« NATIONAL MEANSと南無阿弥陀仏 | トップページ | 江馬修『山の民』を読む »

2014年3月30日 (日)

哲学の欠如

140329coop むかし私が働いていた生協の最後の店舗が閉店になり、今日その店舗への「感謝の会」というのが開かれて、呼ばれて行ってきた。深川の東天紅で開かれたその会には、現職の役職員も含めて80人ほどが参加、けっこうにぎやかであった。最後の店を閉じたのは、その店は単独でも経営的には成り立つそうだが、経営資源を個別配達に集中するために店舗は止めるとのことであった。

私は、洗濯は粉石けん派で、ずっと生協の粉石けんばかり使いつづけてきて、店がなくなるのなら買い溜めしておこうと思ったのだが、先月から粉石けんは店に置かなくなり、置くように言ってもだめであった。「これから生協は反原発に力を入れます」とか言うわけだが、粉石けんひとつ置けないようでは、「反原発」もどうなることやらである。そんで、一言あいさつを求められたから、そんなことをしゃべったのであった。

私が入った頃は7億円くらいであった年商が、現在では700億円になったという。生協本体だけを見れば、正職員比率は3割程度と自慢げだが、子会社や関連会社や下請け会社さらにそれらの孫請け会社を入れれば、総体としての正職員比率はそのまた1割くらいではあるまいか。同じテーブルで生協の労組の委員長と隣り合わせになったから、「生協の労組員なんて、特権階級みたいなものだよ」と言ったら、彼もうなずいていたのであった。

だいたい生協どうしの競争などが、すでに時代遅れである。単独でも営業的に成り立つ店舗があるのなら、むかしの商店のようにそれはそれでやればいいと言うか、その方がいいのである。大きくなった事業をさらに拡大再生産をしようとすると、だいたいアベノミクス的罠に陥るだけで、最終的には非正規職員の労働にのっかって、そこから搾取するしかなくなる。資本主義を前提にしたそういう仕組みには先が無いことを自覚して、事業の定常化をすすめるしかなく、競合する生協も含めてそうするしかないと思うところ。

生活クラブ生協は、拡大や成長ばかりを追い求めずに、生協の分権化と雇用の協同化をすすめながらデポーと呼ばれる「店舗」を維持している。私のいた生協もそういうものとしての店舗を試みるべきだと思うところだが、そうはしないようである。前回のブログに引用したが、石見尚氏が「市場調整型の協同組合では単位組合で人的結合体としての民主主義を強化し、連合会で経済的効率性を実現するという補完関係を形成するというのが、せいいっぱいの限度であろう」(『協同組合新論』)と書かれているとおりであり、哲学の欠如と言うしかない。

上記の「哲学の欠如」をfacebookに載せたら、生協の連合会にいるNさんから「定常化を目指せっていうことは拡大や成長を目的にするなってことですよね。賛成します。生活クラブはそのような組織なのではないかと思います。パルはどこに行こうとしているのだろう」というコメントがあったので、以下を書くところ。

先月に石見尚氏から送られて来た「協同社会」№5には、「1980年代の生活クラブ神奈川における協同組合と労働組合」という文章があって、80年代初頭の生活クラブ生協が活写されている。1983年1月に生活クラブ生協は『社会運動の新しい波』(三一書房)という本を出版し、生活クラブ生協の理念とスタイルをマニュフェストし、この本の巻頭を石見尚氏が書いて、生産協同組合を軸にした第三世代の協同組合を提起した。生協で働いていた私には青天の霹靂のような本で、前のブログに書いたように、石見尚氏に私淑した私は石見尚氏に誘われて生活クラブ生協の集会や研究会に参加して、大いに学んだものであった。

私の手元に、1973年に日本社会党国民生活局発行の『生協運動情報』という冊子がある。執筆者には、日本生協連専務理事の勝部欣一氏、灘神戸生協専務理事の涌井安太郎氏、生活クラブ生協理事長の岩根邦雄氏らがいる。私のいた生協の理事長であった下山保氏は当時も生協の理事長をやりながら社会党の活動もやっていたから、この社会党内委員会のメンバーではあったのだろうが、ここには書いてはいない。下山保氏は、後にパルシステムとなる生協グループの創始者であって、70年代初頭の日本社会党内には、生活クラブ系とパルシステム系の二つの流れがあったわけであるが、この両者は日本社会党内の派閥系列の関係があって、当時からあまり仲は良くなかった。

