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2015年12月22日 (火)

2015年12月18日『民芸なくらし』

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社会評論社の松田社長から丸山茂樹『民芸なくらし』(2015.11)という新刊書をいただいた。知り合いの協同組合研究家に丸山茂樹さんがいるけど、本書の著者は別人である。民芸とは民衆的工芸の略で、無名の職人が手作りする安価で実用的な生活用具のことで、それの持つ「用の美」を発見した白樺派の柳宗悦、陶芸家の河井寬次郎、濱田庄司の3人は1924年頃に出会って、以後その「民芸なくらし」を広めて行く。丸山茂樹『民芸なくらし』には、柳、河井、濱田、それにバーナード・リーチを加えた人々の出会いと交友が描かれている。

私が民芸にふれたのは、6年前に上野の東京都美術館で「生活と芸術 アーツ&クラフツ展」で、大内秀明氏と観に行ったわけだが、会場にはモリス関係の展示と並んで、後に三国荘と称された民芸館が再現されていた。そこで私は柳宗悦の『民芸とは何か』を買って読んだのであったが、2年前に中見真理『柳宗悦』(岩波新書2013.7)が出たので読んでみると、柳宗悦の運動とその時代は、この間に大内秀明氏と私が本にまとめた時代や現代とも重なるのであった。キイワードは「生活と芸術」であり、その流れの中に宮沢賢治の羅須地人協会や民芸運動もあるわけである。

丸山茂樹『民芸なくらし』を読了後、そういえば多岐祐介氏も柳宗悦のことを書いていたなと思い出し、彼の『文学の旧街道』(旺史社2002・2)から「不可能性の美学」と「柳宗悦と朝鮮」を今日1日かけて読んだ。多岐祐介氏はこの文章を30歳そこそこで書いたわけだが、彼は20代にいったいどれほどの本を読み思索したのであろうかと感心する。上記3冊の中では、多岐祐介氏の論考が一番残る。多岐祐介氏はこう書く。「(柳宗悦が)朝鮮の値打を発見した眼差で、日本を振返ると、そこに民衆の日本、民芸の日本が見えた。朝鮮との出会いは、柳宗悦にとって、自己確認の試金石であり、朝鮮美観の深まりは、洋学派知識人柳宗悦の日本回帰への過程だったといえる」(『文学の旧街道』p248)と。そして、それにつづけて柳宗悦の『李朝陶磁器の特質』から以下を引用する。
『丁度あの仏蘭西を中心としたゴシックの時代芸術が去った時、個人芸術がその位置を占めたのと同じである。宗教芸術はかくして民衆の温かい所有から去って了つた』と。

この観点はラスキンのゴシック評価と同じであり、昔から文学よりは啓蒙、「文学と革命」の二元論派の私は、どうしても話を運動の方に持って行きたくなる。柳、河井、濱田の3人が「下手の美」を探して全国を歩き回ったちょうど同じ頃、宮沢賢治は花巻で「羅須地人協会」をひっそりと立ち上げた。そしてこの二者は別物かというと、私的にはまったく別物ではないのである。1月9日に仙台で、大内秀明氏らが「宮沢賢治誕生120年 1/9賢治農民芸術祭」を行い、そこには宮城県内のほぼ全ての協同組合組織が参加する。そしてこの運動は、いま韓国で急激に広がりるるある協同組合運動に通底している。朝鮮の美を発見した柳宗悦は、1924年に朝鮮民族美術館を京城に開設し、いま私たちは韓国の協同組合運動に学び連帯をすすめている。今日は一歩の外出もせず、酒も飲まずに本を読んだのであった。

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2015年12月6日 芸術をもて、あの灰色の労働を燃せ』

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「仙台・羅須地人協会」から来年の1月9日に仙台で行われる「宮沢賢治誕生120年 賢治農民芸術祭り“響む午後”」の案内が届いた。一昨年秋の「仙台・羅須地人協会」設立総会、今年1月の「賢治とモリスの館10周年記念会」に次ぐイベントで、今回がすごいのは後援のネットワークで、「河北新報、NPOワーカーズコープ東北支部、あいコープみやぎ、JA宮城中央会、宮城県生協連、みやぎ生協、宮城県森連、宮城県漁協、日専連仙台、宮城県農業信用基金協会」と、ほぼ宮城県内の協同組合を網羅していることである。

1980年のICA(国際協同組合連盟)のモスクワ大会において、カナダ協同組合中央会会長のレイドロウ博士は、協同組合運動は今のままでよいのだろうかと問いかけて「レイドロウ報告」と呼ばれる提言をなし、多国籍企業が跋扈するようになった世界に対して、「生産的労働のための協同組合」や「協同組合地域社会の建設」を提起した。それに対して大方の生協は、「それはかつての生産協同組合の亡霊であり、すでに決着済みの問題だ」みたいな対応をして、その後は「協同組合の基本的価値」という論議にすりかわってしまった。しかし、その後の世界はグローバリズムの進展とソ連崩壊後の新自由主義経済化によって、ますますレイドロウ博士が危惧した傾向を強め、それに対して協同組合側からは「社会的経済」という言い方で協同組合や非営利的経済組織をベースにした対案が模索されるようになっている。

「仙台・羅須地人協会」代表の大内秀明氏は宇野派の経済学者であって協同組合学者ではないのだけれど、事業協同組合である日専連とのつきあいは長く、「あいコープみやぎ」は大内先生の教え子たちがつくった生協であり、先生はそれを応援していた。私はこの10年間仙台に通いつづけて、大内先生と新しい社会主義や協同組合の在り方を議論してきたわけだが、その結論は「協同組合は共同所有で非営利だから価値がある」とかいうよりは、資本主義の矛盾は労働力の商品化にあるがゆえに、新自由主義に対抗する新しい協同組合は、「そこでは労働力の商品化が止揚される『コミュニティとしての協同組合』」であり、そういものとしての社会主義であるということであった。今回の大内先生の講演テーマは「賢治『芸術をもて、あの灰色の労働を燃せ』」、ウィリアム・モリスと宮沢賢治の試みを、宇野経済学的には、労働力の商品化を止揚したコミュニティを創ろうとした試みであったであろうとするお話ではないかと私的には大いに期待される。

太宰治は『惜別』を書くにあたり昭和19年の戦火の最中に仙台を取材して、「河北新報」から多くの資料を得てそれを書き、それを基に「その頃の仙台には・・電灯などもその十年前の日清戦争の頃からついているのださうで」の一文を書いているが、その辺りのことは現在まさに大内秀明氏がすすめる広瀬川流域をモデルにした「自然エネルギーのソーシャル・デザイン:スマートコミュニティの水系モデル」構想につながっている。私的には、ソーシャル・デザインの手法を用いながらもこの構想の背景には「労働力商品化の止揚によるコミュニティの形成」という宇野経済学に基づくモチーフがあり、それは35年前にレイドロウ博士が提起した「協同組合地域社会の建設」というテーマの再生につながっていると思うわけである。

「仙台・羅須地人協会」は「文明の転換による東北の復興」をミッションにして、広瀬川水系の自然エネルギーを利用したスマートコミュニティを提起し、そこに地域の協同組合が総結集するというのは、大震災からの復興に追われる東北が、図らずも「協同組合地域社会の建設」の可能性を切り拓くモデルになるかもしれないと思わせる。1月9日は仙台に行くべしである。

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2015年12月21日 (月)

2015年11月17日「ラディカル・ヒューマニズム」

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昨日は「ソウル宣言の会」主催の伊藤誠氏の講演会。テーマは、「ポスト資本主義に向けての社会的経済の役割と可能性―社会的経済は新自由主義勢力への対抗軸となるか―」。伊藤誠氏の資本主義経済の歴史的概説はいかにも優等生的であったが、「資本主義経済の根本をなす労働力の商品化の廃止をめざすことが、ポスト資本主義の要件となるとみるのが、宇野理論によるマルクス再解釈にもとづく発想になる」と宇野派らしくおさえて、「アメリカでの民衆の格差拡大反対の街頭占拠運動、ユーロ圏に広がる反緊縮政策のデモや集会の波など・・こうした民衆的な自生的連帯運動の支えとなりうる労働組合運動の再建と社会的経済の多様な成長がポスト資本主義にむけて、ともに大切な社会的基盤をも用意するものとなると思われる」、「とくに社会的経済の一面に労働組合運動との連帯を求めることを・・期待したい」とされたのには我が意を得たりであった。

伊藤誠氏は、社会的経済の理論的基礎をポラニーとマルクスに見るわけだが、「ポラニーは経済理論の基礎を労働価値説にはおいていない」、「資本主義に対抗すべきラディカル・ヒューマニズムないし、経済民主主義の徹底の論拠をどう構想しうるのか。マルクスの労働価値説にも・・熟練労働や複雑労働の単純労働への還元問題に宿題が残されており・・・その問題は、市場をつうずる評価が労働に応じた分配を意味しうるのかどうか、をめぐり、形を変えて浮上するであろう。マルクスの理論にも、経済民主主義の徹底が求められているのではないか」と提起(※以上、レジメから)され、発言では「労働価値説の根本は、ラディカルな平等原理で解決しうる」と非常にラディカルに言い切っていた。会場には堀利和さんも来ていて、堀さんは伊藤誠氏にも自著の『障害者が労働力商品を止揚したいわけ』を贈ったと言い、伊藤誠氏もそれを読まれたようだから、それが伊藤誠氏のラディカルな発言に影響しているのではと思ったところ。

伊藤誠氏は、D・ハーヴェイの『資本の〈謎〉』からの影響か、「現在生じつつあるマルクス主義と無政府主義との収斂傾向も重視したい」とするが、私的には宇野理論はもともとサンディカリズムにインスパイアされていると思うから、労働力商品の止揚の結果がいわばサンディカリズム的になるのは理の当然なのである。だいたいサンディカリズムをソレルの暴力論から理解するのがまちがいなのであって、現代的には個々のサンディカリズムをしてコミュニティ(共同体)のベースとするための労働力商品の止揚論=共同体論が必要なわけである。

会が終わった後、社会評論社の松田社長が「また1000円で飲んで行くか」と言い、いつものちょい飲みをしようとしたのだが、明治大学の柳沢先生らもいっしょに飲むので、普通の居酒屋に行った。来春くらいに大内秀明氏と鎌倉孝夫氏を囲む会を考えている訳だが、それに伊藤誠氏を加えて「労働力商品の止揚論=共同体論」のシンポジウムにしようと、伊藤誠氏にも相談して了承を得た。今月はあと22日(日)に一橋大学で、28日(土)に明治大学で大内秀明氏の講演がある。この冬は、そんなことで忙しくなりそうである。

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2015年10月20日「イタリア協同組合の動向」

昨日は「ソウル宣言の会」の勉強会。「社会的経済」と呼ばれるものの勉強をやっていて、これまで富沢賢治氏「非営利セクター」、藤井敦史氏「イギリスの社会的企業」、岡本好蔵氏「カール・ポランニー」、石塚秀雄氏「カナダの協同組合」といったことを勉強してして来て、今回はイタリアの協同組合研究家の田中夏子氏を招いて「イタリアの協同組合」の勉強。イタリアの協同組合運動はこれまでもけっこう研究されてきたが、田中夏子氏から①イタリア南部のこと、②EUの政策とイタリア協同組合の動向、③コミュニテイ協同組合が報告され、報告後は協同組合は民営事業であることや、その営利・非営利性、新しい動きと協同組合の守旧性などについて議論になった。

協同組合運動の先進国であるイタリアにおける最新の動向が「コミュニテイ協同組合」であるということについて、僭越ながら、私は昨年大内秀明氏と出した本で新しい協同組合の在り様として「コミュニティとしての協同組合」を提起したところで、その後仙台では大内秀明氏が広瀬川水系における「自然再生エネルギー・スマートコミュニティ構想」をすすめつつあるから、ちょこっとそれを報告。要は、労働力商品の止揚によるコミュニティ形成の構想なのであるが、「労働力商品の止揚」なしに「共同所有だから非営利」で、「非営利だから社会的企業」で、「保険会社の相互会社だから社会的企業だ」みたいなレベルのことを言っていては、勉強会も日が暮れて道遠しであるし、なあなあではなく緊張感が必要だと思うところ。

