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2016年5月19日 (木)

『遠野物語』と『海上の道』

4月は柳田国男の「産業組合論」を中心に本を読んだわけだが、今月は『遠野物語』と『海上の道』を読んでとりあえず柳田国男は区切りをつけて、6月からはいよいよ『宮沢賢治全集』だと思っていたのだけれど、柳田国男は田山花袋や島崎藤村とのつきあいもあった文学系の人でもあって、その辺りも気になって、高校生以来半世紀ぶりに田山花袋を読んだ。『蒲団・重左衛門の最後』、『田舎教師』、『時は過ぎゆく』、『東京の三十年』と読んだわけだが、そしたら柄谷行人とは逆に田山花袋に共感がもてておもしろく、新潮文庫の解説に福田恆存は「花袋はわが国における文学青年のもっとも純粋で典型的な代表者だった」と書いており、なるほどと思ったところ。柳田国男は17歳で歌人松浦萩坪の門下となり、そこで田山花袋と知り合い終生の友となる。そして田山花袋の紹介で島崎藤村とも知り合って懇意になるのだが、ある時役人になった柳田国男に島崎藤村が兄の仕事の口利きを相談したのを機に、柳田国男は島崎藤村と絶交している。

柳田国Photo男は1910年(明治43)に『遠野物語』を書いて、それまでの農政学から民俗学に転向したと言われるわけだが、『遠野物語』を出した同じ年に産業組合について書いた『時代ト農政』も書いている。この関係について斉藤隆至氏は「このことは、柳田にとって、協同組合論と『遠野物語』とは論理的に整合的な関係にあることを示しています」(『柳田国男―「産業組合」と「遠野物語」のあいだ』日本経済評論社2008)と書いている。こうなると、柳田国男の「産業組合論」を読んだついでに『遠野物語』を読むというよりは、『遠野物語』こそ「産業組合論」の本論ということになるわけで、ではそういうものとして読んでみようと思ったわけだが、なかなかそういうものとしては読めないのではあったが、それでもけっこう面白く読めた。斉藤隆至氏の言わんとするところを、以下メモしておく。

『遠野物語』は、「前代」農民の活き方を再評価しようとした著作です。再評価することによって、柳田は、「当代」の農民に向かって、協同組合のあるべき姿を問うたのでした。・・・柳田は、「当代」の社会は「貨幣経済」の社会であること、それは「資本」の社会であることを認識していました。
「貨幣経済」の社会は「生存競争」の社会です。「小産業者」は「生存競争」に敗れ、「貧」におちいりつつあります。とはいえ、「小産業者」の自助努力だけでは限界があります。
 「小産業者」が「生存競争」を生き抜くためには、「資本」を》ふやして「企業」化しなければなりません。そのためには、協同組合に結集する必要があります。その協同組合は、「法の精神」を満たす協同組合、人間的基礎の堅固な協同組合です。
 協同組合の人間的基礎を、柳田は、「前代」農民の活き方に求めました。近世村落における「郷党の結合心」や「郷党ノ懇親」は、彼にとって、西欧における「私人の結合協力」に対応する倫理でした。
 日々の生活のなかで、「前代」の村人は、「畏怖」や「不安」と向かいあって活きなければなりませんでした。それをやわらげるために、全員が力をあわせ、自分かちで神をまつってきました。神への信仰は「畏怖」や「不安」の表現にほかならないのです。
 柳田国男は、人間の「根源」にまでさかのぼって「前代」農民の宗教意識を解明しようとしました。その宗教意識を「当代」の村人たちに自己認識させ、そのことによって協同組合における人と人との結合原理を確立したいと考えたのです。(『柳田国男―「産業組合」と「遠野物語」のあいだ』p199-200)

