« 堺利彦と大杉栄・つづき | トップページ | オウエン、ラスキン、モリス »

2014年2月 6日 (木)

山川均と宇野弘蔵

 一九一八年(大正7)か一九一九年(大正8)の頃、ふたりの青年が山川均を訪ねてくる。東京大学の学生の宇野弘蔵とその友人の西雅雄である。宇野弘蔵は、戦後に宇野理論と呼ばれる経済学で名を成すマルクス経済学者であるが、宇野弘蔵の社会主義入門は、中学五年の頃に大杉栄の『生の闘争』に堺利彦が書いた序文を読んでからということで、当初は大杉栄のサンディカリズムの影響を受けたという。
 前述したように、宇野弘蔵は『「資本論」五十年』の冒頭の語りだしで、大杉栄の『生の闘争』に堺利彦が書いた序文の添えられた「社会主義鳥瞰図」を示して、当時「社会主義というのは・・恐ろしいものだと思っていた。ところが堺さんの一覧図を見ると・・ぼくははじめて社会主義というのはこういうものかと思ったんだな。つまり個人主義、それから国家主義、国家社会主義、社会主義、共産主義、こういうものが並んでいる。こういうものかと思って、初めて社会主義なるものに興味をもって、それで大杉のものに特別の興味を持つようになった」と語っている。
 宇野弘蔵の実家は本屋をやっていて、『生の闘争』はたまたま店にあったから読んだようであるが、高梁中学時代の友人の西雅雄から教えられて、その頃はまだ無名であった石川啄木を読み、その流れで高校に入ると土岐哀果を読み、高校2年の頃に土岐哀果の文芸的社会主義雑誌『生活と芸術』の叢書として出された大杉栄の『労働運動の哲学』を読んだという。これが宇野弘蔵のサンディカリズムとの出会いであり、大杉栄が「労働者のエネルギーを説くところは、非常にわかりやすかった」という。ほかにも、中学生の頃からの宇野弘蔵の読書暦は多彩である。中学時代には徳富蘆花や国木田独歩、高校時代にはクロポトキンやリッケルト、萩原朔太郎や有島武郎やドフトエフスキーを愛読したという。マルクスについては高校時代に西雅雄から『新社会』を教えられ、一九一七年(大正6)の二月から『新社会』に連載された高畠素之訳カウツキー『資本論解説』を読んでマルクスを知り、「高等学校の後半にぼくは『資本論』をどうしても知りたいと思うようになった」という。そして経済学をやろうと思うようになった宇野弘蔵は、同年に東京大学経済学部に入学すると、単行本になったカウツキー『資本論解説』をくりかえし読みながら「なんとかして『資本論』を読もうと思い」、「社会主義というより『資本論』です。これを知りたいと思っていた」(前掲書p101)と述べている。
 しかし、大学に入った当初の宇野弘蔵は「サンディカリズムとしての社会主義を知っているだけ」で、マルクスがどんなののかはほとんど知らなかったという。アナルコ・サンディカリズムの魅力について、宇野弘蔵は「つまり労働者の中のエネルギーが自然発生的に社会改造の新しいエネルギーと思想を展開してくるという考え方です」と説明する。そして大学に入ると、そこには権田保之助というサンディカリズムの煽動者がいて、権田保之助の研究会で宇野弘蔵がサンディカリズムの報告をしたら、大いにほめられたという。
 余談だが、当時、権田保之助はモリスに興味をもっていたそうだが、早稲田中学の生徒だった頃から『平民新聞』を配ったりした早熟の人で、早稲田中学では安部磯雄の教え子であり、騒動を起こして早稲田中学を辞めた後は外国語学校に入って、そこでは櫛田民雄といっしょになり、高野岩三郎に呼ばれて櫛田民雄とともに東大の助手になったようである。大学時代は美学を専攻して、その時の先生は夏目漱石の友人の大塚保治であったという。前述したように、大塚保治の妻は大塚楠緒子で、一九一〇年(明治43)に楠緒子が早死すると、漱石は「有る程の菊なげ入れよ棺の中」の句をたむけている。