「社会的経済」について、日本の政治家でそれを分かる人はいないというので、同席していた瀬戸大作さんが「堀利和さんを来年の参議院選挙に出せないか」と言うので、勉強会終了後に堀利和さんと柏井宏之さんと社会評論社の松田社長とでラーメン&餃子でちょい飲み、その話をやって盛り上がった。また、11月22日には一橋大学で理論経済学学会があって、大内秀明氏が「自然再生エネルギー・スマートコミュニティ構想」を発表して「学会後に食事でもしよう」と言っているから、そこで「労働力商品の止揚によるコミュニティの形成」を実践的に話そうということになった。

勉強会に行く前に若狭谷さんの所に寄って、印刷の見積もりを三つ頼んだ。忙しくなりそうだけど、そうやって今年の秋も深まっていくのだろう。

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2015年10月16日「太宰治と石上玄一郎」

昨日の朝日新聞の夕刊に、戦前に太宰治が下宿した杉並区天沼の碧雲荘が取り壊されるという記事があった。そして今朝、石上玄一郎の『太宰治と私』という本を読み終えたら、その最後の場面に、石上玄一郎が金の工面のために「思いあぐんだ時とっさにひらめいたのが太宰のことだった」とあり「杉並区天沼一丁目の碧雲荘」に太宰治を訪ねたところで物語が終わっていたのは何かのシンクロだろうか。石上玄一郎は弘前高校で太宰治と同期で、左翼体験をしている。太宰治も大学に入ってから共産党のシンパ活動やっており、昭和10年代には二人ともそこから足を洗って小説を書くようになる。いわば二人とも脱コミンテルン系のもの書きで、一時、石上玄一郎は労農派系の猪俣津南雄の世話になっている。私の書いた『土着社会主義~』は労農派論であるわけだが、猪俣津南雄についてはふれていない。それは、書いた時代が大正期までであったせいでもあるのだが、続編を書くならふれてみたいところ。猪俣津南雄は山川均の『共同戦線論」に対して、労農派のわくを超えて共産党との共闘をめざす「横断左翼論」を唱えたわけだが、彼の直系の労働運動の活動家であった高野実は、戦後に総評の事務局長になって「地域ぐるみ闘争」を唱え、その流れの地域労働運動の中に、いわゆる自主生産闘争もあったと思うからである。初夏の頃から読み始めた『太宰治全集』全12巻は、真夏の頃に7巻までを読んだところで中断している。残るは戦後編なのだが、その前に石上玄一郎に引っかかったわけである。明日は、鎌倉孝夫氏の出版記念会に行く予定。

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2015年10月9日 「石井光幸さんを偲ぶ会」

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昨日は、千住関屋町のパラマウント製靴共働社で「石井光幸さんを偲ぶ会」があって、出かけてきた。石井光幸さんは、1977年に倒産した下請けの製靴工場であったパラマウント製靴を8年間にわたる自主生産闘争を経て、新たに生産協同組合である「パラマウント製靴共働社」として再建し、労働運動における自主生産、自主再建、生産協同組合への展望を切り拓かれた方であり、石井さん亡き後もパラマウント製靴共働社は今なお元気に継続している。昨日、やはり80年代に自主生産闘争を闘って自主再建した東芝アンペックスの金島さんや、そこを辞めて太陽光発電の会社を起こされた都筑建さんらと再会したが、彼らも事業を継続している。また、全統一労組の鳥井一平さんと隣り合わせたので、この夏に大内先生や小野寺さんとやった研究会のことを話して、私と大内先生で書いた『土着社会主義~』も購入していただいた。鳥井一平さんは、争議後に自主生産を始めた零細企業をまとめて「自主生産ネットワーク」をやっているほか、「移住労働者と連帯する全国ネットワーク」の事務局長をやっていて、劣悪な環境で働く日本の外国人労働者の保護や未払い賃金を取り戻すための支援活動が評価され、2013年に米国務省から「人身売買と闘うヒーロー」として表彰された活動家で、学生時代には生協活動もしている。生前の石井光幸さんは自主生産闘争を通じて、労働運動に新しい展望を切り拓いてくれたわけだが、その「偲ぶ会」においても、パラマウントの争議解決から30年、昔の仲間たちを再会させて、新しい労働運動やその連帯に向けて、みんなを励ましてくれているようであった。

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2015年9月28日『帝国主義支配を平和だという倒錯』

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鎌倉孝夫氏の新刊『帝国主義支配を平和だという倒錯』(社会評論社2015.8)をやっと読了。経済学書ならぬ表題で、内容的には副題の「新自由主義の破綻と国家の危機」といった中身なのだが、アベノミクスが大手を振るう現状は「安倍政権に期待する者がいること自体おどろくべきことである」=「倒錯」だということなのであろうか。学生の頃に『日本帝国主義の現段階』(現代評論社1970)という本を読んだが、それから45年たっても変わらぬ鋭い現状分析と資本主義批判の情熱がよく伝わってくる。

A5版2段組350ページの分量のある本だが、多くはこれまでに社民党系の「進歩と改革」などに載せた文章だから、分かりやすく読みやすい。私的には、要点は以下のようになる。

「現代資本主義における支配的資本は、資本の最高の発展形態である株式・証券=擬制資本によって運動を展開する金融独占資本――産業独占体と銀行・証券大資本、そしてその結合体――である」。「新自由主義の思想・政策は、この金融独占資本の利潤獲得活動の自由を保証することを目的とするものである。その自由活動を制約する規制の緩和・撤廃、投資対象・場の制限の撤廃――それによる自由な投資(あるいは引揚げ)の実現――これが新自由主義の本質である」。「多国籍企業化した今日の金融資本は・・その私的利潤追求のために、国家を、その財政(税金)を利用している」。「財政危機の根本原因は、金融資本―しかも擬制的、投機的性格を強め、多国籍企業化した金融資本が、経済の主役を演じていること、それ自体にある。この現代経済の主役―多国籍金融資本は、それ自体価値も富も生産しない擬制的領域を拡大・膨張させるとともに、本来の価値・富の生産(実体経済)に寄生し、価値を奪い、経済維持・発展の根拠を自らの利益拡大のために破壊する。だからこの多国籍企業の競争力を強め、その利潤拡大を図る政策は、社会的な経済の根拠、経済維持・成長根拠を強めるどころか、縮小・解体させる。しかし、アベノミクスの経済・財政(税制)・金融政策は、国家の政策全体を、多国籍金融資本の競争力強化、利潤拡大にふりむけてきた」。「その下に人民を統合するには・・経済の面ではトリクルダウン―好循環幻想が、政治の面では外敵侵略脅威という虚構が不可欠である」と。アベノミクスのやっていることがよく分かる。

鎌倉孝夫氏は仙台ヒデさんの仲間の宇野派の学者だが、国家論や株式会社論を語る。資本の本源的蓄積が暴力的に、国家暴力をともなって行われたように、現在の新自由主義もその延命には国家暴力を必要とするということであり、「マルクスは株式資本を資本の最高形態ととらえた。これこそは決定的認識である」と書く。宇野経済学における国家論は、鎌倉孝夫氏の「弟子」の佐藤優氏や柄谷行人氏も語るところで、それは労働力商品化の止揚と新しい共同体の形成に関係があるからであろうか、新しい協同組合論もマルクスの株式会社論といっしょに考えてみたい。7月にやった作並での研究会のつづきをこの秋にやりたいところである。

9月もあと3日、ここのところ雨降りと節約で引きこもっていたけど、今日は夕方に社会評論社に出かけ、明日は仙台ヒデさんとホテルニューオータニで打ち合わせをして、明後日は小野寺忠昭氏と仲町の日高屋でちょい飲みの予定。雨も上がり、もう10月になる、少し動きだそう。

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2015年9月17日『障碍者が労働力商品を止揚したいわけ』

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先週、『障碍者が労働力商品を止揚したいわけ』(社会評論社2015.9.10)という訳あり書名の新刊書が送られてきて、昨日その著者の堀利和氏と版元の松田健二社長らと、お祝いに、お茶の水で一杯飲んだ。堀利和氏は全盲の障害者運動家で、かつて参議院議員を二期つとめ、現在は「社会的事業所」つくりをすすめるNPO共同連の代表で、社会的事業所についいて本書で以下のように展開する。

「(社会的事業所つくりの運動は)障害のある人ない人、社会的に排除されそうな人そうでない人が、共に働き・共に生きる集団的経済自立の運動である」。「ベーシック・インカムではなく、ベーシック・ワークこそが必要である」。「資本主義を超えた、労働力商品を止揚するということが、障害者である私にとってはたして、なによりも<健常者の平均的労働力、社会的平均労働量>を超克することにつながるかどうかということに他ならない。そうでなければ、意味がないのである。もしその可能性が皆無であるならば、社会保障を充実させた高次の福祉国家論でよいことになる」。「資本主義は前提にはするが、肯定はしない」。「年金需給年齢が取沙汰されている昨今、雇用だけが働き方ではない、前期高齢者の働き方にも、社会的事業所を提案なしてもよいのではなかろうか。私たち共同連の運動と理念は、障害者を越えて広がっていく」と。

堀利和氏は、かつて私と同窓同党で、しかも宇野派である。本書の中で堀利和氏は新自由主義的グローバル経済に対する社会的連帯経済のルーツとしてロバート・オウエンにも触れ、欧米における社会的企業で「社会的に排除された人の雇用創出を目的にしたWISE(Work Integration Social Enterprise)に注目し、自ら社会的事業所づくりの実践をすすめながら、さらにアジアの障害者運動との連帯もすすめている。

そんな関係で、昨日はあと協同組合運動仲間の柏井宏之氏と、安藤昌益の会事務局長で社会福祉法人 国際視覚障害者援護協会理事長の石渡博明氏が来て、お互いがめぐり合う因果と今後を語り合い、大いに飲んだ。堀さんから同書をもう一冊いただいた。これは小野寺忠昭氏に届けて、堀さんの運動と小野寺さんの運動のコーディネイトを期するところ。近々また仲町の日高屋あたりで、小野寺さんとちょい飲みをしよう。こうして、秋が始まるのだ。

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2015年7月29日「脱労働力商品化と新しい協同・労働運動の構想」

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26~28日で作並に行ってきた。26日は、大内秀明氏の「賢治とモリスの館」で、小野寺忠昭氏らと「脱労働力商品化と新しい協同・労働運動の構想」研究会、19世紀以降の資本主義の成立と産業社会化の中で機能分化した協同組合と労働組合を、その分化の要因となった労働力の商品化を止揚させることを通じて、両者が一体となったコミュニティとして再生させようという構想であり、喧々諤々の大議論となった。夕食と懇親会は作並温泉の岩松旅館でやったので、途中に温泉につかっても頭は冷えず、引きつづき酒が入っての議論になったのであった。

翌27日は、大内先生に広瀬川水系を案内いただき、3.11の際、女川原発をはじめ全ての原発が停止する中、動きつづけて電力を供給したという明治21年につくられた日本で最初の水力発電所の三居沢水力発電所や、すべてのエネルギーを自然エネルギーでまかなうという東北大学の「エコラボ」を見学、午後は「仙台・羅須地人協会」の事務所で、大内先生が構想する「自然・再生エネルギー・スマートコミュニティ・ベルト構想」、「広瀬川水系モデル」の説明をいただき、それから津波で被災した名取地区を見に行った。

名取地区には一昨年にJUNさんと行ったわけだが、一面に生えていたセイタカアワダチソウがなくなったくらいか、津波で街ごと押し流されてしまった閖上漁港の一角に神社のあった高台から見れば、復興は遅れている印象であった。ここに来ると、みんな手を合わせて押し黙る。そんで、その後また松旅館で温泉に入ってから夕食したわけだが、そこではこれからのことなど、またひとしきり議論をしたのであった。

「賢治とモリスの館」に泊めていただいた私は、早朝の静かな庭を楽しみながら、「仙台・羅須地人協会」のかかげる「文明の転換による東北の復興」、それをどう応援していったものかと、ひたすらぼーっとしていたのでした。しかし、小野寺さんが帰りのクルマも飛ばすこと飛ばすこと、4時間くらいで帰り着き、門前仲町の日高屋で打ち上げの昼食&ちょい飲みをしたのでありました。

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2015年7月24日「ピンからきりまで」

NPOを解散したので、昨日、新宿の三平食堂で解散式をやった。60年代に二幸裏にあった三平食堂は、今も地下に三平ストアのある雑居ビルの6階に忘れられたままにあり、客はジジイの常連ばかりで、いつ行っても空いている。ジジイが5名、一度も黒字決算のできなかったNPOらしく、安酒と安肴ついばんで、はかなく散ったのであった。この先どうするか、それぞれがミッションを忘れずに生きて、年に1回7月に三平食堂で会おうという話になり、一番若いOさんがその連絡役になった。三平食堂がなくなるのが早いか、ジジイが死ぬのが早いか、それまでは年に1回7月に会おうなんて美しい話ではないか。えっ、くさいだけの話だよって? 