柳田国男は1897年(明治30)に東京帝国大学に入学して農政学や産業組合を学び、1900年(明治33)に「三倉の研究」を卒論に書いて農商務省に入り、1910年(明治43)に『遠野物語』と『時代ト農政』を出すわけだが、1910年(明治43)は大逆事件のあった年で、柳田国男が産業組合を学び、それを日本に根付かせようとした時代とは、日本の社会主義運動野の黎明期から大逆事件までとまったく重なる。柳田国男は社会主義者ではないし、柳田国男の産業組合の取り組みをそういったものと見るつもりもないが、明治社会主義運動の一方にそういった柳田国男の営為があったということの評価とその意義は確認しておきたいし、それこそが日本の協同組合運動の見直しと再生にもつながるだろうと思うところである。

『海上の道』は1961年(昭和36)、柳田国男86歳の時に出版された本で、語りも内容も泰然自若としたものがある。1961年(昭和36)といえば私は小学6年生で、すでに物心がついている歳に、「文学界」に参加して藤村、花袋と交友した柳田国男がまだ健在でいたということに、私もその時代につながっていたかのような感動を覚える。『海上の道』の書き出しには、こんな文章がある。

途方もなく古し話だが、私は明治三十年の夏、まだ大学の二年生の休みに、三河の伊良湖崎の突端に一月余り遊んでいて、このいわゆるあゆの風の経験をしたことがある。・・・今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾を東へまわって、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使われない四五町ほどの砂浜が、東やや南に而して開けてしたが、そこには風のやや強かった次の朝などに、都子の実の流れ寄っていたのを、三度まで見たことがある。・・・どの辺の沖の小島から海に浮んだものかは今でも判らぬが、ともかくも温かな波路を越えて、まだ新らしい姿でこんな浜辺まで、渡ってきていることが私には大きな驚きであった。この話を東京に還ってきて、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。今でも多くの若い人たちに愛誦せられている「柳子の実」の歌というのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを貰いましたよと、自分でも言われたことがある。
   そを取りて胸に当つれば
   新たなり流離の愁ひ
という章句などは、もとより私の挙動でも感懐でもなかったうえに、海の日の沈むを見れば云々の句を見ても、或いは詩人は今すこし西の方の、寂しい磯ばたに持って行きたいと思われたのかもしれないが、ともかくもこの偶然の遭遇によって、些々たる私の見聞もまた不朽のものになった。

「私は明治三十年の夏、まだ大学の二年生の休みに、三河の伊良湖崎の突端に一月余り遊んで」というのは田山花袋と遊んだわけで、その前には二人で日光へも行っている。『海上の道』の頃には藤村はとうに亡くなり、相変わらず藤村の詩は趣味ではないけれど、柳田国男もこう書ける歳になっていたということでしょうか。ここまでくると、柳田国男と藤村、花袋の話は、柄谷行人の「日本の近代文学の終焉」で終わらすわけにはいかないと思うわけだが、さて宮沢賢治はどうするか、今年の夏はどう過ごそうかとか、あれこれと考えるわけである。

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2016年5月 4日 (水)

「文学と革命」における私小説の可能性

※2月29日のブログ「小説を書くための十四行の小論―『「文学とは何か」&「文学と革命」』のつづきです。

311.柳田国男と藤村、花袋
前回やっと小説を書いてみる気になったところで柄谷行人を読んだら、「近代文学の終わり」みたいなことを知らされて、それでも例え近代文学や政治と文学の時代は終わっても、「資本主義と国家」がある限り私の「文学と革命」も終わらないのだと我が田に水を引き引き、さらに柄谷行人の『哲学の起源』(岩波書店2012)を読むと、「僕はポランニーから多くを学んでいます。・・僕が交換様式をA(贈与)、B(再分配)、C(商品交換)の三つに分けて考えたのは、そもそもポランニーの影響です」とあったから、ついでにカール・ポランニー『大転換』(東洋経済新報社1976)を読んでみると、ポランニーの論が宇野弘蔵の論に通じること、マリノフスキーのトロブリアンド島のクラ交易が出てくること、ロバート・オウエンへの高い評価などが印象的であった。

