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2016年4月19日 (火)

宮沢賢治と産業組合と柳田国男

 Photo2月末に大内秀明氏から「宮沢賢治と産業組合」という論考が送られて来て、それに添えて「君も賢治の産業組合にひっかけて何か書け」みたいにあったから、さてどう書くかと4月11日のブログ「柄谷行人、カール・ポランニーと宇野弘蔵、それからロバート・オウエン」に書いたような本読みを始めた。今回はそのつづきで、また自分の頭の整理のための読書ノートを書くところ。

産業組合というのは、1900年(明治33)に成立した「産業組合法」によって規定された今でいう協同組合のことであって、1948年(昭和23)に「消費生活協同組合法」ほかができるまで、日本の協同組合は産業組合と呼ばれていた。日本に協同組合の思想が入って来たのは、労働組合や社会主義思想といっしょに入って来たルートと、明治政府のドイツ留学生からのルートがある。前者は高野房太郎、安部磯雄、片山潜らのアメリカ帰りの労働運動家、社会主義者で、イギリスのロッチデール型の消費組合がモデルで、労働組合期成会や平民社の運動の中で試行錯誤された。後者は品川弥二郎、平田東助といったドイツに留学した明治政府の官僚が持ち帰ったもので、シュルツ・デーリッチの信用組合とF・ウィルヘルム・ライファイゼンの農業協同組合がモデルであった。明治政府は1900年(明治33)に「産業組合法」を成立させたが、同年併せて「治安警察法」を成立させて労働運動と社会主義運動を抑圧したから、労働者による協同組合づくりは不可能となった。大正期に入ると大正デモクラシーの高揚の中で、賀川豊彦による大阪共益社(1920)、神戸消費組合(1921)、灘購買組合(1921)など、友愛会などの労働運動とともに協同組合もつくられだした。神戸消費組合と灘購買組合は消費組合で、現在のコープこうべにつながるわけだが、賀川豊彦の協同組合にはベースにギルド社会主義があり、生産組合や信用組合や農業協同組合や共済組合などによる複合的な協同組合構想であった。しかし、昭和に入ると階級的協同組合運動をかかげる共産党系の介入がはじまり、賀川豊彦は「今日労働運動で、私の最も厭な傾向は・・・ジャコビン主義にうつって行く事であります。まるで狂気ざたの様に私には見えます」とそれに嫌気をさして、農民組合に力を入れ始める。一方、千石興太郎によての産業組合主義、いわば協同組合主義が提起され、これは戦後の農協へとつながっている。

以上が、戦前の協同組合、産業組合運動についての私流のアバウトな要約であるわけだが、さてそこから産業組合について何を書くかとなる。「宮沢賢治と産業組合」というテーマに沿えば、宮沢賢治が「産業組合青年会」と題した詩を書いたのは1920年(大正9)であり、花巻農学校を退職して「農民芸術概論要綱」を書いて、「羅須地人協会」を立ち上げたのはは1926年(大正15・昭和元)で、少年たちが広場に産業組合をつくろうとする「ポラーノの広場」を最初に書いたのはは1927年(昭和2)である。そこでまた我田引水すれば、賀川豊彦が協同組合を作り出した頃から宮沢賢治は「産業組合」に関心をもち出して、「農民芸術概論」に「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とライファイゼンの唱えた「一人は万人のために 万人は一人のために」という協同組合の理念を賢治流に書き、「ポラーノの広場」ではその最後に、「それから3年の後には、とうとうファゼーロたちは立派な一つの産業組合をつくり、ハムと皮類と醋酸とオートミールはモリーオの市やセンダードの市はもちろん、広くどこへも出るようになりました。」と、産業組合法の範囲内で構想し得る協同組合社会の夢を書くのを読めば、ひょっとすると夏目漱石が密かに『資本論』を読んだかもしれないが如くに宮沢賢治も「産業組合」の研究をしつづけたのかもしれないと思えるわけである。そしてある日、「羅須地人協会」という意味不明な名前をつけて用心深く宮沢賢治流のそれを実践に移した。大内秀明氏の「宮沢賢治と産業組合」もそうした見立てで、だから「羅須地人協会」は賀川豊彦らの運動に通底しているし、やがて賀川豊彦が始めた農民運動の流れに宮沢賢治も合流しようとしたのだと私もそう思うのだけど、二人で同じことを書いてもしょうがないから、私はもう少し論をデフォルメしなくてはと思うわけで、それで前回書いた「柄谷行人、カール・ポランニーと宇野弘蔵、それからロバート・オウエン」みたいな横すべりをしているのである。