さて、来週は作並行きである。仙台宇野派作並研究会、今回は小野寺忠昭氏らの参加で、テーマは「脱労働力商品化と新しい協同・労働運動の構想」。1047名の解雇者を中心に25年にわたって闘われた戦後最大にして最長の争議・国鉄闘争は、政治的妥協の「4党合意」を乗り越えて、2010年に解決金総額200億円弱という勝利的解決に決着したわけだが、国労高崎を中心にして従来の企業組合型労働組合を超えた、地域に開かれた交通ユニオンという社会的労働運動づくり、同じく埼京ユニオンを中心に北関東ですすむ外国人労働者のユニオンづくりなどを小野寺さんから報告をいただき、それに現在の消費生活協同組合を超える「コミュニティとしての協同組合」との一体化を模索するところ、要は、労働運動と協同組合運動、それに工業と農業が一体的であったロバート・オウエンのコミュニティの高度な再生の模索である。

7月は、NPOの解散手つづきと、研究会の準備、「太宰治全集」の読書といった毎日である。「太宰治全集」は第4~7巻、「右大臣実朝」、「津軽」、「惜別」まで読んだ。戦前の著作のクライマックスである。本当はこの辺りのことを書きたいのだが、A4版12ページの研究会のレジメづくりなどしていて時間がない。明日はクラス会があり、明後日は朝からクルマで作並に向かう。それがすんだら8月。8月の「太宰治全集」はいよいよ「恋と革命」の戦後編の読書、それに海と山とでの遊びが中心の予定。前期高齢者の夏を楽しむところである。

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2015年7月17日「日高屋でちょい飲み」

一昨夕は門前仲町に出かけて、元東京地評オルグの小野寺さんと日高屋でちょい飲み、今月末に作並で行う研究会の打ち合わせをした。当初、研究会は鎌倉孝夫、伊藤誠の大御所でと予定したが、スケジュール調整できなくて小野寺さんと行くことにしたわけだが、小野寺さんのキャリアは労働運動、とりわけ自主生産闘争と企業別労働組合運動に代わる新しい労働運動づくりなので、それと宇野理論をどう結びつけるかの下話みたいなものであった。

実は、2004年に大内秀明氏が作並に「賢治とモリスの館」をつくられて、初めて作並に行った時にご一緒したのも小野寺さんであった。その時に小野寺さんを誘ったのと同じ動機が、それから11年たった現在もつづいているということであろうか。そして、それは何かと言えば、協同組合で働いてきた私的には、既存の消費生活協同組合の先に構想する「生産協同組合を軸にしたコミュニティづくり」であり、それは、小野寺さんが構想する既存の労働組合の先にあるものと、さほどちがわないものになると思うからである。

それからの11年間に何があったのかと言えば、私は2005年2月にNPO「自主事業サポートセンター」を立ち上げて、雇われでなく働く人のコミュニティづくりを目指して前述のごとく失敗し、その後、大内先生から宇野経済学を学び直して、先生との共著による『土着社会主義の水脈を求めて―労農派と宇野弘蔵―』の出版をめざした。一方、小野寺さんは「戦後労働運動として最大にして最長の争議と」して闘われた国鉄闘争、中曽根私権による国労解体策動の結果、国労からもはみだした1047名の争議団を勝利に導き、その報告を『what was 国鉄闘争~そして次へ』という本にまとめた。そして、2015年の春先に久しぶりに小野寺さんと会って、門前仲町の日高屋でちょい飲みして、両著を交換したのが、今回の企画の始まりとなったわけである。

私は16年前に生協を辞めたわけであるが、昨年末に本を出したせいか、先日、私がいた生協のパルシステム連合会で話をする機会があった。私は、「現在の消費生協は産業社会に相即的な功利主義的でクローズドな組織だから、将来的にはこれを地域に開かれたコミュニティとしての協同組合に変えるのがいい。そのためには、最近は生活クラブもそう考え出したように、宇野理論をベースにした協同組合論を考えるしかない」みたいな話をしたわけだが、パルシステムだけでも130万人もの組合員になった大組織には受けなかった。生協には労働組合もあるのだが、そこでも同様である。

労働組合と協同組合は、ロバート・オウエンの時代くらいまでは未分化なコミュニティであったわけだが、労働力の商品化によって資本主義が成立してからは、労働組合運動は労働力の保全とそれをより高く売るための運動となり、同時に労働者は労働力の再生産のために自らが生産した生活資料を買い取る消費者になり、協同組合運動は労働者がより安く商品を購入するための消費組合となった。要は、原初的な労働運動は資本主義の成立=労働力の商品化とともに労働組合と協同組合に機能分化したわけである。同時に、社会主義とは労働者政党が権力を取ることとなり、資本主義の矛盾とは「生産力と生産関係の矛盾にあるから、それを国家的所有に変えるのが社会主義である」というエンゲルス流の所有論ベースで考えられ、実践され、失敗した。

宇野弘蔵が喝破したとおり、資本主義の矛盾は「労働力の商品化」にあるわけで、社会主義とは「労働力の商品化が止揚された社会」のこととなる。宇野弘蔵は、こう言っている。
「それにしても労働力の商品化をアウフヘーベンするということが重要な目標だということが、今、社会主義国ではよくわかっていないのじやないかな。これは先にイデオロギーがあって、科学的研究がないからだと思うのです。労働力の商品化をアウフヘーベンしなければ資本主義を本当に変革できない、もちろんその過程にいろいろあるけれども。つまり資本主義が原始的蓄積をやらなくても、自分の労働力を自分で補給するようになる、労働力を商品化するようになるのは18世紀末ですね。この間2世紀以上かかっているわけです。だから、そういう期間は社会主義体制にもあるとぽくは思う」と。(ちくま文庫『資本論に学ぶ』p216-7)

前に吉村一正さんのコメントにあったように、宇野弘蔵は労働力の商品化について「南無阿弥陀仏」であると言っている。それは、私的には労働力商品化の止揚は、資本主義にとっては「南無阿弥陀仏」なのであり、労働力商品化が止揚されるプロセスには長い年月がかかるであろうが故に、それに向かう運動は「南無阿弥陀仏」を唱える一向一揆がごとくの長期にわたる大乗型の運動になるという気がするところである。

そして、宇野弘蔵の言う「南無阿弥陀仏」は、私的には「脱労働力商品化によるコミュニティの形成」ということになるわけで、それは現実のプロセスとしてはどうなるのか、コミュニティとしての協同組合とは、開かれたユニオン型の労働組合とは、それらを一体的に今回の研究会のテーマにしようと、小野寺さんと仲町の日高屋でちょい飲みしたのであった。

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2015年7月10日「NPOの清算」

午前中に渋谷の法務局に行って、NPOの清算手続きを済ませてきた。あとは東京都に結果を報告するだけ。法人はつくるのよりも、解散する方がひと仕事だ。近年は休眠状態であったNPOを清算できて、さばさばした気持ちである一方、何の大したこともできず、ミッションを果たせないままに終わったことに、情けなさと無念さが残り、そのミッションの継続を、残りの人生でまだやりたいという未練がある。

解散したNPOは、「自主事業サポートセンター」という名称であった。16年前に会社勤めを辞めた私は、失業者ユニオンに参加して、失業者の仕事起こしを支えるためのNPOをつくったわけである。失業者ユニオンは管理職ユニオンの子ユニオンで、管理職ユニオンでは失業した元管理職の人たちがいっしょに会社をつくって失敗したりしていた。ひとりでは出来ないことを、みんながいっしょにやれば何とかなるかと言えば、ひとりでは出来ない人たちが、他人をあてにしていっしょに会社をやっても、やはり同じことであった。だから「自主事業サポートセンター」は、メンバーはそれぞれが自分の仕事をつくり、NPOの事務所を共同の仕事場として使い、また同様に仕事起こしする人をサポートして、事務所も提供=共有しようという、いわば独立自営型のワーカーズ・コミュニティづくりを構想したものであった。

そして、自主生産企業であるパラマウント製靴協共働社の石井社長のご厚意で、その工場の2階にNPOの事務所を置かせていただき、私はそこにSOHOダルマ舎を置いて、DTP仕事を始めたのであった。自ら生業を起こして仕事する人をサポートし、増やすことが「自主事業サポートセンター」のミッションであった。NPOの宣伝を兼ねて、若い人向けの「ドロップアウト・カレッジ」や中高年者向けの「格差と雇用を考えるシンポジウム」なども行ったが、仕事起こしをしてもすぐに食えるわけではなく、キャリアを生かしてとか言っても、それは難しいことのようであった。私もDTP仕事だけで生活できたわけではなくて、不足する収入はアルバイトをして補ったわけだが、「生業+アルバイト」なら、けっこうどうにかなるものである。被雇用をあてにするだけでは、人生は結局それだけで終わってしまう。しかし、やがてメンバーの中から「やはり正規雇用を求めていくのが正しく、それがだめなら生活保護をもらうのがいい」みたいな、ミッションとは正反対のことを言い出す人が出てきて、挙句の果てに彼は私に「代表を代われ」と言い出した。この時点で、実質的にNPOは終わってしまったのであった。

この意見のちがいは、言ってしまえば、同じく社会民主主義的な社会を語っていても、労働力商品であることからぬけ出して自らそうしたコミュニティをつくるのか、大きな政府による雇用の保証と社会福祉を要求するのかみたいな対立を、ミニマムにやったようなものであった。そして私は、前者の可能性をまだ追いたいと思っているわけである。大きな社会を超えていくコミュニティをベースにした新しい社会を考えるには、働き方や労働組合の変革が必要である。今月末に、久しぶりに作並に研究会をしに行く。同行者は、自主生産闘争負けなしの伝説の元東京地評オルグの小野寺忠昭氏である。小野寺氏は11年前の2004年、大内秀明氏が作並に「賢治とモリスの館」をつくられた年にもいっしょに作並に行った。そして、この年に「自主事業サポートセンター」も法人登記したのであった。それから時代がひとサイクルして、果たして次はどんな話になるのだろうか。脱労働力商品型の労働運動の探求、まあ、今回はそんなことを話し合ってみたい。NPOは解散しても、ここでミッションを止めるわけにはいかない。

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2015年6月21日「協同社会事始め」

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先週、石見尚氏から『日本型協同社会事始め』(論創社2015.6)という新刊書が送られてきた。石見尚氏は1925年の生まれだから、今年で90歳になられるわけだが、「事始め」とつけられた書名に歳を感じさせない。お礼に感想を書いて送ろうとさっそく読んだわけだが、雨降りを幸いに座椅子せんべいしながら、『都市に村をつくる』(日本経済評論社2012)と『日本型ワーカーズ・コープの社会史』(緑風出版2007)を併せて再読した。高齢になられた孤高の協同組合学者が、何を書き伝えようとするのか、それを確かめたく思ったわけである。

