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2016年6月13日 (月)

花巻ユトピーオ

Photo2月28日に仙台ヒデさんから、「貴兄の組合論、賢治の産業組合にひっかけた論稿をグリーン冊子の第三集に載せたいのです。くれぐれも宜しく。」とのメールをいただいた。「グリーン冊子」というのは、「仙台・羅須地人協会」発行の冊子で、これまでに1号を2014年12月に、2号を2015年12月に発行して、そこに2014年12月に仙台ヒデさんと共著した『土着社会主義の水脈を求めて』のつづきの論考と併せて、その後の取り組みなどを報告しているのだが、年1回の発行では間に合わないくらいの論考&運動の進捗状況になってきたということであろうか。

「くれぐれも宜しく」というのは仙台ヒデさんの殺し文句であって、メールをもらった私はたちどころに「産業組合」について何か書かねばと思い、その頃私は柄谷行人の『近代文学の終わり』(インスクリプト2005)と『定本・日本近代文学の起源』(岩波現代文庫2008)を読んでいたのだが、さらに柄谷行人『柳田国男論』を読んで、文学論と産業組合論の二方面からの論考に入って、国木田独歩と田山花袋、カール・ポランニーと柳田国男といったところを新たに読み出したのであった。

この辺りのことはこの間ブログに書いたわけだが、そこにも書いたように、書こうとするのは「賢治の産業組合にひっかけた論稿」であり、さらに書かんとするのは『土着社会主義の水脈を求めて』で私がめざしたもの、「日本の社会主義の終わり」&「日本の協同組合論」なのである。柄谷行人は、明治二十年代の後半に「抒情詩」をメルクマールにめぐり合った国木田独歩、田山花袋、柳田国男、島崎藤村らの出会いと決別から近代日本国家の成立を一体的に描くわけだが、国家官僚となった柳田国男が「抒情詩」との決別後に「産業組合」を論じたことに対する言及は弱い。

柳田国男の産業組合論は、やがて『遠野物語』へと姿を変えて日本の民俗学として土着化するわけだが、日本の近代化は資本主義を成長させ、やがてかつて日本の自然主義文学を生み出したのと同じ風土の中から、近代主義的な社会主義運動を生み出し、そういうものとしての協同組合運動も誕生させた。そういった日本の産業組合を否定した外来種的な階級闘争論による社会主義運動と協同組合運動は戦後までつづくわけだが、さて「宮沢賢治の産業組合」とはいかなるものであったのであろうか、というのが拙論のポイントとなるわけである。

そして、これを協同組合論的に論じようとすれば、木に竹を接ぐみたいな論になりかねないから、ここは文学論的にやるしかないと思うわけである。宮沢賢治は、学生の頃に関心を持ち、本屋でアルバイトしながら筑摩書房の『定本・宮沢賢治全集』を買い揃えたが、ちょい読みはしてもまだ本格的に取り組んだことはない。さて、いよいよそれをやろうと思うところで、難しい本を読む時に「解説」から読むことがあるように、今月は井上ひさしの本を読んでみた。

『新釈・遠野物語』(1976.11)、『イーハトーボの劇列車』(1980.12)、『吉里吉里人』(1981.8)と、宮沢賢治に関係がありそうなものを読んだわけだが、これを読んでいる間に、朝日新聞夕刊の「わたしの半生」で、井上ひさしと高校が同級の憲法学者の樋口陽一氏が登場して、その第1回目で「私の亡き親友、作家の井上ひさし」と「仙台一高の1学年先輩の文ちゃんこと、菅原文太」について語り、その最終回では「東北の寒村が憲法と農業を軽視する政府に憤り、日本からの分離独立を宣言する物語」『吉里吉里人』について語り、「今の私の義務は『吉里吉里人』の理想を共有した、仙台一高の盟友たちの志を語り継ぐこと。義務であると同時に、夢でもあるんだ。」で結んだのを読んで、そのシンクロに驚く。

井上ひさしがこれらの本を書いたのは、1970年代後半から1980年代初頭の頃、軍拡による米ソの対立が極まって「核戦争○分前」と言われた時代で、核軍拡のほかに多国籍企業の拡大とタックスヘイブンによる税逃れ、食料自給の危機、その一方での世界的な地域自立運動のめばえといった今日につづく時代背景がある。井上ひさしは、東北における若き日の体験をベースに柳田国男の『遠野物語』にインスパイアされ、人生で初めて購入した本である宮沢賢治の世界を再構築して対案しようとしている。