柄谷行人は、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』の「ネーション=ステート」としての国家から着想を得て、「資本=ネーション=国家」と交換様式から世界史の変遷をとらえ、『哲学の起源』では同様にハンナ・アーレントの『革命について』から着想を得て、アテネのデモクラシーは支配の一形態であったとする一方、イオニアにはイソノミアという自由で無支配な社会があったとして、そこに交換様式DにつながるアソシエーションXの原像を見ようとしており、こうなると言文一致による近代小説の成立が「想像の共同体としてのネーションの基礎となり」というのも、どこかに着想を得たものと思われ、『日本近代文学の起源』よりも前に書かれた『柳田国男論』を読んでみると、そこには柳田国男と田山花袋、国木田独歩らの交流と別れが書かれていた。。

若き松岡国男と田山花袋や島崎藤村らとの出会いと交友は、田山花袋の『東京の三十年』にこう描かれている、「『文学界』に透谷の死に対するくやみの歌を送ったのが、『文学界』の人たちと触れて行く基となった。・・・その『文学界』の新年会、根岸の伊香保の一間、そこで私は島崎君や馬場君や平田君や上田君や戸川君に逢った。・・・島崎君は色の白い感じの好い静かな若者であった。・・・柳田君が島崎君の大根畑の家に行くようになったのは、確か私が紹介したのだと思うが・・後には柳田君と島崎君との交際が・・かえって頻繁になった。柳田君は白い縞の袴を穿いて、興奮した顔の表情をして、よく出かけて行っては、詩や恋や宗教の話をした。一方私は宮崎湖処子を透して、国木田君と逢った。国木田君はその時、例のお信さんと別れた後で、渋谷の郊外の丘の上の家に住んでいた」と。

そして、柄谷行人は彼らの詩とそれぞれの人生への決別をこう書く。「25歳を過ぎても詩人たらんとする者は、伝統を意識しなければならない、あるいは歴史的意識をもたねばならない、という意味のことを、T・S・エリオットはいっている」、「周知のように、柳田をふくんだ後期『文学界』同人はこぞって詩を放棄した。柳田は詩作をやめて農政学に専念したが、これは他の同人のなかに存在した、停滞・暗中模索・小説への転向という過程と実は対応している」、「彼らは小説―すなわち。“他者”を容れることのできる形式に移行した。・・しかし、柳田の拒絶はいっそう徹底している。・・柳田における文学の拒絶のするどさは、彼が事物そのもの、あるいは《実際の人々》そのものに即こうとした姿勢のあらわれ以外のものではない。彼は文学を否定したのではない。ひとびとが文学に寄せる甘ったるい自己幻影を捨てたのだ」と。

1898年に『文学界』は終刊し、松岡国男は1900年に東京帝大を卒業すると農商務省農務局に入局、1901年に田山花袋や国木田独歩らと『抒情詩』を発行、同年柳田家に養嗣子として入籍して柳田国男となり、早稲田大学ほかで農政学を講義し、産業組合の研究と産業組合普及の為の講演会を各地で行い1908年に『遠野物語』を書き始め、島崎藤村は1899年に小諸義塾に赴任して『千曲川のスケッチ』を書き始め、やがて『破戒』を構想し、1906年に『破戒』を自費出版、田山花袋は1902年に後に柳田国男が唯一認めた『重右衛門の最後』を書き、1907年には後に柳田国男が「『蒲団』に至っては、末にはその批評を読むのさえいやであった」と書いた『蒲団』を書き、『蒲団』は夏目漱石に衝撃を与えた『破戒』を超えて、自然主義の代表作となった。