石見尚氏は、1960年代から当時は亡霊とさえ言われた生産協同組合にあるべき協同組合の在り方を見つけ、世界のそれをフィールドワークし、1977年に『協同組合新論』(家の光協会)を書いて異端の協同組合学者と言われた。その後1980年のICAモスクワ大会で「レイドロウ報告」がなされて、そこで「生産協同組合」と「協同組合地域社会(協同組合コミュニティ)」が再評価され、生活クラブ生協などはその実践に入って行き、主流派系の研究誌にさえ「問題意識の鋭さ、その新鮮さにおいては石見氏以上のものはいまのところ見いだすことはできない」(生活ジャーナル1989.3)と書かれた。

石見尚氏が80歳代で書かれた上記の3著を読めば、石見協同組合理論の核心は「レイドロウ報告」の確信、ワーカーズ・コープ論と協同組合コミュニティ論にあることが分かる。これには私もまったく同意である。「協同組合と国家」については、私は今年の勉強課題。方法論はちがうけど、書けたら石見尚氏からご批判をいただきたいと思っている。あと、生協の現状についての以下の意見なども私も同意見なので、先日のパルシステム本部での座談会のつづきとして、以下記しておくところ。

「新自由主義によるグローバリゼーションに対抗するには、国内農業・商工業の循環を回復することによって、産業の空洞化を阻止し、働く場を回復する経済原理を樹立しなければならない。換言すれば、人間主義の原理に立つ地域経済を構築しなければならない。・・また協同組合は組合員の利益だけの内向きの経営方針を再検討して、地域社会のための積極的経営に転換しなければならない」。(『都市に村をつくる』p67)
「(2000年以降には都道府県を越える広域流通組織がつくられ)その背景には店舗購買に替わる個別配達がある。地域生協は広域化によって個人主義化に追随した。その結果、組合員はなお増えてはいるが、人間的絆の弱さを固定化し、あるいはそれに拍車をかけたことは否めない。90年代以降、地域生協は経済的に安定したが、組織活動は弱体化した。その象徴の一つは共同購入によるコミユニティでの日常的な班活動が消滅したこと、第二に地域生協の専従職員が滅少し、店舗事業の担い手が主婦のパート労働に替わったことである。地域生協は地域に人間的足場を持だない卸売りと系列小売業の組織に変質したのである。地域生協をいかにして協同組合コミュニティとして再建するか。第一にすべきことは、相互扶助の環境を取り戻すため、組織の地域分割と自主運営の強化である。・・店舗の空き部屋などを、ワーカーズ・コープやNPOの事務所として貸し出すことができれば、協同組合コミュニティはレイドローのいう活動センターに近づくであろう。第二は、生協従業員の三分の二を占めるパート労働者の正規職員化である。・・」と。(前掲書p126-8)

90歳になられてからの「協同社会事始め」、どの協同組合人も新たなる「協同社会事始め」を始められることを、私も願うところです。

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2015年6月2日「柄谷行人インタビュー」

訪中時に柄谷行人『遊動論』(文春親書1914)を持参し、移動中の列車や機内で読んで、帰りの飛行機内でちょうど読み終えた。そしたら、最後の「あとがき」に以下のようにあった。
「2012年の秋、北京に滞在し、清華大学で『世界史の構造』について講義するほか、中央民族大学で、人類学者らを前にして「遊動民」について講演した」。「私は以前から、魯迅の弟、周作人が柳田の著作を翻訳していたこと、また魯迅自身も柳田民俗学に通じていたことを知識としては知っていたが、中国滞在中、魯迅を読みながら初めてそのことの意義に気づいた」と。

また、先週『社会運動』(市民セクター政策機構)が出たので購入した。そこで生活クラブ連合会会長の加藤好一氏による「柄谷行人インタビュー 協同組合・社会主義・中間勢力について」があったからであるが、そしたら、そこでも柄谷行人は以下のように語ってた。
「私は・・朝日新聞の書評でウィリアム・モリスとE・B・バックスによる『社会主義 その成長と帰結』(晶支社)という本をとりあげました。・・モリスという人は・・社会主義者としてのみ知られていたのです。そのころは、幸徳秋水から山川均にいたるまで、ウィリアム・モリスの社会主義こそ、社会主義の基本的文献だった。そして、彼の社会主義はマルクス主義的でした。・・・柳田国男が大学で研究したのは、イギリスの協同組合です。明治政府の協同組合論はドイツのものですから、柳田は農商務省に入ったときから、それに対立していました。ちなみに、モリスらの社会主義は、イギリスの協同組合運動とつながるものでした。だから、その意味で、柳田とは縁があるのです。しかし、ロシア革命(1917)以降、マルクス=レーニン主義が正統とされ、社会主義という言葉も共産主義という言葉も、ロシア革命以後の現実によって、意味が変わってしまった」と。

2005年に大内先生の『恐慌論の形成』(日本評論社)が、2006年に柄谷行人氏の『世界共和国』(岩波新書)が出て、それを読んだ私は両著に共通する宇野経済学の価値形態論から労働力商品論をベースに新しい協同組合論を考えようと、大内先生とのブログのやりとりを始めたわけだが、10年後にも大内先生と柄谷行人氏との問題意識がシンクロしていると思ったところで、読み終えたばかりの『遊動論』の「あとがき」を隣の座席に座っている大内先生にもお見せしたら、柄谷行人氏の国家論と世界資本主義論的傾向にチェックがあった。

『社会運動』誌の「柄谷行人インタビュー」で、生活クラブ連合会会長の加藤好一氏は、以下のように語っていて、私は「なんだ、生活クラブはいつから構造改革から宇野派になったのか」と思ったところ。
(加藤)「これは私の個人的経験に発する質問になるのですが、大学時代に実は宇野経済学をかじりまして、結果、よくわからなかったんです。原理論、段階論、現状分析という三段階論も、それ自体はわかりやすい構成なのですが、なぜ段階論なのか、原理論を踏まえて現状分析していればいいのではないのか、そのように安直に考えていたところがありました。柄谷さんの『世界史の構造』もそうですし、今回の連載でも触れておられますが、宇野経済学の段階論は国家の再導入の試みであると言っておられる。これまた目から鱗というか、新鮮だったというか、生意気ですが、そんなふうに思ったわけです」。

明日(3日)、私が16年前までいた生協(パルシステム)から前理事長との座談会を頼まれている。何を話すかなと思っていて、先週までは中国旅行関係で忙しく、やっと昨日から明日のレジメを作り出したところなのだが、まあ、こんなことから話すかなと思ったところ。「私たちはどこから来て、これからどこへ向かうのか?」というのがテーマの座談会、手持ちの旧い資料の中に、1973年に日本社会党国民生活局発行の「生協運動情報」という冊子があって、そこに生活クラブ生協をつくった岩根邦雄氏の書いた文章が載っている。パルシステムもこのあたりが「どこから来たのか」のひとつのルーツなのだが、「どこに向かうのか」について、かつては社会党の派閥抗争の延長で仲の悪かった生活クラブとパルシステムではあるけど、宇野理論を媒介にして、やっと同じ理論的土俵に立てるようになるのだろうか。問題はパルシステムにあると思うところで、その辺りの話、明日どこまで分かってもらえるだろうか? 興味があって暇な方は、聞きに来てください。

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2015年6月1日「こんな旨いものは食べたことがない」

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先週、中国に行ってきた。4泊5日の短い旅であったけど、とても濃い旅であった。旅の企画は、「魯迅仙台留学110周年記念友好訪問団」という大内秀明氏を団長にした仙台市民によるもので、昨秋に仙台で開いた「魯迅仙台留学110周年記念」の集まりに紹興市の魯迅記念館から副館長の参加があり、その答礼として企画され、仙台市長と東北大学学長の親書を携えたものであった。

そこになぜ私が参加したかというと、前にも経過を書いたけど、3月に知り合いの中国大使館の参事官が帰任するに当たって歓送会を開いた際に、昨年末に出した『土着社会主義~』の本を差し上げたら、中国に来られたら北京で議論をしましょうということになったので、今回の仙台の訪中企画に便乗して、当初の企画とは予定外の北京に行ったわけである。

全部で18名の団を、当初の予定通りの「上海→杭州→紹興」のルートに12名、急遽つくった「北京→杭州→紹興」のルートに6名を分けたわけだが、北京ルートは旅行直前になっても北京の中国共産党対外連絡部(中連部)との確認が取れないという危うい事態になったままでの出発であった。後できいてみれば、先週日本から3000名という大訪中団が北京に来たために、中連部の日本担当部署はそれに忙殺されていたようであった。

訪中2日目の午前中に北京は中南海にある中国共産党対外連絡部を訪問すると、そこには予定通りの対応が待っていた。私たちが持参した『土着社会主義~』とモリス&バックス『社会主義』を謹呈すると、中連部からは『20世紀国外社会主義理論、思潮及流派』というB5版480pの本をいただき、その執筆者のひとりである周余云氏から中国における社会主義の考え方の説明を受けた。

私たちの土着社会主義は、ロシア革命以降に教条化され輸入された社会主義に対するオルタナティブであるわけだが、中国側もこれまでのソ連との関係を総括して、「社会主義の共通性はその民族的特色」にあり、「社会主義の原動力はたえざる改革」にあり、「社会主義と資本主義の協力と競争は21世紀のテーマである」と語り、さらに共産党の腐敗の問題から法治、党を厳しく治めていくことなどまで語られたのであった。

午前中の討論の後には豪華な昼食が用意されており、私にとっては「こんな旨いものは食べたことがない」とさえ思えるものであった。午後からも討論の予定であったのだが、中連部の方々は超多忙であるようで、私たちは北京の魯迅記念館見学と大学街の散策などをして、夕方には昼食会の答礼ということで我々が夕食会を用意して、今度は酒を酌み交わしながらまた議論をした。

そこでは酒が入ったせいか、毛沢東の評価から孔子学院のこと、魯迅の弟で対日協力者とされた周作人のことまでが話題になった。毛沢東については文化大革命が批判されながらもトウ小平を超える評価があり、孔子学院はイデオロギーの押し付けではなく中国語の普及のためのものであると言うから、我々は、孔子学院はブリティッシュ・カウンシルを参考にするのがいい、これからの中国が周作人を評価できるような国になることを期待すると語り、大いに飲んだのであった。

訪中3日目は杭州から紹興に移動、名所めぐりなどした後、以前は招待所であり、その後は江沢民から習近平までの中国要人が宿泊するという紹興飯店というホテルで、紹興市政府の要人や紹興魯迅記念館の館長らによるレセプションが開かれた。ここで大内先生から紹興市に仙台市長と東北大学学長の親書が手渡され、今回の訪中の主目的が果たされたのであった。

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2015年5月23日「近代化の日本型と中国型」

中国関係読書の最後は魯迅の再読、今朝布団の中で「祝福」(1924)という小説を読んでいたら、永井荷風の「花火」(1919)を思い出した。「花火」は、「午飯の箸を取ろうとした時ポンとどこかで花火の音がした」ではじまるわけだが、「祝福」も「夕暮れのなかにしきりに閃光がひらめき、つづいて鈍い音がひびくのは・・爆竹である」で始まる。そして「花火」が大逆事件の囚人を見たことにインスパイアされた小説であるように、「祝福」は中国の人身売買的な結婚という旧弊を描いた暗い小説である。魯迅の作品には、ほかにも外国文学や夏目漱石や芥川竜之介の作品に影響されて書かれたものがあるし、永井荷風は同居していた弟の周作人が愛読した作家であったから、魯迅が荷風を読んでいても不思議ではない。暗い話は暗く描くのではなく、淡々と描けと魯迅は荷風から学んだのかもしれない。終わり方もにている。