『イーハトーボの劇列車』において、賢治は彼を尾行する花巻署の刑事に対してこう言う。
「花巻ユトピーオ、これが村の数だけ世界中にできてごらんなさい。壮観ですよ。想像するだけで気が遠くなる。いいですか、どの村もみなそれぞれ《中心》になるんです。そしてそれらの無数の中心がたがいに交流しあい・・・」と・
これはまさに『吉里吉里人』に描かれた東北における「吉里吉里人」の独立運動そのものである。

井上ひさしは『新釈・遠野物語』だけでなく、『イーハトーボの劇列車』においても『吉里吉里人』においても柳田国男に言及している。柳田国男は、遠野生まれで早稲田大学の学生であった佐々木喜善から話を聞いて『遠野物語』を聞き書きしたわけだが、後に佐々木喜善は宮沢賢治とも交流し、1932年4月に喜善は賢治を訪ねてもいるから、宮沢賢治も柳田国男のことは知っていたかもしれないし、産業組合についても勉強したかもしれない・・・。

と、今日はここまでである。今日は梅雨らしい雨降りの日であった。梅雨はこれから1ヶ月以上つづくだろう。利根川水系は渇水状態だと聞くし、けっこうけっこう。柄谷行人は「近代文学の終わり」を言うけど、果たして宮沢賢治の文学とは?

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2016年6月 5日 (日)

土と文学

Photo先週土いじりをやって、すぐに腰を痛めて、農業は大切だ、これからは自給だとか言いながら、実際にやってみるとこの様だ。しかし、これも土いじりとはどんなもんだかという興味があってやってみたことであって、その興味は日本の食糧自給率を高めようというよりは、太宰治だって戦後は青森の実家で土いじりをしたようだし、謂わば晴耕雨読的生活へのあこがれみたいなものがあったわけである。

敗戦の年に三鷹から甲府へと爆弾や焼夷弾に追われて逃げ回った太宰治は、敗戦間際に津軽の実家にたどり着く。1945年7月の堤重久宛には、「こちら全焼した。・・われら妻子いよいよ津軽行きだ。・・金木に行って、午前は勉強、午後は農耕といふ生活になるだろう。トルストイ伯爵にほめられるだらう。」と書き、1945年8月の菊田義孝宛には、「私も今月はじめにこちらに来て、午前読書、午後農耕といふのんきな生活をしてゐます。」と書き、井伏鱒二宛の手紙には、「けさ畑で草むしりをしてゐたら、姪が『井伏先生から』と言って、絵葉書を持って来ました。畑で拝読して、すぐ鍬をかついで家へ帰り、ゲエトルをつけたままでこの手紙を書いてゐます。このごろは、1日に2、3時間、畑に出て働いてゐるようなふりをして、神妙な帰農者みたいにしてゐるのです。」と書いている。要は、「1日に2、3時間、畑に出て働いてゐるようなふりをして、神妙な帰農者みたいにしてゐるのです」みたいのを読むと、私もそれをやってみと思うわけである。しかし、その後の太宰治はどうなるのかというと、同年10月の井伏鱒二宛の手紙には以下のように書いている。
「こちらは、リンゴ酒なら、人にたのめば、いくらでも入手できるやうですが、この土地の人は、リンゴ酒をばかにしてあまり飲まないやうです。そんなに皆からいやしめられてゐるリンゴ酒を私だけがつがつ飲んでも呆れられるといけませんから、私も、がまんしてゐます。甲府のブドウ酒よりも、具合ひがいいのですがね。田舎は田舎で、また気苦労もあるものですね。早くまた東京荻窪あたりのヤキトリの屋台などで、大威張りで飲んで大声で文學談などわめきたいものです。私の念願はそればかり。こちらはもう寒くなって、畑に出るのもイヤになり、毎日、家の中でウロウロしてゐます。十月十六日から仙台の河北新報に、連載小説を書く事になりました・・・東京の人たちからは、さっぱりたよりがありません。食料がずゐぶんひどくなってゐるのではないでせうか。私たちは、まあとにかく餓死する事はあるまいから、それだけでも、仕合せと観念してゐます。」と。そして、太宰治が上京するのは、翌1946年11月のことであった。

