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2016年4月25日 (月)

柳田国男と産業組合

28柳田国男の『産業組合通解』(筑摩書房『定本・柳田國男集』28巻)を読んだ。書かれたのは1902年(明治35)、1900年(明治33)に発布された「産業組合法」の解説と産業組合の啓蒙の書である。これを読んで、私はとても驚いた。私は16年前に会社勤めを辞めた後、NPO(特定非営利活動法人)の立ち上げとやがて清算(解散)をしたのだけど、その時に参考にしたNPOの「設立」から「解散」までの「手続き」は、産業組合であろうと特定非営利活動法人であろうと、さほど変わるものではなかったのであった。

「産業組合通解」の序論には、以下のようにある。
「人の生存競争の現象は、人類存在の最初より代として之を見ざる無きも、現時の社會に於ては、殊に其惨毒の見るに忍びざるものあり。葢し所謂第十九世紀の文明は、各種の部門に於て人智の開設を誘導したること少小ならざるが中に殊に技術工芸界に於ては其結果尤著しく、蒸気電気其他の動力の性質の発見は夙に機械の精巧を致し、製造運搬の業の之に由りて利便を得たるもの挙げて数ふべからず。通商の発達は忽にして世界の市揚を共通にし、昔時は交通の不便なるが為に、各地方に割拠して手工を以て貨物を産出し生計を営みたる者も一朝機械に由りて製造されたる低價の貨物の競争に遭ひて、復其案を継続する事態はず、漸く其独立の境涯を捨てて賃銀を以て生活する所謂労役者の階級に下るの止むを得ざるに至れり。此変遷は之を《産業の革命》と称し、仏国に於ける政治革命と共に、近世社会歴史上二大変局を以て目せらる。而して此革命の余波は未だ全く平定するに至らず、大勢の上より観察するときは今猶過渡の時代に在るものといふべく、社会構成の或部分に於ては未だ此新傾向に調和する態はざるものあることは争ふべからず。・・・
 さてこの経済上の大変動を講究するに當り、最重要なる題目の一として各人の注意を惹くべきものあり。曰く資本の集積、資本の勢力是なり。昔時産業の規模小にして、各人一地方の市場に供給するを以て足れりとせし頃には、資本の効用未だ著しからざりしも、弘く世界の需要を察し、精巧なる機械を運転し、蒸気、電気等の動力を応用して、貨物の製造に従事し、或は運輸交通の業を営むが為には、必ず予め其準備として巨額の資本を投ぜざるべからず。・・・殊に腕力を提供して生産に参与する者は、大抵資力智力を兼ね有せざるを以て、長期日を経るに非ざれば結果を見ること能はざる産業に従事する場合には、常に其間の生計を維持すること難く、皆資本家と約束して、賃銀の名を以て分配物の立替を乞ふなり。此種の労働に由りて生活する者は之を労役者又は賃役者と云ひ、少くとも其事業の進行中は、資本家の為に其自由を拘束され、自己の判断を以て損を辞し利に就くこと能はず、生産事業に於ける実力は些も之を有すること無く、分配の割合に於ても甘じて不利を忍ばざるべからず・・・
上述の如く、現代文明の病的傾向は、夙に十九世紀の先覚者をして社会改良の必要を唱導せしめ、既に其計画に基き一定の組織を具へて、弊害匡制の事に従ふもの、洋の東西を通じ甚其例に乏しからず。産業組合の制度の如きも実に其最重要なるものの一にして、其起原は遠く七十年の昔に在り。・・・
抑も社会改良の諸方策には先づ国家権力の発動に依り法規の作用を以て其目的を遂げんとするものと、単に私人の結合協力に由りて其奏效を期するものとあり。又主として賃銀努役者の窮状に着目し方法を設けて其困苦を軽減せんとするものと、従来の独立小産業者にして猶其地位を失はず競争場裡に在りて苦闘を持続せる者に對し、各種の方便を供与して比較的容易にその其現状を維持せしめんとするものとあり。同じく産業組合の中にも始めて英國に起りたる所謂消費組合(購買組合)に在りては、賃銀により衣食する者をして、生計に必要なる物品を低價に購入せしむるを主たる目的とし、獨乙に起りたる貸付組合(信用組合)及び販賣組合の如きは、小産業者の利益を拡張するを以て其趣旨とせり。唯実行の方法に至りては、産業組合に於ては其名の示せるが如く各種を通して凡て私人の自由に一任し、國家は唯法規を設けて之が軌道を示し能く其当初の目的を遂げて弊害に陥らざるを期するのみ。故に西洋各國に在りては、産業組合法の制定は遙かに此組織の殺生の後にして、人民各自に稍稍其運用を会得し事業の進境に臨みたるの際に在りとす。然れども本邦産業組合の法制は、聊他国と状況を異にするものあり。・・・若し現在の状態に放任するときは、此制度の利便を了解し協同和約の法に依りて各自の経済を発達し保持するの必要は、近き未来に於ては一般に之を感ぜしむること 抑も社会改良の諸方策には先づ国家権力の発動に依り法規の作用を以て其目的を遂げんとするものと、単に私人の結合協力に由りて其奏效を期するものとあり。又主として賃銀努役者の窮状に着目し方法を設けて其困苦を軽減せんとするものと、従来の独立小産業者にして猶其地位を失はず競争場裡に在りて苦闘を持続せる者に對し、各種の方便を供与して比較的容易にその其現状を維持せしめんとするものとあり。同じく産業組合の中にも始めて英國に起りたる所謂消費組合(購買組合)に在りては、賃銀により衣食する者をして、生計に必要なる物品を低價に購入せしむるを主たる目的とし、獨乙に起りたる貸付組合(信用組合)及び販賣組合の如きは、小産業者の利益を拡張するを以て其趣旨とせり。唯実行の方法に至りては、産業組合に於ては其名の示せるが如く各種を通して凡て私人の自由に一任し、國家は唯法規を設けて之が軌道を示し能く其当初の目的を遂げて弊害に陥らざるを期するのみ。故に西洋各國に在りては、産業組合法の制定は遙かに此組織の殺生の後にして、人民各自に稍稍其運用を会得し事業の進境に臨みたるの際に在りとす。然れども本邦産業組合の法制は、聊他国と状況を異にするものあり。・・・若し現在の状態に放任するときは、此制度の利便を了解し協同和約の法に依りて各自の経済を発達し保持するの必要は、近き未来に於ては一般に之を感ぜしむること故に先づ之に関する法規を設けて國民の注意を喚起し、一方には各種の便宜を具へて、直接に組合の設立を誘致するの要あり。産業組合法制定の当時に於ける政府当局者の意向も亦略略此邊に存せしが如し。」(筑摩書房『柳田國男集』28巻p7-11)

