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2014年2月10日 (月)

オウエン、ラスキン、モリス

 これまでみてきたように大正期に入ると、武者小路実篤の「新しき村」や有島武郎の「狩太共生農団」、賀川豊彦の「一膳飯や」や「歯ブラシ工場」から協同組合運動、「労働者自治工場」の「測機舎」、石川三四郎の「共学舎」、さらには宮沢賢治の「羅須地人協会」へと、それに文学者たちのユートピア的生き方と作品まで、大正から昭和にかけての時代には様々なユートピア、共同体づくりが試みられた。しかし時代が昭和に入って、コミンテルン経由でマルクス・レーニン主義が入ってくると、正しい社会主義はマルクス・レーニン主義で、実践は階級闘争が正しいということになってしまい、以後ずーっとユートピア志向などは空想的社会主義かプチブルの牧歌主義とされて否定されてしまったわけだが、大正期の記述を終える前に、ロバート・オウエンとジョン・ラスキンとウィリアム・モリスについて見直しておきたい。

 「労働は一個の芸術である。絵を画かなくとも、彫刻をしなくとも人間が刻一刻に刻んで行く労働そのものは立派な創作であり、創造であり、芸術の芸術である」という賀川豊彦の『自由組合論』は、「もとより農民芸術も美を本質とするであろう」という宮沢賢治の『農民芸術概論要綱』を思い起こさせる。賀川豊彦と宮沢賢治は直接の接触はなかったが、賀川豊彦は一九二六年(大正15)に日本農民組合委員長の杉山元治郎を委員長にして農民労働党をつくり、宮沢賢治は花巻で農民労働党の支部つくりを支援しているから、全く関係なしとも言えない。そして、同時代にふたりに同じ思いを抱かせたものがあるとすれば、ジョン・ラスキンとウィリアム・モリスからの影響であろうか。
 マルクスやエンゲルスの思想は明治時代から知られてはいたが、一九一七年(大正6)にロシア革命が起こってから後にマルクス・レーニン主義が入ってくるまでは、そればかりが社会主義の思想ではなく、マルクスはその精緻な学説から堺利彦などは正統派社会主義と称してはいたが、ロバート・オウエンやクロポトキンやモリスといったユートピア社会主義も広く読まれ、サンジカリズムは主要な社会主義のひとつであった。クロポトキンの唱える相互扶助は社会主義のイメージとして分かりやすかっただろうし、急速な日本の近代化と工業化による環境破壊や貧富の格差の拡大がすすむ中では、産業主義による環境破壊とブルジョワの俗物性を嫌悪したラスキンと産業主義に代わるユートピアを描いたモリスには、当時の人々を惹きつけるものがあったのだと思われる。これは社会主義者だけでなく、前述したように明治二十年代から『文学界』に集った若い文学者たちはラスキンの『近代絵画』やラファエル前派の絵画に親しみ、永井荷風しかりであり、夏目漱石はホイットマンやラスキンが師と仰いだカーライルに学んで自らの個人主義を鍛えている。
 ラスキンの代表作『この最後の者にも』の扉には、「友よ、わたくしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたくしと一ペニーで約束したではないか。自分の賃銀をもらっていきなさい。わたくしは、この最後の者にも、あなた同様に払ってやりたいのだ」(中央公論「世界の名著」41)という新約聖書の言葉が記されている。『この最後の者にも』という書名はここから来ている訳だが、謂わばいっぱい働いた者と少ししか働かなかった者とに平等に報酬を分けるといった話は、市場主義と功利主義の経済学からはその意味を理解することは出来ないだろう。『この最後の者にも』にラスキンはこう書く。
 「生産の真の試金石は消費の方法と結果である。生産というのは苦労してものをつくることではなく、有益に消費されるものをつくることである。そして国家の問題は、国家がいかに多くの労働を雇用するかということではなくて、いかに多くの生をつくりだすかということである。なぜかといえば、消費が生産の目的であり標的であるように、生が消費の目的であり標的であるからである。・・・つまり、生以外に富は存在しない( There is no wealth but Life)」と。
