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2014年2月12日 (水)

棄石埋草

 労農派には「学者グループ」というのがあって、この労農派系学者グループの生みの親は高野岩三郎であり、学者グループの中心には高野岩三郎の教え子である大内兵衛がいた。高野岩三郎は、一八九七年(明治30)に労働組合期成会を立ち上げた日本の労働運動の創始者である高野房太郎の実弟である。前述したように、兄の高野房太郎は片山潜との対立や運動の停滞に併せて、一九〇〇年(明治33)に公布された治安警察法によって労働運動が禁圧された後、失意のうちに清国に渡っり、一九〇四年(明治37)にそこで客死した。そして、兄からの仕送りで東京大学を卒業した高野岩三郎は兄の志を継いで労働運動に尽力し、後に労農派系学者グループの中心人物になる大内兵衛や森戸辰男を育て、東京大学の法文学部から経済学部を独立させると、そこに櫛田民蔵や権田保之助を招いた。また、高野岩三郎に学んだ鈴木文治が一九一二年(大正1)に「友愛会」を立ち上げると、「友愛会」の評議委員になってこれを応援した。しかし、一九一九年(大正8)に国際労働代表事件で高野岩三郎は東大を退官することになり、その直後に起こった「森戸事件」で大内兵衛と森戸辰男は起訴されると、高野岩三郎は大原孫三郎から任された大原社会問題研究所に森戸辰男や櫛田民蔵や権田保之助を集めて研究活動をし、東大を卒業した宇野弘蔵も大原社会問題研究所に就職した。
 一九二一年(大正10)に森戸辰男とともにヨーロッパに渡った大内兵衛は一九二三年(大正12)に帰国すると東大にもどり、その後十五年間教授をして、有沢広巳、脇村義太郎、向坂逸郎、高橋正雄、美濃部亮吉、安部勇、大森義太郎、脇村義太郎らと研究生活をする。このメンバーは高橋正雄、美濃部亮吉、安部勇が東京大学を追われたために、神田に安部事務所を構えて一九三〇年(昭和5)の『改造10月号に』からその「世界情報」欄に執筆を始め、それは一九三七年(昭和12)一〇月までつづいたのだが、一九三八年(昭和13)二月一日、「このグループの人々が一斉に検挙され、みんな警察のブタ箱にぶちこまれるという事件が起こった。・・・これが世にいう教授グループ事件である」(後掲書p248~251)となったのであった。
 大内兵衛は『経済学五十年』(東京大学出版会1960)に、「ぼくは労農派ではなかった。・・・それだのに、政府とわが東大のファッショ同僚諸君はぼくを労農派として告発したのである。彼らは学問とイデオロギーとの別を知らない。彼らはイデオロギーと実践との関係を知らないのである」(p260~262)と書く。そして一九四四年(昭和19)に無罪の判決を受けるのだが、このあたりは前に書いた宇野弘蔵の場合とよく似ている。無罪になっても復学のできなかった宇野弘蔵は東京に出て民間の研究所に勤めたが、大内兵衛は、戦争中の暮らしを以下のように書いている。
 「ぼくは刑務所から出て来てから終戦のすぐ前まで、すなわち七年間、世の中と全然無関係に暮した。東大からは追われ、ジャーナリズムからは嫌われ、収入の道は絶たれた。訪ねてくる人もなく訪ねる人もない。・・・それでも、誰もがしたように、ぼくも、野菜やさつまいもを買出しにリュックを背負って田舎へでかけたよ。・・・ただ、高野先生、森戸、久留間その他大原研究所の入々はぼくを許してくれて、ぼくをその研究のメンバーに加えてくれた。ぼくが家の門を出るのはここへ行くためであった。ぼくは、この柏木の静かな美しい庭をもった日本家の中で、また静かに読書した」(p293)と。
 労農派は一九二七年(昭和2)一〇月に堺利彦、山川均、荒畑寒村、猪俣津南雄、北浦千太郎、鈴木茂三郎、黒田寿男、大森義太郎らが創刊した雑誌『労農』に集った人に始まり、福本イズムに対して無産戦線の統一を基本理念とし、一九二八年(昭和3)に無産大衆党を組織し、同年一二月に七無産政党の合同により日本大衆党が結成されると堺利彦はその中央委員になり、翌一九二九年(昭和4)二月に日本大衆党より東京市会議員選挙に立候補してトップ当選した。一九三一年(昭和6)七月に労働者農民党・全国大衆党・社会民衆党合同賛成派が合同し、全国労農大衆党が結成されると堺利彦はその顧問となり、翌一九三二年(昭和7)七月に全国労農大衆党と友愛会=総同盟系の社会民衆党が合同して、社会大衆党が結成され、無産政党の統一が実現した。社会大衆党は安部磯雄が委員長、高野岩三郎はその顧問に就任し、労農派系からは鈴木茂三郎、黒田寿男、岡田宗司らが参加したが、労農派系は左派として非主流であった。