要は、「生存競争の惨毒には見るに忍びざるものあり、手工を以て生計を営みたる者も賃銀を以て生活する所謂労役者の階級に下る。この経済上の大変動は、資本の集積、資本の勢力によるもので、殊に腕力を提供して生産に余呉する者は皆資本家と約束して賃銀の名を以て分配物の立替を乞ふしかない。このような現代文明の病的傾向は、夙に十九世紀の先覚者をして社会改良の必要を提起させて、その重要なひとつが産業組合である。産業組合は、英國には所謂消費組合(購買組合)があり、獨乙に起りたる貸付組合(信用組合)がある。産業組合に対しては、國家は唯法規を設けて之が軌道を示し能く其当初の目的を遂げて弊害に陥らざるを期するのみだが、本邦においては法規を設けて國民の注意を喚起して、直接に組合の設立を誘致する必要がある。この辺りが府当局者の意向だ。」ということである。

思うに、「資本の集積」による「生存競争の惨毒」は、ピケティ氏が証明するように100年前の状況に逆戻りするが如くであり、若き柳田国男が産業組合を論じた時から100年以上経ち、日本における各種協同組合に属する組合員数は3000万人を超えているというのに、「産業組合」とかそれに類するものが必要とされた状況は少しも変わっていない。考えて見れば、「産業組合法」がつくられた当初は農商務省によって、信用組合、販売組合、購買組合、生産組合のどの協同組合も一括して監督されていたのが、戦後は監督省庁が農協は農林水産省、生協は厚生省、生産組合(企業組合)は中小企業庁などに分割されて、一般協同組合法的であった「産業組合法」に比べて後退し、それを立ち上げるのに必要な条件や、柳田国男も「10回以上読めば分かる」みたいに書いた煩雑な書類手続きも相変わらずで、100年前に柳田国男が「この辺りが府当局者の意向だ」と言ったとおりの状況も変わってはいない。柳田国男は、一般には『東野物語』を書いた民俗学者として知られるが、『産業組合通解』から『東野物語』へ、そこにはこれまでの日本の協同組合が見過ごしてきた問題があるように思う。

柳田国男は1897年(明治30)に東京帝大に入学し、松崎蔵之助という若い学者から農政学を学び、産業組合についてもそこで学んだのであろう。当時は日清戦争が終わって、日本の資本主義が急速に成長し出した頃であり、「産業組合通解」にあるようにその弊害と対策も課題となってきた時代であった。1896年(明治29)には片山潜や高野房太郎がアメリカから帰国して、労働組合や社会主義の思想も日本に入ってきた。1897年(明治30)に高野房太郎は秀英舎の佐久間貞一の協力を得て「労働組合期成会」を結成するが、高野房太郎が佐久間貞一と知り合ったのは、弟の岩三郎が関係していた社会政策学会に入会して出会ったわけだが、社会政策学会はその前年にドイツ留学生らが設立したもので、そこには松崎蔵之助も関係していただろうと思われる。

1898年(明治31)にアメリカ帰りの留学生を中心にして社会主義研究会がつくられ、それは翌1899年(明治32)に社会主義協会となり、「労働組合期成会」で片山潜は社会主義を唱え、高野房太郎は期成会と鉄工組合の幹事を辞して、横浜において労働者向けの売店「共働店」を開いた。正式には「横浜鉄工共営合資会社」であったが、実質的には鉄工組合の労働者を対象にした消費組合であり、同様にして八丁堀にも「共営社」という「共働店」を開いた。しかし、1900年(明治33)3月に産業組合法と一体となって治安警察法公布されると労働運動や社会主義運動は禁止され、1901年(明治34)に高野房太郎は日本を去り青島に渡り、1904年(明治37)3月に青島の病院で客死した。柳田国男は、1900年(明治33)に東京帝大を卒業して農商務省農務局に勤務し、早稲田大学で農政学を講義し、1901年(明治34)からは産業組合についてたくさんの講演旅行を行い、1902年(明治35)11月に「産業組合通解」を出している。明治維新以後父親には定職がなく、子供の頃は貧乏で、兄の助力で大学まで学び、抒情詩を書き「文学界」の同人でもあった若き柳田国男は、貧苦にあえぐ日本の農民を救いたかったのであろうが、柳田国男が社会主義と交わることはなかった。

