« 2014年1月 | トップページ | 2014年3月 »

2014年2月12日 (水)

棄石埋草

 労農派には「学者グループ」というのがあって、この労農派系学者グループの生みの親は高野岩三郎であり、学者グループの中心には高野岩三郎の教え子である大内兵衛がいた。高野岩三郎は、一八九七年(明治30)に労働組合期成会を立ち上げた日本の労働運動の創始者である高野房太郎の実弟である。前述したように、兄の高野房太郎は片山潜との対立や運動の停滞に併せて、一九〇〇年(明治33)に公布された治安警察法によって労働運動が禁圧された後、失意のうちに清国に渡っり、一九〇四年(明治37)にそこで客死した。そして、兄からの仕送りで東京大学を卒業した高野岩三郎は兄の志を継いで労働運動に尽力し、後に労農派系学者グループの中心人物になる大内兵衛や森戸辰男を育て、東京大学の法文学部から経済学部を独立させると、そこに櫛田民蔵や権田保之助を招いた。また、高野岩三郎に学んだ鈴木文治が一九一二年(大正1)に「友愛会」を立ち上げると、「友愛会」の評議委員になってこれを応援した。しかし、一九一九年(大正8)に国際労働代表事件で高野岩三郎は東大を退官することになり、その直後に起こった「森戸事件」で大内兵衛と森戸辰男は起訴されると、高野岩三郎は大原孫三郎から任された大原社会問題研究所に森戸辰男や櫛田民蔵や権田保之助を集めて研究活動をし、東大を卒業した宇野弘蔵も大原社会問題研究所に就職した。
 一九二一年(大正10)に森戸辰男とともにヨーロッパに渡った大内兵衛は一九二三年(大正12)に帰国すると東大にもどり、その後十五年間教授をして、有沢広巳、脇村義太郎、向坂逸郎、高橋正雄、美濃部亮吉、安部勇、大森義太郎、脇村義太郎らと研究生活をする。このメンバーは高橋正雄、美濃部亮吉、安部勇が東京大学を追われたために、神田に安部事務所を構えて一九三〇年(昭和5)の『改造10月号に』からその「世界情報」欄に執筆を始め、それは一九三七年(昭和12)一〇月までつづいたのだが、一九三八年(昭和13)二月一日、「このグループの人々が一斉に検挙され、みんな警察のブタ箱にぶちこまれるという事件が起こった。・・・これが世にいう教授グループ事件である」(後掲書p248~251)となったのであった。
 大内兵衛は『経済学五十年』(東京大学出版会1960)に、「ぼくは労農派ではなかった。・・・それだのに、政府とわが東大のファッショ同僚諸君はぼくを労農派として告発したのである。彼らは学問とイデオロギーとの別を知らない。彼らはイデオロギーと実践との関係を知らないのである」(p260~262)と書く。そして一九四四年(昭和19)に無罪の判決を受けるのだが、このあたりは前に書いた宇野弘蔵の場合とよく似ている。無罪になっても復学のできなかった宇野弘蔵は東京に出て民間の研究所に勤めたが、大内兵衛は、戦争中の暮らしを以下のように書いている。
 「ぼくは刑務所から出て来てから終戦のすぐ前まで、すなわち七年間、世の中と全然無関係に暮した。東大からは追われ、ジャーナリズムからは嫌われ、収入の道は絶たれた。訪ねてくる人もなく訪ねる人もない。・・・それでも、誰もがしたように、ぼくも、野菜やさつまいもを買出しにリュックを背負って田舎へでかけたよ。・・・ただ、高野先生、森戸、久留間その他大原研究所の入々はぼくを許してくれて、ぼくをその研究のメンバーに加えてくれた。ぼくが家の門を出るのはここへ行くためであった。ぼくは、この柏木の静かな美しい庭をもった日本家の中で、また静かに読書した」(p293)と。
 労農派は一九二七年(昭和2)一〇月に堺利彦、山川均、荒畑寒村、猪俣津南雄、北浦千太郎、鈴木茂三郎、黒田寿男、大森義太郎らが創刊した雑誌『労農』に集った人に始まり、福本イズムに対して無産戦線の統一を基本理念とし、一九二八年(昭和3)に無産大衆党を組織し、同年一二月に七無産政党の合同により日本大衆党が結成されると堺利彦はその中央委員になり、翌一九二九年(昭和4)二月に日本大衆党より東京市会議員選挙に立候補してトップ当選した。一九三一年(昭和6)七月に労働者農民党・全国大衆党・社会民衆党合同賛成派が合同し、全国労農大衆党が結成されると堺利彦はその顧問となり、翌一九三二年(昭和7)七月に全国労農大衆党と友愛会=総同盟系の社会民衆党が合同して、社会大衆党が結成され、無産政党の統一が実現した。社会大衆党は安部磯雄が委員長、高野岩三郎はその顧問に就任し、労農派系からは鈴木茂三郎、黒田寿男、岡田宗司らが参加したが、労農派系は左派として非主流であった。
 やがて日本が負けて戦争が終わると、高野岩三郎、安部磯雄、賀川豊彦の呼びかけで、戦後の日本社会党が結成され、一九四七年(昭和22)には片山内閣が成立し、森戸事件で東大を追われた森戸辰男が文部大臣になる。高野岩三郎は、戦後NHKの会長になったが、労働争議で左派から批判され、一九四九年(昭和24)四月に亡くなった。築地本願寺で行われた葬式は、会葬者3500人、花輪200以上と「一生を貧乏で過ごした学者の最後をかざるものとしてはあまりにも華麗でやや奇妙であった」という。
 東京大学から大原社会問題研究所、NHKへと高野岩三郎に従った学者に権田保之助がいるが、宇野弘蔵は大学一年の時に権田保之助からドイツ語を教わり、当時、権田保之助はモリスや民芸運動を語ったという。権田保之助が社会主義の感化を受けたのは早稲田中学時代にそこの英語の教師をしていた安部磯雄からであり、外国語学校を出た権田保之助や櫛田民蔵を東大に呼んだのは高野岩三郎であり、安部磯雄は一八九七年(明治30)に高野岩三郎の兄の高野房太郎が立ち上げた日本初の労働団体「労働組合期成会」に参加した人であるとこう見てくると、日本の労働運動や社会主義運動のもうひとつの流れは、キリスト教社会主義系の友愛会系や社会民主主義系というか、よりリベラルなところにあったと言える。大内兵衛は高野岩三郎について、『高い山』(岩波書店1963)に以下のように書いている。