 やがて日本が負けて戦争が終わると、高野岩三郎、安部磯雄、賀川豊彦の呼びかけで、戦後の日本社会党が結成され、一九四七年(昭和22)には片山内閣が成立し、森戸事件で東大を追われた森戸辰男が文部大臣になる。高野岩三郎は、戦後NHKの会長になったが、労働争議で左派から批判され、一九四九年(昭和24)四月に亡くなった。築地本願寺で行われた葬式は、会葬者3500人、花輪200以上と「一生を貧乏で過ごした学者の最後をかざるものとしてはあまりにも華麗でやや奇妙であった」という。
 東京大学から大原社会問題研究所、NHKへと高野岩三郎に従った学者に権田保之助がいるが、宇野弘蔵は大学一年の時に権田保之助からドイツ語を教わり、当時、権田保之助はモリスや民芸運動を語ったという。権田保之助が社会主義の感化を受けたのは早稲田中学時代にそこの英語の教師をしていた安部磯雄からであり、外国語学校を出た権田保之助や櫛田民蔵を東大に呼んだのは高野岩三郎であり、安部磯雄は一八九七年(明治30)に高野岩三郎の兄の高野房太郎が立ち上げた日本初の労働団体「労働組合期成会」に参加した人であるとこう見てくると、日本の労働運動や社会主義運動のもうひとつの流れは、キリスト教社会主義系の友愛会系や社会民主主義系というか、よりリベラルなところにあったと言える。大内兵衛は高野岩三郎について、『高い山』(岩波書店1963)に以下のように書いている。
 「(高野岩三郎は)その漸進主義にもかかわらず、徹底的に社会主義者であった・・そしてこれが彼をしていつまでも生命ある実践家たらしめたのであるが、私見によれば、それは彼が早くから労働問題に興味を覚え、労働者の味方となろうと心がけたからである。・・・それについては彼の兄房太郎の感化を没することはできない。彼は書いている、『・・・私自身の社会観に対しこの兄の存在は一つの大きな影響を及ぼしたことは自ら疑う余地はない』と。・・・高野が一生を通じて、常にこの兄の志をのべようとした情は切なるものがあった。かの有名な治安警察法第十七粂というストライキ禁止法が第一次世界戦争後、高野らの奮闘によって廃止された日の高野の日誌には『これで兄のカタキを討ったような気がする』と言いてある」と。(P18-19)
 「先生の社会主義はマルクス主義ではなくほぼウェブ流またはフェビアン流であった(先生にはウェブの大著『産業民主制論』の訳がある)。・・・先生のように明治の前半期において、自由主義の思想の洗礼をうけて成長した人には例外としてこういう心の用意はあった。たとえば夏目漱石などその類である。・・・漱石でももう少し長生さして、高野先生のように直接に社会間題にふれていたら、きっと社会主義者になったと思われる」(前掲書P46-47)と。

 夏目漱石の弟子筋に作家の野上弥生子がいる。野上弥生子は一八八五年(明治18)大分県に生まれ、十四歳の時に上京して明治女学校に入学、夏目漱石門下の野上豊一郎と結婚して自らも「ホトトギス」に文章を書き、夏目漱石から小説を学んだ。一九九五年に九十九歳で亡くなるが、晩年に「私がもっとも影響を受けた小説」として以下のように書いている。
 「(私がもっとも影響を受けた小説)夏目先生の作品。この世に生きるといふことがどういふものであるかを、若い幼稚な私にはじめて教へてくださったのは先生の作品であり、また八十六の老媼になり果てた今日において、いよいよ深くその一事をおもひ知らせてくださるのも先生の作品です。その意味から『吾輩は猫である』より『明暗』にいたるまでのすべてが、一編の人間存在の書ともいふべきものかと存じます」。
 「夏目先生があの時代に、たとえば『坑夫』や『二百十日』というふうな題材を取り上げたということなども、やはり先生の傾向を示すものではないでしょうか。晩年にこそ″天に則って私を去る″(則天去私)というふうな思想の、大らかな高いイデーにまで到達してお隠れになったのですけれども、日記の中にあるように、「天子だからなんでもできる。しかし天子だからできない世の中がこないとも限らない」といったような意味のこと、そういうことなどもちゃんと書いておありになるっていうこと。私はそういう意味において先生が大正、昭和と生きてこられたら、日本に対してどういうふうなお考えをお持ちになっただろうか、ということに非常な関心をもっています。