 ラスキンは、産業革命以降のイギリスの資本主義の発展原理となった古典派経済学の市場主義と、機械によって創造性を奪われた「人間を除けばなんでも製造する」労働に対して、人間の精神と情愛をもった平穏な経済をめざした。古典派経済学には資本主義の常識が語られるが、人を動かすものが金の力だけではないとすれば、市場経済に抗するのにラスキンの経済学をもってするのは、ごくまともな対応と言える。
 ラスキンがおもしろいのは、『近代絵画論』(1843)で名声を得ながらも、『この最後の者にも』(1862)でスミスやリカードやミルのポリティカル・エコノミーを批判してイギリス産業界の怒りを買い、多くの批判もあった中、『この最後の者にも』の続編となる『フォルス・クラヴィゲラ』(1871)を創刊して「手作業に回帰するユートピア的社会改革を企図」した「聖ジョージ組合」を企画したことだろうか。ラスキンの「聖ジョーヂ組合」は失敗であったとされるが、詳しくふれた書物は少ない。わずかに大熊信行著『社会思想家としてのラスキンとモリス』(論創社 2004)があるが、これも原著は一九二七年(昭和2)の出版であり、大熊信行がそれを最初に書いたのは一九二一年(大正10)の大学の卒業論文としてであったという。
 それによれば、ラスキンは社会批評冊子のような『フォルス・クラヴィゲラ』の刊行と併せて「聖ジョーヂ組合」を企画する。『フォルス・クラヴィゲラ』は、一八七一年に「大英帝国の職工及び労働者に与ふる書簡」と註して発刊されるのだが、販売形式は謂わば「読者直販」であり、「その印刷は田舎の理想的な印刷所で行われた。ラスキンの理想は幸福なる村落産業の建設にあり、仲買を省き書籍はすべての購読者に定価をもって供給されるべきであり・・・」(P154)、「それは、その出版の全期間における彼の間接直接社会改革に関するすべての思想の雑録集である」(P157)のだった。
 「聖ジョーヂ組合(company)」は、一八七七年に「聖ジョーヂ・ギルド(guild)」と改称、「聖ジョーヂ組合」は設立当初から「聖ジョーヂ資金」を募集して、土地の購入をもくろんでおり、一八七六年に二〇〇エーカーの森林地を手に入れたが、これは資金や運営能力を欠いて失敗した。「聖ジョーヂ組合の、付随的な計画の一つに、家内手工業の復興という産業的実験」もあったようである。ラスキンはこのほかにも、若きトインビーも参加したという道路の修繕とか、貧乏人のための「ラスキン茶店」とかを試みているが、「ラスキン博物館」以外は失敗であり、ラスキンが自らを「デンマーク・ヒルズのドン・キホーテ」と称したという。しかし、失敗は終わりではない。若き日にラスキンに啓発され、その思想を引き継いだウィリアム・モリスは、後年ラスキンの『ヴェニスの石』ケルムスコット版(1892)の序文に「ラスキンがここに教える教訓は、芸術は人間の労働の喜びの表現であるということだ」と書いたように、ラスキンに大きな影響を受けてその志を引き継いだ。失敗だったと言われるラスキンの「聖ジョーヂ組合」は、モリスの「ケルムスコット・プレス」や「アート・ワーカーズ・ギルド」に引き継がれ、さらに賀川豊彦や宮沢賢治の試みにも引き継がれていると思うところである。
 イギリスでは一八八一年にマルクス主義を奉じたハイドマンが中心になって社会民主連盟がつくられ、ウィリアム・モリスはベルフォアド・バックスの紹介で、一八八三年にこれに参加し、その頃にマルクスの『資本論』をフランス語版で読み、自ら社会主義者を宣言するが、一八八八年にモリスはハイドマンと決別して、社会主義同盟をつくる。そして、その原因はどこにあったのかというと、安川悦子『イギリス労働運動と社会主義』(御茶ノ水書房 1982)によれば、以下のようにある。
 「モリスが主観的に、『労働の喜び』を歴史発展の原動力=労働者の革命的意志形成の中味にしようとしたのにたいして、ハインドマンは、資本主義生産の客観法則のなかでうみだされる労働者の窮乏化と、生産と交換の矛盾が歴史を動かす原動力と考えた。したがってこの矛盾を打破する最上の方策は、生産の社会化に対応する『交換の社会化』つまりは、「生産と交換の国家機構の達成」であった。具体的には、労働力の国家管理土地、鉄道の国有化、船舶運輸業の国有化、銀行信用機関の国有化・・・。これがハインドマンの社会民主連盟の綱領であった・・・モリスやバックスやエリナ・マルクス夫妻が、ハインドマンと決裂した原因は・・・ここにのべたことにあった。基本的には労働者ぬきで、啓蒙された支配階級による議会をつうじての漸進的な社会主義の実現というハインドマンの道は、かれらにはうけいれがたかったのである」と。
