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2015年12月21日 (月)

2015年7月10日「NPOの清算」

午前中に渋谷の法務局に行って、NPOの清算手続きを済ませてきた。あとは東京都に結果を報告するだけ。法人はつくるのよりも、解散する方がひと仕事だ。近年は休眠状態であったNPOを清算できて、さばさばした気持ちである一方、何の大したこともできず、ミッションを果たせないままに終わったことに、情けなさと無念さが残り、そのミッションの継続を、残りの人生でまだやりたいという未練がある。

解散したNPOは、「自主事業サポートセンター」という名称であった。16年前に会社勤めを辞めた私は、失業者ユニオンに参加して、失業者の仕事起こしを支えるためのNPOをつくったわけである。失業者ユニオンは管理職ユニオンの子ユニオンで、管理職ユニオンでは失業した元管理職の人たちがいっしょに会社をつくって失敗したりしていた。ひとりでは出来ないことを、みんながいっしょにやれば何とかなるかと言えば、ひとりでは出来ない人たちが、他人をあてにしていっしょに会社をやっても、やはり同じことであった。だから「自主事業サポートセンター」は、メンバーはそれぞれが自分の仕事をつくり、NPOの事務所を共同の仕事場として使い、また同様に仕事起こしする人をサポートして、事務所も提供=共有しようという、いわば独立自営型のワーカーズ・コミュニティづくりを構想したものであった。

そして、自主生産企業であるパラマウント製靴協共働社の石井社長のご厚意で、その工場の2階にNPOの事務所を置かせていただき、私はそこにSOHOダルマ舎を置いて、DTP仕事を始めたのであった。自ら生業を起こして仕事する人をサポートし、増やすことが「自主事業サポートセンター」のミッションであった。NPOの宣伝を兼ねて、若い人向けの「ドロップアウト・カレッジ」や中高年者向けの「格差と雇用を考えるシンポジウム」なども行ったが、仕事起こしをしてもすぐに食えるわけではなく、キャリアを生かしてとか言っても、それは難しいことのようであった。私もDTP仕事だけで生活できたわけではなくて、不足する収入はアルバイトをして補ったわけだが、「生業+アルバイト」なら、けっこうどうにかなるものである。被雇用をあてにするだけでは、人生は結局それだけで終わってしまう。しかし、やがてメンバーの中から「やはり正規雇用を求めていくのが正しく、それがだめなら生活保護をもらうのがいい」みたいな、ミッションとは正反対のことを言い出す人が出てきて、挙句の果てに彼は私に「代表を代われ」と言い出した。この時点で、実質的にNPOは終わってしまったのであった。

この意見のちがいは、言ってしまえば、同じく社会民主主義的な社会を語っていても、労働力商品であることからぬけ出して自らそうしたコミュニティをつくるのか、大きな政府による雇用の保証と社会福祉を要求するのかみたいな対立を、ミニマムにやったようなものであった。そして私は、前者の可能性をまだ追いたいと思っているわけである。大きな社会を超えていくコミュニティをベースにした新しい社会を考えるには、働き方や労働組合の変革が必要である。今月末に、久しぶりに作並に研究会をしに行く。同行者は、自主生産闘争負けなしの伝説の元東京地評オルグの小野寺忠昭氏である。小野寺氏は11年前の2004年、大内秀明氏が作並に「賢治とモリスの館」をつくられた年にもいっしょに作並に行った。そして、この年に「自主事業サポートセンター」も法人登記したのであった。それから時代がひとサイクルして、果たして次はどんな話になるのだろうか。脱労働力商品型の労働運動の探求、まあ、今回はそんなことを話し合ってみたい。NPOは解散しても、ここでミッションを止めるわけにはいかない。

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