 「(高野岩三郎は)その漸進主義にもかかわらず、徹底的に社会主義者であった・・そしてこれが彼をしていつまでも生命ある実践家たらしめたのであるが、私見によれば、それは彼が早くから労働問題に興味を覚え、労働者の味方となろうと心がけたからである。・・・それについては彼の兄房太郎の感化を没することはできない。彼は書いている、『・・・私自身の社会観に対しこの兄の存在は一つの大きな影響を及ぼしたことは自ら疑う余地はない』と。・・・高野が一生を通じて、常にこの兄の志をのべようとした情は切なるものがあった。かの有名な治安警察法第十七粂というストライキ禁止法が第一次世界戦争後、高野らの奮闘によって廃止された日の高野の日誌には『これで兄のカタキを討ったような気がする』と言いてある」と。(P18-19)
 「先生の社会主義はマルクス主義ではなくほぼウェブ流またはフェビアン流であった(先生にはウェブの大著『産業民主制論』の訳がある)。・・・先生のように明治の前半期において、自由主義の思想の洗礼をうけて成長した人には例外としてこういう心の用意はあった。たとえば夏目漱石などその類である。・・・漱石でももう少し長生さして、高野先生のように直接に社会間題にふれていたら、きっと社会主義者になったと思われる」(前掲書P46-47)と。

 夏目漱石の弟子筋に作家の野上弥生子がいる。野上弥生子は一八八五年(明治18)大分県に生まれ、十四歳の時に上京して明治女学校に入学、夏目漱石門下の野上豊一郎と結婚して自らも「ホトトギス」に文章を書き、夏目漱石から小説を学んだ。一九九五年に九十九歳で亡くなるが、晩年に「私がもっとも影響を受けた小説」として以下のように書いている。
 「(私がもっとも影響を受けた小説)夏目先生の作品。この世に生きるといふことがどういふものであるかを、若い幼稚な私にはじめて教へてくださったのは先生の作品であり、また八十六の老媼になり果てた今日において、いよいよ深くその一事をおもひ知らせてくださるのも先生の作品です。その意味から『吾輩は猫である』より『明暗』にいたるまでのすべてが、一編の人間存在の書ともいふべきものかと存じます」。
 「夏目先生があの時代に、たとえば『坑夫』や『二百十日』というふうな題材を取り上げたということなども、やはり先生の傾向を示すものではないでしょうか。晩年にこそ″天に則って私を去る″(則天去私)というふうな思想の、大らかな高いイデーにまで到達してお隠れになったのですけれども、日記の中にあるように、「天子だからなんでもできる。しかし天子だからできない世の中がこないとも限らない」といったような意味のこと、そういうことなどもちゃんと書いておありになるっていうこと。私はそういう意味において先生が大正、昭和と生きてこられたら、日本に対してどういうふうなお考えをお持ちになっただろうか、ということに非常な関心をもっています。
 夏目先生の『行人』『三四郎』『門』などの作品の中にある苦悶は、権力者の苦悶ではなく、ほんとの一人一人の人間、どこにでもいるような、私たちが隣り合って住んでいるような、いわゆる庶民の苦悶であり、嘆きであり、怒りであるということ、そういうことが漱石をいまだに生きた人としているのではないでしょうか」と。
 野上弥生子の代表作のひとつに『真知子』がある。『真知子』は一九二八年(昭和3)~一九三〇年(昭和5)に書かれ、そこにはコミンテルン系の活動家たちが登場する。主人公の真知子もその末端に属する上流(ブルジョワ)階級と結婚話という舞台設定も含めて、『真知子』は『明暗』の延長にあると言っても過言ではないであろう。漱石は一九一五年(大正4)に『明暗』を書きかけたまま死んでしまうが、そのまま生きて『真知子』を読んだら、いかなる感想を述べたであろうか。『明暗』に造形された小林という社会主義者のタイプは、漱石の死後に起ったロシア革命以降、時代が昭和になる頃から日本中にうじゃうじゃと誕生した。
 ブルジョワ階級の末端に生活する真知子は、ある日、学校を辞めて三河島のセツルメントで働く友人の米子を誘って上野の美術館にロゼチやプリ・ラファエル派の絵画を見に行くのだが、その帰り道に「愛の精神を基礎としない社会主義の効果は、わたしは十分信じられないのだから」と言うと、米子から「さう云う人にはオーエンあたりが丁度いいのです」と言われてしまったりする。
 親や親類の勧める縁談を断りつづける真知子は、やがて米子の仲間の関という思想問題で大学を退学になり裁判中の活動家に惹かれていき、自立しようと家を出て関に抱かれるのだが、米子が関の子供を身ごもっているのを知り、関から離れる。もうひとり真知子に求婚して断られるブルジョワの御曹司で、考古学を研究する河井という男が登場する。物語の最後は、河井が役員をする会社に入り込んだ関の仲間たちが争議を起し、河井は「職工の共同管理で新たに経営させてみるために、研究所だけを残し、彼の不動産のほとんど全部を投げ出そうとし」、真知子は隠されていた河井への愛を感じたところで物語は終わる。
 私が要約してしまうと身も蓋もないが、四〇〇ページ近い小説で、登場人物の造形や物語の展開も、さすが漱石の教えを受けた人だけあって、とても上手い。場所的な背景が現在の文京区中心で、「谷中の墓地を抜けて田端まで歩いて」とか、「白山上の乗換場が来て」とか、「毎日学校へ行く時見て通る駕籠町の東洋文庫」などという表現に出合うと、私の父の実家もあの辺りにあってあの辺りは昔馴染みであったから、まるで昨今のような気にさえなる。