片山潜は『日本の労働運動』において「産業組合法」について、「明治33年3月治安警察法と産業組合法出でたり。前者は労働者の為に悲しむべき法律にして、後者は労働者の為に悦ぶべき法律なり。請う少し談らん。・・・治安警察法とは反対に悦ぶべき産業組合法は左の如し。」と書き、その「総則」部分を引用している。そして、この片山潜の産業組合評価に対して、岩波文庫『日本の労働運動』(昭和27年版)には以下のような[註]がある。
「産業組合法のことを、『労働者のために悦ぶべき』法律だといった彼の意見こそば、当時の彼の思想をよくあらわしている。この産業組合法は、その『先進國、特に農村信用組合の故郷と感言われるプロシャよりの移植によってなされたということ、而して之の移植の衝に常ったものは常時の官僚の新鋭、品川弥二郎、早田東助等であり、ここに当初から、日本産業組合の官僚的指導と支配が打ちたてられている』ということである。(井上晴丸砦『日本協同組合論』八七頁)要するに、日本産業組合法の目的は、半封建的な零細農業を、資本主義発展による外からの腐蝕作用にたいして防衛し、これらの半封建的な零細農業を、資本主義農業に転成させることではなく、半封建的な生産関係をたもつためであった。(前掲書、五七頁)」と。

要するに、戦後の岩波文庫に「日本産業組合法の目的は、半封建的な零細農業を、資本主義発展による外からの腐蝕作用にたいして防衛し、これらの半封建的な零細農業を、資本主義農業に転成させることではなく、半封建的な生産関係をたもつためであった」と書かせるほどに戦後日本の知的状況においても講座派的歴史観が強かったということであるわけだが、ロシア革命以降、日本ではコミンテルンの指導の下に階級闘争理論が、政治における社民主要打撃論のみならず、労働運動から協同組合運動、文学運動などあらゆる分野に持ち込まれて、それが戦後もずっとつづいたわけである。

産業組合は、明治期の社会主義運動の中で平民社の周辺でも関心を持たれ、石川三四郎は1904年に『消費組合之話』という冊子を出している。それは、安部磯雄が留学から持ち帰ったイギリスはロッチデール関係の本からの翻訳と解説なのだが、明治の官僚たちがドイツに学んで出した本とも遜色はない。しかし、まだ消費者がいないところでの消費協同組合はうまくいかず、平民社の運動ともども禁圧されてしまうのだが、発行の翌年に賀川豊彦はこれを読み、後の協同組合づくりへとつながっている。大正期になると、労働運動の興隆とともに労働者協同組合や消費協同組合づくりが始まる。関西での賀川豊彦によるものや、東京では吉野作造が組合長のロッチデール型の「家庭購買会」(1919)や、日本のクロンシュタットと言われた月島には企業立憲協会の岡本利吉によって労働者協同組合の「月島共働社」(1922)がつくられ、「野田購買利用組合」(1924)など会社購買会的な職域組合も広がって行った。しかし、1925年(大正14)以降、コミンテルン系の日本労働組合評議会が消費組合運動に階級闘争理論を持ち込み、「消費組合は階級闘争の中の経済闘争機関である」として、賀川豊彦や友愛会系の階級闘争論にもとづかない協同組合を「小市民的」、「協同組合主義」と言って批判して、介入戦術を行った。そしてこの時代は、社会主義運動におけるコミンテルンの威光は絶対であったから、階級闘争論があらゆる運動の中心理論となり、そこでは賀川豊彦も岡本利吉も評価されず、ましてや官僚の柳田国男が書いた産業組合論など、といった状況が戦後もずっとつづいたわけである。

そして、21世紀になってソ連が崩壊して階級闘争論も見直されるようになって、やっと賀川豊彦などが再評価されるようにり、近年、社会主義という言葉も影を潜めて、協同組合業界では「非営利」とか「共同社会」とか「社会的企業」という用語がよく使われるようになった。しかし、そこで最初の話に戻ると、それで100年以上前に柳田国男が『産業組合通解』を書いた頃と、何が変わったのだろうか。外国からの思想や言説が、相変わらず未消化のままにはばをきかせているのではあるまいか。柳田国男はなぜ官僚を辞めて『東野物語』を書き、民俗学者になったのか。また話を飛躍させれば、宮沢賢治は「羅須地人協会」で何をめざしたのか、今後とも我田引水を目論むところである。

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2016年4月19日 (火)

宮沢賢治と産業組合と柳田国男

 Photo2月末に大内秀明氏から「宮沢賢治と産業組合」という論考が送られて来て、それに添えて「君も賢治の産業組合にひっかけて何か書け」みたいにあったから、さてどう書くかと4月11日のブログ「柄谷行人、カール・ポランニーと宇野弘蔵、それからロバート・オウエン」に書いたような本読みを始めた。今回はそのつづきで、また自分の頭の整理のための読書ノートを書くところ。