 ハイドマンと決別したモリスは、バックスやエリナ・マルクス夫妻と一八八八年に社会主義同盟をつくるも、一八九〇年にその機関を奪った無政府主義者と決別して、ハマミス社会主義者協会を設立する。しかし、その後もモリスは社会主義同盟の機関誌「コモンウィール」に『ユートピアだより』を連載する。そして、そこに描かれた世界こそ、モリスの解釈したマルクスの世界であり、それは労働力の商品化による矛盾への対応なのであると私には読めるのである。
 例えば、宇野弘蔵の『恐慌論』に「資本家的には、一定の社会として歴史的に決定されている労働力の再生産に必要なる以上の生活資料が労働者に与えられるということになれば、労働者は翌日は賃銀労働者として働かなくなるかも知れない。労働者を労働せしめるには一定限度の賃銀によってモの生活を労働者的にしておく外はないというわけである。しかし、これは・・・資本家的生産方法を前提としてのことである。これを人間社会一般に通ずることとするわけにはゆかない。・・・労働者は賃銀労働者としてのように、生活資料の余裕が与えられると労働しなくなるであろうというのは、資本家的社会関係を絶対化するものといってよい。・・・」とあるが、これについてモリスは『ユートピアだより』のなかで「わたし」とハモンド老人のやりの中に以下のように書いている。
 「労働の報酬が現実にない場合に、あなた方はどういうふうにして人々を働かせられるのか、ことにどうしてその人々を勤勉に働かせらえるのか?」
 「労働の報酬がないって?」ハモンドはきびしい顔でいった。「労働の報酬は生きることそのものです。それでは足りませんか」
 「しかし、とくに良い仕事にも報酬なしですか」と私はいった。
 「報酬はたっぷりありますよ」と彼はいった。「つまり創造という報酬がです。神の得たもう賃銀━昔の人ならそぅいったかもしれません。創造の喜び━それはつまり優秀な仕事ができたという意味なのですが・・」(第15章)と。
 また、『恐慌論』に「労働力は、一般の商品よりも徹底的に、その所有者にとっては使用価値として役立たない商品であり、またそれだからこそ商品ともなったのであるが、販売し得なければそのまま使用し得ないだけでなく、その使用価値をも失うのである。労働者は常に自ら買戻すべき商品を、他の生産手段と共に一定の利潤をもって生産することなくしては、自ら生産した商品をも消費し得ない。・・・資本家的生産では本来の人間対自然の関係がこの資本の形式の内に包摂せられるために、労働者は自ら生産したものをも直接には消費し得ないのである。次の再生産過程で剰余価値を生産するとどを予定されなければ、過去生産の一部分を自己のものにすることも出未ない。労動力は商品化されてはいるが、一般商品と同様に特定の使用価値を有すものとして交換されるものではない。商品としての資本の過剰と労働人口の過剰とが同時にあらわれるというのもかかる関係を基礎とするのである」(P102)とある部分については、以下のように書いている。
 「はっきりしているのは、前の文明時代において、人々は商品の生産の問題では一種の悪循環におちいっていたということです。・・・この世界市場は、いったん動きはじめると、人々を強制して、ますます多くこれらの商品を、その必要と否とにかかわらず、生産させつづけました。そこで〔当然〕かれらは真の必需品を生産する労苦から目分自身を解放しえなかったのに、かれらはいんちきな人為的な必需品をとめどなくつくりだしたのです。それらは、前に申しあげた世界市場の鉄則のもと、生活を支える真の必需品と等しい重要さをもつようになりました。・・・かれらがこの不必要な生産という恐るべき重荷を負ってよろめき歩いていくことを余儀なくされてしまったので、人々は労働とその成果を、ある一つの角度から以外には見ることが不可能になってしまいました。すなわち、どんなものをつくるばあいでも、それに費やす労働量はできるだけ最小限しか使わぬように、しかも同時に、つくる品物はできるだけ多くつくるように、不断に努力すること、これです。このいわゆる『生産費の低減』のためにはあらゆるものが犠牲にされました」。