 それにしても、漱石が亡くなってから十年ちょっとで世の中はここまで変わるものなのか、ヴォルシェヴィズムはここまで跋扈したものなのか、またその時代の変化を漱石の一人の門弟の奥さんがここまで描けるものなのか、野上弥生子には脱帽である。当時、野上弥生子の次男の茂吉郎と高野岩三郎の息子の高野一郎とは家も渡辺町で近く、誠乃小学校時代からの同級生で、茂吉郎は高野一郎の妹の正子と結婚した。『真知子』に描かれた時代認識というのは漱石文学を引き継ぎながら、そういった環境から得られたものではなかったであろうか。真知子はコミンテルン系の友人から「さう云う人にはオーエンあたりが丁度いいのです」と揶揄されるわけだが、森戸辰男が『オウエン~モリス』を書いた如く、高野岩三郎系ではレーニンよりも「オウエン モリス」であったわけである。
 ついでに書けば、高野岩三郎の長女のマリアの亭主になったのは宇野弘蔵であるから、野上弥生子は宇野弘蔵にもつながっている。そして戦後のある日、野上弥生子は小田切秀雄らに頼まれて、宇野弘蔵に法政大学の総長になってくれるように頼みに行ったという。
 「(私立大学)の元締め役の椅子に、学究一途の頑固で融通のきかぬ点では全く標本のような人間を坐らせる。これ以上に無謀とも、矛盾ともいい得るものがあるだろうか。しかし・・・けっきょく・・私は、鵠沼の家へ出掛けた。・・・宇野夫妻はそれだけでも驚いたが、もって行った用事は宇野さんを殆んどびっくりさせた。とんでもない話だといった」という秘話である。
 もちろん宇野弘蔵は法政大学の総長にはならなかったのであるが、野上弥生子の夫の野上豊一郎は法政大学の総長であったから大内兵衛とも親しく、こう書いている。
 「高野老人の死後、大原研究所は法政の中に移され、野上の急死で総長を失った法政は、大内さんにお願ひしてその職について頂いた。このことの実現は誰よりも地下に眠る故人にとって大きな安心と、満足であることを信ずるものであり・・・」(岩波書店『野上弥生子全集』第22巻から)と。
 さらに野上弥生子は、「宇野さんからは著書のすべてを貰っても、ほんとうは皆目わからず、猫に小判です、が御礼のきまり文句になっていた」と書くごとく宇野弘蔵とも仲がよかったのであった。そして以上のことをブログに書いたら、大内先生からは以下のコメントがあったのだった。
 「『真知子』ご紹介頂き、ありがとう。昔、読んだので、もう一度読み直したような気になりました。宮本百合子との対比だったので、野上さんのほうが面白かったことだけしか頭に残っていません。「野上の婆さん」なかなかですよね!宇野先生も、野上さんの事、よく話題にしていましたが、嬉しそうに話していたのを思い出します」と。
 引用ばかりで恐縮であったが、要は人と人がつながり、思想が受け継がれ鍛えられしてきたということである。故・黒岩比佐子氏は遺作となった堺利彦と売文社を描いた名著『パンとペン』(講談社2010)に、「(売文社以降のこと※筆者注)を十分に語りつくすためには、もう一冊の本を書かなければならないだろう。そして、私にとってそれはかなり気が重い作業である。なぜなら、『冬の時代』が終わった後に、『春の時代』が到来したわけではないことを歴史は語っているからだ」と書いて、出版後に若くして亡くなった。二〇一〇年(平成22)の秋に、私のブログへのコメントで『パンとペン』の出版されることを知った私と大内先生はさっそく『パンとペン』を読んで感銘し、僕等もまとめようということになって、この論をすすえてきたところである。私は日本の土着社会主義の成立過程を書き、大内先生は労農派の成立から日本資本主義論争と宇野理論の成立と戦後までということにしたところで、私の分担はこれで終わりである。「冬の時代」の後には「春の時代」が来るものなのか、どの時代にも冬もあれば春もあるものなのか、藩閥政治からの復古主義的イデオロギーが再興し、リベラル派と左派が割れるという昨今の政治状況を見るにつけ、時代はめぐるものというのが実感である。故・黒岩比佐子氏の「『冬の時代』が終わった後に、『春の時代』が到来したわけではないことを歴史は語っている」という言葉が今なおリアリティをもつ時代の中で、歴史に学びながら、どんな時代にもめげずに生きる人々に心寄せて共に生きたいと思うところである。
 堺利彦は「冬の時代」が終わった後に、「春の時代」が到来したわけではない一九三三年(昭和8)一月二二日に永眠した。大内兵衛は、同年一一月に亡くなった片山潜と合わせて、以下のように書いている。
 「日本の共産党はコミンテルンの一支部であったことから、片山さんが誰よりも偉い社会主義者であるというふうにいわれ、今日、それが伝説化または神話化されている。・・片山さんと堺さんとを比べると、学問においても、人間においても、操守においても、要するに社会主義者としては段ちがいに堺さんが偉かった。・・しかるにその堺さんは、遂に神さまにはされなかった。堺さんはもちろんこれを喜んでいるに相違ないが、日本の社会主義はこういう偉い人を忘れてはよくないとぼくは思う」。
 「戦争で焼けたぼくの家の応接間には、堺枯川の『棄石埋草』という額がかかっていた。君たちの中で覚えている人があるかね。あれは、ステ石ウメ草とよむのだろうと思う。実に立派な字であった。あれは昭和六年の選挙に出たときに選挙費のために売ったもので、大森義太郎君がぼくに売りつけたものであった。ぼくは、あの字が好きであり、あの文句がすきであった。堺さんはステ石ウメ草だろうか。それ以上のものだろうか。日本社会主義がもし他日立派に立ち上がるとすれば、彼のステ石ウメ草の上にであろう」と。
 堺利彦の娘の近藤真柄は、父への『謝辞』を以下のように書いている。
 「明治三十七八年日露戦争当時の非戦論から、今日の世界大戦の危機をはらむ時の××××(戦争反対)まで、常に棄石埋草として働きたいとしていた父でありました。今日の父を、棄石とし、埋草として、全無産階級の××××(戦争反対)運動の肥料たり、口火たり、糸口たらしめていただけたらと私共は思うのであります」(『わたしの回想』ドメス出版1981)と。私もまた、そう生きたいと思うところである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年2月10日 (月)