産業組合というのは、1900年(明治33)に成立した「産業組合法」によって規定された今でいう協同組合のことであって、1948年(昭和23)に「消費生活協同組合法」ほかができるまで、日本の協同組合は産業組合と呼ばれていた。日本に協同組合の思想が入って来たのは、労働組合や社会主義思想といっしょに入って来たルートと、明治政府のドイツ留学生からのルートがある。前者は高野房太郎、安部磯雄、片山潜らのアメリカ帰りの労働運動家、社会主義者で、イギリスのロッチデール型の消費組合がモデルで、労働組合期成会や平民社の運動の中で試行錯誤された。後者は品川弥二郎、平田東助といったドイツに留学した明治政府の官僚が持ち帰ったもので、シュルツ・デーリッチの信用組合とF・ウィルヘルム・ライファイゼンの農業協同組合がモデルであった。明治政府は1900年(明治33)に「産業組合法」を成立させたが、同年併せて「治安警察法」を成立させて労働運動と社会主義運動を抑圧したから、労働者による協同組合づくりは不可能となった。大正期に入ると大正デモクラシーの高揚の中で、賀川豊彦による大阪共益社(1920)、神戸消費組合(1921)、灘購買組合(1921)など、友愛会などの労働運動とともに協同組合もつくられだした。神戸消費組合と灘購買組合は消費組合で、現在のコープこうべにつながるわけだが、賀川豊彦の協同組合にはベースにギルド社会主義があり、生産組合や信用組合や農業協同組合や共済組合などによる複合的な協同組合構想であった。しかし、昭和に入ると階級的協同組合運動をかかげる共産党系の介入がはじまり、賀川豊彦は「今日労働運動で、私の最も厭な傾向は・・・ジャコビン主義にうつって行く事であります。まるで狂気ざたの様に私には見えます」とそれに嫌気をさして、農民組合に力を入れ始める。一方、千石興太郎によての産業組合主義、いわば協同組合主義が提起され、これは戦後の農協へとつながっている。

以上が、戦前の協同組合、産業組合運動についての私流のアバウトな要約であるわけだが、さてそこから産業組合について何を書くかとなる。「宮沢賢治と産業組合」というテーマに沿えば、宮沢賢治が「産業組合青年会」と題した詩を書いたのは1920年(大正9)であり、花巻農学校を退職して「農民芸術概論要綱」を書いて、「羅須地人協会」を立ち上げたのはは1926年(大正15・昭和元)で、少年たちが広場に産業組合をつくろうとする「ポラーノの広場」を最初に書いたのはは1927年(昭和2)である。そこでまた我田引水すれば、賀川豊彦が協同組合を作り出した頃から宮沢賢治は「産業組合」に関心をもち出して、「農民芸術概論」に「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とライファイゼンの唱えた「一人は万人のために 万人は一人のために」という協同組合の理念を賢治流に書き、「ポラーノの広場」ではその最後に、「それから3年の後には、とうとうファゼーロたちは立派な一つの産業組合をつくり、ハムと皮類と醋酸とオートミールはモリーオの市やセンダードの市はもちろん、広くどこへも出るようになりました。」と、産業組合法の範囲内で構想し得る協同組合社会の夢を書くのを読めば、ひょっとすると夏目漱石が密かに『資本論』を読んだかもしれないが如くに宮沢賢治も「産業組合」の研究をしつづけたのかもしれないと思えるわけである。そしてある日、「羅須地人協会」という意味不明な名前をつけて用心深く宮沢賢治流のそれを実践に移した。大内秀明氏の「宮沢賢治と産業組合」もそうした見立てで、だから「羅須地人協会」は賀川豊彦らの運動に通底しているし、やがて賀川豊彦が始めた農民運動の流れに宮沢賢治も合流しようとしたのだと私もそう思うのだけど、二人で同じことを書いてもしょうがないから、私はもう少し論をデフォルメしなくてはと思うわけで、それで前回書いた「柄谷行人、カール・ポランニーと宇野弘蔵、それからロバート・オウエン」みたいな横すべりをしているのである。

一昨年に柄谷行人は『遊動論―柳田國男と山人』(文春新書)という本を書いて柳田國男を論じ、柳田國男は「産業組合法」が出来た時に農商務省の官僚で、産業組合法にもかかわっている人だから、その辺りを読んでみようかと思い、図書館から柄谷行人『柳田國男論』を借りて読んだわけだが、それは70年代に書かれた論考が中心でその辺りのことは書かれていなくて、次のようなことにひっかかった。若き日の柳田國男(松岡國男)は短歌を学び田山花袋と知り合い、「文学界」に参加して島崎藤村と知り合い、当時は抒情詩を書いていたのだが、島崎藤村をはじめ「文学界」の同人がやがて詩を放棄して小説を書き始めた頃、柳田國男は農政学に専念するようになる。その辺りのことを柄谷行人は『柳田國男論』にこう書いている。
「われわれは空想に耽り、夢を見ていたにすぎないという覚醒は、文学であれなんであれ、一つの観念に憑かれた青年期の終わりに、だれにでも訪れるものだ。しかし、(「文学界」の詩人たち)が自分自身に見出しはじめた不満は、詩作という行為の内側からやってきたのだといわねばならない。それは、彼らの詩が、すでに彼らがおかれている現実あるいは諸関係から分泌されてくるものを、容れることができないという自覚にほかならなかった。・・・空想が破れたのは、空想に耽って現実を見誤っていたからではなく、彼らの表現形式をもっては、現実も自己もとらえられぬという認識によってである。おそらく彼らが詩を書きつづけてそれをこえようとすれば、日本の近代詩は比類のないものになったかもしれない。だが、彼らは小説――すなわち。“他者”を容れることのできる形式に移行した。・・・しかし、柳田の拒絶はいっそう徹底している。・・・柳田における文学の拒絶のするどさは、彼が事物そのもの、あるいは「実際の人々」そのものに即こうとした姿勢のあらわれ以外のものではない。彼は文学を否定したのではない。ひとびとが文学に寄せる甘ったるい自己幻影を捨てたのだ。」(P149-150)と。

