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2016年4月25日 (月)

柳田国男と産業組合

28柳田国男の『産業組合通解』(筑摩書房『定本・柳田國男集』28巻)を読んだ。書かれたのは1902年(明治35)、1900年(明治33)に発布された「産業組合法」の解説と産業組合の啓蒙の書である。これを読んで、私はとても驚いた。私は16年前に会社勤めを辞めた後、NPO(特定非営利活動法人)の立ち上げとやがて清算(解散)をしたのだけど、その時に参考にしたNPOの「設立」から「解散」までの「手続き」は、産業組合であろうと特定非営利活動法人であろうと、さほど変わるものではなかったのであった。

 

 「産業組合通解」の序論には、以下のようにある。
 「生存競争の現象は、人類存在の最初より代として之を見ざる無きも、現時の社會に於ては、殊に其惨毒の見るに忍びざるものあり。葢し所謂第十九世紀の文明は、各種の部門に於て人智の開設を誘導したること少小ならざるが中に殊に技術工芸界に於ては其結果尤著しく、蒸気電気其他の動力の性質の発見は夙に機械の精巧を致し、製造運搬の業の之に由りて利便を得たるもの挙げて数ふべからず。通商の発達は忽にして世界の市揚を共通にし、昔時は交通の不便なるが為に、各地方に割拠して手工を以て貨物を産出し生計を営みたる者も一朝機械に由りて製造されたる低價の貨物の競争に遭ひて、復其案を継続する事態はず、漸く其独立の境涯を捨てて賃銀を以て生活する所謂労役者の階級に下るの止むを得ざるに至れり。此変遷は之を《産業の革命》と称し、仏国に於ける政治革命と共に、近世社会歴史上二大変局を以て目せらる。而して此革命の余波は未だ全く平定するに至らず、大勢の上より観察するときは今猶過渡の時代に在るものといふべく、社会構成の或部分に於ては未だ此新傾向に調和する態はざるものあることは争ふべからず。………
 さてこの経済上の大変動を講究するに當り、最重要なる題目の一として各人の注意を惹くべきものあり。曰く資本の集積、資本の勢力是なり。昔時産業の規模小にして、各人一地方の市場に供給するを以て足れりとせし頃には、資本の効用未だ著しからざりしも、弘く世界の需要を察し、精巧なる機械を運転し、蒸気、電気等の動力を応用して、貨物の製造に従事し、或は運輸交通の業を営むが為には、必ず予め其準備として巨額の資本を投ぜざるべからず。………殊に腕力を提供して生産に参与する者は、大抵資力智力を兼ね有せざるを以て、長期日を経るに非ざれば結果を見ること能はざる産業に従事する場合には、常に其間の生計を維持すること難く、皆資本家と約束して、賃銀の名を以て分配物の立替を乞ふなり。此種の労働に由りて生活する者は之を労役者又は賃役者と云ひ、少くとも其事業の進行中は、資本家の為に其自由を拘束され、自己の判断を以て損を辞し利に就くこと能はず、生産事業に於ける実力は些も之を有すること無く、分配の割合に於ても甘じて不利を忍ばざるべからず………
 上述の如く、現代文明の病的傾向は、夙に十九世紀の先覚者をして社会改良の必要を唱導せしめ、既に其計画に基き一定の組織を具へて、弊害匡制の事に従ふもの、洋の東西を通じ甚其例に乏しからず。産業組合の制度の如きも実に其最重要なるものの一にして、其起原は遠く七十年の昔に在り。………
 抑も社会改良の諸方策には先づ国家権力の発動に依り法規の作用を以て其目的を遂げんとするものと、単に私人の結合協力に由りて其奏效を期するものとあり。又主として賃銀努役者の窮状に着目し方法を設けて其困苦を軽減せんとするものと、従来の独立小産業者にして猶其地位を失はず競争場裡に在りて苦闘を持続せる者に對し、各種の方便を供与して比較的容易にその其現状を維持せしめんとするものとあり。同じく産業組合の中にも始めて英國に起りたる所謂消費組合(購買組合)に在りては、賃銀により衣食する者をして、生計に必要なる物品を低價に購入せしむるを主たる目的とし、獨乙に起りたる貸付組合(信用組合)及び販賣組合の如きは、小産業者の利益を拡張するを以て其趣旨とせり。唯実行の方法に至りては、産業組合に於ては其名の示せるが如く各種を通して凡て私人の自由に一任し、國家は唯法規を設けて之が軌道を示し能く其当初の目的を遂げて弊害に陥らざるを期するのみ。故に西洋各國に在りては、産業組合法の制定は遙かに此組織の殺生の後にして、人民各自に稍稍其運用を会得し事業の進境に臨みたるの際に在りとす。然れども本邦産業組合の法制は、聊他国と状況を異にするものあり。
 ………若し現在の状態に放任するときは、此制度の利便を了解し協同和約の法に依りて各自の経済を発達し保持するの必要は、近き未来に於ては一般に之を感ぜしむること能はざるべし。故に先づ之に関する法規を設けて國民の注意を喚起し、一方には各種の便宜を具へて、直接に組合の設立を誘致するの要あり。産業組合法制定の当時に於ける政府当局者の意向も亦略略此邊に存せしが如し。
 (筑摩書房『柳田國男集』28巻p7-11)

