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2016年1月29日 (金)

佐藤竜一『日中友好のいしずえ』

Photo今日は寒くなるというから、朝から布団で本読みを決め込んで、昨晩から読み出した佐藤竜一『日中友好のいしずえ』(日本地域社会研究所1999)を読んだ。この本は、先週末のやはり寒かった日に同じく読んだ佐藤竜一『黄瀛―その詩と数奇な生涯』(日本地域社会研究所1994)の続編になる本で、『黄瀛―その詩と数奇な生涯』が面白かったので、つづけてこれもネットで検索注文して読んだわけである。

23日に書いたように、『黄瀛―その詩と数奇な生涯』の黄瀛(こうえい)※は、中国人を父に日本人を母に、戦前の日本で学び、中国で戦中、戦後を生きた詩人であったわけだが、『日中友好のいしずえ』はやはり戦前の日本で医学を学んで文学運動を始めた陶晶孫という中国人と草野心平を軸に、日中戦争を背景に上海を中心とした日中文化交流が描かれている。

陶晶孫は小学生で日本に来て医学を学び、九州帝大で戦後に中日友好協会名誉会長となった郭沫若と知り合って文学結社「創造社」に参加、郭沫若の妻となった日本人女性の妹と結婚している。留学生たちは日中戦争が始まると中国に帰国してそれぞれの道を歩み始めるわけだが、その頃の中国には毛沢東率いる共産党と蒋介石率いる国民党と汪兆銘率いる南京政府があって、郭沫若はやがて共産党へ、黄瀛は国民党へ、陶晶孫は共産党と通じつつ義和団事件の賠償金を基に設立された上海自然科学研究所で働いた。

草野心平は、1921年に中国の嶺南大学(現中山大学)に留学して詩を書き出し、日本の詩誌への投稿を通じて当時青島にいた黄瀛と知り合い、詩誌『銅鑼』を創刊して黄瀛も同人になり、後に宮沢賢治も『銅鑼』の同人になる。草野心平は嶺南大学で孫文に会っており、学友には戦後に中日友好協会会長となる廖承志がいる。五・三〇事件が起こって排日運動が高まり、草野心平は日本に帰国、貧乏生活を送りながら1935年に詩誌『歴程』を創刊、1940年に汪兆銘の宣伝部顧問となって南京に渡り、上海の内山書店で陶晶孫と知り合う。

当時の上海は、転向左翼や食い詰め者などが集まる「冒険家の楽園」と呼ばれた。陶晶孫と草野心平を結びつけたのは内山完造と名取洋之助がおり、その下に草野心平や北京在住の田村敏子が集まって出版や文化活動を行われ、草野心平は汪兆銘政権の一員として大東亜文学者大会に協力しており、そこに武田泰淳は参加したけど竹内好はそれに抵抗した。敗戦の年に上海に来て敗戦後の上海を見た堀田善衛は、「日本投降後、既存の一切のものに『偽』といふ名称がかぶせられた。まことに適当な言葉であると私は思った。」と書いた。

とまあ、本書を要約するときりがない。佐藤竜一氏は、当時の日中関係とその関係者に広く目配りしながら、日中悠久のきずなを描いた前作の『黄瀛―その詩と数奇な生涯』と同様に、ジャーナリストらしく実証的に『日中友好のいしずえ』を書いている。思えば、戦前・戦中の重層的な日中交流に比べたら、現在のそれは、その当事者たちは既に鬼籍に入り、それを語り継ぐ人もいなければ、無きに等しい。佐藤竜一氏は、私情を交えずに二著をまとめあげているが、日中友好を願う心情はひしひしと伝わってくるのであった。

ところで草野心平だけど、中国の大学をやめて帰国した後、故郷の福島で百姓を志して断念し、結婚するも壮絶な極貧生活を送り、高村光太郎の援助を受けて麻布十番で焼鳥屋「いわき」をやるも1年でいきづまり、戦中は上海に渡り、戦後は本郷で居酒屋「火の車」を開いたという。う~ん、私にはこれが気に入った。

※黄瀛は、1906年に中国で生まれ日本で育ったハーフで、文化学院に学び、詩を書いて草野心平と知り合い、高村光太郎に私淑し、日本で2冊の詩集を出し、花巻に宮沢賢治を訪ね、1931年に中国に帰国した後は国民党の将校になりながらも上海で魯迅と交友し、戦後は共産党に捕らえられ、さらに文化大革命の時と合せて20年の獄入りをした人で、文革後は中国で日本文学を教え、1996年の宮沢賢治生誕百周年の集いに招かれ、2005年に98歳で亡くなったという詩人。

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