これで私にとって長年の謎であった、なぜ島崎藤村が詩を捨てて『破戒』を書いたのかが分かったし、柳田国男が農政官僚になったのかも分かった。しかし、私は高校生の時に島崎藤村の『破戒』や『春』を読んで文学にあこがれ、だけど実際には生協で働いてきて、前期高齢者のこの歳になってもなお宮沢賢治流に言うなら「羅須地人協会」という謂わば「コミューン幻想」を捨てきれないでいる。柳田國男は1897年(明治30)に田山花袋や国木田独歩らと『抒情詩』を刊行、1900年(明治33)に東京帝大を卒業すると農商務省農務局に勤め、1902年(明治35)には「最新産業組合通解」という論文を書いて産業組合を論じている。そこで、やはりここいら辺りを読んでみるかとネットで検索、産業組合論の入っている古い『柳田国男全集』が1000円であったから注文したのだが、アマゾンでなくて古書ネットのせいかまだ届かない。同時にネットで検索して見つけた、前回のブログに書いた有賀喜左衛門に『一つの日本文化論―柳田國男に関連して―』(未来社1976)という本があったからそれも発注すると、アマゾンだったせいか直ぐに届いて、昨日それを読み終えたところでこの文章を書き出したわけである。

有賀喜左衛門は『一つの日本文化論―柳田國男に関連して―』の「あとがき」に「私は1922年(大正11)大学を出た直後に柳田のもとに出入りすることになり、民俗学を学ぶ機会に恵まれたことを今でも有難く思っている」と書き、「柳田國男の一国民俗学」の章に以下のように書いている。少し長くなるが、大切なノートである。

「柳田國男の民俗学は常民生活を中心として日本文化の伝統を明らかにすることにその目標があったと私は思っている。柳田は彼の民俗学を《新国学》と称して、本居宜長の国学の精神を継承し、これを一層大きく発展させる意図を持っていだ。・・・明治維新以来西洋文明を採り入れて国家改造に狂奔して来た政府と西洋の学問に全面依存して来た日本学界との西洋一辺倒に対する痛烈な批判を含み、それから離脱して自主的な日本を遣るには《新国学》に拠らねばならぬという《学問救世》を柳田は志していた。・・・彼の民俗学の根本問題の一つとして《何故に農民は貧なりや》という命題を掲げていたことをみると、彼の民俗学が農民史から出発していたことと政治問題との係わり合いの深いものがあったことがわかる。・・・
昭和四、五年には農村の不況は極点に達し、日本の政治経済に大きな苦悩を与えた。だから農村問題はマルクス主義者だけの問題ではなく、一般的な大問題であった。柳田は東京帝大卒業後農商前者の官吏として出発したが、明治末から昭和初めにかけて農業政策や農民史に関するいくつかの優れた著作を出し、小農の犠牲の上に日本の新しい国家を建設して来た政府の農業政策に強い不満を表明して来たから、昭和10年の時点においても、彼の民俗学の根本問題の一つとして農村問題をあげてしたことは当然である。・・・
柳田はこういう現実的な問題の根底にある日本文化の問題に一層強い関心を深めた。それは日本の文化伝統を明らかにすることによって、当面する現実的問題解決の方向付けができると確信してしたからである。柳田のこの考え方は多くの実務家や政策学者にとって迂遠な閑文字としてしか見られなかった。特に維新以後西洋文明の模倣によって新しい国家組織、経済組織、教育制度などを造るために努力してきた一般的動向にとって、今さら日本の文化伝統の発掘をしてみても意味はないという考え方が強かったからである。
ところが日本人が西洋文明の模倣によって造り出した新しい制度や生活は実際には西洋のモれと同じものではなく、著しく日本化されたものとなったのだが・・・その頃の経済学者は左でも右でも、日本の資本主義は西洋のそれの歪曲されたものだということを好んで口にした。このことは西洋文明の誤った習得であるということであり、それは単に資本主義の場合にとどまらず、西洋文明模倣のすべての面において日本人によって感じとられたのだから、これによって西洋に対する劣等感はますます深められ、そこに生じた多くの矛盾はかえって解決を困難にし、混迷を深めた。」(P125-7)