自己幻影を捨てた柳田国男は、農商務省農務局に入局すると「何故に農民は貧なりや」という命題を掲げて産業組合の普及に力を入れ、1901年に信州で40日間にわたる産業組合についての講演旅行を行い、その最後に小諸に島崎藤村を訪ね、後にその時の話を「重い足踏みの音」という文章に、「明治三十四年の初冬に、自分は髭などはやして新しい島崎君を訪問した。・・後に『千曲川のスケッチ』になった自然観察が、朝夕の日課だと聞いたときは嬉しかった。・・・自分はもとより吹けば飛ぶような感傷家の横行を憎む者であるが、同時に多くのいわゆる私小説が、島崎君などを手本と頼んで、どのくらい非凡に重苦しく、いかに自分一身に凝り固まっている生活でも、これを丹念に自白さえすれば、ただちにこれを人間の実験なりと、威張って出し得るような傾向を否認せんと欲する」と手厳しく書いている。

柄谷行人は『柳田国男論』にこう書く、「田山が見出した《私》は・・なんら特別なものではない。・・ありふれた《私》である。そして、《何にも何処にも書き伝ふべきものがな》い人間・・そのような《私》が問題たりうるということの発見が、やがて私小説として、どんなに非難されようが、日本の近代文学の基底に定着しはじめたのである。「私小説」は、その本来的な意味においては、われわれが避けることのできないリアリティ――何でもない、ありふれた《私》という現実に根ざしている。・・何でもないありふれた《私》の発見、それは「私小説批判」によってこえられるようなものではない。むしろ批判さるべきは、私小説作家が芸術家としての自己しか書かなかったことである。つまり、それは「実際の人々」の地面に降りたことがないということだ。柳田の嫌悪は、そこからみたときにのみ意味をもつのである」と。

2.柳田国男と産業組合
田山花袋が『東京の三十年』に描いたような若き日の文学交友は、今なお鮮やかに私にも残っており、学生時代にいくつかの同人誌をやり、やはり二十五歳を超えた頃にはそれらから手を引いたのは、「自己幻影を捨てた」からというよりは、当時も失業し、子供が産まれ、引越しをして金欠であったからだが、新しく職を得た下町の生協での組合員と接する仕事がおもしろく、それにのめり込んでいったわけで、当時出た『大転換』は読まなかったけど、それを日本に紹介した玉野井芳郎の地域主義や地方分権の本などは読んで、週末には産直の野菜を引き取りに毎週三里塚に通ったもので、それは「自己幻影」というよりは「コミューン幻影」といったもので、それから四十年、生協での仕事とともに「コミューン幻影」はますます肥大しつづけ、なおかつ仕事を辞めた後は、「もういちど文学をやりたい」という幻想まで生じてきたのであった。

『大転換』を読むと、カール・ポランニーは、「18世紀における統制的市場から(労働、土地、貨幣を商品化した)自己調整的市場への移行」を「根底的な転換」とし、「労働、土地、貨幣が本来商品でないことは明らかである」、「市場による購買力管理は企業を周期的に破産させることになるだろう」と書くわけだが、これはポランニーと同様にイギリスの資本主義成立過程から労働力の商品化による資本主義の成立とその歴史的特殊性を見抜いたる宇野弘蔵の経済学にとても類似しており、唯物史観と階級闘争論には関心がないところも宇野弘蔵に通じていて、ちがうのは、ポランニーには労働価値説、価値形態論といったマルクス経済学への理解がなく、代わりにマリノフスキーのトロブリアンド島のクラ交易からインスパイアされた互酬論ほかの人類学的な観点があることだろうか。

ポランニーが『大転換』で最も評価したのはロバート・オウエンであり、オウエンはエンゲルスによって「空想的社会主義者」とされてしまい、その影響が今なおオウエンの評価をためらわせていると思えるほどだが、オウエンは革命家と言うよりは企業家であり、ポランニーは「ロバート・オウエンほど深く産業社会の領域を洞察した者はいなかった」、「彼の思想の支柱は、キリスト教からの決別であった。オウエンはキリスト教を、《個人主義》という点で、すなわち、人格の責任を個人自体に負わせ、かくして社会の現実と人間形成に与える社会の強い影響を否定しているとして非難したのである。《個人主義》を攻撃する真意は、人間のもろもろの動機は社会にその起源があるのだという彼の主張のうちにあった」と書いており、現在の格差問題や非正規を「自己責任」に帰す言い草を、オウエンは根底的に否定している。