 そして、東京大学に入学した宇野弘蔵は、社会主義運動をやろうとして上京してきた西雅雄と山川均を訪ねたわけだが、宇野弘蔵が「山川さんのところに初めて行ったとき・・夜訪れていったら、とても喜んで、上がれといって。そのとき英訳の『共産党宣言』をもらった。(私が近くの宇野さんの子どもだということは)そういう話をすればすぐ向こうはよく知っているんだ」と述べているように、山川均と宇野弘蔵は同じ「倉敷もん」であるだけでなく、家もご近所だったのである。山川均の『自伝』には「上のほうの姉は十六歳で、私の家とま向かいの林家に嫁入りした」とあり、宇野弘蔵の『「資本論」五十年・上』には、「(山川均は)『新社会』やその他で高等学校時代に読んでいる。もちろんそのときは山川さんをぼくの知っていた山川さんだということは知らなかったんだ。また初めは無名氏というペンネームで書いていて、それを読んで非常に感心したね」、「山川さんといったら昔社会主義者で、あのうちは閉門したうちだというだけなんですよ。・・・たとえばぼくのうちなんか山川さんの姉さんのうちとは非常に親しいんだけど、それでも全然話してない。だから無名氏が山川均氏で、山川均氏がぼくの近所の人だという、これには驚いた」(P89-90)とある。
 宇野弘蔵は、堺利彦や山川均からの影響のされ方については、「やっぱり山川さんのものをずいぶん読んでいるからね。堺さんのものはあまりそうたいして読んでいない」(前掲書p91)ということで、堺利彦を訪ねたのは二度だけ、大杉栄の北風会にも一回顔を出したそうだが、山川均のところへはその後も通って翻訳の手伝いもしたという。第一次共産党の母体になる水曜会にも顔を出して戦後に共産党の委員長になる徳田球一とも同席したりしているが、実践活動には誘われることも参加することもなかったという。山川均の知り合いということで、参加を認められていたといったところだろうか。
 宇野弘蔵は、「大学の三年間は河上肇と山川均に『資本論』の手ほどきを受けたようなものだ」と語っている。例えば、山川均は1919年(大正8)頃に「国家社会主義と労働運動」という以下の文章を書いている。
 「社会主義は多くの人々によって、資本私有制度の撤廃であり、資本公有制度の主張であると解せられている。しかしながら社会主義が、少なくとも現代の労働階級の社会主義が、資本私有の撤廃を主張して居るのは、賃銀制度廃止の方法として、これを主張しているものであることを忘れてはならぬ。社会主義が資本私有の廃止を主張しているのは、その廃止は必然に、賃銀制度の廃止を伴うという前提によるものであって、もし資本私有制度廃止が、同時に賃銀制度の廃止を意味せぬとしたならば、資本私有の廃止と存置とは、もとより社会主義の関知せざるところである。
 マルクスの経済学説によれば、剰余価値の搾取は、労働力が商品として売られることに基因するものである。労働力が商品として売られる問は、労働者は生産行程の支配者ではなく、したがって厳密なる意味での生産者ではなくて、単に原料や機械と均しく、生産費の一項目を構成する《労働と名付ける》商品の売手である。そして労働力が商品たる間は、剰余価値は正当に、詐欺または掠奪のごとき個人的の不正手段によらずして、生産者以外のものの収得に帰するものである。そして賃銀制度は必然に労働力を商品とみなすことを前掲としてのみ、なりたち得るものである。したがって賃銀制度は必然に、剰余価値の生産を意味するものである。そして剰余価値の生産の存続する限りは、労働問題は永久の宿題として存続するに相違ない。
 そこでこの最後の意味における国家社会主義が、労働問題を解決するかどうかという問題は、必ずしも単に国家社会主義の結果が、資本私有制度を撤廃するか否かという《ことによってのみ決定せられるものではなく、》その資本私有制度の撤廃が、賃銀制度の廃止を意味するや否やという一事にかかっている。・・・《賃銀制度の廃止を伴なわぬ国家社会主義は、畢竟、国家資本主義である。労働者はいぜんとしてその商品たる労働力を売って、その剰余価値を引き渡さなければならぬ。労働者はいぜんとして、賃銀という一様のあつもののために、生産物に対する相続の権利を売らなければならぬ。そして剰金価値に対する労働階級の奪還戦は、永久に歌われねばならぬであろう。》」(勁草書房『山川均全集・2』から)と。