オウエン、ラスキン、モリス

 これまでみてきたように大正期に入ると、武者小路実篤の「新しき村」や有島武郎の「狩太共生農団」、賀川豊彦の「一膳飯や」や「歯ブラシ工場」から協同組合運動、「労働者自治工場」の「測機舎」、石川三四郎の「共学舎」、さらには宮沢賢治の「羅須地人協会」へと、それに文学者たちのユートピア的生き方と作品まで、大正から昭和にかけての時代には様々なユートピア、共同体づくりが試みられた。しかし時代が昭和に入って、コミンテルン経由でマルクス・レーニン主義が入ってくると、正しい社会主義はマルクス・レーニン主義で、実践は階級闘争が正しいということになってしまい、以後ずーっとユートピア志向などは空想的社会主義かプチブルの牧歌主義とされて否定されてしまったわけだが、大正期の記述を終える前に、ロバート・オウエンとジョン・ラスキンとウィリアム・モリスについて見直しておきたい。

 「労働は一個の芸術である。絵を画かなくとも、彫刻をしなくとも人間が刻一刻に刻んで行く労働そのものは立派な創作であり、創造であり、芸術の芸術である」という賀川豊彦の『自由組合論』は、「もとより農民芸術も美を本質とするであろう」という宮沢賢治の『農民芸術概論要綱』を思い起こさせる。賀川豊彦と宮沢賢治は直接の接触はなかったが、賀川豊彦は一九二六年(大正15)に日本農民組合委員長の杉山元治郎を委員長にして農民労働党をつくり、宮沢賢治は花巻で農民労働党の支部つくりを支援しているから、全く関係なしとも言えない。そして、同時代にふたりに同じ思いを抱かせたものがあるとすれば、ジョン・ラスキンとウィリアム・モリスからの影響であろうか。
 マルクスやエンゲルスの思想は明治時代から知られてはいたが、一九一七年(大正6)にロシア革命が起こってから後にマルクス・レーニン主義が入ってくるまでは、そればかりが社会主義の思想ではなく、マルクスはその精緻な学説から堺利彦などは正統派社会主義と称してはいたが、ロバート・オウエンやクロポトキンやモリスといったユートピア社会主義も広く読まれ、サンジカリズムは主要な社会主義のひとつであった。クロポトキンの唱える相互扶助は社会主義のイメージとして分かりやすかっただろうし、急速な日本の近代化と工業化による環境破壊や貧富の格差の拡大がすすむ中では、産業主義による環境破壊とブルジョワの俗物性を嫌悪したラスキンと産業主義に代わるユートピアを描いたモリスには、当時の人々を惹きつけるものがあったのだと思われる。これは社会主義者だけでなく、前述したように明治二十年代から『文学界』に集った若い文学者たちはラスキンの『近代絵画』やラファエル前派の絵画に親しみ、永井荷風しかりであり、夏目漱石はホイットマンやラスキンが師と仰いだカーライルに学んで自らの個人主義を鍛えている。
 ラスキンの代表作『この最後の者にも』の扉には、「友よ、わたくしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたくしと一ペニーで約束したではないか。自分の賃銀をもらっていきなさい。わたくしは、この最後の者にも、あなた同様に払ってやりたいのだ」(中央公論「世界の名著」41)という新約聖書の言葉が記されている。『この最後の者にも』という書名はここから来ている訳だが、謂わばいっぱい働いた者と少ししか働かなかった者とに平等に報酬を分けるといった話は、市場主義と功利主義の経済学からはその意味を理解することは出来ないだろう。『この最後の者にも』にラスキンはこう書く。
 「生産の真の試金石は消費の方法と結果である。生産というのは苦労してものをつくることではなく、有益に消費されるものをつくることである。そして国家の問題は、国家がいかに多くの労働を雇用するかということではなくて、いかに多くの生をつくりだすかということである。なぜかといえば、消費が生産の目的であり標的であるように、生が消費の目的であり標的であるからである。・・・つまり、生以外に富は存在しない( There is no wealth but Life)」と。
 ラスキンは、産業革命以降のイギリスの資本主義の発展原理となった古典派経済学の市場主義と、機械によって創造性を奪われた「人間を除けばなんでも製造する」労働に対して、人間の精神と情愛をもった平穏な経済をめざした。古典派経済学には資本主義の常識が語られるが、人を動かすものが金の力だけではないとすれば、市場経済に抗するのにラスキンの経済学をもってするのは、ごくまともな対応と言える。
 ラスキンがおもしろいのは、『近代絵画論』(1843)で名声を得ながらも、『この最後の者にも』(1862)でスミスやリカードやミルのポリティカル・エコノミーを批判してイギリス産業界の怒りを買い、多くの批判もあった中、『この最後の者にも』の続編となる『フォルス・クラヴィゲラ』(1871)を創刊して「手作業に回帰するユートピア的社会改革を企図」した「聖ジョージ組合」を企画したことだろうか。ラスキンの「聖ジョーヂ組合」は失敗であったとされるが、詳しくふれた書物は少ない。わずかに大熊信行著『社会思想家としてのラスキンとモリス』(論創社 2004)があるが、これも原著は一九二七年(昭和2)の出版であり、大熊信行がそれを最初に書いたのは一九二一年(大正10)の大学の卒業論文としてであったという。