魯迅の小説はどれも短いから、さっとは読めても、その奥深さを理解するのは再々読くらいは必要である。最初の作品集『吶喊』(1923)にある「狂人日記」とか「阿Q正伝」が代表作として有名だが、味わい深いのは『吶喊』からは「薬」や「小さな事件」、「故郷」といった小作品。次の作品集『彷徨』(1926)からは、「祝福」、「酒楼」、「孤独者」といった故郷での旧友との再会と彷徨話。魯迅の小説はだいたい暗いのであるが、飲み屋で酒を飲むプロットなど多く、なるほど魯迅はこう飲んだのかなど分かる。そして日本人が読みやすいのは、なんといっても「藤野先生」で、これは『朝花夕捨』(1926)に入っていおり、そこにある「范愛農」もそうで、魯迅の人生は日本人にとって身近にあったから親しみやすいのであるが、それらの作品の時代背景と魯迅文学の土着性はとても奥が深くて、再読をあきさせない。また、晩年(1935)に書かれた「出関」には老子が、「起死」には荘子が出てくるのだが、革命文学論争を背景に、魯迅がいかなる心境にあったのか、興味はつきないのであった。

竹内好は『内なる中国』(筑摩書房1987)にこう書いている。
「魯迅が、近代中国の最大の啓蒙家であることは、衆評が一致している。虚無の深淵を内にふくんだ。孤独の精神が、どうして、あらわれとして啓蒙家でありえたかということは、一見、不可解のようであるが、この二重性格こそ、伝統と革命とのからみあった近代中国の二重性格性において魯迅の位置を決定する問題解決の鍵となるだろう。魯迅は、自分の思想を「民族主義と個人主義の起伏消長」であったと自己反省している。このことは、この矛盾が魯迅において自覚されていたことを示すものである。
思想史的に見れば、魯迅の位置は、孫文を毛沢東に媒介する関係にある。近代中国が、それ自体の伝統のなかから自己変革を行うためには、魯迅という否定的媒介者を経ることを避けることはできなかった。新しい価値が、外から加わるのでなく、古い価値の更新として生れ出る過程には、ある犠牲が要求される。その犠牲を一身に背負ったのが、魯迅であった。まことに魯迅こそは、その重荷に湛えうる、一片の媚骨ももたぬ。毛沢東の評したように<植民地、半植民地国民としてもっとも貴重な性格>であった」(p26)と。

これは日本人にとって定番の魯迅論であるわけだが、今回ポスト団塊の世代の藤井省三氏の『魯迅』(岩波新書2011)を読むと、藤井省三氏は竹内好を以下のように批判していた。
「竹内は政治と文学の対立という構図で魯迅論を展開していた。戦時下を生きていた竹内にとって、<政治と文学>は極めて深刻な意味を持っていたのではあるが、魯迅が生きていた1900年代から30年代の中国における政治と文学の状況は、竹内が直面していた戦時日本的状況とは相当に異なっていた。魯迅論としては竹内の議論は不毛な観念論であったといえよう」。
「竹内の魯迅論は大きく変化していく。・・・このような竹内の魯迅論が変質する際には、1949年の中華人民共和国建国、いわゆる人民革命の成功が大きな影響を与えていたと考えられよう。・・・竹内好ら中国文学者をはじめ多くの日本人が人民共和国に過度の期待を抱き、社会主義中国を賛美した。それは蔑視と侵略の半世紀に対する反動でもあったのだろう。・・・
その後も竹内は最晩年まで・・中国を鏡とする近代日本批判の評論家として活躍した。このような戦後竹内の魯迅研究者としての名声は、彼が戦中の著『魯迅』で描き出した政治と文学の対立に苦悩する魯迅像を日本の読書界に広め、大宰が『惜別』で描いたにこやかに笑う人間臭い個性的な魯迅像を駆逐していったのである」と。

私の今年の読書課題は、太宰治である。政治と文学派や近代文学派から太宰治に張られたレッテルをはがすことが、戦後文学の見直しになるのではとの希望的予感もあるのだが、その前に、竹内好の以下のもうひとつの見解について、少し考ええおきたい。これは、今回の中国行きでの私の課題でもある。
「戦後に魯迅を読むことを通してある仮説を立てたわけです。それを簡単にいいますと、近代化には複数の型があるのじゃないかということですね。それを仮に日本型と中国型と呼んだわけです」(前掲書p208)という問題である。

果たして昨今の日中対立は、近代化の「日本型と中国型」の対立なのであろうか、大内先生からは「中国、アジア・インフラ投資銀行AIIBが提起しているもの」という持論時論が送られて来た。中国側が関心をもつのは、おそらくこの問題であろう。

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2015年5月15日 「革命いまだ成らず」

中国関係の本読み、今週は孫文関係を読んだ。以下、簡単にメモするところ。
孫文は、1866年に広東省の小作農の子に生まれ、13歳で兄のいるハワイに渡りそこでハイスクールを卒業、帰国後に孫文が中国で見たのは「清朝の腐敗と横暴、民衆の迷信と因習、旧態依然とした社会」であり、これは後に日本留学の帰国後に魯迅や他の留学生が見たものも同じである。中国に戻った孫文は、洗礼を受け、医学を学んで学位をとり、マカオで医師開業をするのだが、医者になるのを止めた魯迅が中国人の精神を改革しようと文学の道にすすんだように、孫文は1894年にハワイで興中会を立ち上げると、清朝打倒、共和国創建の革命運動を開始する。その後30年間にわたる孫文の革命運動は、蜂起とその失敗、軍資金集めや政治工作のための欧米や日本への行脚と亡命つづきで、日本には十数回来日し、通算9年間もの亡命生活を送っている。

孫文が日本を訪れたのは、日清戦争後の1985年に広州での蜂起に失敗して亡命したのが最初で、孫文は日本政府の支援を期待するも対応は冷たく、実際に孫文を支えたのは宮崎滔天ほかの民間の有志であった。1905年に孫文は、東京において興中会と黄興らの華興会、章炳麟らの光復会を中心として中国革命同盟会を結成、その機関誌『民報』で三民主義と五権憲法を展開した。1911年に辛亥革命が起こり、1912年に孫文は南京で臨時大統領に就任して中華民国の成立を宣言するも、革命は袁世凱に裏切られ、1913年に日本に亡命する。2年9ヶ月間の亡命生活は頭山満がめんどうをみるのだが、日本政府には孫文のような大アジア主義の理念はなく、それどころか1915年に中国に21か条要求をおしつけて、孫文への対応も中国における日本の権益の拡張に利用できるかどうかの様子見だけの対応であった。

孫文は大アジア主義を唱えて、西欧にまさる民主主義国家をアジアで実現しようとした。孫文といえば三民主義で知られるが、それは吉野作造の民本主義のように天皇制と妥協した日本的な疑似民主主義概念なのではない。それどころか孫文は、欧米先進諸国の制度には不備な点があるから、新生中華民国ではそれをより完全なものにしなければならないと考えて、三権分立の立法・司法・行政の三権のほかに、それらと同じ重みをもつものとして、考試権と監察権を加えて五権分立とした。考試とは適材を選抜するための試験のことであり、監察とは官僚の不正を防止するためのものであるという。昨今、議会制民主主義の不備に対するカウンター・デモクラシーが言われ、官僚は資本家階級や労働者階級と並ぶ官僚階級であることが指摘され、革命の要諦は労働力商品と官僚階級の止揚にあるとされるのを見れば、この孫文の慧眼は圧倒的である。

孫文は大アジア主義の実現のために、欧米列強との不平等条約を解消したアジア唯一の独立国であった日本と手を組みたいと考えたわけだが、日本は脱亜の果てに欧米の帝国主義列強と同列かそれ以上に中国への侵略と利権の拡大をはかり、そのアジア主義も侵略の建前のものでしかなかった。1924年に国民党第一次大会が広州で開かれ、国共合作が成立すると、孫文は国民会議招集を呼びかけて北上し、その途中に日本に立ち寄り、神戸で2000名の聴衆を前に大アジア主義の演説会を行い、以下(要約)のように訴えた。
「西洋の物質文明は武力の文明、覇道の文明であり、東洋にはそれよりすぐれた王道の文化がある。王道の文化の本質は道徳、仁義である。アジアを復興させるためには、大アジア主義の下に、王道を基礎としたアジア諸民族の連合を図らねばならない。日本は、西洋の覇道の番犬ちなるのか、東洋の王道の干城となるのか、慎重に選ぶことにかかっているのです」と。

孫文は、この演説の3月半後に北京で病没した。死の直前に遺した言葉は、「革命いまだ成らず」であったという。60年の人生のうちの9年間を日本で過ごした孫文は、日本に対して何を思ったであろうか。最後まで彼を支えようとした数少ない友人への感謝のほか、日本政府に対しては失望しかなかったであろう。脱亜をめざして帝国主義にそまった日本は、孫文の唱えた大アジア主義を理解できなかったわけだが、その構造は脱亜の果ての敗戦を経て、今も日米同盟として継続している。

私は労農派で世界システム論的発想だから、アジア主義についてはこれまであまり得意ではなかった。しかし、現在の中国をどう見るのか、習近平をどう評価するのかといった時に、やはり中国的スパンでものを見ないと中国は理解できないだろうと思うようになった。文京区の白山上にある白山神社には、その近くに住んでいた宮崎滔天の家に泊まった孫文が、滔天とふたりで神社の石段に座って革命を語り合ったという石段が飾ってある。滔天が理解できなかったのは、孫文の大アジア主義の思想の持つ長いスパンであり、ふたりが共に分かち合ったのは道徳と仁義であったと思われる。短い中国行きだが、アジアから国家や個人を考えてみたくなった。

日本の「土着社会主義」と時代を同じくする中国革命関係読書は、あとは魯迅を再読するだけとなった。今回は上海→北京→紹興の魯迅記念館を回るから、これがいちばん大切な読書であろうか。

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2015年5月8日「中国行きのポイント」

中国には儒教思想がある一方に老荘思想があり、老荘思想などはアナキズムの源流などともいわれるから、昔からの土着的な思想の流れはあるわけだが、近代的な社会主義の思想はいつ頃にどこから入ってきたのかと見ると、日本における社会主義思想の流入がヨーロッパよりも身近な留学先であったアメリカからであったように、中国におけるそれも身近な留学先であった日本からが多い。中国共産党は、1921年7月に上海で結成されるわけだが、その結党大会に参加した13名中の4名は日本への留学生であり、当時の中国を代償する社会主義者で結党大会には参加しなかった李大釗は早稲田大学の卒業生であり、雑誌『新青年』を発行し中国共産党の初代総書記となった陳独秀も日本に学んだ活動家であり、後にフランスに留学する周恩来も最初は日本に留学している。

日本では、安部磯雄らアメリカ帰りの留学生によって1898年に社会主義研究会が発足し、幸徳秋水を除けばその中心はクリスチャンであったわけだが、安部磯雄は日本の社会民主主義運動の中心人物となったほか、社会主義者でありつづけたのは幸徳秋水くらいであった。同様に1921年の中国共産党の結党大会に参加した者のうち、後に中国共産党にいつづけた者はわずかであった。14年間日本に留学して東大を卒業した李漢俊は、帰国後に当時日本で出版されたマルクス主義文献を次から次へと中国語に翻訳して、共産党などの日本語はそのまま中国でも使われるようになり、中国共産党の創設大会も上海の彼の自宅で行われたのであったが、早い時期に離党、除名されている。

中国共産党史について、宇野重明『中国共産党史序説』(日本放送協会1973)と譚璐美『中国共産党を作った13人』(新潮社2010)を読むと、時代の差か、前著は毛沢東中心の歴史であり、後著は改革開放後に明らかにされた資料を生かして書かれ、イデオロギーを廃してよりリアルである。この二著で私が共通に関心を持ったのは、前著に「これには日本の<新しい村>の影響を受けていた・・」(上巻p45)と、後著に「五四運動の頃、世間には色々な思想が流行っていた。アナーキズム、社会主義、日本の合作社運動など・・」(p226)とある引用の部分で、合作社とは生産協同組合のことであるから、中国の社会主義がコミンテルン・マルクス主義に影響される以前には、日本の「新しい村」や生産協同組合(共同体)運動からの影響があったことが分かる。