 この論の背景には、当時の売文社内で国家社会主義を唱えだした高畠素之への批判があると思われる。山川均が国家社会主義への批判の論拠として「労働力の商品化」をあげ、社会主義を「賃銀制度=労働力の商品化の廃止」として、「単に国家社会主義の結果が、資本私有制度を撤廃するか否かという《ことによってのみ決定せられるものではなく、》その資本私有制度の撤廃が、賃銀制度の廃止を意味するや否やという一事にかかっている」とするのは卓見であろう。宇野弘蔵が言うように、「堺さんや山川さんたちはボルシェビズムより前からマルクス主義者であった」わけであり、山川均におけるマルクス事始は一九〇七年(明治40)に『大阪平民新聞』に連載した「マルクスの資本論」であり、それはモリスとバックスの共著である『社会主義』から学んだものであった。山川均がサンジカリズムを学ぶのはその後のことであり、いずれにせよ国家主義的な社会主義に否定的であるわけで、そこから「労働力の商品化の廃止」としての社会主義につながるのであろうと思うところである。宇野弘蔵は『「資本論」五十年』を語った時でさえ、「ぼくには思想的にはやっぱりサンディカリすティックなものが残っているかもしれない」と語っている。
 山川均について宇野弘蔵は、さらに以下のように語っている。
 「山川さんでも一時はサンディカリスティックだったのだが、本来はマルキスティックだったのではないか。そしてそれから後にはボルシェヴィズムにはいるというわけでしょう。ボルシェヴィズムにはいれば当然政党運動ということになる。おそらくそこに例の方向転換に行くきっかけがあるのじゃないかな」。
 「(ぼくは)ああいうことはできない。らっぱ吹いたり旗をふることはどうしてもできん。それが悪いというのではないが、できない。山川さんも、ぼくはそう思うんだけれど、政党政治家になれないのが当然だという感じがするんだ。それは性格的にそうだと思う。・・だから戦後、大分活動されたが、ぼくにはどうも山川さんのなさるべきことでけなかったような気がするんだね」と。
 一九二一年(大正10)に東京大学を卒業した宇野弘蔵は大原社会問題研究所に入所する。後述するように、大原社会問題研究所は一九一九年(大正8)二月に設立総会を開き、同年国際労働代表事件で東京帝国大学を辞職した高野岩三郎が所長となって一九二〇年(大正9)に開設された民間の研究所で、一九二〇年(大正9)に東京大学経済学部の機関誌『経済学研究』に森戸辰雄が書いた「クロポトキンの社会思想の研究」が発端となって森戸事件が起こると櫛田民蔵、森戸辰雄、権田保之助らはそこに移り、翌一九二一年(大正10)の春には宇野弘蔵もそこに入所したのであった。当時、堺利彦は森戸事件について、「大正九年のおめでたいとその酔いはまず森戸事件でさまされた。・・・なにしろ大学教授の朝憲紊乱という珍現象は著しく思想界を刺激する効果があった。マルクスの流行に食傷しかかっていた読書界は、たちまちにしてクロポトキンの流行を歓迎した」と書いている。
 大原社会問題研究所に入所した宇野弘蔵は、一九二二年に(大正11)の夏に高野岩三郎の娘と結婚をする。それについて宇野弘蔵は、「(彼女)を山川さんの姉さんの主人、前に話した薬屋をやっている林さんが見て、考えたことなのです。ところがそれを聞いて大原(孫三郎)さんがそれは非常にいい、自分が仲人をしてやろうというわけで、急にそういうことになった」(前掲書P176)と語っている。前に山川均の項でも書いたが、大原孫三郎は紡績事業で財を成した中国地方の財閥で、大原社会問題研究所をはじめ様々な社会事業で知られるロバート・オウエン的な実業家で、山川均とは中学時代からの友人で、山川均が不敬罪で入獄も刑務所に面会に訪れており、出獄して倉敷に帰った山川均は大原孫三郎からブルタニカを借りて読んでいる。また宇野弘蔵の父親は、大原孫三郎と非常に近い関係にあったようで、宇野弘蔵は、「山川さんのうちは倉敷の町でも貴族階級だけれど、ぼくのうちなんか・・中流ですね。・・山川さんの姉さんの嫁いでいた林さんは薬屋さんだったが、やっぱり貴族階級みたいな気がしていたね」とも語っている。