 それによれば、ラスキンは社会批評冊子のような『フォルス・クラヴィゲラ』の刊行と併せて「聖ジョーヂ組合」を企画する。『フォルス・クラヴィゲラ』は、一八七一年に「大英帝国の職工及び労働者に与ふる書簡」と註して発刊されるのだが、販売形式は謂わば「読者直販」であり、「その印刷は田舎の理想的な印刷所で行われた。ラスキンの理想は幸福なる村落産業の建設にあり、仲買を省き書籍はすべての購読者に定価をもって供給されるべきであり・・・」(P154)、「それは、その出版の全期間における彼の間接直接社会改革に関するすべての思想の雑録集である」(P157)のだった。
 「聖ジョーヂ組合(company)」は、一八七七年に「聖ジョーヂ・ギルド(guild)」と改称、「聖ジョーヂ組合」は設立当初から「聖ジョーヂ資金」を募集して、土地の購入をもくろんでおり、一八七六年に二〇〇エーカーの森林地を手に入れたが、これは資金や運営能力を欠いて失敗した。「聖ジョーヂ組合の、付随的な計画の一つに、家内手工業の復興という産業的実験」もあったようである。ラスキンはこのほかにも、若きトインビーも参加したという道路の修繕とか、貧乏人のための「ラスキン茶店」とかを試みているが、「ラスキン博物館」以外は失敗であり、ラスキンが自らを「デンマーク・ヒルズのドン・キホーテ」と称したという。しかし、失敗は終わりではない。若き日にラスキンに啓発され、その思想を引き継いだウィリアム・モリスは、後年ラスキンの『ヴェニスの石』ケルムスコット版(1892)の序文に「ラスキンがここに教える教訓は、芸術は人間の労働の喜びの表現であるということだ」と書いたように、ラスキンに大きな影響を受けてその志を引き継いだ。失敗だったと言われるラスキンの「聖ジョーヂ組合」は、モリスの「ケルムスコット・プレス」や「アート・ワーカーズ・ギルド」に引き継がれ、さらに賀川豊彦や宮沢賢治の試みにも引き継がれていると思うところである。
 イギリスでは一八八一年にマルクス主義を奉じたハイドマンが中心になって社会民主連盟がつくられ、ウィリアム・モリスはベルフォアド・バックスの紹介で、一八八三年にこれに参加し、その頃にマルクスの『資本論』をフランス語版で読み、自ら社会主義者を宣言するが、一八八八年にモリスはハイドマンと決別して、社会主義同盟をつくる。そして、その原因はどこにあったのかというと、安川悦子『イギリス労働運動と社会主義』(御茶ノ水書房 1982)によれば、以下のようにある。
 「モリスが主観的に、『労働の喜び』を歴史発展の原動力=労働者の革命的意志形成の中味にしようとしたのにたいして、ハインドマンは、資本主義生産の客観法則のなかでうみだされる労働者の窮乏化と、生産と交換の矛盾が歴史を動かす原動力と考えた。したがってこの矛盾を打破する最上の方策は、生産の社会化に対応する『交換の社会化』つまりは、「生産と交換の国家機構の達成」であった。具体的には、労働力の国家管理土地、鉄道の国有化、船舶運輸業の国有化、銀行信用機関の国有化・・・。これがハインドマンの社会民主連盟の綱領であった・・・モリスやバックスやエリナ・マルクス夫妻が、ハインドマンと決裂した原因は・・・ここにのべたことにあった。基本的には労働者ぬきで、啓蒙された支配階級による議会をつうじての漸進的な社会主義の実現というハインドマンの道は、かれらにはうけいれがたかったのである」と。
 ハイドマンと決別したモリスは、バックスやエリナ・マルクス夫妻と一八八八年に社会主義同盟をつくるも、一八九〇年にその機関を奪った無政府主義者と決別して、ハマミス社会主義者協会を設立する。しかし、その後もモリスは社会主義同盟の機関誌「コモンウィール」に『ユートピアだより』を連載する。そして、そこに描かれた世界こそ、モリスの解釈したマルクスの世界であり、それは労働力の商品化による矛盾への対応なのであると私には読めるのである。
 例えば、宇野弘蔵の『恐慌論』に「資本家的には、一定の社会として歴史的に決定されている労働力の再生産に必要なる以上の生活資料が労働者に与えられるということになれば、労働者は翌日は賃銀労働者として働かなくなるかも知れない。労働者を労働せしめるには一定限度の賃銀によってモの生活を労働者的にしておく外はないというわけである。しかし、これは・・・資本家的生産方法を前提としてのことである。これを人間社会一般に通ずることとするわけにはゆかない。・・・労働者は賃銀労働者としてのように、生活資料の余裕が与えられると労働しなくなるであろうというのは、資本家的社会関係を絶対化するものといってよい。・・・」とあるが、これについてモリスは『ユートピアだより』のなかで「わたし」とハモンド老人のやりの中に以下のように書いている。
 「労働の報酬が現実にない場合に、あなた方はどういうふうにして人々を働かせられるのか、ことにどうしてその人々を勤勉に働かせらえるのか?」
 「労働の報酬がないって?」ハモンドはきびしい顔でいった。「労働の報酬は生きることそのものです。それでは足りませんか」
 「しかし、とくに良い仕事にも報酬なしですか」と私はいった。
 「報酬はたっぷりありますよ」と彼はいった。「つまり創造という報酬がです。神の得たもう賃銀━昔の人ならそぅいったかもしれません。創造の喜び━それはつまり優秀な仕事ができたという意味なのですが・・」(第15章)と。
 また、『恐慌論』に「労働力は、一般の商品よりも徹底的に、その所有者にとっては使用価値として役立たない商品であり、またそれだからこそ商品ともなったのであるが、販売し得なければそのまま使用し得ないだけでなく、その使用価値をも失うのである。労働者は常に自ら買戻すべき商品を、他の生産手段と共に一定の利潤をもって生産することなくしては、自ら生産した商品をも消費し得ない。・・・資本家的生産では本来の人間対自然の関係がこの資本の形式の内に包摂せられるために、労働者は自ら生産したものをも直接には消費し得ないのである。次の再生産過程で剰余価値を生産するとどを予定されなければ、過去生産の一部分を自己のものにすることも出未ない。労動力は商品化されてはいるが、一般商品と同様に特定の使用価値を有すものとして交換されるものではない。商品としての資本の過剰と労働人口の過剰とが同時にあらわれるというのもかかる関係を基礎とするのである」(P102)とある部分については、以下のように書いている。
