« 2014年4月 | トップページ | 2014年7月 »

2014年5月 6日 (火)

向坂逸郎と宇野弘蔵の差

先日、元日本社会党副書記局長の曽我祐次さんから電話があって、「『社会主義』で協会派の中心の山崎耕一郎が『ウィリアム・モリスの社会主義』を批評しているから読んでみたら」とあったから、飯田橋の社会主義協会に行って、『社会主義』3月号を分けてもらい、読んでみた。

協会派もウィリアム・モリスの社会主義を評価するようになったのかなと思いしや、親族の死によって故・向坂逸郎氏の蔵書が中央大学に寄付され、それを元に中央大学では『チョーサー著作集』を購入したようで、それはウィリアム・モリスのケルムスコット・プレス版であったので、山崎耕一郎氏はモリスに関心を持ち、ついでにモリスの共同体社会主義を評価して、エンゲルス流の国家社会主義を批判する大内秀明氏の『ウィリアム・モリスのムルクス主義』(平凡社新書2012)を読んで批判した文章のようである。

せっかくの向坂逸郎氏の蔵書が、ウィリアム・モリスのケルムスコット・プレス版『チョーサー著作集』になってしまった惜しさみたいなものもあるのだろうが、ものの価値を考えれば、向坂逸郎氏の残した蔵書が社会貢献をしたと言えるくらいなものと思われるのだが、社会主義協会からすれば、山崎耕一郎氏が「マルクス、エンゲルスの考えは、『革命後の国有=労働者階級を中心とする国民の共同所有』と言う意味である。この点は、はっきりしている」と断定するとおりだから、それを批判する「共同体社会主義」など認められないということなのであろう。

さらに山崎耕一郎氏は「共同体社会主義」を批判する主要な論拠を、「工業化と大量生産、大量消費への批判・・これだけでは社会全体の運営はできない」、「そうでないと、国際経済競争のなかで、低価格品との競争に勝てないので、その国の経済総体が敗者になりかねない」、「現在の世界では、すべての国・企業が参加する経済競争が激しい。ある国・企業がゆっくり進むということは、他の多くの国・企業との競争に敗れるということである」と書くわけだが、この論拠では「だから原発を再開して、雇用を緩和して」というアベノミクスと同様になってしまうしかない。

社会主義協会は、相変わらすソ連型の「国有=労働者階級を中心とする国民の共同所有」という一国生産力主義的国家社会主義への幻想を持ちつづけているようである。しかし、そこからは山崎耕一郎氏が本論の最後に、「このままでは。しかし資本主義諸国の経済は、恐慌にはならないが、進むも退くもできない。問題は、この後の経済・政治について、脚本も、登場人物もどこでも決まっていないことである」ととんちんかんなことを書くように、何の展望も見出せないだろう。

また、『社会主義』3月号に載っている善明建一氏の「社会民主主義の市場経済論を考える」なども読むと、今になってかつて彼等が批判した社会民主主義を読み直しながらも、「生産の無政府制に基づく市場万能主義では、労働者の窮乏化が強まり」とか、「私は資本主義の害悪の根源は私有財産制そのものにあり・・社会主義とは・・生産手段の社会的所有(国有化)が大前提であるという考え方である」とか、「科学的社会主義を否定るることを意図した社会民主主義論に与することはできない」とかで、その頭の固さと悪さにはあきれるばかりである。

そこで、山崎耕一郎氏が「著者は過去の論争で、相当に不愉快な想いをしたのかもしれない」と上から目線で述べる「著者」こと大内秀明氏の近論「マルクス、モリスの社会主義と唯物史観」(『変革のアソシエ』2014年4月)を読むと、同じくマルクスに学びながらも、頭の悪い人と良い人の差はここまでちがうものかと驚かされる。

ソ連崩壊から25年、社会主義協会が相変わらずであるのに対して、大内秀明氏のソ連型社会主義に代わる社会主義の探求と構想は、宇野弘蔵が『資本論』の非イデオロギー的な解釈と純粋資本主義論に基づく体系化によってスターリン経済学を批判したように、『恐慌論の形成』から『ウィリアム・モリスのマルクス主義』、そして今回の「マルクス、モリスの社会主義と唯物史観」まで、宇野理論をベースにウィリアム・モリスの『資本論』理解を晩年のマルクスに重ねながら、ソ連型社会主義のルーツとなったエンゲルス流の社会主義理解を体系的に批判している。一見、『変革のアソシエ』というマイナーな雑誌に載った小論のように見えて、その実たいへん重要な文章だと思ったところである。

社会主義の所有論的な解釈と唯物史観による否定の否定といったドグマに対して、モリスはバックスとの共著である『社会主義 その成長および成果』の注で、「中世期における労働は、メカニカルな場合では、個々別々に行われていたのだが、精神的な面から見れば、連合・アソシエーションの原理によって、かなり明確に支配されていたのだ」と書き、つづけて大内秀明氏は、「(中世期における労働は)ギルド共同体による組織的な労働であり、連合・アソシエーションの原理で結ばれた社会だった。・・・そうしたギルドの労働組織が基礎になり、共同体における生産と消費が繰り返される社会的物質代謝が行われていた、と認識していたのである。こうした歴史認識は、西欧社会では共通の認識だったのであり・・・コミュニティとしての共同体組織の復権を目ざす共同体社会主義が主張されたにおであろう」と書いている。

私的には、「脱労働力商品化によるコミュニティの形成」ということになるところだが、こうして宇野理論とウィリアム・モリスのマルクス主義から「共同体社会主義」が構想されるわけで、かつて私が感心した石見尚氏のマルクス主義の所有論的理解から生み出された労働者協同組合論と協同組合社会とは、結果は似ているけど原理とプロセスが異なることは、これで分かるところである。

また、大内秀明氏は「唯物史観で主張される生産力と生産関係の矛盾と発展についても、『資本論』の純粋資本主義の抽象と、そこでの景気循環の内部で説かれる法則的内容が理論的基準になるだろう。そうした法則的基準を抜きにして、唯物史観がドグマ化したまま、生産力の発展が肯定的に受け止められ、もっぱら生産関係との矛盾、そして桎梏が強調されると、生産力の無限の発展が志向されかねない。ここから生産力理論による、近代化主義の誤りも生まれてくる。レーニンが「全国の電化」を目指し、重化学工業化が推進され、それを実現する「プロレタリア独裁」の権力支配も、唯物史観のドグマと無関係ではないだろう。さらに原子力の科学的平和利用など、今日の科学技術立国のイデオロギーや「成長戦略至上主義」も生まれてくる」と書くわけだが、唯物史観のドグマや所有論敵アプローチによる社会主義~協同社会論では、定常化社会が不可能であることが分かる。

山崎耕一郎氏と大内秀明氏の差はどこから生じるのかと考えると、山崎耕一郎氏は「アダム・スミスの『国富論』も冒頭から「すべての国民の年々の労働は・・・」と書いてある。この真理は誰もが認めていることである」と書くように、アダム・スミスの労働価値説を「真理」とする一方、大内秀明氏はアダム・スミスの労働価値説に対して、マルクスの価値論は「価値形態論」であるとするところから生じている。要は、向坂逸郎と宇野弘蔵の差なのであろう。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2014年4月 | トップページ | 2014年7月 »