 夏目先生の『行人』『三四郎』『門』などの作品の中にある苦悶は、権力者の苦悶ではなく、ほんとの一人一人の人間、どこにでもいるような、私たちが隣り合って住んでいるような、いわゆる庶民の苦悶であり、嘆きであり、怒りであるということ、そういうことが漱石をいまだに生きた人としているのではないでしょうか」と。
 野上弥生子の代表作のひとつに『真知子』がある。『真知子』は一九二八年(昭和3)~一九三〇年(昭和5)に書かれ、そこにはコミンテルン系の活動家たちが登場する。主人公の真知子もその末端に属する上流(ブルジョワ)階級と結婚話という舞台設定も含めて、『真知子』は『明暗』の延長にあると言っても過言ではないであろう。漱石は一九一五年(大正4)に『明暗』を書きかけたまま死んでしまうが、そのまま生きて『真知子』を読んだら、いかなる感想を述べたであろうか。『明暗』に造形された小林という社会主義者のタイプは、漱石の死後に起ったロシア革命以降、時代が昭和になる頃から日本中にうじゃうじゃと誕生した。
 ブルジョワ階級の末端に生活する真知子は、ある日、学校を辞めて三河島のセツルメントで働く友人の米子を誘って上野の美術館にロゼチやプリ・ラファエル派の絵画を見に行くのだが、その帰り道に「愛の精神を基礎としない社会主義の効果は、わたしは十分信じられないのだから」と言うと、米子から「さう云う人にはオーエンあたりが丁度いいのです」と言われてしまったりする。
 親や親類の勧める縁談を断りつづける真知子は、やがて米子の仲間の関という思想問題で大学を退学になり裁判中の活動家に惹かれていき、自立しようと家を出て関に抱かれるのだが、米子が関の子供を身ごもっているのを知り、関から離れる。もうひとり真知子に求婚して断られるブルジョワの御曹司で、考古学を研究する河井という男が登場する。物語の最後は、河井が役員をする会社に入り込んだ関の仲間たちが争議を起し、河井は「職工の共同管理で新たに経営させてみるために、研究所だけを残し、彼の不動産のほとんど全部を投げ出そうとし」、真知子は隠されていた河井への愛を感じたところで物語は終わる。
 私が要約してしまうと身も蓋もないが、四〇〇ページ近い小説で、登場人物の造形や物語の展開も、さすが漱石の教えを受けた人だけあって、とても上手い。場所的な背景が現在の文京区中心で、「谷中の墓地を抜けて田端まで歩いて」とか、「白山上の乗換場が来て」とか、「毎日学校へ行く時見て通る駕籠町の東洋文庫」などという表現に出合うと、私の父の実家もあの辺りにあってあの辺りは昔馴染みであったから、まるで昨今のような気にさえなる。
 それにしても、漱石が亡くなってから十年ちょっとで世の中はここまで変わるものなのか、ヴォルシェヴィズムはここまで跋扈したものなのか、またその時代の変化を漱石の一人の門弟の奥さんがここまで描けるものなのか、野上弥生子には脱帽である。当時、野上弥生子の次男の茂吉郎と高野岩三郎の息子の高野一郎とは家も渡辺町で近く、誠乃小学校時代からの同級生で、茂吉郎は高野一郎の妹の正子と結婚した。『真知子』に描かれた時代認識というのは漱石文学を引き継ぎながら、そういった環境から得られたものではなかったであろうか。真知子はコミンテルン系の友人から「さう云う人にはオーエンあたりが丁度いいのです」と揶揄されるわけだが、森戸辰男が『オウエン~モリス』を書いた如く、高野岩三郎系ではレーニンよりも「オウエン モリス」であったわけである。
 ついでに書けば、高野岩三郎の長女のマリアの亭主になったのは宇野弘蔵であるから、野上弥生子は宇野弘蔵にもつながっている。そして戦後のある日、野上弥生子は小田切秀雄らに頼まれて、宇野弘蔵に法政大学の総長になってくれるように頼みに行ったという。
 「(私立大学)の元締め役の椅子に、学究一途の頑固で融通のきかぬ点では全く標本のような人間を坐らせる。これ以上に無謀とも、矛盾ともいい得るものがあるだろうか。しかし・・・けっきょく・・私は、鵠沼の家へ出掛けた。・・・宇野夫妻はそれだけでも驚いたが、もって行った用事は宇野さんを殆んどびっくりさせた。とんでもない話だといった」という秘話である。
 もちろん宇野弘蔵は法政大学の総長にはならなかったのであるが、野上弥生子の夫の野上豊一郎は法政大学の総長であったから大内兵衛とも親しく、こう書いている。