前述した周恩来のフランス留学というのは、大学への留学というよりは研修生型の工場などで働きながら苦学することで、「勤工倹学」という。第一次大戦で労働力の欠乏したフランスと、日本をはじめとする諸外国に学びたいとする中国の意向が一致して行われたようで、周恩来やトウ小平や陳毅といった後の中国共産党の中心人物が参加しており、若き毛沢東もこの運動の推進者であったという。

以上のように、中国における社会主義の成立には、日本やフランスやコミンテルンからの影響があり、幾多の権力闘争を経てやがて毛沢東主義へと収斂し、文化大革命と改革開放を経て現在の習近平体制に至っている。果たして、その先はどこに行くのだろうか? この辺りも今回の中国行きのポイントなのだが、どこまで交流できるやら。これまで読んだ本は孫文関係が抜けているから、今日は図書館に行って、その辺りの本を借りてこよう。

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2015年5月8日「秋風秋雨人を愁殺す」

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今月末に中国に行くので、中国革命の本を読んでいる。日本の社会主義運動が1917年のロシア革命以前から始まっているように、中国の革命運動もそうである。どちらも日清戦争が契機で、戦争に勝って中国から賠償金を手に入れた日本は、それを原資にして資本主義が興隆する一方に社会主義の思想と運動が芽生え、負けた清国は日本にならって近代化を急ぐ一方に清朝打倒の革命運動が広がり出す。先般、私はその頃の日本の社会主義話を本にしたのだが、そこに書いたのと同じ頃の中国の運動との時代性や関係性を調べてみたいわけである。

そこで順番というか、読み易そうな本からということで、武田泰淳の『秋風秋雨人を愁殺す』から読み始めた。この本は、秋瑾という日本に留学した中国の女性革命家が、帰国後に革命党を立ち上げながらも捕らえられて処刑されるところから始まる。秋瑾は1904年に日本に留学するのだが、1905年に日本政府が清国留学生取締規則を出したのに対して秋瑾は反対運動を起こし、留学生会館で行われた集会で留学生の全員帰国を主張し、それに賛成しない者をなじって短刀を投げつけたという。秋瑾は日本で言えば、菅野すがと伊藤野枝を合わせたような女性である。

秋瑾が日本に留学していた時に魯迅も東京にいて、魯迅は留学生会館で秋瑾を目にしたようである。そして、革命を急いだ秋瑾は1907年7月に逮捕され処刑されるのだが、自白をこばんだ秋瑾が唯一残したのが「秋風秋雨人愁殺」の七文字であったという。仙台医専をやめた後、文学をやるべく再来日した魯迅はそのニュースを東京で知り、1919年4月に秋瑾の処刑をモチーフにして『薬』という小説を書く。秋瑾が革命を起こそうとして処刑された地は紹興で、紹興は魯迅の生地でもある。今回の中国行きでは、上海と北京と紹興にある魯迅記念館を回る予定、紹興には秋瑾の記念館もあるらしい。

戦前から戦後も中国文学と中国各地を逍遙した武田泰淳は、魯迅と秋瑾をモチーフに『秋風秋雨人を愁殺す』を書いた。読んで、「まいった」というのが読後感であった。それにしても、土着社会主義をキイワードに中国革命史を一夜漬けしようとして、最初からなんと魅力的な本と出合ったものか。『秋風秋雨人を愁殺す』の時代背景は、日本で言えば、1905年の平民社解散と幸徳秋水の渡米、夏目漱石の『吾輩は猫である』執筆、1906年の日本社会党結党、夏目漱石の『坊っちゃん』執筆と「命のやりとりをする維新の志士の如き烈しい精神で文学をやってみたい」という決意、1907年の日本の社会主義運動で直接行動と議会主義が分裂、夏目漱石の朝日新聞社に入社と重なる。夏目漱石が引っ越した後の西方町の漱石住居跡に移り住んだ魯迅は、朝日新聞を取って漱石の小説を読んだという。

GW前半は座椅子煎餅で本が読めたのだが、後半は遊びと酒飲みで読書が中断した。読んだものを忘れないうちに、メモするところです。

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2015年4月1日「ピエール・ロザンヴァロン」

今朝の朝日新聞のオピニオン欄に懐かしい名前を見つけた。ピエール・ロザンヴァロンだ。1982年に出た『自主管理の時代』(新地書房)という本を当時読んで、えらく感心したことがあったからだ。1981年にフランスでは社会党のミッテラン政権が誕生し、当時の私は日本にもそういうものとしての社会党政権ができることを望んでいたからである。

そういうものというのは自主管理のことであり、当時の日本社会党内ではソ連型社会主義を支持する社会主義協会派と、それに反対する自主管理派が派閥抗争を行っていて、ロザンヴァロンの『自主管理の時代』は反協会派に読まれた本で、これを書いたロザンヴァロンが私と同世代であることにも感心したのであった。

ロザンヴァロンは、「選挙で代表を選び議会に送り込む。それだけでは民主主義はうまくいかなくなっている。政党は方向感覚を失ったり、ポピュリズムに走ったり。代表されていないと失望した有権者は投票所から遠のく。危機の代表制民主主義を選挙以外の方法で支えなければ」と説き、「人々が声を表明できる新たな方法」として「カウンター(コントル)・デモクラシー」を提案し、「カウンター・デモクラシーは政府を牽制したり監視したり批判したりといった機能を担います」という。

なるほど、今の日本の政党政治がおかしくなっているのは正にそういうことで、おかしいままに安倍政権はやりたい放題しているわけである。新聞に載ったロザンヴァロンの顔はふけたけど、まだ第一線の研究者であり、また力をもらった。

それと、一昨日に購入した池上彰・佐藤優『希望の資本論』(朝日新聞出版)を読んだ。佐藤優氏はあとがきに、「ピケティ氏の議論では物足りないと思う人を念頭において、この本は構成されています」、「本文でも詳しく論じましたが、労働力が商品化されることによって、資本主義は、あたかも永続するようなシステムとして発展します」と書くわけだが、この本は『AELA』に載った池上彰氏と佐藤優氏の対談をベースにした本で、マルクスの『資本論』がさほど「詳しく論じ」られているわけではない。

ただ、宇野派の学者が『資本論』や宇野経済学の本を書いても、初版1000部で終わってしまうのがせいぜいだろうが、池上彰氏と佐藤優氏が『資本論』と宇野経済学を論じると、おそらく万単位で本は売れるのであろう。先日、一昨年に佐藤優氏との対談本『はじめてのマルクス』を出した鎌倉孝夫氏と話したら、「僕の本は千部も売れないけど、佐藤優君と出した本は1万7千部売れたよ」とおっしゃっていた。

さて、以上にヒントを得て、これから何をどうすすめたらいいのかを少し考えるところ、今日から4月、いそがしそうな季節の始まりである。

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2015年3月25日「習近平の描く中国の未来像」

今朝の朝日新聞に、「作家・周作人へ 藤村や谷崎ら文豪の手紙1500点発見」の記事があった。「島崎藤村や武者小路実篤、谷崎潤一郎といった日本の文豪らが、中国の著名な作家、周作人(1885~1967)に送った手紙やはがきなど1500点以上の資料が中国に存在することが分かった。周作人の遺族が北京の自宅で保管しており、公開に向けて準備を進めている」。「20世紀初頭に日本に留学した周作人は、日本の各界の著名人の知己を得て、文通を続けていた。戦後、日本との関係などを批判され、文化大革命中には、北京の自宅にあった日本の作家、芸術家、政治家ら350人以上からの手紙約1千通、はがき約400通などが没収されたが、死後、遺族に返却されていた」という記事である。

周作人は魯迅の実弟、日本の文学者との交流も多く、朝日新聞には「1921年8月16日に書かれたとみられる白樺派の作家、武者小路実篤からの手紙には、『日本も何かやっているやうですが、ともかく村を村らしく仕上げて見せる方に今、全力をつくしたく思っています。今後も詩が出来ましたら必ずお送り下さい』とある。武者小路が理想郷を目指して唱えた生活の共同体『新しき村』への思いがにじむ」とあるように、周作人は武者小路実篤の「新しき村」に関心をもち、1919年には、胡適、陳独秀らが発行した啓蒙雑誌「新青年」に「日本の新しき村」という文章を書いてそれを中国に紹介している。

関川夏央氏の『白樺たちの大正』(文春文庫)によれば、そういった関係で周作人の兄の魯迅も武者小路実篤に関心をもち、武者小路の『或る青年の夢』を翻訳して「新青年」に連載し、当時の北京には「新村」ブームが起こり、1920年には「新村」を夢想していた毛沢東が「日本の新しき村」の話を聞きに、周作人を訪ねてきたという。こうなると、私は中国流の『土着社会主義』と日本のそれとの関係を考えてみたくなる。

後に権力を取った毛沢東は、毛沢東流の「新村」を「人民公社」として全国につくり、やがて大失敗するわけだが、文化革命の時代に「人民公社」に下放されながらも、中国共産党のトップに立った習近平の描く中国の未来像が中国式の社会主義であるなら、そしてその現実的な課題に現在の中国における権力や格差や環境の問題であるとすれば、中国は今一度「新・新村」を学ぶことが大切だと思うところである。

先日、今月末で任期を終えて中国に戻られる中国共産党対外連絡部日本担当のLさんの歓送会において、たまたま私は『土着社会主義の水脈~』を彼女に差し上げたわけだが、その場で大内秀明氏が「日本の土着社会主義と中国の土着社会主義とのつけあわせをしてみたい」と言って、賛同を得た。大内秀明氏は5月に中国の魯迅記念館めぐりをする計画を立てているので、私もぜひ行ってみたくなった。戦後70年の今年、中国や韓国との関係を安倍政権にまかせておく訳にはいかない。

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2015年3月20日「今年の課題」

先日、社会評論社に寄った時に社長の松田さんから、「面白いから読んでみな」と言われて、ケヴィン・B・アンダーソン『周辺のマルクス』(社会評論社2015.2)をいただいた。アメリカの社会学者が書いて一橋系の若手が翻訳したA5版2段組400ページの本だから読みにくそうと思ったのではあったが、昨晩読み終えると実に面白かったのであった。

マルクスのベラ・ザスリッチ宛の手紙やマルクスが最後に自分で編集したフランス語版『資本論』の再評価や、それらを通した唯物史観の見直しやマルクスの共同体論の評価は、この間、大内秀明氏においても『ウィリアム・モリスのマルクス主義』(平凡社新書)やモリス&バックス『社会主義」(晶文社)で展開されているわけだが、近年の欧米におけるマルクス研究においても、そういう方向で盛んであるようで、それを宇野派やマル経派ではない一橋系の若い学者たちが翻訳、紹介しているというのも面白い。

著者のケヴィン・B・アンダーソンはカリフォルニア大学の先生で、1989年前後から新しく翻訳され出した第二『マルクス=エンゲルス全集』(新MEGA)をネタ本にして、それまでの全集にはなかったマルクスの書いたノートや、マルクスが特派員として『ニューヨーク・トリビューン』に書き送った記事などをベースに、マルクスの読み直しをしている。とりわけ1870年以降のマルクスのノートには、当時の資本主義のグローバリゼーションを背景にした現代に通ずる分析や、共同体をベースにした複数の社会主義への道が模索されているという。

日本では戦前から『マルクス=エンゲルス全集』が翻訳され、翻訳の種類もいくつもあるのだが、本書によれば、晩年のマルクスの書いたものはエンゲルスの単線的歴史観(=唯物史観)によって書き直されていたり、初めての全集であるソ連発行の「リャザーノフ版」などは、ソ連に都合の悪い文章は載っていなかったりして完全な全集ではなく、なんと完全なものはソ連崩壊後に国際的な協力で編集、発行されつづけており、欧米ではマルクスの資本主義批判の有効性が見直されているという。