当時の日本社会党は二本社会党と言われて、左派と右派の派閥抗争が戦後ずっとつづいており、さらに左派はソ連派の社会主義協会派と中国派の社会主義研究会に分かれていて抗争していた。右派は江田三郎氏を中心とした構造改革派で、生活クラブ生協を始めた人たちは東急電鉄の労組を中心にしたこの流れの人たちが多かった。そして、70年代前半はまだ左派が主流であった時代であったから、左派の社会主義協会派と社会主義研究会はいっしょになって右派の構造改革派をいじめて、社会党から追い出してしまったのであった。

すると今度は左派どうしがいがみあって、60年安保の残党であった下山保氏は社会党内反戦パージにあって社会党を追い出されてしまい、食うに困ったこの人たちは地域で生協づくりを始めたのであった。これがパルシステムのルーツである。しかし、生協となるとひと足早く社会党を追い出された構造改革系の生活クラブ生協が先輩格で、彼等を社会党から追い出した社会主義研究会系の人たちは、その後塵を拝することになった。そして、私も70年代のある日からここに職を得たのである。

日本の生協は共産党系が主流で多数派で、それ以外の小生協はいつつぶれるかという状況にあったわけだが、80年代半ばのある日、下山さんが「我々も生協研究会をつくろう」と言い出してコープ研究会が始まり、私はその事務局をやることになった。この研究会は、主に当時日本社会党の路線の見直しをすすめていた宇野派系の学者を招いて行ったわけだが、例外的に石見尚氏にも話をうかがい、1989年に「転換期の協同組合」というまとめをしたのだが、90年代に入ってそれまでの共同購入に代わって戸別配達を始めるとこれが大当たりして、後にパルシステムとなるグループはあまり協同組合理論に執着することはなかったのだった。

そして2000年に私は生協を辞めたわけだが、その後も下山さんの主宰する研究会はお手伝いしていて、ある時また下山さんから「新しい生協理論を考えろ」と言われて、それから10年、ほとんど趣味であれこれ考えてきたところであった。その経過は、ほとんどこのブログに書いてきたわけで、もう結論をまとめなくてはいけないところまで来ている。

あらためて『社会運動の新しい波』を読むと、石見尚氏は1876年にカナダのバンクーバーで開かれた会議に集積した折にシュマッハーの『スモール・イズ・ビュティフル』を知り、それを読んで感動したという。1966年の土地所有の経済法則』(未来社)を経て、石見尚氏が生産協同組合を主軸にした『協同組合新論』を書くのは1977年であり、1980年にはレイドロウの『西暦2000年の協同組合』が出て、生産協同組合を主軸にした協同組合地域社会が提起された。『西暦2000年の協同組合』は、ホリヨークの『ロッチデールの先駆者たち』(1957~)以来となる時代を画する協同組合論であるわけだが、石見尚氏の『協同組合新論』はそれに通底するものがあり、それらを背景にして生活クラブ生協の『社会運動の新しい波』もあったわけである。

しかし、80年代はバブル経済とグローバリゼーションのすすんだ時代であり、90年代にはいると生協は共同購入に代わる個別配達で拡大して、パルシステムは規模の上では生活クラブ生協を大きく上回ったのであった。そして、スポークスマン的には「反原発」から「反貧困」までが語られるのではあるが、産業社会的成長を前提とした消費組合型の生協では、運動はカンパニア型の大衆運動にしかならない。所謂企業メセナと同様で、景気が悪くなればどうなることやらであり、基本的には拡大志向の事業から、成長なしでも成り立つ定常化事業へ転換させるしかなく、そのこと自体が運動にならなければだめだと思うところである。

そして、そのスタイルが生活クラブ生協型のスタイルになるのか、もう少しちがったものになるのか、私は石見尚氏の協同組合理論と宇野理論の対比の中で考えてみようと思うわけである。それは前に書いた「NATIONAL MEANSと南無阿弥陀仏」を解く鍵であり、かつての二本社会党内での左派右派抗争の整理であり、私自身の人生の整理にもつながるからである。

この10年間に考えてきたことからすれば、私の論拠は80年代にやったコープ研究会を引き継ぐもので、ベースは宇野理論、とりわけ「恐慌論」と「労働力商品論」である。「恐慌論」が示すものは万年恐慌(バブル)的な非定常的資本主義の姿であり、「労働力商品論」が示すものは労働力商品論を止揚して定常化社会を実現することなしには万年恐慌(バブル)的な非定常的資本主義から逃れ得ないということである。(つづく)

|

« NATIONAL MEANSと南無阿弥陀仏 | トップページ | 江馬修『山の民』を読む »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 哲学の欠如:

« NATIONAL MEANSと南無阿弥陀仏 | トップページ | 江馬修『山の民』を読む »