 「はっきりしているのは、前の文明時代において、人々は商品の生産の問題では一種の悪循環におちいっていたということです。・・・この世界市場は、いったん動きはじめると、人々を強制して、ますます多くこれらの商品を、その必要と否とにかかわらず、生産させつづけました。そこで〔当然〕かれらは真の必需品を生産する労苦から目分自身を解放しえなかったのに、かれらはいんちきな人為的な必需品をとめどなくつくりだしたのです。それらは、前に申しあげた世界市場の鉄則のもと、生活を支える真の必需品と等しい重要さをもつようになりました。・・・かれらがこの不必要な生産という恐るべき重荷を負ってよろめき歩いていくことを余儀なくされてしまったので、人々は労働とその成果を、ある一つの角度から以外には見ることが不可能になってしまいました。すなわち、どんなものをつくるばあいでも、それに費やす労働量はできるだけ最小限しか使わぬように、しかも同時に、つくる品物はできるだけ多くつくるように、不断に努力すること、これです。このいわゆる『生産費の低減』のためにはあらゆるものが犠牲にされました」。
 「われわれがつくる品物は必要だからつくられるのです。人々は、あたかも自分自身のためにつくっているかのように、隣人たちに使ってもらうためにつくります。まったくなんの知識もない、コソトロールのできない、漠然たる市場のためにつくるのではありません。売買というものはいっさいありませんので、なにか求められることを見越して品物をつくるなどということは気違い沙汰にすぎますまい。強いてそれを買わせることのできる人間などは、もはやいないからです。ですから、つくられるものはすべて良く、そしてどこまでもその目的にかなっているのです。純粋な使用のため以外には、なにものもつくられることはありえません」(第15章)と。
 『ユートピアだより』で、モリスはもうほとんど宇野弘蔵の労働力商品論を先取りしており、ウィリアム・モリスによるギルド・コミュニティの形成といった試みは日本の社会主義に大きな影響を与えている。一九一九年(大正8)一月に起きた「森戸事件」で東京大学を追われて大原社会問題研究所に移った森戸辰男は、一九三八年(昭和13)刊の『オウエン モリス』(岩波書店)に、「モリスの理想社会・・・それは田園的環境のうちで、生活の煩苦なく、自由と歓喜を以て仲間と一緒にその労働を楽しむところの工匠の世界である」(p252)。「モリスの社会は自由の原理にもとづいて構成せられ、色々な形における在来の権力組織の代わりに、個人の自由に基礎をおく地方的・職業的小自治体(コムミュウンとギルド)が公生活の単位となり、広範なる包括的な一大連合体に結合するに至るのである」と書いたが、この着想は賀川豊彦にも通じている。
 日本に協同組合をつくろうとする試行錯誤は明治の初期から始まり、前述したように高野房太郎による「消費組合共営舎」から賀川豊彦の「大阪共益社」と「神戸購買組合」を設立させるまでにいたるわけだが、昭和に入るとここにも協同組合主義と階級的協同組合運動の対立と分裂が始まり、それは戦後へもつづいた。そして現在、日本の協同組合は消費組合だけでも二千万人を超える組合員を擁する大きな組織になっているわけだが、それがいかなるステージにあるものかというと、一八四四年にイギリスに誕生したロッチデール公正先駆者組合と同じパラダイムの中にあると思われる。
 ロッチデールの協同組合を生んだイギリスをモデルに協同組合史的にみれば、協同組合は産業革命の進展とともに発生した。中川雄一郎『イギリス協同組合思想研究』(日本経済評論社 1984)によれば、イギリス協同組合運動は一七六〇年以来、三つの時代区分をもつということで、その第一は「一七六〇年に設立された・・船大工による協同製粉所からの・・初期あるいは原生的と称される協同組合運動」であり、第二は「(オウエンの)いわゆる協同組合共同体の建設を目的にした協同組合運動」であり、第三は「最初の近代的協同組合といわれるロッチデール公正先駆者組合の出現とその後の発展である」というふうになる。
 二十八名の設立者の半数がオウエン主義者であったロッチデールの先駆者たちは、一八四四年にロッチデール公正先駆者組合を創って、その目的を「食料品、衣類等を売る店舗を設置する」こと以外に次のように宣言した。
 「多数の住宅を建設または購入し・・・組合員の住居にあてる」、「失職した組合員に職を与えるため、物品の生産を始める」、「組合は若干の土地を購入し、矢職した組合員にこれを耕作させる」、「実現が可能になりしだい、本組合は生産、分配、教育および政治のカを備える。・・・自給自足の国内植民地を建設し、同様の植民地を創らんとする他の諸組合を援助する」、「禁酒ホテルを開く」と。
 これを読むと、当初の先駆者たちの大きな目的に「失職した組合員に職を与えるための国内植民地(コミュニティ)の建設」があったことがわかる。森戸辰男は、オウエン主義の要諦を次のように書いている。
 「オウエンの社会思想は、第一に、協同主義と呼ばれて、共存共労の自足的小協同団体を基礎形態とするものであり、この団体の中心目的はつねに性格形成に存してした。すなはち、すなはち、彼は貧窮と悪徳と不幸との原因である自由競争と営利と分争と私有財産とを原理とする資本主義社会を協同・一致・共労・共存の協同体に転換することによってのみ富裕と美徳と幸福が可能となるものと信じた」(P61)と。