元日本女子大学の学長であった有賀喜左衛門という民俗学者がいて、信州の伊那出身の有賀喜左衛門は、飯田に柳田家がある関係で伊那にも訪れる柳田国男に知己を得て民俗学を志し、マリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者』は出版直後の1922年には読んでおり、そんなで唯物史観の影響は受けずに、大塚久雄の共同体の発展段階論や講座派的な一元的発展段階論を批判し、柳田國男の民俗学については、「明治維新以来西洋文明を採り入れて国家改造に狂奔して来た政府と西洋の学問に全面依存して来た日本学界との西洋一辺倒に対する痛烈な批判を含み、それから離脱して自主的な日本を遣るには《新国学》に拠らねばならぬという《学問救世》を柳田は志していた。・・・彼の民俗学の根本問題の一つとして《何故に農民は貧なりや》という命題を掲げていたことをみると、彼の民俗学が農民史から出発していたことと政治問題との係わり合いの深いものがあったことがわかる」と書いている。

こうなると、小説を書くかと思った矢先ではあるけど、柳田国男の協同組合(当時は産業組合)論を読まずにはいられず、『産業組合通解』を読むと、要約すれば、「生存競争の惨毒には見るに忍びざるものあり、手工を以て生計を営みたる者も賃銀を以て生活する所謂労役者の階級に下る。この経済上の大変動は、資本の集積、資本の勢力によるもので、殊に腕力を提供して生産に余呉する者は皆資本家と約束して賃銀の名を以て分配物の立替を乞ふしかない。このような現代文明の病的傾向は、夙に十九世紀の先覚者をして社会改良の必要を提起させて、その重要なひとつが産業組合である。産業組合は、英國には所謂消費組合(購買組合)があり、獨乙に起りたる貸付組合(信用組合)がある。産業組合に対しては、國家は唯法規を設けて之が軌道を示し能く其当初の目的を遂げて弊害に陥らざるを期し、國民の注意を喚起して、直接に組合の設立を誘致する必要がある。この辺りが府当局者の意向だ」とあった。

若き柳田国男が産業組合を論じた時から100年以上経っても、「資本の集積」による「生存競争の惨毒」は、近年ピケティ氏が証明するように100年前の状況に逆戻りするが如くであり、日本における各種協同組合に属する組合員数は3000万人を超えているというのに、「産業組合」とか「共同体」みたいなものが必要とされた状況は少しも変わっておらず、またムクムクと「コミューン幻影」が鎌首をもたげて小説を書くどころではなく、ここ2、3年が勝負だとばかりに春先に書きかけた10枚あまりの習作は反故にしてしまおうか、「文学と革命」というのは近代主義的な二元論ではなく、ロバート・オウエンが言う如く「個人主義と社会の止揚」であり、その方法論は「労働力商品の止揚」と併せての「私小説のエクリチュール化による個人主義の止揚」なのではあるまいか、と思うのであった。

若い頃に同人誌をやりながらも生協の仕事に就くとそれを止め、リタイアして再び同人誌をやるも協同組合への夢去らず、と書いても私は柳田国男の道に習うわけではなく、昔も今も私は藤村、花袋系の自然主義派を自称するところで、そういうものとしての文学をやる能力しか持たないわけだが、柳田国男は自ら「歌の別れ」を行いはしたけれど、文学心やかつての文学仲間とのつきあいを止めてしまったわけではなく、龍土会やイプセン会を継続して交流をつづけ、これは同じ頃に木下杢太郎が大川をセーヌ川に見立てて「パンの会」をやったのにも通じており、文学などというものは素面で語れるものではないことの謂れであって、飲まずに文学を語るというのには、私はとてもついて行けそうになく、金の切れ目が縁の切れ目というのも、これも昔も今も変わらずかと思うのであった。

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