大学を出て直ぐに柳田国男の門下になった有賀喜左衛門ではあるが、やがてそこから離れたようである。有賀は柳田の民俗学を「一国民俗学」として、以下のように書いている。

「柳田は外国文明の影響の重要さをもちろん認めていたが、日本の文化伝統を知るためにはこの影響によって変化をみせない日本的な現象を特に重要視した。しかし日本人のように非常に古い時代から外国の文明を絶えず多量に受け入れて、生活を改めてきた国民にとっては、外国文明をどのような形で受け入れ、日本化したかということが日本の文化伝統を知るためには重要であると思うが、柳田はこのことを比較的軽くみていた。
 西洋に発した近代の諸科学が諸国民の人間的共通性を把握したことは極めて重要であった。これは近代のヒューマニズムと結びつくことによって、その価値を高めた。しかし人類の問題はこれを以って解決したわけではない。何となれば、諸国民の文化や社会の相互関係はどうであるかというもう一つの大きな問題があるからである。
 第一に諸国民の文化や社会は近代の強力な西洋文明の影響によって均質化するような性格を持たぬことである。・・・ 第二にこの事実からわかるように、同じような現象は近代にのみ現われたのでなく、原始時代以来の人類の有力な諸文明は広汎に世界のすべての国民や、すべての部族の間に交流した。そしてそれは諸国民、諸部族の異なる自然的、社会的、歴史的環境の中で独白の文化伝統を成立させ、多彩な特色を持つに至った。
 私がこのような事実に注目したのは、諸国民のおのおのの文化伝統は世界の諸文明の交流の中でできあがったことを語りたいからである。私は柳田の一国民俗学が鎖国的に閉じこもる主張だとは思わないが、それよりも文明の交流の中で日本文化の伝統が生れ、その中で新しい創造を行うことによって伝統はゆるやかな変化をすることに注目すべきである。」(P129-30)
 
また、有賀喜左衛門は以下のようにも書いている。
「(史観即ち作業仮説はどのような基盤において成立するか)スミスは自由貿易の時代に自由主義経済の理論を生み、マルクスは資本主義経済の成長期に唯物史観を造り、ケインズは政治に強く規制された資本主義経済の時代にその理論を立てた。すべて彼らの生存し仁時代の社会的条件が反映していた。・・・これに対し日本における日本自体の人文科学や社会科学の研究をみると、その作業仮説には欧米の理論の借用が多かったので、この仮説の成立する基礎には日本社会の条件はほとんど参加してはいなかった。これを日本の文化・社会の研究に適用したのだからその成果が十分に正しかったかどうか疑問である。このようなことがどうして生じたかというと日本人にとって欧米の近代科学は絶大な権威を持っていたからである。」(P107)

前回のブログにも書いたように、有賀喜左衛門と宇野弘蔵は同じ年の生まれである。そして、有賀喜左衛門の同郷の後輩である中村吉治は宇野弘蔵系の学者で、東北大学で日本の農村共同体史を研究した。こうなると中村吉治も読むかと思うわけだが、この春から私の枕元には今年の読書課題である『定本・宮沢賢治全集』(筑摩書房)が高く積まれている。とりあえずは入りやすそうな童話からちょい読みし始めているのだが、柄谷行人は「近代文学の終わり」をいうけど、前記の「文学界」の詩人たちにアナロジーすれば、宮沢賢治にとっての童話や詩はいかなるものだったのか、と思ったりするわけである。宮沢賢治も10代の頃からいっぱしの文学青年であり、和歌を詠み短編を書きして、1921年(大正10)25歳の頃から創作行為が本格化していく。そしてその童話の世界は、土着を超えた世界ですらある。南西方面で大きな地震が起きている。5年前には東北でとても大きな地震があった。こうなると次は5年以内に東海か関東か、地震が来るまでにはこれらを読んでしまいたいと思うところで、たとえ大地震が来て、倒れた本箱で頭を打って死ぬことがあっても、イーハトーブの世界を極められるなら、それでもいいかと思う昨今である

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2016年4月11日 (月)

柄谷行人、カール・ポランニーと宇野弘蔵、それからロバート・オウエン

Photo歳を取ると出不精になるのか、老人性引きこもりなのか、ただ金がないだけなのか、冬は寒いのもあって2、3月は家にいて本を読んだ。柄谷行人の『近代文学の終わり』(インスクリプト2005)、『日本近代文学の起源』(岩波現代文庫2008)、『哲学の起源』(岩波書店2012)ほかを読んだら、「僕は彼(ポランニー)から多くを学んでいます。・・僕が交換様式をA(贈与)、B(再分配)、C(商品交換)の三つに分けて考えたのは、そもそもポランニーの影響です」とあったから、ついでにカール・ポランニー『大転換』(東洋経済新報社1976)も読んだのであった。

 日本で『大転換』が出版されたのは40年前であり、私は当時それを読まなかったけど、カール・ポランニーを日本に紹介した玉野井芳郎の『地域分権の思想』(東洋経済新報社1977)などは読んだ。1977年から地域生協で働き出した私は農業や産直に関心を持ち、「転換期」が言われ出した時代の中で、私はソ連型社会主義に代わる新しい社会主義論、大内力らの自主管理論などを読んだわけである。そしてポランニーは、『経済の文明史』が2003年にちくま学芸文庫で復刊された時に読んだのだが、それはオムニバス版で散漫な印象を受けた。そして今回やっと『大転換』を読んでみると、ポランニーの論が宇野理論に通じること、マリノフスキーのトロブリアンド島のクラ交易が出てくること、ロバート・オウエンへの高い評価などが印象的であった。

