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2014年2月 1日 (土)

堺利彦と大杉栄・つづき

120304 堺利彦と山川均と大杉栄の写った写真がある。おそらく山川均が売文社に参加した後くらいの頃の写真だろうか。堺利彦は「山川均君についての話」(1924.11)という文章で、「大逆事件以後、大杉、荒畑の二君はサンヂカリストとして立ち、山川君も同じくサンヂカリストであった。しかし大杉君のは無政府主義からきたサンヂカリズムであり、山川君、荒畑君のはマルクス主義から転じたサンヂカリズムであった」と書いている。しかし、この頃から堺利彦、山川均、荒畑寒村と大杉栄は少しずつずれていく。
 前述したように、大杉栄は一九一九年(大正8)三月に革命的労働運動家集団「北風会」を結成、同年一〇月には近藤憲二らと月刊『労働運動』を創刊、渡辺政太郎が住んで研究会を開いていた書店の南天堂が、一九二〇年(大正9)頃に新たに白山上に建て直されて書店の二階にレストランが併設されると、そこは大杉栄らのたまり場になっていく。白山周辺には印刷工場が多く、労働運動社も大杉栄もその近辺に住んだから、そこらがアナキズム、サンジカリズムの拠点になっていくという「南天堂時代」となり、南天堂には大杉栄や宮嶋資夫らのアナキストのほかに、辻潤や林芙美子や萩原恭二郎らのダダイストの詩人たちが集まったという。
 一方、山川均は一九一九年(大正8)六月から、大杉栄と別れた荒畑寒村と有楽町の服部浜次方で「労働組合研究会」を開く。同年三月に、売文社は国家社会主義に転向した高畠素之と別れて解散し、新たに立ち上げた新社会社はマルクス主義の旗を掲げて『社会主義研究』を創刊すると、その運動の中心は堺利彦から山川均にうつっていった。山川均は次第にボルシェヴィズムとレーニン主義、ソヴィエト体制の研究と紹介をやりだし、併せて日本社会主義同盟の発足に力を入れた。
 「進歩主義の思想的大同団体」をめざした日本社会主義同盟は、大杉栄も発起人の一人たなって、一九一九年(大正9)一二月に準備会を立ち上げ、翌一九二〇年(大正9)五月に発足するも、ただちに解散命令が出されたわけだが、同じ頃に堺利彦と山川均のところにコミンテルン主催の極東社会主義者大会参加への招待があったという。しかし、堺利彦と山川均は応じることをためらい、大杉栄が行くことになった。大杉栄にしてみれば、まだボルシェヴィズムがどうのと言うよりは、ボルシェヴィズムとソヴィエト体制を知りたいということでもあったのであろう、コミンテルンから活動資金を受け取って日本に帰ると、一九二一年(大正10)一月から第二次『労働運動』を再開して「アナ・ボル共同戦線」を試みたるも、同年末には第二次『労働運動』を創刊して、ボルシェヴィキ批判を始めた。一方、山川均は同年一二月に堺利彦と荒畑寒村の協力を得て『前衛』を発行する。所謂「アナ・ボル論争」の始まりである。
 「アナ・ボル論争」は、一九二二年(大正11)頃に、大杉栄らのアナキスト派と山川均らのボルシェヴィキ派との間でロシア革命の評価と、当時の労働運動の分裂と再編を背景に自由連合か中央集権かという論争であったのだが、私的には論争というほどのものではない。大杉栄がトロッキーのマヌーバー的な協同戦線論を批判して書いた「トロッキーの協同戦線論」(1922.9)という以下の文章がある。
 「協同戦線は階級闘争の上の労働者の必要だ。最近日本の労働者の間に起つてゐる協同戦線の計劃、即ち労働組合全国総聯合の計劃は、第三インタナショナルの協同戦線の決議とは全く独立して、又其の決議に基づいたヨオロッパ諸国での協同戦線の運動とも全く独立して、日本の労働者が其の資本家との難戦苦闘の間に痛感して来た必要だ。此の必要は、飽くまでも労働者自身の必要として進めて行かなければならない。其の必要から生じた労働者自身の計劃として進めて行かなければならない」と。
 しかし、この文章の言わんとする協同戦線は、前述した堺利彦の「日本社会運動の人々」の「思想的大同団体」とあまり変わらない。「第三インタナショナルの協同戦線」といったイデオロギーでは「思想的大同団体」など不可能であるからだ。この論争の最中にコミンテルンから共産党結成の指令が届き、一九二二年(大正11)七月に堺利彦を委員長にして日本共産党(第一次)が創立される。そして、創立大会に出席しなかった山川均は、『前衛』七、八月号に『無産階級運動の方向転換』を発表する。
 大杉栄が「労働運動の精神」(1919)に言う「労働運動は労働者の自己獲得運動、自主自治的生活獲得運動である」は正しい。サンジカリズムの洗礼を受けた山川均もそれは分かっているわけだが、『無産階級運動の方向転換』に山川均はこう書く。