以上は本書の概要で、内容的なことは別途また書いてみたい。それにしても、戦前から欧米よりもマルクス研究の盛んなことが自慢であった日本のマル経派ではあったが、今では新自由主義に経済学を席巻されて見る影もなく、駄インテリたちはピケティに入れあげるという情けなさである。私みたいな門外漢が嘆いても仕方ないけど、宇野理論をベースにした協同体論の構築だけは、今年の課題にするところ。早朝に読み終えて、とりあえずの感想を書いた。

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2015年2月27日「ピケティ・ブームというた知的惨状」

2月は冬ごもりの月で、読めた本は3冊だけだったけど、けっこう濃い読書ができた。読んだ本は、柄谷行人『トランスクリティーク』(岩波現代文庫)と宇野弘蔵『資本論に学ぶ』(ちくま学芸文庫)、ジェニファー・コックラク=キング『シティ・ファーマー』(白水社)の3冊。

柄谷行人は『トランスクリティーク』で、カントの超越論的批判の内在的論理、それはカントがヒュームの経験論にインスパイアされて大陸的合理論とイギリス的経験論を超える理論を、ドイツ人でありながら長くイギリスに住んだマルクスが書いた『資本論』にアナロジーして、デカルトからヘーゲルの西洋近代哲学の脱構築を構想し、「トランスクリティカルな対抗運動」=「アソシエーションのアソシエーション」を提起するわけだが、柄谷行人にそれを可能とさせたのは、まさに宇野経済学であったと思ったところ。『トランスクリティーク』は難しい本だけど、私は哲学が趣味だから、時間をかけてけっこう面白く読めた。

『資本論に学ぶ』は1975年に東大出版会から出た本の文庫化。解説は注目の若手、白井聡が書いていて、以下のようにある。
「1996年に大学に入学した私の個人的経験から言えば、当時宇野弘蔵の名を口にする先輩も教師も、私の周囲にはいなかった。かくて、戦後日本社会でかなりの程度確立されたマルクス主義の文化的ヘゲモニーは、失われていった。・・・万事において競争原理を導入しさえすればあらゆる問題は解決できるという単細胞思考に基づいた施策が繰り返し失敗し(ても)この教義が死なないという現象を目にするとき・・文化的ヘゲモニーの交替によって知性のレベルがどれほど低下したのかを、痛感せざるを得ない。富裕層への累進課税の提言があたかも画期的な主張であるかの如く大々的な注目を受けている状況(世界駅なピケティ・ブーム)は、こうした知的惨状を鮮やかに映し出している」と。
前にも書いたけど、やはりピケティを読む前に宇野弘蔵の『恐慌論』(岩波文庫)を読むべし、ということであろうか。

『シティ・ファーマー』は、欧米でピケティの『21世紀の資本』がベストセラーになる一方で、ロンドン、パリ、カナダ、アメリカ中部や西海岸、キューバの都市で何が進行しているのかをルポしたノンフィクションである。遺伝子組替えによって食料問題は解決すると言うモンサント社など遺伝子組替企業や多国籍穀物企業の工業的農業とその独占、それに追随するこれまた単細胞思考に対して、人々はささやかな自衛=都市農業の自営を始めつつある。この本は、ぜひ読むべしである。

「仙台・羅須地人協会」の東京支部というかたちで「東京・羅須地人協会」を立ち上げて、都市におけるコミュニティづくりや農業について考え始めたところであったが、『トランスクリティーク』や『シティ・ファーマー』は大いに参考になる本であった。2月もあと1日、冬はもう抜けたかなというここ数日は四温の日和である。今年の春は、少し忙しくしようと思っている。おつきあい、よろしくです。

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2015年2月23日 「柄谷行人氏による期待どおりのモリス評価」

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昨日の朝日新聞の書評欄に、柄谷行人氏がモリス&バックス『社会主義 その成長と未来』の書評を書いていた。この本は、大内秀明氏が『土着社会主義の水脈~』と同時進行で翻訳をすすめ、出版記念会もいっしょにやった謂わば兄弟本です。そして、柄谷行人氏は下記にあるように期待どおりのモリス評価をしてくれている。

「ウィリアム・モリスは現在の日本では、特に室内装飾のデザインで知られている。・・彼はまた、『ユートピアだより』を書いた、空想的社会主義者として知られている。事実、モリスはアーツ&クラフツ運動の指導者であり、また詩人であった。
しかし、ほとんど知られていないのは、彼がイギリスで、マルクスの生存中に、最初期のマルクス主義者として活勤したということである。モリスがマルクスについて知ったのは、20歳年少のバックスを通してであった。バックスは音楽を専攻するためにドイツに行ったが、マルクス主義者として帰国した。マルクスの三女エリノアとともに、彼らは1885年に社会主義同盟を結成した。また、彼らは本書を協同で書いた。
興味深いことに、モリスは、日本では明治から大正にかけても高名であったが、もっぱら社会主義者としてであった。たとえば、幸徳秋水や山川均は、本書を社会主義に関する必読書として紹介している。では、なぜこのような逆転が生じたのか。一つには、ロシア革命以後に、ロシア的マルクス主義が圧倒的に強くなったからだ。モリスは、イギリスの現実にもとづいてマルクスが書いた『資本論』の認識を踏まえつつ、オーウェンやラスキンなどイギリスの多彩な社会主義の伝統を受けついで考えた。が、ロシア革命以後、そのような試みは黙殺された。その結果、モリスはたんに芸術家・詩人と見なされるようになったのである。
とはいえ、どちらの面が重要か、と問うべきではない。それらは分離してはならないし、また、分離できないところに、モリスらの「社命主義」の神髄がある。1893年、すなわち日清戦争の前年に出版された本書は、現在、読みなおす価値のある古典である」と。

先の出版記念会で、佐藤優氏は「日本のインテリの思考型は90%が講座派からのものです」と言っていた。これはロシア革命後にロシアから入って来た共産党型のマルクス主義が戦前~戦後を通じて日本のインテリとその思考パターン、さらには文学や芸術にまで大きな影響を与えたということであり、戦後は共産党だけでなく、共産党を抜けたインテリや反共産党を唱える新左翼も含めて、日本の左翼や駄インテリのロジックは、大方は今もなおそうだということなのであろう。これが、これまでモリス&バックス『社会主義 その成長と未来』が翻訳されなかった背景であろう。

そんなこともあって、戦後も70年近く経ってから、昨秋に『土着社会主義の水脈を求めて 労農派と宇野弘蔵』(社会評論社)と『社会主義 その成長と未来』(晶文社)を出したわけで、おかげさまで両書とも売れ行きは順調、『土着社会主義の水脈を求めて 労農派と宇野弘蔵』は残り部数は少なくなった。柄谷行人氏は、「1893年、すなわち日清戦争の前年に出版された本書は、現在、読みなおす価値のある古典である」と書くわけだが、「日清戦争の前年に」にどんな意味があるのかを考えてみたい。

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2015年2月16日 「体力勝負」

昨日は、仙台の文学館で「仙台・羅須地人協会」主催の「仙台・羅須地人協会1周年・賢治とモリスの館10周年」の記念シンポジウムがあって、出かけてきた。「ウィリアム・モリスと夏目漱石、それから宮沢賢治」という魅惑満載のテーマ。大内秀明氏の講演と、モリス・漱石・賢治研究者によるシンポジウムは、実に聞きごたえあるものであった。

1月25日の東京支部の記念講演会は100名、昨日の仙台は200名の参加者を得て、2周年目に入った「文明の転換による東北の復興をかかげた仙台・羅須地人協会」とそのムーブメントは、その立ち上がりと成長にかすかな手ごたえを感じるところであった。シンポジウム終了後の懇親会と、今日の午前中は「仙台・羅須地人協会」の事務所(共同センター・仙台)で今後の取り組みなどあれこれと相談、研究会や交流会や朗読イベントなどたくさんの企画を相談した。

昨今、ちまたではトマ・ピケティの『21世紀の資本』が話題になっているから、大内秀明氏も読んでいて、「ピケティの言う資本は資産のことだよ。今度ピケティの批判を書くよ」とおっしゃっていた。行きがけの新幹線の中で読み出した宇野弘蔵の『資本論に学ぶ』(ちくま文庫2015.2.10)には、「(岩波書店の『経済学小事典』の[資本その1]を中山伊知郎君)が書いた。ぼくは[資本その1]を読んだが、何べん読んでもわからんのです。あれで[資本]という言葉がどうしてわかるのか、どういう理論をもってあれを資本と解しているのか、ぼくにはどうしてもわからない」とあって、この50年間にマルクス経済学を捨てた日本人が、なにを今さらのピケティ・ブームにあきれるところ。今年の活動には、仙台宇野派による宇野経済学の復興も大きな課題とするところでもあった。

仙台での泊まりは、昨夏につづいてゲストハウス「梅鉢」。これで3回目だから、老人バックパッカーぶりも慣れたもの。今日は半田先生がクルマで東北大学の各キャンパス、宇野弘蔵の研究室だった部屋から、さらには魯迅の住んだ下宿、小出裕章氏の住んだアパートまで案内してくれた。仙台は見所たくさんだから、今度来る時はゲストハウス「梅鉢」に連泊して、仙台を歩き回ってみようかと思うところ。1泊2500円だから、4泊5日でも1万円である。今日の帰りは、3100円の高速バス。ジジイにとって問題は、貧乏バクパッカーは体力勝負であることだろうか・・。

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2015年1月21日「懇親会は満員電車状態にて締切に」

昨日からメディアはイスラム国の話ばかりである。安倍ちゃんの浅い知性と稚拙な外交が、それを逆手に取られて弄ばれているようにさえ見える。1月25日に向けた佐藤優氏の読書は、ちょうど5冊目で最新刊の『世界史の極意』(NHK出版新書2015.1)を読み終えたところで、そこでは資本主義とナショナリズムと宗教が、高い見識から易しく解かれている。例えば「資本主義とナショナリズムと宗教」の関係は、以下のように説かれる

「人間の労働力も商品化され、人間と人間の関係性から生み出される商品もすべてカネに換算され、そのカネを増殖することが自己目的化するのが資本主義経済です。そうした資本主義経済に浸りきってしまうと、<目に見えない世界>への想像力や思考力が皆除してしまう。つまり、超越的なものを思考することができなくなるのです。こうした超越性の欠落を埋めるものがナショナリズムであり、私たちと超越性を安直に結びつけるもの、すなわち超越性へのショートカットが宗数的原理主義なのです」と。

『世界史の極意』は、2012年に出たやはり新書版の『帝国の時代をどう生きるか』の続編みたいなもので、この二著に共通するコンセプトは、新・帝国主義の時代に再び戦争が起きないようにするためには、「いまこそ<大きな物語>が必要だ」ということ。そのために知識人が、これまでの歴史観に代わる「大きな物語」をつくって提示しなければ、その間隙を在特会が語るような稚拙でグロテスクな物語が埋めてしまうという知識人としての危機意識である。佐藤優氏は、こう書いている。

「戦後の平和教育は、東西冷戦下の枠組みでおこなわれてきました。そのため、冷戦終結とともに、その有効性は失われてしまった。そもそも、この段階で、単なるヒストリーを超えた、歴史教育の新たな方向性を模索するべきでした。しかし、知識人はその作業を怠りました。その結果、いまや貧困かつ粗雑な歴史観が跋扈し、それがヘイトスピーチや極端な自国至上史観として現れています」。
「新・帝国主義が進行する現在、ナショナリズムが再び息を吹き返しています。合理性だけでは割り切れないナショナリズムは、近現代人の宗教と言うことができるでしょう。宗教である以上、誰もが無意識であれナショナリズムを自らのうちに抱えている。その暴走を阻止するために、私たちは歴史には複数の見方があることを学ばなければいけないのです」と。

佐藤優氏の凄さと面白さは、佐藤氏が保守主義を自認しながら、今回も書き出しは「すべては『労働力の商品化』から」というように、宇野理論からはじまることである。それは決して『資本論』と宇野理論を否定的にとらえたところから始まるのではなくて、宇野理論の要諦を的確にとらえて、それを宇野派の学者の誰よりも解りやすく説くことにある。いまどき『資本論』と宇野経済学の有効性をこれだけ語りつづけながら、本が売れる人はほかにはいないだろう。