 「われわれがつくる品物は必要だからつくられるのです。人々は、あたかも自分自身のためにつくっているかのように、隣人たちに使ってもらうためにつくります。まったくなんの知識もない、コソトロールのできない、漠然たる市場のためにつくるのではありません。売買というものはいっさいありませんので、なにか求められることを見越して品物をつくるなどということは気違い沙汰にすぎますまい。強いてそれを買わせることのできる人間などは、もはやいないからです。ですから、つくられるものはすべて良く、そしてどこまでもその目的にかなっているのです。純粋な使用のため以外には、なにものもつくられることはありえません」(第15章)と。
 『ユートピアだより』で、モリスはもうほとんど宇野弘蔵の労働力商品論を先取りしており、ウィリアム・モリスによるギルド・コミュニティの形成といった試みは日本の社会主義に大きな影響を与えている。一九一九年(大正8)一月に起きた「森戸事件」で東京大学を追われて大原社会問題研究所に移った森戸辰男は、一九三八年(昭和13)刊の『オウエン モリス』(岩波書店)に、「モリスの理想社会・・・それは田園的環境のうちで、生活の煩苦なく、自由と歓喜を以て仲間と一緒にその労働を楽しむところの工匠の世界である」(p252)。「モリスの社会は自由の原理にもとづいて構成せられ、色々な形における在来の権力組織の代わりに、個人の自由に基礎をおく地方的・職業的小自治体(コムミュウンとギルド)が公生活の単位となり、広範なる包括的な一大連合体に結合するに至るのである」と書いたが、この着想は賀川豊彦にも通じている。
 日本に協同組合をつくろうとする試行錯誤は明治の初期から始まり、前述したように高野房太郎による「消費組合共営舎」から賀川豊彦の「大阪共益社」と「神戸購買組合」を設立させるまでにいたるわけだが、昭和に入るとここにも協同組合主義と階級的協同組合運動の対立と分裂が始まり、それは戦後へもつづいた。そして現在、日本の協同組合は消費組合だけでも二千万人を超える組合員を擁する大きな組織になっているわけだが、それがいかなるステージにあるものかというと、一八四四年にイギリスに誕生したロッチデール公正先駆者組合と同じパラダイムの中にあると思われる。
 ロッチデールの協同組合を生んだイギリスをモデルに協同組合史的にみれば、協同組合は産業革命の進展とともに発生した。中川雄一郎『イギリス協同組合思想研究』(日本経済評論社 1984)によれば、イギリス協同組合運動は一七六〇年以来、三つの時代区分をもつということで、その第一は「一七六〇年に設立された・・船大工による協同製粉所からの・・初期あるいは原生的と称される協同組合運動」であり、第二は「(オウエンの)いわゆる協同組合共同体の建設を目的にした協同組合運動」であり、第三は「最初の近代的協同組合といわれるロッチデール公正先駆者組合の出現とその後の発展である」というふうになる。
 二十八名の設立者の半数がオウエン主義者であったロッチデールの先駆者たちは、一八四四年にロッチデール公正先駆者組合を創って、その目的を「食料品、衣類等を売る店舗を設置する」こと以外に次のように宣言した。
 「多数の住宅を建設または購入し・・・組合員の住居にあてる」、「失職した組合員に職を与えるため、物品の生産を始める」、「組合は若干の土地を購入し、矢職した組合員にこれを耕作させる」、「実現が可能になりしだい、本組合は生産、分配、教育および政治のカを備える。・・・自給自足の国内植民地を建設し、同様の植民地を創らんとする他の諸組合を援助する」、「禁酒ホテルを開く」と。
 これを読むと、当初の先駆者たちの大きな目的に「失職した組合員に職を与えるための国内植民地(コミュニティ)の建設」があったことがわかる。森戸辰男は、オウエン主義の要諦を次のように書いている。
