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2016年10月12日 (水)

日高屋でちょい飲み

今日は、夕方から仲町の日高屋で小野寺忠昭さんと、来月から「変革のアソシエ」でやる労働運動講座の打ち合わせ。講座の第1回は、小野寺さんからの問題提起を中心に、11月22日にやることを決めた。日高屋は、2時間近くのちょい飲みで、1人1500円。大した飲食ではないけれど、ジジイ二人が喫茶店でコーヒーだけで話すよりは、話がはずむ。
労働運動講座の企画は、以下のとおり。最初は今年の6月頃にシンポジウムをやる予定だったけど、1年間で全10回の連続講座に切り替えたところ、宇野派の先生方と実践者をコーディネイトした、自分で言うのもなんだけど、私の渾身の企画です。

テーマ:新しい労働運動の構想
 非正規労働者が四割を超え、正規労働者の組織率も実質一桁に落ち込みながら、正規労働者による企業別組合が労働組合の顔をしてなおかつ翼賛化している日本の労働組合の現状に対して、私たちはどんな対抗運動の構想を対置し得るのか。
 「脱労働力の商品化によるコミュニティの形成」を軸に、東北における地域循環型社会構想、「広瀬川流域スマートコミュニティ構想」をすすめる大内秀明氏らの「仙台・羅須地人協会」とも連携しながら、コミュニティをベースにした新しい労働運動を構想するところです。
 問題提起と現状分析を中心にしたプレ講座を4回、2017年春からは、運動現場と社会運動からの報告と運動論の構築で6回の全10回を予定しています。

■第1回
 テーマ:新しい労働運動の構想①労働社会の再建
 講 師:小野寺忠昭(元東京地評オルグ)
 日 時:11月22日(火)18時~20時
 場 所:変革のアソシエ東京事務所(中野)
 参加費:1000円
 申込み:平山まで

■講師(※予定だけどみなさん了承済)
 大内秀明(東北大学名誉教授、仙台・羅須地人協会代表)
 鎌倉孝夫(埼玉大学名誉教授)
 伊藤 誠(東京大学名誉教授)
 河村哲二(法政大学教授)
 樋口兼次(協同組合中小企業研究所)
 鳥井一平(全統一)
 嘉山将夫(埼京ユニオン)
 都筑 建(NPO太陽光発電ネットワーク)
 堀 利和(NPO共同連)

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2016年10月 7日 (金)

「労働力商品化の止揚」という表現はもうそろそろ再考を

9月21日のブログ「コミュニティの形成は可能か、青木孝平『「他者」の倫理学』を読む」に対して、青木孝平氏から以下のコメントをいただきました。
「〈労働力商品化の止揚〉という表現は、もうそろそろ再考された方がよいのではないかと思います。「止揚」は、あまりにヘーゲル的弁証法の発想が色濃くしみついており、社会主義の自然必然性を想起させるものではないでしょうか?」とありました。
それで、以下を書くところです。

私は社会主義というのは、彼岸にあるものというよりは現在ある運動だと思っていますから、革命による彼岸の獲得、もしくは「不可侵の無限者〈実践者〉、すなわち〈他者〉の〈他力〉」によってある日に現れるものだとも考えません。また、ヘーゲル哲学こそ近代哲学の完成品であり、それを否定しないことには近代社会は超えられないとも思っていませんから、ヘーゲル的弁証法なども全否定しません。ですから「労働力商品化の止揚」という表現は、運動論的に使うわけで、宇野派であっても、それを使う人もいれば、使わない人もいるということで、これも宇野派の場合、どちらかの意見が他の意見を批判はしても否定する、宇野派の見解が統一されることもありえないところです。純粋資本主義論争をやった大内秀明氏と岩田弘氏は、激しく論争をしながらも、お互いはリスペクトしあっていたようです。

異なる意見の否定、イデオロギー的一元化というのは、コミンテルン系左翼に共通することで、講座派とその亜流の新左翼には内ゲバが絶えませんでした。10月7日の朝日新聞の「異論のススメ」に、保守の論客とされる佐伯啓思氏は、以下のように書いています。
「(フランス革命を批判したエドモンド・バークは)改革は漸進的で、その社会の歴史的構造に即したものでなければならない、と彼は述べた。なぜならば、人間は既存の権威を全面的に否定して、白紙の上にまったく新しい秩序をうみだすことなどできないからである」と。
この保守の論客に、左翼はだいたい負けます。

また、社会学者の橋爪大三郎氏は、『労働者の味方マルクス』(現代書館2010)という本に、マルクス経済学における価値、労働価値説については、森嶋通夫の数式を解説して、以下のように書いています。
「森嶋通夫の『マルクスの経済学』(岩波書店1973)は、『資本論』の議論を、数式でモデル化し、労働価値説がどういうものか、明らかにしてみせた。これによると、マルクスが考えた資本主義経済のモデルは、線型の連立方程式で現すことができる」、「『資本論』のモデルは、無矛盾で合理的であるが、単純化のための多くの仮説のうえに成り立っている。価値は、そうした単純化によって、仮説的に構成されたものなのだ」と。
これは労働価値説が正しいとすれば、『資本論』に書いてあることは正しいけど、価値が定義できなければ『資本論』は成り立たないということだと思われます。
橋爪大三郎氏はマルクス主義者ではありませんが、マルクスを否定することなく若者を対象にして「働き者が幸せになる日本へ、マルクス主義者でなかったマルクスが、一番伝えたかったこと」を易しく解説しており、そのスタンスには佐藤優氏のスタンスに通じるものがあります。そして橋爪大三郎氏は、マルクスが『資本論』を書き直すとすれば「マルクスは、市場経済にあらためて注目し、その可能性をフルに使って、未来へのシナリオを構想するだろう、と私は思う」と書いています。