 

要は、「生存競争の惨毒には見るに忍びざるものあり、手工を以て生計を営みたる者も賃銀を以て生活する所謂労役者の階級に下る。この経済上の大変動は、資本の集積、資本の勢力によるもので、殊に腕力を提供して生産に余呉する者は皆資本家と約束して賃銀の名を以て分配物の立替を乞ふしかない。このような現代文明の病的傾向は、夙に十九世紀の先覚者をして社会改良の必要を提起させて、その重要なひとつが産業組合である。産業組合は、英國には所謂消費組合(購買組合)があり、獨乙に起りたる貸付組合(信用組合)がある。産業組合に対しては、國家は唯法規を設けて之が軌道を示し能く其当初の目的を遂げて弊害に陥らざるを期するのみだが、本邦においては法規を設けて國民の注意を喚起して、直接に組合の設立を誘致する必要がある。この辺りが府当局者の意向だ。」ということである。

 

思うに、「資本の集積」による「生存競争の惨毒」は、ピケティ氏が証明するように100年前の状況に逆戻りするが如くであり、若き柳田国男が産業組合を論じた時から100年以上経ち、日本における各種協同組合に属する組合員数は3000万人を超えているというのに、「産業組合」とかそれに類するものが必要とされた状況は少しも変わっていない。考えて見れば、「産業組合法」がつくられた当初は農商務省によって、信用組合、販売組合、購買組合、生産組合のどの協同組合も一括して監督されていたのが、戦後は監督省庁が農協は農林水産省、生協は厚生省、生産組合(企業組合)は中小企業庁などに分割されて、一般協同組合法的であった「産業組合法」に比べて後退し、それを立ち上げるのに必要な条件や、柳田国男も「10回以上読めば分かる」みたいに書いた煩雑な書類手続きも相変わらずで、100年前に柳田国男が「この辺りが府当局者の意向だ」と言ったとおりの状況も変わってはいない。柳田国男は、一般には『東野物語』を書いた民俗学者として知られるが、『産業組合通解』から『東野物語』へ、そこにはこれまでの日本の協同組合が見過ごしてきた問題があるように思う。

 

柳田国男は1897年(明治30)に東京帝大に入学し、松崎蔵之助という若い学者から農政学を学び、産業組合についてもそこで学んだのであろう。当時は日清戦争が終わって、日本の資本主義が急速に成長し出した頃であり、「産業組合通解」にあるようにその弊害と対策も課題となってきた時代であった。1896年(明治29)には片山潜や高野房太郎がアメリカから帰国して、労働組合や社会主義の思想も日本に入ってきた。1897年(明治30)に高野房太郎は秀英舎の佐久間貞一の協力を得て「労働組合期成会」を結成するが、高野房太郎が佐久間貞一と知り合ったのは、弟の岩三郎が関係していた社会政策学会に入会して出会ったわけだが、社会政策学会はその前年にドイツ留学生らが設立したもので、そこには松崎蔵之助も関係していただろうと思われる。

 

1898年(明治31)にアメリカ帰りの留学生を中心にして社会主義研究会がつくられ、それは翌1899年(明治32)に社会主義協会となり、「労働組合期成会」で片山潜は社会主義を唱え、高野房太郎は期成会と鉄工組合の幹事を辞して、横浜において労働者向けの売店「共働店」を開いた。正式には「横浜鉄工共営合資会社」であったが、実質的には鉄工組合の労働者を対象にした消費組合であり、同様にして八丁堀にも「共営社」という「共働店」を開いた。しかし、1900年(明治33)3月に産業組合法と一体となって治安警察法公布されると労働運動や社会主義運動は禁止され、1901年(明治34)に高野房太郎は日本を去り青島に渡り、1904年(明治37)3月に青島の病院で客死した。柳田国男は、1900年(明治33)に東京帝大を卒業して農商務省農務局に勤務し、早稲田大学で農政学を講義し、1901年(明治34)からは産業組合についてたくさんの講演旅行を行い、1902年(明治35)11月に「産業組合通解」を出している。明治維新以後父親には定職がなく、子供の頃は貧乏で、兄の助力で大学まで学び、抒情詩を書き「文学界」の同人でもあった若き柳田国男は、貧苦にあえぐ日本の農民を救いたかったのであろうが、柳田国男が社会主義と交わることはなかった。