 「オウエンの社会思想は、第一に、協同主義と呼ばれて、共存共労の自足的小協同団体を基礎形態とするものであり、この団体の中心目的はつねに性格形成に存してした。すなはち、すなはち、彼は貧窮と悪徳と不幸との原因である自由競争と営利と分争と私有財産とを原理とする資本主義社会を協同・一致・共労・共存の協同体に転換することによってのみ富裕と美徳と幸福が可能となるものと信じた」(P61)と。
 しかしロッチデールの組合は、やがて「利用割戻し」や「出資配当」といった功利主義的な運営によって成功への道を歩み始めるのと併せて、併設した生産協同組合を閉鎖し、協同社会建設の目的を放棄した。森戸辰男の『オウエン モリス』には「英国の資本主義は十九世紀の間に三段階の発展をとげたといはれている。第二期は自由主義の姿における英国資本主義の全盛時代であって・・・しかしこの自由主義的資本主義の繁栄は、すでに七〇年代の後半頃から段々と破綻の兆候を示し・・・かつてオウエンの指導の下に全国大労働組合として支配階級に強い衝撃を与えた労働組合運動は・・・資本主義下における労働条件の維持改善を目的とする協調的組合となり、オウエン的千年王国の控室と考えられた協同組合は、ロッチデール先駆者組合の新たなる発足によって、資本主義下における協調的小売組合としての消費組合に転化した」(『オウエン モリス』P160-162)とあり、D.H.コールの『イギリス労働運動史』(岩波書店)には、「オーウェンの理念はなお或る程度人々の胸に懐かれていて、“協同主義共和国”は協同組合主義者の口に言葉として残っていた。しかしただ商業をするだけになってしまったこの運動の方法は、あまりによく節約と自助を説くヴィクトリア時代の支配的哲学に適合していたので、そのためそれ以前の一切のものが一掃されてしまった」(『イギリス労働運動史Ⅱ』(P41)とある。
 宇野弘蔵の『恐慌論』には、「十七、十八世紀西欧諸国に発生し、イギリスにおける発展によって始めて歴史的に一時代をなして来た資本主義は、産業革命を経て十九世紀二〇年代に至って漸くその基礎を確立すると共に、資本主義に特有なる発展過程を示すことになったのである。一方に労働力の商品化、他方に生産手段の固定資本化の増進か実現されるということは決して偶然的なることではない」(P126)とあるわけだが、それは労働力の商品化が完成して、労働運動、とりわけ労働組合運動は労働力の商品化を前提とした運動として完成したということでもあり、同時に労働者は労働力の再生産のために自らが生産した生活資料を買い取る消費者になり、協同組合運動はロッチデール型の消費組合として「成功」したというkとでもあったわけである。ロッチデール型の協同組合の成功は、労働力の商品化を前提にしていたわけで、そういった資本主義のパラダイム内にある協同組合運動と労働組合運動は、かつてのオウエン流の「協同社会の建設」や生産協同組合について、否定的になったわけである。
 十九世紀半ばのイギリス資本主義が絶頂期を極めたヴィクトリア期には、以上のように、労働組合も協同組合も体制内化がすすんだ訳であるが、知識人の中から文化的な反体制運動が起こった。それがカーライルやラスキンから、モリスにいたるロマン主義的反抗であり、モリスらによるギルド・コミュニティの形成といった脱労働力商品化の試みであったと思うところである。
 『空想から科学への社会主義の発展』の中で、ロバート・オーウェンらを「空想的(ユートピア)社会主義者」としたエンゲルスは、「資本主義的生産の未熟な状態、未熟な階級状態には、未熟な諸理論が対応した」としたが、エンゲルスがユートピア性の否定ゆえに、自らが後に破綻した中央集権的な科学的社会主義のルーツのひとりになってしまったが、G.D.H.コールが「オーウェンが父となった社会主義、協同組合運動は自由な協同体への奉仕の要求をおし進め、国家の要求に従属し力の貯蔵所としての中央集権権力の樹立を欲しなかった」(『オウエン自叙伝』解説)と書くように、オウエン流の協同社会の構想は非国家主義的で「共存共労の自足的小協同団体を基礎形態とするもの」であったのだった。そして、私は賀川豊彦のギルド社会主義と協同組合運動から宮沢賢治の「羅須地人協会」へという流れの中に、それらに取って代わってしまったコミンテルン系社会主義とは別の社会主義を構想をするわけである。

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