 「吾々は、生産は生産者によって管理されねばならぬことを知って居る。けれども若し労働階級の大衆が、まだ生産の管理を要求しないで、現に一日十銭の賃銀増額しか要求して居らぬなら、吾々の当面の運動は、この大衆の実際の要求に立脚しなければならぬ。吾々の運動は大衆の現実の要求の上に立ち、大衆の現実の要求から力を得て来なければならぬ」と。
 一九二三年(大正12)六月の第一次共産党事件で堺利彦は逮捕されて入獄する。しかし、そのおかげで同年九月一日の大震災後の社会主義者の虐殺を免れることができた。同年末に出獄した堺利彦は、以下のように書き残している。
 「年末になって保釈で帰ってくると、間もなくわたしの机の上に大杉君の『自叙伝』が置かれてあった。・・・不和だの、けんかだのと言っても彼とわたしとの交わりは、生死の際において知らぬ顔をすべく、あまりに深かったのである。いわんや今、彼がああいう殺され方をしたあと、わたしはその形見の書に対しているのである。わたしはただ、満腔のなつかしさをもってそれを繰りひろげるより外はない・・」と。
 堺利彦は一九二四年(大正13)の春に共産党を解党してしまったが、一九二五年(大正14年)の春に、コミンテルンの意向で共産党が再建されることになり、荒畑寒村が堺利彦と山川均を訪ねて来てふたりを説得し、その時のことを山川均は『山川均自伝』(岩波書店1961)に以下のように書いている。
 「ああいうものは、運動全体にとって大きなマイナスになる。・・・ロシアではそれで行けたかも知らぬが、日本ではそうゆかない。それでああいう運動をまたくりかえすことは、私が方向転換論で書いた考え方とどうしても一致しない、それで私はやはり私の道を進もう、こういうふうに考えたからです。すると荒畑君は堺さんに、あなたはどうですと聞くと、堺さんは、僕も山川君と同意見だと答えました」と。
 要は、堺利彦と山川均はコミンテルン=共産党的なものとは水が合わなかった訳である。まあ、土着種と外来種では水は合わないものだが、後年堺利彦は「大杉、荒畑、高畠、山川」(1931.6)de,山川均の「無産階級運動の方向転換」について、後に以下のように位置付けている。
 「かくて日本の社会主義運動は、まず無政府主義化し、サンヂカリズム化することによって、腐敗と堕落とから自己を防衛した。しかしサンヂカリズムには、無政府主義からの発展と、社会主義からの発展とがあった。そしてボリシェヴィキの影響が日本に及んできた時、無政府主義的サンヂカリストはついに本来の無政府主義に立ち返り、社会主義的サンヂカリストは、新しい共産主義的立場において、ただちに安住の地を見いだした。そして大胆なる方向転換論が発生したのであった」。「山川と極左主義との戦いが、いかに戦われたか。昔の極左たる無政府主義と、今の極左の小児病とが、いかなる異同をもって山川の前に清算されつつあるか。山川の共同戦線党論がいかに発展されたか,雑誌『労農』がいかに無産党合同の展開を指導しつつあるか。・・その大勢のすすむところ・・ほぼ見とおされたはずだと私は信ずる」と。
 要は、かつて論争した議会主義や国家社会主義に対してサンジカリズムを位置付けて、さらに「昔の極左たる無政府主義と、今の極左の小児病」とも区別して、山川均の「無産階級運動の方向転換」は「社会主義的サンヂカリズム」の結果だと言う訳である。「昔の極左たる無政府主義」とは大杉栄のこと、「今の極左の小児病」とはボルシェヴィキのことであるから、堺利彦と山川均、雑誌『労農』は共産主義というのをボルシェヴィキ型の一党独裁ではなくて、「社会主義的サンヂカリズム」としてイメージしていたことが分かる。そしてここから、全国政治機関誌をもつ中央指令の一体型の党組織をつくらない「共同戦線」という運動論が出てくるわけである。これについては、大杉栄も同じであろうと思われる。
 参考にと『アナ・ボル論争』(同時代社2005年)という本を読んだら、著者の大窪一志氏は「日本の左翼運動は1990年代の前半にほぼ壊滅した」、「昭和マルクス主義諸党派は・・・すべて山川を中心とした大正ボル派を源流としている」と書いて、すべての責任を山川均に被いかぶせて、おそらくは自らをも含む過去を清算しようとしていた。どっちかというと講座派系であった人が自らのことを棚に上げて、こういう言い方をするのはいかがなものか、清算主義と新たなる西欧の経験の移植からは何も生まれはしないというのが、私の感想であった。

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