたパラマウント製靴ほかの自主生産事業というのは困難なものですが、生産コミュニティの人々はなんとかしのぎます。その時、「脱労働力の商品化」というのは念仏みたいなものとしてあり得るというか、そういった実感を念じるからこそ困難をしのげるのではないかと思うところです。

私は50歳で生協勤めを辞めて、NPOとしてアトリエづくりを試みて失敗しましたが、凡夫に反省なし、またぞろ「脱労働力の商品化によるコミュニティの形成」を構想するわけです。

投稿: | 2016年10月13日 (木) 07時39分

今日のfacebookに以下を書きました。ついでにここにも。

社会評論社の松田社長から、毎日新聞の書評に佐藤優氏が青木孝平著『「他者」の倫理学』の評を書いてくれて本が売れ出したよとうれしそうに電話があって、評のPDFが送られて来た。明後日は「変革のアソシエ」の共同体研究会があって、本書への私の評をレジメにして研究会を行う。ポイントは、宇野経済学の可能性、とりわけ『恐慌論』による現状認識と、脱労働力商品化によるコミュニティの形成は可能か、ということ。青木孝平氏の論は理解できても、運動論的には批判的に読まざるをえない。原理論とその適応と現実の運動と、これも三段階論的に考えるしかないのか。私は学者じゃないから、研究会と合わせて11月から添付の労働運動講座「新しい労働運動の構想」も立ち上げるところ。ここで構想する新しい労働運動としての脱企業組合・非正規・外国人らによる「地域労働者コミュニティ」の形成こそが、これまでの企業内組合が主体の連合型労働組合を超えて、より広い「地域コミュニティ」形成への嚆矢になるだろうと思っている。講座を、よろしく。

投稿: | 2016年10月23日 (日) 22時02分

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