 しかしロッチデールの組合は、やがて「利用割戻し」や「出資配当」といった功利主義的な運営によって成功への道を歩み始めるのと併せて、併設した生産協同組合を閉鎖し、協同社会建設の目的を放棄した。森戸辰男の『オウエン モリス』には「英国の資本主義は十九世紀の間に三段階の発展をとげたといはれている。第二期は自由主義の姿における英国資本主義の全盛時代であって・・・しかしこの自由主義的資本主義の繁栄は、すでに七〇年代の後半頃から段々と破綻の兆候を示し・・・かつてオウエンの指導の下に全国大労働組合として支配階級に強い衝撃を与えた労働組合運動は・・・資本主義下における労働条件の維持改善を目的とする協調的組合となり、オウエン的千年王国の控室と考えられた協同組合は、ロッチデール先駆者組合の新たなる発足によって、資本主義下における協調的小売組合としての消費組合に転化した」(『オウエン モリス』P160-162)とあり、D.H.コールの『イギリス労働運動史』(岩波書店)には、「オーウェンの理念はなお或る程度人々の胸に懐かれていて、“協同主義共和国”は協同組合主義者の口に言葉として残っていた。しかしただ商業をするだけになってしまったこの運動の方法は、あまりによく節約と自助を説くヴィクトリア時代の支配的哲学に適合していたので、そのためそれ以前の一切のものが一掃されてしまった」(『イギリス労働運動史Ⅱ』(P41)とある。
 宇野弘蔵の『恐慌論』には、「十七、十八世紀西欧諸国に発生し、イギリスにおける発展によって始めて歴史的に一時代をなして来た資本主義は、産業革命を経て十九世紀二〇年代に至って漸くその基礎を確立すると共に、資本主義に特有なる発展過程を示すことになったのである。一方に労働力の商品化、他方に生産手段の固定資本化の増進か実現されるということは決して偶然的なることではない」(P126)とあるわけだが、それは労働力の商品化が完成して、労働運動、とりわけ労働組合運動は労働力の商品化を前提とした運動として完成したということでもあり、同時に労働者は労働力の再生産のために自らが生産した生活資料を買い取る消費者になり、協同組合運動はロッチデール型の消費組合として「成功」したというkとでもあったわけである。ロッチデール型の協同組合の成功は、労働力の商品化を前提にしていたわけで、そういった資本主義のパラダイム内にある協同組合運動と労働組合運動は、かつてのオウエン流の「協同社会の建設」や生産協同組合について、否定的になったわけである。
 十九世紀半ばのイギリス資本主義が絶頂期を極めたヴィクトリア期には、以上のように、労働組合も協同組合も体制内化がすすんだ訳であるが、知識人の中から文化的な反体制運動が起こった。それがカーライルやラスキンから、モリスにいたるロマン主義的反抗であり、モリスらによるギルド・コミュニティの形成といった脱労働力商品化の試みであったと思うところである。
 『空想から科学への社会主義の発展』の中で、ロバート・オーウェンらを「空想的(ユートピア)社会主義者」としたエンゲルスは、「資本主義的生産の未熟な状態、未熟な階級状態には、未熟な諸理論が対応した」としたが、エンゲルスがユートピア性の否定ゆえに、自らが後に破綻した中央集権的な科学的社会主義のルーツのひとりになってしまったが、G.D.H.コールが「オーウェンが父となった社会主義、協同組合運動は自由な協同体への奉仕の要求をおし進め、国家の要求に従属し力の貯蔵所としての中央集権権力の樹立を欲しなかった」(『オウエン自叙伝』解説)と書くように、オウエン流の協同社会の構想は非国家主義的で「共存共労の自足的小協同団体を基礎形態とするもの」であったのだった。そして、私は賀川豊彦のギルド社会主義と協同組合運動から宮沢賢治の「羅須地人協会」へという流れの中に、それらに取って代わってしまったコミンテルン系社会主義とは別の社会主義を構想をするわけである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年2月 6日 (木)

山川均と宇野弘蔵

 一九一八年(大正7)か一九一九年(大正8)の頃、ふたりの青年が山川均を訪ねてくる。東京大学の学生の宇野弘蔵とその友人の西雅雄である。宇野弘蔵は、戦後に宇野理論と呼ばれる経済学で名を成すマルクス経済学者であるが、宇野弘蔵の社会主義入門は、中学五年の頃に大杉栄の『生の闘争』に堺利彦が書いた序文を読んでからということで、当初は大杉栄のサンディカリズムの影響を受けたという。
 前述したように、宇野弘蔵は『「資本論」五十年』の冒頭の語りだしで、大杉栄の『生の闘争』に堺利彦が書いた序文の添えられた「社会主義鳥瞰図」を示して、当時「社会主義というのは・・恐ろしいものだと思っていた。ところが堺さんの一覧図を見ると・・ぼくははじめて社会主義というのはこういうものかと思ったんだな。つまり個人主義、それから国家主義、国家社会主義、社会主義、共産主義、こういうものが並んでいる。こういうものかと思って、初めて社会主義なるものに興味をもって、それで大杉のものに特別の興味を持つようになった」と語っている。
 宇野弘蔵の実家は本屋をやっていて、『生の闘争』はたまたま店にあったから読んだようであるが、高梁中学時代の友人の西雅雄から教えられて、その頃はまだ無名であった石川啄木を読み、その流れで高校に入ると土岐哀果を読み、高校2年の頃に土岐哀果の文芸的社会主義雑誌『生活と芸術』の叢書として出された大杉栄の『労働運動の哲学』を読んだという。これが宇野弘蔵のサンディカリズムとの出会いであり、大杉栄が「労働者のエネルギーを説くところは、非常にわかりやすかった」という。ほかにも、中学生の頃からの宇野弘蔵の読書暦は多彩である。中学時代には徳富蘆花や国木田独歩、高校時代にはクロポトキンやリッケルト、萩原朔太郎や有島武郎やドフトエフスキーを愛読したという。マルクスについては高校時代に西雅雄から『新社会』を教えられ、一九一七年(大正6)の二月から『新社会』に連載された高畠素之訳カウツキー『資本論解説』を読んでマルクスを知り、「高等学校の後半にぼくは『資本論』をどうしても知りたいと思うようになった」という。そして経済学をやろうと思うようになった宇野弘蔵は、同年に東京大学経済学部に入学すると、単行本になったカウツキー『資本論解説』をくりかえし読みながら「なんとかして『資本論』を読もうと思い」、「社会主義というより『資本論』です。これを知りたいと思っていた」(前掲書p101)と述べている。