 「高野老人の死後、大原研究所は法政の中に移され、野上の急死で総長を失った法政は、大内さんにお願ひしてその職について頂いた。このことの実現は誰よりも地下に眠る故人にとって大きな安心と、満足であることを信ずるものであり・・・」(岩波書店『野上弥生子全集』第22巻から)と。
 さらに野上弥生子は、「宇野さんからは著書のすべてを貰っても、ほんとうは皆目わからず、猫に小判です、が御礼のきまり文句になっていた」と書くごとく宇野弘蔵とも仲がよかったのであった。そして以上のことをブログに書いたら、大内先生からは以下のコメントがあったのだった。
 「『真知子』ご紹介頂き、ありがとう。昔、読んだので、もう一度読み直したような気になりました。宮本百合子との対比だったので、野上さんのほうが面白かったことだけしか頭に残っていません。「野上の婆さん」なかなかですよね!宇野先生も、野上さんの事、よく話題にしていましたが、嬉しそうに話していたのを思い出します」と。
 引用ばかりで恐縮であったが、要は人と人がつながり、思想が受け継がれ鍛えられしてきたということである。故・黒岩比佐子氏は遺作となった堺利彦と売文社を描いた名著『パンとペン』(講談社2010)に、「(売文社以降のこと※筆者注)を十分に語りつくすためには、もう一冊の本を書かなければならないだろう。そして、私にとってそれはかなり気が重い作業である。なぜなら、『冬の時代』が終わった後に、『春の時代』が到来したわけではないことを歴史は語っているからだ」と書いて、出版後に若くして亡くなった。二〇一〇年(平成22)の秋に、私のブログへのコメントで『パンとペン』の出版されることを知った私と大内先生はさっそく『パンとペン』を読んで感銘し、僕等もまとめようということになって、この論をすすえてきたところである。私は日本の土着社会主義の成立過程を書き、大内先生は労農派の成立から日本資本主義論争と宇野理論の成立と戦後までということにしたところで、私の分担はこれで終わりである。「冬の時代」の後には「春の時代」が来るものなのか、どの時代にも冬もあれば春もあるものなのか、藩閥政治からの復古主義的イデオロギーが再興し、リベラル派と左派が割れるという昨今の政治状況を見るにつけ、時代はめぐるものというのが実感である。故・黒岩比佐子氏の「『冬の時代』が終わった後に、『春の時代』が到来したわけではないことを歴史は語っている」という言葉が今なおリアリティをもつ時代の中で、歴史に学びながら、どんな時代にもめげずに生きる人々に心寄せて共に生きたいと思うところである。
 堺利彦は「冬の時代」が終わった後に、「春の時代」が到来したわけではない一九三三年(昭和8)一月二二日に永眠した。大内兵衛は、同年一一月に亡くなった片山潜と合わせて、以下のように書いている。
 「日本の共産党はコミンテルンの一支部であったことから、片山さんが誰よりも偉い社会主義者であるというふうにいわれ、今日、それが伝説化または神話化されている。・・片山さんと堺さんとを比べると、学問においても、人間においても、操守においても、要するに社会主義者としては段ちがいに堺さんが偉かった。・・しかるにその堺さんは、遂に神さまにはされなかった。堺さんはもちろんこれを喜んでいるに相違ないが、日本の社会主義はこういう偉い人を忘れてはよくないとぼくは思う」。
 「戦争で焼けたぼくの家の応接間には、堺枯川の『棄石埋草』という額がかかっていた。君たちの中で覚えている人があるかね。あれは、ステ石ウメ草とよむのだろうと思う。実に立派な字であった。あれは昭和六年の選挙に出たときに選挙費のために売ったもので、大森義太郎君がぼくに売りつけたものであった。ぼくは、あの字が好きであり、あの文句がすきであった。堺さんはステ石ウメ草だろうか。それ以上のものだろうか。日本社会主義がもし他日立派に立ち上がるとすれば、彼のステ石ウメ草の上にであろう」と。
 堺利彦の娘の近藤真柄は、父への『謝辞』を以下のように書いている。
 「明治三十七八年日露戦争当時の非戦論から、今日の世界大戦の危機をはらむ時の××××(戦争反対)まで、常に棄石埋草として働きたいとしていた父でありました。今日の父を、棄石とし、埋草として、全無産階級の××××(戦争反対)運動の肥料たり、口火たり、糸口たらしめていただけたらと私共は思うのであります」(『わたしの回想』ドメス出版1981)と。私もまた、そう生きたいと思うところである。

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