要は二人のバックボーンに「中流~貴族階級」である「倉敷もん」の世界があったということなのだろうが、この世界は後述する所謂労農派の学者グループにも通じているように思うところである。堺利彦が一九二一年(大正10)に書いた「日本社会運動の人々」という文章には、大原社会問題研究所について、「大原社会問題研究所は岡山の紡績成金大原孫三郎氏の道楽事業である。・・・所長は高野岩三郎氏で、その下に森戸辰男、櫛田民蔵の二氏がいる。つまり何の事はない、元帝大教授の避難場所という形である。・・・クロポトキン学者の森戸氏と、マルクス学者の櫛田氏とは、何と言っても大原研究所の誇りである。・・・その外、研究所は多数の若い秀才を善っていると聞く。それがニワトリになるものやら、アヒルになるものやら」と。まあ、「ニワトリになるものやら、アヒルになるものやら」と書いているが、その中に宇野弘蔵もいたということであろうか。
  一九二二年に(大正11)九月に櫛田民雄に見送られて宇野弘蔵はドイツに留学する。そこから宇野弘蔵の本格的な『資本論』研究を始めるわけであるが、留学先のドイツでは学生時代の友人の向坂逸郎といっしょになる。ふたりは数少ない経済学部の学生で、学生時代から仲はよかったようであるが、宇野弘蔵が『資本論』の研究を目指してあれこれしゃべるのに対して、向坂逸郎はほとんど何も話さずにいて、マルクス・エンゲルスを全部読んでやろうと、ドイツ留学時はひたすら本を買いあさっていたというのが、性格が出ているようで面白い。
 宇野弘蔵は一九二四年(大正13)に帰国する船で、同じく留学から帰国する福本和夫と乗り合わせてあれこれ議論し、九月に帰国すると今度は森戸辰男が迎えに来ていて、「仙台にポストがある」ということで、一〇月から東北大学に就職することになった。当時の東北大学には新カント派の高橋里美だけでなく、現象学研究の三宅剛一、ヘーゲル研究の武市健人、それに同僚だった阿部次郎、木下杢太郎、小宮豊隆といった文学者がいて、同僚のフランス文学者の河野与一と名士訪問をやったようである。仙台に来た西田幾多郎の講演を聴きに行って、西田と高橋里美が論争を始めたことを面白そうに書いているのは、宇野弘蔵は旧制第六高等学校で新カント派哲学者の高橋里美からドイツ語を学び、哲学研究会に所属していて新カント派の哲学にもふれていたからであろうか。
 大学で経済政策論を講義した宇野弘蔵が、やがて起こった労農派と講座派の論争を遠くに見ながら独自の視点から自らの論考をすすめた背景には、若き日に堺利彦の「大杉栄君と僕」に書かれた社会主義の鳥瞰図に描かれた「思想の環が一周してさらに相近づかんとする形」に惹かれ、弁証法のヘーゲル哲学よりもアンチノミーのカント哲学に惹かれたということや、仙台という地で中央の喧騒に巻き込まれずに、夏目漱石の『三四郎』のモデルとも言われ漱石の一番弟子であった小宮豊隆らと語り合えたことなどもあったのかもしれないと思うところである。宇野弘蔵は、「東北大学というところにいたことが、ぼくには実に運がよかったと思う。・・・ぼくには『資本論』研究の天国といってよかった」と語っている。
 遠くに日本資本主義論争を見ながら、一九三五年(昭和10)に宇野弘蔵は「資本主義の成立と農村分解の過程」を書く。しかし、宇野理論の形成については私の手には負えないので、後段の大内先生におまかせするしかないところ。一九三七年(昭和12)五月に東京大学の有沢広巳が東北大学に集中講義にやってきて、いっしょに労農派の大森義太郎もやってきたのだが、これが嫌疑になって、翌一九三八年(昭和13)の人民戦線事件で宇野弘蔵は逮捕されてしまい、裁判と一年以上の入獄をする。東北大学学長の高橋里美らの熱心な弁護もあって無罪になるものの、大学の職は失うことになったのであった。

|

« 堺利彦と大杉栄・つづき | トップページ | オウエン、ラスキン、モリス »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 山川均と宇野弘蔵:

« 堺利彦と大杉栄・つづき | トップページ | オウエン、ラスキン、モリス »