さらに『世界史の極意』では、新・帝国主義とナショナリズムの問題と宗教紛争を高度な知識で解りやすく解説しながら、ウクライナやスコットランドの独立といったナショナリズムや、イスラム国などについて紐解いている。ここは佐藤優氏の十八番とも言えるところで、この本はぜひ読むべしである。

最後に、講演会を金儲けの手段にしない佐藤優氏の講演は、なかなか聞けるものではないのだが、1月25日(日)午後2時から、お茶の水の連合会館201室で行われる出版記念会に参加されて、著者の大内秀明氏、川端康雄氏と佐藤優氏との鼎談をやる。キャパ90名の会場に、現在のところ85名の総参加者がある。ドタキャンもみて、あと2~3名ならなんとか。but 懇親会は40名予定が参加希望者が50名を超えているので、これは満員電車状態となり締切りです。

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2015年1月1日「65歳にして気分は二十歳」

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昨日は、2014年のことなどまとめようと思いながらも、酒を飲んだら眠ってしまった。そんで1日経つと、それはもう去年のことで昔のことになってしまったから、もう半分は忘れかけてしまったのだが、今朝、早朝に目を覚ますと、昨年内に読み終えようと思いながらも読みかけた本があったので、それを読んだら、去年と今年がつながった。

私は昨年末に本を出して、その出版記念会の準備と、左翼雑誌つくりの仕事で年末がとても忙しく、それでも布団に入るとあれこれと本を読んでいたわけだが、それらの本はいわばコミュニティの作り方、もしくは実践例みたいなことが書いてある本で、「共同体社会主義」というよりは「コミュニティ・デザイン」とか言われている。

そして今年は、本を読むだけではなくて、そんなことをフィールドワークしてみようと思うわけだが、これは私だけではなくて、そういった本がいっぱい出だしたように、多くの人びとがそう思い始めてやり出しており、次第にW.モリスがよみがえり、アーツ&クラフト運動が見直されて、BSテレビではそういった番組も始まったようだ。

そんで、去年の秋頃までは「労農派論」を出したら、その後は土いじりと小説書きでもしようと考えていたのであったが、昨年末の総選挙結果を見て考えが変わった。この先4年間は大手を振るうだろうアベノミウスを見ないふりして老後を送ることなど出来そうにないと言うか、それをほっといては死に際に悔いを残すだろうと思ったわけで、小説を書くのは70歳からの楽しみにとっておくことにしたところ。

私の身体はボロだけど、おかげで65歳にして気分は二十歳という2015年の元旦を迎えることが出来た。とまあ、とりあえず2015年の新年の計を書いたところで、今日も早めに飲み始めて、早めに眠ることにしたい。写真は、昨年末から読んでいる本。さあ、今晩はモリス&バックスの『社会主義、その成長と帰結』を読みながら眠りについて、初夢を見ることにしよう。

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2014年11月21日 「変革のための連帯(Solidarity for Change)」

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今週、ソウル市で開かれたGsef2014(Global Social Economy Forum)という国際会議に行ってきた。これは、グローバリズムと市場主義に対して、社会的経済(多様な協同組合や社会的企業のネットワークによる地域共同体と国境を越えた連帯経済)を創出しようというソウル市主催の国際フォーラムで、国境を越えて地域単位の参加であったわけなのだが、協同組合関係者を中心とした日本人グループの中に有象無象の一人として参加したというよりは、まぎれ込んだに近いソウル行きであった。

1997年の金融危機後、韓国はそれを克服しながら、多様な道を模索したようである。1990年代には日本の生協に学びに来たし、さらに消費型生協だけでなく、ヨーロッパの生産協同組合や新しい社会経済を学び、2007 年に社会的企業育成法が施行、2011年に協同組合基本法が施行され、5 人以上で申告だけで多様な協同組合が設立できるようになった。

背景にはグローバリズムによる格差の拡大とか正規雇用の縮小とかの問題があり、現代自動車やサムスンに代表される産業のグローバル化の一方で、大卒の就職率が60%、非正規が過半数といった雇用情勢の中で、地域でオルタナティブが模索されてきたようである。そして、そのイニシアティブを取ったのが、弁護士でありNGOの活動家であった朴元淳ソウル市長であり、昨年「変革のための連帯(Solidarity for Change)」をかかげて、Gsef2013を主催して「ソウル宣言」を採択し、世界に向かって「社会的経済」を提起した。

今回のGsef2014に参加したのは、「ソウル宣言」に共感して「ソウル宣言の会」をつくった少数の日本人グループであったわけだが、中心は生協関係者であったから、Gsef2014への参加とあわせて、韓国の協同組合の先進的な取り組みも見学させていただいた。注目は、韓国では日本のような消費型生協の巨大化ではなく、多様な小規模協同組合の地域ネットワーク化がすすみつつあるということであった。

今月末に出版予定の本で、私はポスト消費型生協として、「コミュニティとしての協同組合」を提起している。その本の入稿の数日後に、私は現実に「コミュニティとしての協同組合」の萌芽を見ることになるとは思っていなかったから、実に新鮮であり感動的ですらあった。大震災と原発の破産を経験した日本が、またぞろ原発の再稼動と産業化と国家主義の道に退行しようとする一方で、隣の韓国では社会的経済によるオルタナティブが模索されている。日韓の「変革のための連帯(Solidarity for Change)」こそ必要であると思うところであった。

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2014年10月19日.「中村吉治と有賀喜左衛門」

あわただしく10月が過ぎていきます。1日にきりをつけて、布団に入って本を読み出す時が好きな時間だけど、ほとんど読まないうちに眠りにつくことが多い。それでも朝目を覚ますのは早い時間だから、起き出す前に1~2時間本を読むのが私の読書タイムであろうか。

今月は、伊藤洋志『フルサトをつくる』を読んだ後、それに刺激されて私も「フルサト」、私的には「コミュニティ=小共同体」をつくろうと、共同体論を読み始めた。これは11月に出版予定の本のつづきになることで、ちょうど5年前にも「唯物史観に代わる歴史理論」ということで、仙台ヒデさんから中村吉治を教えられたのであったが、当時は手がつかなかったところであった。

そこでやっと中村吉治を読もうと、古書ネットで何冊か購入し、そういえば以前にマイミクのベンさんから「共同体論としては、有賀喜左衛門の社会学もそこに割って入ってますな。労農派のほうに近かったかと」※とコメントをいただいたのを思い出して、中村吉治とあわせて有賀喜左衛門も読むことにして、有賀喜左衛門も読んでみたところである。(※2009年11月 1日 (日)「労農派の本流」参照)

そして驚いたのは、中村吉治も有賀喜左衛門も伊那の出身で、中学も同じなのであった。そして来年から取り組む予定の「私のフルサトつくり」計画の場が、まさに伊那なのである。そして、このシンクロに何か所以があるのだろうかと、ついでに和辻哲郎の『風土』も読んでみた。『風土』はまだ読んでいなかったから、いわば消化読書でもあったのだが、伊那谷という「風土」に関心をもったわけである。

先に読んだ構造主義との関連でいえば、有賀喜左衛門は出たばかりのマリノフスキーの『南太平洋の船乗りたち』を読んでいる。そして、マリノフスキーは多分に唯物史観を意識してこの本書いたようである。そしてその辺りのことは、先輩後輩関係にあった中村吉治にも影響を与えているかもしれない。

そして中村吉治は、『武家の歴史』(岩波新書1967)の「あとがき」に、以下のように書いている。
「どうしても、あとに記しておかねばならぬことは、この本の中で私は封建という語を一度もつかっていないことについてである」。「西欧の封建概念に対して、それに対応するような現象を・・ひろいだして、日本の封建制を云々するような安易な方法がとられていることに、反発を感じているのである。封建的土地所有とか、封建的村落共同体とか、封建的小農民とか・・・」と。

この論の背景には、有賀喜左衛門が「ゲルマン的共同体アジア的共同体、古典古代的共同体に接続してすいいしてきた」とみるウェーバーや、それを「普遍的発展法則」として考えたマルクスへの違和感が引き継がれているように思うわけだが、これらの有賀喜左衛門と中村吉治の発想の根底には、果たして伊那の風土が影響しているのだろうか。来年から伊那をフィールドワークするのが、ますます楽しみになった。

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2014年10月04日「フルサトをつくる」

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6月18日 に伊藤洋志『ナリワイをつくる』(東京書籍2012.7)について書いたけど、その続編になる『フルサトをつくる』(東京書籍20124.5)を読んだ。長らくかまけていた「労農派論」に目鼻がついた初夏の頃から、次の読書を始めたところで、コミュニティ(共同体)論のテーマは変わらないものの、それをオウエンや協同組合や協同社会論的に考えるのではなくて、もっと身近にある実践に学んで、今後のスモール・コミュニティづくりに生かしたいと思うわけである。

この15年間、私もナリワイしてきたから、『ナリワイをつくる』を読んだ感想は、「おっ、若い者も就活ばかりでなく、いよいよ生業づくりを始めたな」といった多少上から目線でもあったわけが、今回の『フルサトをつくる』を読むと、あっという間に追い越された感がある。私も同様なことを考えていたのだが、彼等はあっと言う間に実践してしまうのにはまた感心した。

伊藤洋志氏の「フルサトつくり」は、私的にはコミュニティつくりなのだが、伊藤洋志氏は「コミュニティという言葉は曖昧なのであまり使わないが、要するに『多様性があってかつ各々がやりたいことを調和しつつやり、必要に応じて協力できる人の集まり』のことだと考えている」と書く。そして、我々の世代がなじんだ「コミューン」については、「コミューンみたいに移住者だけで地域づくり組織とかつくっても意味がない。それは都市の企業を移植しただけである」、「フルサトにおいて必須条件は何か生業を持つことである。・・生業を持つと、それを通して人と接点を持つことができる」と書く。

また、「フルサト」には住処が必要なわけだが、「複数の人間で一つの場を共有してうまく使っていくには、家というハードウェア(ハコ)だけじゃなくて、コミュニティというソフトウェアが必要だ。・・自分たちで新しいタイプのコミュニティを考えながら作っていかないといけない」と書き、本書は自分たちの経験を紹介したものであるとするわけだが、大いにお勧めの本である。

「フルサトをつくる」とは、田舎に移住するといった内容ではなくて、半都市半田舎の多拠点住居の複合化による従来の地縁、血縁を超えたコミュニティづくりの本である。私は9月29日にFBに「都会には小部屋を持つor借りる、そして田舎に小屋を持つor借りる。そして、半生業半農&アートする。『東京・羅須地人協会』です」と書いた。まだ本書を読む前に書いたわけだが、本書と趣旨は同じである。伊藤洋志氏は、あっと言う間に先をいってしまったが、ジジイはジジイなりにやるしかない。そして、私は「東京・羅須地人協会」として、これをやろうと思っている。10月31日(金)に「仙台・羅須地人協会」の大内秀明氏が上京されるので、午後に「東京・羅須地人協会」の集まりをもつ予定である。場所は未定なので、決まり次第ご案内しますので、関心のある方はぜひご参加ください。

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ブログ再開の記

1年以上にわたって、このブログを更新していなかった。忙しさもあって、手軽に書けるmixiやfacebookにかまけたせいだが、ブログはやはりブログで、ブログにはmixiやfacebookといったSNSにはない使い勝手がある。例えば、この間私が忙しかったのは、昨年末に本を出したということがあったのだが、この本はこれまでこのブログに書いたことをまとめて書いたようなもので、ブログがなければ書けなかったであろうと思われる。まあ、そんなで新しい年に昨年出した本のつづきを書こうとすれば、衰えた記憶力をサポートするには、やはりブログを書くことが必要なわけである。だから私は自分のために書くわけなのだが、たまたまこのブログに出会って読んでいただけるような奇特な方がおられれば、ひたすら感謝多謝するところです。

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