 私は70年代の半ばから社会党の活動をやっていたのだが、当時、党内では新しい社会主義の模索が始まっており、私はピエール・ロザンバロン『自主管理の時代』(新地書房1982)や大内力『国家独占資本主義・破綻の構造』(御茶の水書房1983)、新田俊三『高度社会システムの創造』(第一書林1985)、『社会の変革と創造』(新地書房1987)や、大内秀明『「資本論」の常識』(講談社1984)や『ソフトノミックス』(日本評論社1990、『経済評論』1988年1月号より連載)から多くを学んだ。そして社会党もそれらの学者の協力で、80年代末には新路線を提起するところまでは来たのであった。

 下町の生協で働き、社会党の活動をし、地域の労働運動や平和運動、とりわけパラマウント製靴の自主生産闘争などを応援していたわけだが、1980年のICA(国際協同組合同盟)モスクワ大会においてカナダのレイドロウ博士の報告『西暦2000年の協同組合』が提起した「生産協同組合」と「協同組合地域社会」の可能性を、私は下町の自主生産闘争に見たのであった。そして、新しい社会主義の模索と併せて、新しい協同組合の在り方を考えるようになった。80年代はバブル経済とポストモダンの時代であり、情報化と国際化が急速にすすんでいた。

 90年代に入ると、ソ連はあっけなく崩壊し、社会党も解体して社民党となり党員の再登録が行われ、私はそこを離れた。90年前後に岡部一明氏と知り合いアメリカのNPOに関心を持ち、1993年に初めての海外旅行でサンフランシスコに行き、岡部一明氏に西海岸のNPOを案内され、彼の書いた『多民族社会の到来』(御茶の水書房1991)、『インターネット市民革命』(御茶の水書房1996)、『サンフランシスコ発:社会変革NPO』御茶の水書房2000)を読んで、もうひとつのアメリカについての大いなる啓示を受けた。キイワードは「市場経済」と「非営利組織」と「コミュニティ」であり、ガルブレイス、ドラッカー、D.H.コースから、ハイエク、フリードマンなども読んだ。

 日本を飛び出して世界を放浪し、カルフォルニア大学バークレイ校を卒業し、オークランドで日系NPOをやり、アメリカのNPOを日本に伝え、日本の大学でも教え、さらにそこを辞めて再びアジアを放浪する岡部一明氏はアナーキーな人であり、市場原理主義には批判的でも規制に縛られずに自由に生きること、いわば市場機能には理解がある。おそらくアメリカ革命と呼ばれる建国期のアメリカ、トクヴィルが見たアメリカ人の個人主義と利他主義、自治的なコミュニティへの共感と、現在もつづくそういった文化への共感なのであろうと思われ、私もそれらにシンパシーした。そしたら私は消費生協という産業社会型の協同組合に飽き足らなくなって、自分でもワーカーズコレクティブやNPOやSOHOといったものをやりたくなってきた、そんな矢先に職場で不祥事があって、2000年の春に私は生協を辞めたのであった。

 2000年の秋には、オークランドでの日米シニアNPOの交流会に参加する大内秀明氏のカバン持ちをして再度サンフランシスコに行き、また岡部一明氏の世話になった。そして、2004年に大内秀明氏が作並に「賢治とモリスの館」を立ち上げると、私は毎年そこに通って、出来たとたんに反故になってしまった今はなき日本社会党の「新宣言」のつづきをやろうと思ったわけで、作並での議論はウィリアム・モリス、宮沢賢治、夏目漱石、宇野弘蔵から一言でいえば「共同体論」に収斂していったのであった。この経過は2014年に大内秀明氏との共著で『土着社会主義の水脈を求めて―労農派と宇野弘蔵』(社会評論社)という本にまとめた。しかし、校正を省いてしまった本書は誤植が多くて落ち着かない、また内容的には歴史的経過が中心で本論には至っておらず、2006年の『世界共和国』(岩波新書)以来気になっていた柄谷行人氏の協同組合論も論じて、協同組合論としての増補改訂版を出し直そうと思い、そのための作業としてこの冬の読書をしたわけである。

柄谷行人は『哲学の起源』でアテネのデモクラシーは支配の一形態であったとする一方で、ハンナ・アーレントの『革命について』からインスパイアされて、イオニアにはイソノミアという自由で無支配な社会があったとする。そして「イオニアのイソノミアに類似するもう一つの例は、18世紀アメリカのタウンシップに見出される」とする。岡部一明氏もそういったアメリカの原像にシンパシーしていたものと思われる。荒っぽく我田引水すれば、宮沢賢治がイーハトーブに込めた思いも、イソノミア的世界の回復であったのではと思われるところで、この辺りに「共同体=コミュニティ」の原像をイメージするとこるである。

 カール・ポランニーは、「18世紀における統制的市場から(労働、土地、貨幣を商品化した)自己調整的市場への移行」を「根底的な転換」とし、「労働、土地、貨幣が本来商品でないことは明らかである」、「市場による購買力管理は企業を周期的に破産させることになるだろう」と書くわけだが、これは労働力の商品化によって資本主義は成立した歴史的なものであるとする宇野経済学にとても類似しており、唯物史観と階級闘争論には関心がないところも宇野弘蔵に通じている。ちがうのは、ポランニーには労働価値説、価値形態論といったマルクス経済学の理解がなく、代わりにマリノフスキーのトロブリアンド島のクラ交易からインスパイアされた互酬論ほかの人類学的な観点があることだろうか。