太宰治と同じく津軽出身の小説家に葛西善蔵がいて、この人は私小説作家でロマネスクな太宰治とは作風もちがうのだが、デカダンと言えば太宰治を上回る生活をして、東京では生活出来なくなって1915年3月に津軽に帰って、百姓家を借りて家族と生活をして、そのあたりのことを『贋物』という小説に書くわけだが、その書き出しにはこうある。
「(津軽に向かう列車の中で)昨夜送ってきた友達の一人が、意味を含めて彼に贈ってくれたところのトルストイの『光の中を歩め』を読んでいた。」、「『光の中を歩め』の中の人々の心持や生活が、類もなく懐かしく慕わしいものに思われた。自分にもあんな気持ちにもなれるし、あんな生活も送れないことはないという気がされたのだ。」、「『そうだ!・・そうしたところにも自分の歩むべき新しい道がある。そして自分の無能と不心得から、無惨にも離散になっている妻子供をまとめて、謙遜な気持ちで継母の畠仕事の手伝いをして働こう。そして最も素朴な芸術を作ろう・・』などと、それからそれと楽しい空想に追われ・・彼は眠ることが出来なかった。」と。
しかしこの先どうなったかというと、自分の弟や妻の家族にさんざん迷惑をかけて、翌年には津軽を抜け出して再び上京したのであった。

太宰治も葛西善蔵もトルストイをまねて土いじりを始めてはみたものの、1年足らず正味数ヶ月で土いじりを終え、本道の文学へ遁走したわけだが、国木田独歩に比べれば、それでも長くやった方である。二葉亭四迷の『あいびき』に魅せられて、日本近代文学のさきがけを成す名作『武蔵野』を書いた国木田独歩は、東京専門学校(現早稲田大学)で英語と政治を学び、ストライキをしてそこを退学。田舎で塾や教師をやりながら、1894年(明治27)に国民新聞社に入社、日清戦争では従軍記者をやり「愛弟通信」で好評を得た。1895年(明治28)6月に日清戦争の従軍記者を招いた晩餐会が開かれ、その場で独歩は佐々城信子にひとめぼれ、結婚を願うも信子の母親に反対され、「以前から北海道移住を考えていた独歩は、信子と二人、新天地での、キリスト教信仰に基づいた新生活を夢見て、土地選定のために札幌へと向かった」のが同年9月、「内村鑑三から札幌農学校教授新渡戸稲造を紹介してもらい、新渡戸らの協力もあり、選定作業は順調に進み、移住地を空知川沿岸原野に絞る」も、そこを下見したところで計画は頓挫、独歩の道内滞在はわずか12日間であったという。1902年(明治35)末に、独歩は『空知川の岸辺』という短編小説を書くが、その最後は以下のように終わっている。
「余は遂に再び北海道の地を踏まないで今日に到つた。たとひ一家の事情は余の開墾の目的を中止せしめたにせよ、余は今も尚ほ空知川の沿岸を思ふと、あの冷厳なる自然が、余を引つけるやうに感ずるのである。何故だらう。」と。

国木田独歩の北海道移住計画の挫折の背景には、佐々城信子との結婚生活の破綻があったのだと思われる。1896年(明治29)4月に独歩は信子と協議離婚をし、同年9月に渋谷村に居をかまえ、武蔵野を彷徨する。同年11月には田山花袋が、独歩の「丘の上の家」を訪問しており、後に花袋は『東京の三十年』に「丘の上の家」を訪ねていく道すがらをこう描いている。
「渋谷の通を野に出ると、駒場に通ずる大きな路が梅林について曲っていて、向うに野川のうねうねと田圃の中を流れているのが見え、その此方の下流には、水車がかかって頻りに動いているのが見えた。地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を特った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。私たちは水車の傍の土橋を渡って、茶畑や大根畑に添って歩いた。」と。独歩の「丘の上の家」があったのは、現在の松涛の辺りであったというから、東急文化村からNHKのある
一帯辺りが「武蔵野」であったわけである。また花袋は、独歩の部屋の書棚には「ウォルズウォルス、カアライル、エマソン、トルストイなだが一面に並んで」いたと書いており、花袋がが独歩との交友を描いた『KとT』には、「”Plain living,High thinking” こういう言葉がカアライルや、エマソンを読んだKの口から出た」とあるから、当時の独歩はまさにそういう心境にあったのであろうと思われる。しかし女は、いい女ほどそういう男の謂わば「空想」を理解しないから、独歩の北海道移住計画の挫折は想定内のことであったと思われるが、逃げた女房への未練を捨てられずに、なんとかそれを昇華させたのが独歩の名編『武蔵野』であったのであろうか。

