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2016年7月19日 (火)

『校本・宮沢賢治全集』と「凡夫の俗論」

72「仙台・羅須地人協会」のMLに半田正樹氏が「宮沢賢治の世界は、なんびとに対しても開かれていながら、その扉を開けるのは容易なことではありません。何かのきっかけにスイッチが入らないととび込めない設計になっているように思います。スイッチを探り当てる難しを感じます。」と書かれているが、まったくその通りで、私も今年こそ天沢退二郎・入沢康夫編『校本・宮沢賢治全集』(筑摩書房)を読もうと全集を部屋に積み上げたのだが、難攻不落この上ない。何しろ厚くて重いから寝転がって読めない。そこで、編者が同じ天沢退二郎氏である新潮社版の文庫本をアマゾンで各1円で手に入れて、そこには主要な作品が網羅されていて、これをだいたい読んだところ。これまでも「宮沢賢治詩集」や「文学全集」や「文庫本」で代表作を拾い読みしてはいたけど、改めて読み直すと、その奥の深さは尋常ではない。

宮沢賢治の本で生前に出版されたは、詩集の『春と修羅 第一集』と童話集の『注文の多い料理店』の二冊だけである。作家の作品は、出版されて評価を得てそこに代表作も生まれるわけだが、宮沢賢治の場合、代表作の『銀河鉄道の夜』も『風の又三郎』も『グスコードリブの伝説』も『ポラーノの広場』も一部が雑誌に掲載された以外は未出版である上に、どれも最初の着想から何度も書き直しが行われている。『注文の多い料理店』は有名だけど、宮沢賢治の童話全体からすれば分量的にはその1%程度で、それ以上にシュールで面白い童話はほかにもいっぱいある。また、宮沢賢治の人生は36年と短いけど、実生活から精神生活までの多様さと深さは、どの切り口からでもユニークな賢治論や賢治伝が書けるほどであるから、いくら賢治論や評伝みたいなものを読んでも、「宮沢賢治の世界は、なんびとに対しても開かれていながら、その全体を理解するのは容易なことではない」となるのである。

天沢退二郎・入沢康夫編『校本・宮沢賢治全集』(筑摩書房)は、45年前の私がまだ学生の頃に出版が始まり、当時、私は時給150円で本屋でアルバイトをしながら、また学生を止めて本屋で働き出してからは3万円の給料から1冊4000~5000円するその全集を購入した。それは、当時、文学をしたかった私が、「作品行為とは何か、それを解く要諦は宮沢賢治にあり」と思ったからであり、そのサゼスチョンを天沢退二郎から受けたからであった。通常作家は、新聞なり雑誌なりに小説を書き、それが単行本になったところでその作品行為は終わる。それでも最初に書かれた原稿とその直し、新聞に載った字面、単行本に載った字面、さらには文庫本になって読みやすくされた字面には違いがある。一方、宮沢賢治の作品は、大半が本になることはなく、どの作品も最初の着想と書き出し、初稿から何度も推敲と書き直しが繰り返され、それは賢治が亡くなるまでつづいた。賢治の死後、それらは残された草稿を元に編集されて次々と本になったわけだが、ではそれが決定稿であるかというと、必ずしもそうではないものが多く、「編集者によるつじつま合わせの手の多く入った合成本が流布されていた」のであった。

そこで、1970年代に天沢退二郎・入沢康夫編『校本・宮沢賢治全集』は、宮沢賢治の全原稿から推敲して、各作品の成立過程と構造を明らかにして、決定版といわれるものを作ったわけである。当時、天沢退二郎と入沢康夫は明治学院大学の教授で、現代詩人として知られていた。入沢康夫は「詩は表現ではない」と喝破し、天沢退二郎はモーリス・ブランショの『文学空間』から「作品行為論」を展開していた。宮沢賢治が自費出版した『注文の多い料理店』はほとんど売れなかったから、賢治はその後の童話の出版はあきらめるわけだが、読まれるあてもなく童話は書き継がれ推敲され、プロットは転移され、消しゴムで字句が修正され、と書き直しが繰り返し繰り返し行われ、それは死ぬまでつづいたのであった。宮沢賢治の詩や童話、賢治ワールドは如何にして成立したのか、書くとは何か、文学空間とは何か、こういったことが天沢退二郎・入沢康夫編『校本・宮沢賢治全集』では解き明かされていると、私は思ったわけであった。

その後、生協に転職して以来、私は文学よりも協同組合や社会運動ばかりやって来た。そして一昨年に前期高齢者になり、仙台ヒデさんとの共著本を出し、最近やっとまた文学をと思い出し、今年こそ宮沢賢治を読もうと思ったわけである。しかし、難攻不落の『校本・宮沢賢治全集』、どこから攻めるかと思った矢先の2月28日に、前にも書いたけど、仙台ヒデさんから「貴兄の組合論、賢治の産業組合にひっかけた論稿をグリーン冊子の第三集に載せたいのです。くれぐれも宜しく。」とのメールをいただき、「宮沢賢治と産業組合」、「羅須地人協会と産業組合」みたいなテーマでならということで、これが私の宮沢賢治入門のスイッチになったわけである。

宮沢賢治をこういう切り口からとらえるというのは、一面的で宮沢賢治を語ることにはならないという意見はあるだろう。仙台ヒデさんとの共著本『土着社会主義の水脈を求めて』には、「夏目漱石を社会主義者と書くとはけしからん」という批判をする人もいた。その人からすれば、今回も同じにしか読めないだろうけど、夏目漱石と宮沢賢治には大いなる共通点がある。それは、凡夫には及ばぬ作品の奥の深さであり、思想の許容度の広さである。だから、凡夫にできることは、その一面を描くことだけ。「羅須地人協会」ひとつにしても、「羅須」とは何か、その解釈はつきない。だから私は、「羅須地人協会とは、宮沢賢治が考えた産業組合のことである」くらいに立てて、凡夫の俗論を目論むわけである。

しかし、これはあくまでも私の宮沢賢治入門だ。賢治の文学空間へのアプローチ、天退流には「宮沢賢治の彼方へ」は、私の協同組合論を始末つけた後に、あらためて取り組もうと思っている。70歳を過ぎてからになるだろうか、そしてそれを死ぬまでつづけようと思っているわけである。自分で言うのも何だけど、いい人生だ。しかし、とりあえずは「羅須地人協会と産業組合」をまとめよう。これが今夏の宿題だ。そろそろ梅雨明けか、大好きな8月、夏を楽しもう。

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コメント

僕も、文庫本を手に入れよう。そして、賢治の世界に親しもう。

投稿: 大野和美 | 2016年7月23日 (土) 10時53分

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