 カール・ポランニーは1886年にハンガリーに生まれ、マリノフスキーは1884年にポーランドに生まれ、ともに地元の大学で学んだ後はイギリス、そしてナチス政権の成立後はアメリカに渡って研究生活を送っている。ロシア革命後のヨーロッパにおける知性の繚乱とその交流は領域も広くまばゆいものがあり、20世紀の知性はすでにそこで出尽くしていると思われるほどであり、同じ頃の日本の知的世界がコミンテルンマルクス主義によって席巻されてしまったのとは大違いである。日本でポランニーや構造主義が迎えられたのはヨーロッパより半世紀も遅れたわけだが、同じ頃の日本にも世界と共時的な認識を持ちえた学者が少数だけどいた。ポランニーと同様にイギリスの資本主義成立過程から労働力の商品化による資本主義の成立とその歴史的特殊性を見抜いた宇野弘蔵もそうだが、社会学者の有賀喜左衛門などもそうである。

宇野弘蔵と有賀喜左衛門はともに1897年の生まれで、宇野弘蔵はドイツ留学後は東北大学に職を得るわけだが、有賀喜左衛門は仙台の二高から京都大学を経て東京大学文学部を卒業、卒論のテーマは担当教授に反対されながらも朝鮮美術であり、柳宗悦は1922年に「朝鮮の友に贈る書」を書き、有賀喜左衛門は柳宗悦から強い影響を受けたという。1922年はマリノフスキーが日本では1967年に翻訳出版された『西太平洋の遠洋航海者』(中央公論)を出版した年でもあるが、有賀喜左衛門はその頃すでにそれを読み、同じ頃に柳田國男と知り合って見込まれ、アナキズムに惹かれ、1934年に出た『宮沢賢治全集』を愛読したという。だから有賀喜左衛門は唯物史観の影響は受けずに、大塚久雄の共同体の発展段階論など講座派的な一元的発展段階論を批判している。有賀喜左衛門は伊那出身の人で、諏訪中学の後輩には村落共同体史の研究で知られる中村吉治がおり、中村吉治も卒論のテーマに「百姓の研究をやりたい」と平泉渉に相談すると「豚に歴史がありますか」と批判されたそうで、同郷のこの二人には会い通じるものがあり、中村吉治も柳田國男と親交があった。中村吉治は東北大学の教授になり、戦後に同じく東北大学の教授になった大内秀明氏のいわば先輩でもある。 

そこで、柄谷行人『柳田國男論』(インスクリプト2013)を読んでみた。出版されたのは最近だが、主要な論が書かれたのは70年代で、そこには柳田國男と田山花袋との交流など『日本近代文学の起源』につながるモチーフが読めるが、それと現在の柄谷行人の柳田國男論ある「遊動論」とは直接つながってはいない。次の言葉だけを反省的にメモをしておくところ。「〈外来思想〉とか〈土着思想〉とかがそれ自体あるわけではない。あるのは、いまだ抽象(内省)されたことのない生活的な思考と、それを抽象するかわりに別の概念にとび移った、つまり真の意味で《抽象》というものを知らない思考だけである」。「ひとはそれぞれ自分の固有の経験を照明することによってしか普遍的たりえない」。そして私は、私の生き方を顧みて、「増補改訂版」をどうするか考えるわけである。 

最後に、近年カール・ポランニーの評価は高く、リーマンショック後は市場主義経済への対案として『大転換』は中国など15ヶ国で翻訳され、韓国にはカナダにあるカール・ポランニー研究所のアジア支部がつくられるといった状況だが、ポランニーが『大転換』で最も評価したロバート・オウエンについては大した見直しはされていない。しかし、私的には『大転換』の肝はそこにしかない。オウエンはエンゲルスによって「空想的(ユートピア)社会主義者」とされてしまい、その影響が今なおロバート・オウエンの評価をためらわせているのかと思えるほどだが、オウエンは革命家と言うよりは企業家であり、「ロバート・オウエンほど深く産業社会の領域を洞察した者はいなかった」。「彼の思想の支柱は、キリスト教からの決別であった。オウエンはキリスト教を、〈個人主義〉という点で、すなわち、人格の責任を個人自体に負わせ、かくして社会の現実と人間形成に与える社会の強い影響を否定しているとして非難したのである。〈個人主義〉を攻撃する真意は、人間のもろもろの動機は社会にその起源があるのだという彼の主張のうちにあった」とポランニーは書いている。現在の格差問題や非正規を「自己責任」に帰す言い草を、オウエンは根底的に否定しているのである。 

さて、今日で67歳になった。髪はうすくなり、腹は出て、身体はボロくなった。物忘れが多く、こうしてメモをとらないと読んだ本のことはすぐに忘れてしまう。だから、この先に何ができるのだろうかと、考えるわけである。やりたいのはロバート・オウエンが試したようなコミュニティづくり、そのための論を考えながらすすめようと思っている。よろしく。

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