トルストイもなかなか罪な人で、晴耕雨読も”Plain living,High thinking”も、とりわけ文学系の人には共感はしてもおいそれと実践できるものではない。後に有島武郎は佐々城信子をモデルに『或る女』を書き、そこに信子へのストーカーと化した国木田独歩をモデルにした木部という男を登場させているが、そこに彼が描こうとしたのは、有島武郎流の「文学と革命」だったのではあるまいか。国木田独歩は北海道移住計画に挫折するが、もともと北海道のニセコに450町歩の広大な農地を所有する有島武郎にとって、その土地はそこを解放することによってしか自らをも解放されえない土地であった。有島武郎はエマソン、トルストイというよりは、ホイットマンやクロポトキンに傾倒し、『草の葉』を翻訳し、1907年(明治40)にロンドンにクロポトキンを訪ねており、その頃から農場解放を考えるようになり、1922年(大正11)に「農場解放」を宣言した。有島武郎は、それを相互扶助による「共産農場」を目論んだところだが、友人の森本厚吉らの知恵で、それは「産業組合法」に準拠する「有限責任狩太共生農団信用利用組合」として1924年(大正13)7月に設立認可されたわけだが、有島武郎はその前年の6月に情死している。

有島武郎は自ら土いじりをすることはなかったが、1917年(大正6年)に仁右衛門という無知にして粗暴な農夫を主人公にした『カインの末裔』を書いた。そしてこの小説は、1902年(明治35)に書かれた田山花袋の『重右衛門の最後』と、1910年(明治43)に書かれた長塚節の『土』をアナロジーさせる。けっしてまねたりしたわけではないが、長塚節は富豪の息子であり、有島武郎はこの二作を読んでいただろうと思われる。仁右衛門の粗暴さは重右衛門に通じており、小作生活の過酷さは長塚節が描く世界に通じている。明治20年代末頃、田山花袋は松岡国男(柳田国男)や国木田独歩と知り合い親しく交友し、彼らはさらに島崎藤村らとも交友するが、明治30年代に入ると、彼らはそれぞれの道を歩み出し、それまでの抒情詩の世界を捨てた。柳田国男は1900年(明治33)から農商務省の官僚になり、日本の貧しい農民のために産業組合の普及に力を入れ、やがて『遠野物語』を書いた。島崎藤村は1899年(明治32)から信州の小諸で田舎教師をしながら「信州の百姓の中に行って種々なことを学」び、自然や労働をスケッチし、1906年(明治39)に『破戒』を自費出版した。田山花袋は1907年(明治40)に『蒲団』を書いて自然主義を代表する作家となり、その後書いた『田舎教師』や『時は過ぎ行く』には利根川流域の田舎を舞台とした小説で、『時は過ぎ行く』などは鬼怒川流域が舞台である長塚節の『土』に筋立てなどが似てもいるが、主観による自然描写と正岡子規系の写実との差が大いにある。『破戒』の登場に驚き、自然主義に批判的であった夏目漱石が、『土』を朝日新聞に推奨したのはむべなるかなといったところ。いずれにせよ、日本の近代化、近代文学の裏には土と自然、農業と農民の問題があって、それは有島武郎の情死の後、時代が昭和に入ると日本の社会主義の問題として「日本資本主義論争」をまき起こし、その中で宮沢賢治の「羅須地人協会」ともつながって行くと思われる。

要は、課題は「宮沢賢治の羅須地人協会」なのであるが、この間ブログに書いていることは、その外堀を埋める作業のつもりでいる。6月から宮沢賢治にとりかかる予定であったが、あと少しだけ外堀を埋める作業をする予定、今月から梅雨だから、ちょうどよい。

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