一昨年に柄谷行人は『遊動論―柳田國男と山人』(文春新書)という本を書いて柳田國男を論じ、柳田國男は「産業組合法」が出来た時に農商務省の官僚で、産業組合法にもかかわっている人だから、その辺りを読んでみようかと思い、図書館から柄谷行人『柳田國男論』を借りて読んだわけだが、それは70年代に書かれた論考が中心でその辺りのことは書かれていなくて、次のようなことにひっかかった。若き日の柳田國男(松岡國男)は短歌を学び田山花袋と知り合い、「文学界」に参加して島崎藤村と知り合い、当時は抒情詩を書いていたのだが、島崎藤村をはじめ「文学界」の同人がやがて詩を放棄して小説を書き始めた頃、柳田國男は農政学に専念するようになる。その辺りのことを柄谷行人は『柳田國男論』にこう書いている。
「われわれは空想に耽り、夢を見ていたにすぎないという覚醒は、文学であれなんであれ、一つの観念に憑かれた青年期の終わりに、だれにでも訪れるものだ。しかし、(「文学界」の詩人たち)が自分自身に見出しはじめた不満は、詩作という行為の内側からやってきたのだといわねばならない。それは、彼らの詩が、すでに彼らがおかれている現実あるいは諸関係から分泌されてくるものを、容れることができないという自覚にほかならなかった。・・・空想が破れたのは、空想に耽って現実を見誤っていたからではなく、彼らの表現形式をもっては、現実も自己もとらえられぬという認識によってである。おそらく彼らが詩を書きつづけてそれをこえようとすれば、日本の近代詩は比類のないものになったかもしれない。だが、彼らは小説――すなわち。“他者”を容れることのできる形式に移行した。・・・しかし、柳田の拒絶はいっそう徹底している。・・・柳田における文学の拒絶のするどさは、彼が事物そのもの、あるいは「実際の人々」そのものに即こうとした姿勢のあらわれ以外のものではない。彼は文学を否定したのではない。ひとびとが文学に寄せる甘ったるい自己幻影を捨てたのだ。」(P149-150)と。

これで私にとって長年の謎であった、なぜ島崎藤村が詩を捨てて『破戒』を書いたのかが分かったし、柳田国男が農政官僚になったのかも分かった。しかし、私は高校生の時に島崎藤村の『破戒』や『春』を読んで文学にあこがれ、だけど実際には生協で働いてきて、前期高齢者のこの歳になってもなお宮沢賢治流に言うなら「羅須地人協会」という謂わば「コミューン幻想」を捨てきれないでいる。柳田國男は1897年(明治30)に田山花袋や国木田独歩らと『抒情詩』を刊行、1900年(明治33)に東京帝大を卒業すると農商務省農務局に勤め、1902年(明治35)には「最新産業組合通解」という論文を書いて産業組合を論じている。そこで、やはりここいら辺りを読んでみるかとネットで検索、産業組合論の入っている古い『柳田国男全集』が1000円であったから注文したのだが、アマゾンでなくて古書ネットのせいかまだ届かない。同時にネットで検索して見つけた、前回のブログに書いた有賀喜左衛門に『一つの日本文化論―柳田國男に関連して―』(未来社1976)という本があったからそれも発注すると、アマゾンだったせいか直ぐに届いて、昨日それを読み終えたところでこの文章を書き出したわけである。

有賀喜左衛門は『一つの日本文化論―柳田國男に関連して―』の「あとがき」に「私は1922年(大正11)大学を出た直後に柳田のもとに出入りすることになり、民俗学を学ぶ機会に恵まれたことを今でも有難く思っている」と書き、「柳田國男の一国民俗学」の章に以下のように書いている。少し長くなるが、大切なノートである。

「柳田國男の民俗学は常民生活を中心として日本文化の伝統を明らかにすることにその目標があったと私は思っている。柳田は彼の民俗学を《新国学》と称して、本居宜長の国学の精神を継承し、これを一層大きく発展させる意図を持っていだ。・・・明治維新以来西洋文明を採り入れて国家改造に狂奔して来た政府と西洋の学問に全面依存して来た日本学界との西洋一辺倒に対する痛烈な批判を含み、それから離脱して自主的な日本を遣るには《新国学》に拠らねばならぬという《学問救世》を柳田は志していた。・・・彼の民俗学の根本問題の一つとして《何故に農民は貧なりや》という命題を掲げていたことをみると、彼の民俗学が農民史から出発していたことと政治問題との係わり合いの深いものがあったことがわかる。・・・
昭和四、五年には農村の不況は極点に達し、日本の政治経済に大きな苦悩を与えた。だから農村問題はマルクス主義者だけの問題ではなく、一般的な大問題であった。柳田は東京帝大卒業後農商前者の官吏として出発したが、明治末から昭和初めにかけて農業政策や農民史に関するいくつかの優れた著作を出し、小農の犠牲の上に日本の新しい国家を建設して来た政府の農業政策に強い不満を表明して来たから、昭和10年の時点においても、彼の民俗学の根本問題の一つとして農村問題をあげてしたことは当然である。・・・
柳田はこういう現実的な問題の根底にある日本文化の問題に一層強い関心を深めた。それは日本の文化伝統を明らかにすることによって、当面する現実的問題解決の方向付けができると確信してしたからである。柳田のこの考え方は多くの実務家や政策学者にとって迂遠な閑文字としてしか見られなかった。特に維新以後西洋文明の模倣によって新しい国家組織、経済組織、教育制度などを造るために努力してきた一般的動向にとって、今さら日本の文化伝統の発掘をしてみても意味はないという考え方が強かったからである。
ところが日本人が西洋文明の模倣によって造り出した新しい制度や生活は実際には西洋のモれと同じものではなく、著しく日本化されたものとなったのだが・・・その頃の経済学者は左でも右でも、日本の資本主義は西洋のそれの歪曲されたものだということを好んで口にした。このことは西洋文明の誤った習得であるということであり、それは単に資本主義の場合にとどまらず、西洋文明模倣のすべての面において日本人によって感じとられたのだから、これによって西洋に対する劣等感はますます深められ、そこに生じた多くの矛盾はかえって解決を困難にし、混迷を深めた。」(P125-7)