 

片山潜は『日本の労働運動』において「産業組合法」について、「明治33年3月治安警察法と産業組合法出でたり。前者は労働者の為に悲しむべき法律にして、後者は労働者の為に悦ぶべき法律なり。請う少し談らん。・・・治安警察法とは反対に悦ぶべき産業組合法は左の如し。」と書き、その「総則」部分を引用している。そして、この片山潜の産業組合評価に対して、岩波文庫『日本の労働運動』(昭和27年版)には以下のような[註]がある。
「産業組合法のことを、『労働者のために悦ぶべき』法律だといった彼の意見こそば、当時の彼の思想をよくあらわしている。この産業組合法は、その『先進國、特に農村信用組合の故郷と感言われるプロシャよりの移植によってなされたということ、而して之の移植の衝に常ったものは常時の官僚の新鋭、品川弥二郎、早田東助等であり、ここに当初から、日本産業組合の官僚的指導と支配が打ちたてられている』ということである。(井上晴丸砦『日本協同組合論』八七頁)要するに、日本産業組合法の目的は、半封建的な零細農業を、資本主義発展による外からの腐蝕作用にたいして防衛し、これらの半封建的な零細農業を、資本主義農業に転成させることではなく、半封建的な生産関係をたもつためであった。(前掲書、五七頁)」と。

 

要するに、戦後の岩波文庫に「日本産業組合法の目的は、半封建的な零細農業を、資本主義発展による外からの腐蝕作用にたいして防衛し、これらの半封建的な零細農業を、資本主義農業に転成させることではなく、半封建的な生産関係をたもつためであった」と書かせるほどに戦後日本の知的状況においても講座派的歴史観が強かったということであるわけだが、ロシア革命以降、日本ではコミンテルンの指導の下に階級闘争理論が、政治における社民主要打撃論のみならず、労働運動から協同組合運動、文学運動などあらゆる分野に持ち込まれて、それが戦後もずっとつづいたわけである。

 

産業組合は、明治期の社会主義運動の中で平民社の周辺でも関心を持たれ、石川三四郎は1904年に『消費組合之話』という冊子を出している。それは、安部磯雄が留学から持ち帰ったイギリスはロッチデール関係の本からの翻訳と解説なのだが、明治の官僚たちがドイツに学んで出した本とも遜色はない。しかし、まだ消費者がいないところでの消費協同組合はうまくいかず、平民社の運動ともども禁圧されてしまうのだが、発行の翌年に賀川豊彦はこれを読み、後の協同組合づくりへとつながっている。大正期になると、労働運動の興隆とともに労働者協同組合や消費協同組合づくりが始まる。関西での賀川豊彦によるものや、東京では吉野作造が組合長のロッチデール型の「家庭購買会」(1919)や、日本のクロンシュタットと言われた月島には企業立憲協会の岡本利吉によって労働者協同組合の「月島共働社」(1922)がつくられ、「野田購買利用組合」(1924)など会社購買会的な職域組合も広がって行った。しかし、1925年(大正14)以降、コミンテルン系の日本労働組合評議会が消費組合運動に階級闘争理論を持ち込み、「消費組合は階級闘争の中の経済闘争機関である」として、賀川豊彦や友愛会系の階級闘争論にもとづかない協同組合を「小市民的」、「協同組合主義」と言って批判して、介入戦術を行った。そしてこの時代は、社会主義運動におけるコミンテルンの威光は絶対であったから、階級闘争論があらゆる運動の中心理論となり、そこでは賀川豊彦も岡本利吉も評価されず、ましてや官僚の柳田国男が書いた産業組合論など、といった状況が戦後もずっとつづいたわけである。

 

そして、21世紀になってソ連が崩壊して階級闘争論も見直されるようになって、やっと賀川豊彦などが再評価されるようにり、近年、社会主義という言葉も影を潜めて、協同組合業界では「非営利」とか「共同社会」とか「社会的企業」という用語がよく使われるようになった。しかし、そこで最初の話に戻ると、それで100年以上前に柳田国男が『産業組合通解』を書いた頃と、何が変わったのだろうか。外国からの思想や言説が、相変わらず未消化のままにはばをきかせているのではあるまいか。柳田国男はなぜ官僚を辞めて『東野物語』を書き、民俗学者になったのか。また話を飛躍させれば、宮沢賢治は「羅須地人協会」で何をめざしたのか、今後とも我田引水を目論むところである。

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