森嶋通夫は60年代末にイギリスに渡り、1973年に『マルクスの経済学』を出版したわけですが、同じ頃に柄谷行人は『マルクスその可能性の中心』を書いて、そこに以下のように書いています。
「マルクスの『資本論』の主要な課題は、価値形態に関する顕微鏡的な解明によって、経済学または貨幣経済の歴史と同じ位古い〈偏見〉を打倒することにある。微細なものとは、貨幣形態の謎であり、またそこにこそマルクスと古典経済学またはヘーゲルとの“差異”が存するのだ」。「価値形態論は、一見すれば、〈貨幣の必然性〉を、証明しているかのようにみえる。しかし、貨幣の自己実現というヘーゲル的展開にもかかわらず、マルクスは、貨幣の成立が商品あるいは価値形態をおおいかくすことを語っているのだ」と。

そして柄谷行人氏は、1975年にアメリカに渡ってイェール大学で明治文学を講義する中で、『日本近代文学の起源』を構想し、近代文学の誕生は内面を対象化して三人称客観という視点を確立したところに成立し、それは言文一致によって可能になり、さらに言文一致による近代小説の成立は「想像の共同体としてのネーションの基盤になり」、近代国家(ネーション=ステート)を成立させたとします。そして『近代文学の終わり』(インスクリプト2005)に、「現在、世界中のネーション=ステートは、資本主義的なグローバリゼーションによって文化的に侵食され」、「グローバルな資本主義経済が、旧来の伝統志向と内部志向を根こそぎ一掃し」、「今日の状況において、文学(小説)がかつてもっていたような役割を果たすことはありえない」と書きますが、とりたててヘーゲルを批判、否定するわけでもなく、「近代文学が終っても、われわれを動かしている資本主義と国家の運動は終らない。それはあらゆる人間的環境を破壊してでも続くでしょう。われわれはその中で対抗して行く必要がある」と書いて、反原発や協同組合、護憲の運動などに連帯しつづけています。

青木孝平氏は、「〈労働力の商品化〉とは、ひとり労働者の〈従属労働〉や〈疎外された労働〉のことではない。むしろそれは、流通が生産を包み全社会関係が市場メカニズムに支配される接合点であり、あらゆる人間が、安く買って高く売る〈資本の人格化〉として現れざるをえない自我の病理現象を指」すものであると書き、一方、柄谷行人氏は「生産過程から流通過程へという理論的な転倒は大事だと思う」と書いて協同組合を中心にしたアソシエーション運動に期待するわけですが、それに対して青木孝平氏は、そういった「生産者と消費者の協働組合による独立小生産者型のアソシエーション運動、地域通貨による小市場圈のネットワーク化運動」をやってもしょうがないものと批判して、「我のエゴイズムそれゆえ資本主義の〈全体性〉そのものを克服するためには、いったい何が残されているのであろうか。それは、あえて言えば、依然としてなお、不可侵の無限者〈実践者〉、すなわち〈他者〉の〈他力〉であると答えるしかない」と結論します。

近代文学の成立もそうですが、「自我の病理現象」は労働者というよりはインテリの中に発生して、思想として流布されます。私から見れば、ヘーゲル的弁証法の否定というのも、また再びの「自我の病理現象」のくり返しなのであって、インテリの業みたいなものにしか思えません。だから業を捨てて他力だというのはいいのですが、「自我への妄執の無根拠性を根源的に暴露」せねばとそれを確信する人を集めたりすれば、それはまた無間地獄にしかならないとおもいます。

これまでの経験では、資本主義に対抗するのに、社会主義もアナキズム的なユートピア主義もうまくいかない。それはヘーゲルやマルクスといった参考書が間違っていたからなのか、読み間違えをしたのか。確かなことは、歴史的でありながら「全体性」を有する資本主義のグローバル化がすすんでいるということであり、それを分析するのに比較的正しそうなものとして宇野経済学と『恐慌論』があるということであるのですが、資本主義への処方箋について、宇野弘蔵は「南無阿弥陀仏」としか言い残しませんでした。青木孝平氏は、「〈労働力商品化の止揚〉という表現は、もうそろそろ再考された方がよいのではないか」とおっしゃるわけですが、道は「不可侵の無限者〈実践者〉、すなわち〈他者〉の〈他力〉」に拠りながら「自我への妄執の無根拠性を根源的に暴露」することなのか、同じ他力でも「〈百姓のもちたる国〉として栄えた加賀一向門徒による共和国」づくりをすすめることなのか、あれもこれも人それぞれなのである、というのが私の意見です。

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