大学を出て直ぐに柳田国男の門下になった有賀喜左衛門ではあるが、やがてそこから離れたようである。有賀は柳田の民俗学を「一国民俗学」として、以下のように書いている。

「柳田は外国文明の影響の重要さをもちろん認めていたが、日本の文化伝統を知るためにはこの影響によって変化をみせない日本的な現象を特に重要視した。しかし日本人のように非常に古い時代から外国の文明を絶えず多量に受け入れて、生活を改めてきた国民にとっては、外国文明をどのような形で受け入れ、日本化したかということが日本の文化伝統を知るためには重要であると思うが、柳田はこのことを比較的軽くみていた。
 西洋に発した近代の諸科学が諸国民の人間的共通性を把握したことは極めて重要であった。これは近代のヒューマニズムと結びつくことによって、その価値を高めた。しかし人類の問題はこれを以って解決したわけではない。何となれば、諸国民の文化や社会の相互関係はどうであるかというもう一つの大きな問題があるからである。
 第一に諸国民の文化や社会は近代の強力な西洋文明の影響によって均質化するような性格を持たぬことである。・・・ 第二にこの事実からわかるように、同じような現象は近代にのみ現われたのでなく、原始時代以来の人類の有力な諸文明は広汎に世界のすべての国民や、すべての部族の間に交流した。そしてそれは諸国民、諸部族の異なる自然的、社会的、歴史的環境の中で独白の文化伝統を成立させ、多彩な特色を持つに至った。
 私がこのような事実に注目したのは、諸国民のおのおのの文化伝統は世界の諸文明の交流の中でできあがったことを語りたいからである。私は柳田の一国民俗学が鎖国的に閉じこもる主張だとは思わないが、それよりも文明の交流の中で日本文化の伝統が生れ、その中で新しい創造を行うことによって伝統はゆるやかな変化をすることに注目すべきである。」(P129-30)
 
また、有賀喜左衛門は以下のようにも書いている。
「(史観即ち作業仮説はどのような基盤において成立するか)スミスは自由貿易の時代に自由主義経済の理論を生み、マルクスは資本主義経済の成長期に唯物史観を造り、ケインズは政治に強く規制された資本主義経済の時代にその理論を立てた。すべて彼らの生存し仁時代の社会的条件が反映していた。・・・これに対し日本における日本自体の人文科学や社会科学の研究をみると、その作業仮説には欧米の理論の借用が多かったので、この仮説の成立する基礎には日本社会の条件はほとんど参加してはいなかった。これを日本の文化・社会の研究に適用したのだからその成果が十分に正しかったかどうか疑問である。このようなことがどうして生じたかというと日本人にとって欧米の近代科学は絶大な権威を持っていたからである。」(P107)

前回のブログにも書いたように、有賀喜左衛門と宇野弘蔵は同じ年の生まれである。そして、有賀喜左衛門の同郷の後輩である中村吉治は宇野弘蔵系の学者で、東北大学で日本の農村共同体史を研究した。こうなると中村吉治も読むかと思うわけだが、この春から私の枕元には今年の読書課題である『定本・宮沢賢治全集』(筑摩書房)が高く積まれている。とりあえずは入りやすそうな童話からちょい読みし始めているのだが、柄谷行人は「近代文学の終わり」をいうけど、前記の「文学界」の詩人たちにアナロジーすれば、宮沢賢治にとっての童話や詩はいかなるものだったのか、と思ったりするわけである。宮沢賢治も10代の頃からいっぱしの文学青年であり、和歌を詠み短編を書きして、1921年(大正10)25歳の頃から創作行為が本格化していく。そしてその童話の世界は、土着を超えた世界ですらある。南西方面で大きな地震が起きている。5年前には東北でとても大きな地震があった。こうなると次は5年以内に東海か関東か、地震が来るまでにはこれらを読んでしまいたいと思うところで、たとえ大地震が来て、倒れた本箱で頭を打って死ぬことがあっても、イーハトーブの世界を極められるなら、それでもいいかと思う昨今である

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