 しかし、大学に入った当初の宇野弘蔵は「サンディカリズムとしての社会主義を知っているだけ」で、マルクスがどんなののかはほとんど知らなかったという。アナルコ・サンディカリズムの魅力について、宇野弘蔵は「つまり労働者の中のエネルギーが自然発生的に社会改造の新しいエネルギーと思想を展開してくるという考え方です」と説明する。そして大学に入ると、そこには権田保之助というサンディカリズムの煽動者がいて、権田保之助の研究会で宇野弘蔵がサンディカリズムの報告をしたら、大いにほめられたという。
 余談だが、当時、権田保之助はモリスに興味をもっていたそうだが、早稲田中学の生徒だった頃から『平民新聞』を配ったりした早熟の人で、早稲田中学では安部磯雄の教え子であり、騒動を起こして早稲田中学を辞めた後は外国語学校に入って、そこでは櫛田民雄といっしょになり、高野岩三郎に呼ばれて櫛田民雄とともに東大の助手になったようである。大学時代は美学を専攻して、その時の先生は夏目漱石の友人の大塚保治であったという。前述したように、大塚保治の妻は大塚楠緒子で、一九一〇年(明治43)に楠緒子が早死すると、漱石は「有る程の菊なげ入れよ棺の中」の句をたむけている。
 そして、東京大学に入学した宇野弘蔵は、社会主義運動をやろうとして上京してきた西雅雄と山川均を訪ねたわけだが、宇野弘蔵が「山川さんのところに初めて行ったとき・・夜訪れていったら、とても喜んで、上がれといって。そのとき英訳の『共産党宣言』をもらった。(私が近くの宇野さんの子どもだということは)そういう話をすればすぐ向こうはよく知っているんだ」と述べているように、山川均と宇野弘蔵は同じ「倉敷もん」であるだけでなく、家もご近所だったのである。山川均の『自伝』には「上のほうの姉は十六歳で、私の家とま向かいの林家に嫁入りした」とあり、宇野弘蔵の『「資本論」五十年・上』には、「(山川均は)『新社会』やその他で高等学校時代に読んでいる。もちろんそのときは山川さんをぼくの知っていた山川さんだということは知らなかったんだ。また初めは無名氏というペンネームで書いていて、それを読んで非常に感心したね」、「山川さんといったら昔社会主義者で、あのうちは閉門したうちだというだけなんですよ。・・・たとえばぼくのうちなんか山川さんの姉さんのうちとは非常に親しいんだけど、それでも全然話してない。だから無名氏が山川均氏で、山川均氏がぼくの近所の人だという、これには驚いた」(P89-90)とある。
 宇野弘蔵は、堺利彦や山川均からの影響のされ方については、「やっぱり山川さんのものをずいぶん読んでいるからね。堺さんのものはあまりそうたいして読んでいない」(前掲書p91)ということで、堺利彦を訪ねたのは二度だけ、大杉栄の北風会にも一回顔を出したそうだが、山川均のところへはその後も通って翻訳の手伝いもしたという。第一次共産党の母体になる水曜会にも顔を出して戦後に共産党の委員長になる徳田球一とも同席したりしているが、実践活動には誘われることも参加することもなかったという。山川均の知り合いということで、参加を認められていたといったところだろうか。
 宇野弘蔵は、「大学の三年間は河上肇と山川均に『資本論』の手ほどきを受けたようなものだ」と語っている。例えば、山川均は1919年(大正8)頃に「国家社会主義と労働運動」という以下の文章を書いている。
 「社会主義は多くの人々によって、資本私有制度の撤廃であり、資本公有制度の主張であると解せられている。しかしながら社会主義が、少なくとも現代の労働階級の社会主義が、資本私有の撤廃を主張して居るのは、賃銀制度廃止の方法として、これを主張しているものであることを忘れてはならぬ。社会主義が資本私有の廃止を主張しているのは、その廃止は必然に、賃銀制度の廃止を伴うという前提によるものであって、もし資本私有制度廃止が、同時に賃銀制度の廃止を意味せぬとしたならば、資本私有の廃止と存置とは、もとより社会主義の関知せざるところである。
 マルクスの経済学説によれば、剰余価値の搾取は、労働力が商品として売られることに基因するものである。労働力が商品として売られる問は、労働者は生産行程の支配者ではなく、したがって厳密なる意味での生産者ではなくて、単に原料や機械と均しく、生産費の一項目を構成する《労働と名付ける》商品の売手である。そして労働力が商品たる間は、剰余価値は正当に、詐欺または掠奪のごとき個人的の不正手段によらずして、生産者以外のものの収得に帰するものである。そして賃銀制度は必然に労働力を商品とみなすことを前掲としてのみ、なりたち得るものである。したがって賃銀制度は必然に、剰余価値の生産を意味するものである。そして剰余価値の生産の存続する限りは、労働問題は永久の宿題として存続するに相違ない。
 そこでこの最後の意味における国家社会主義が、労働問題を解決するかどうかという問題は、必ずしも単に国家社会主義の結果が、資本私有制度を撤廃するか否かという《ことによってのみ決定せられるものではなく、》その資本私有制度の撤廃が、賃銀制度の廃止を意味するや否やという一事にかかっている。・・・《賃銀制度の廃止を伴なわぬ国家社会主義は、畢竟、国家資本主義である。労働者はいぜんとしてその商品たる労働力を売って、その剰余価値を引き渡さなければならぬ。労働者はいぜんとして、賃銀という一様のあつもののために、生産物に対する相続の権利を売らなければならぬ。そして剰金価値に対する労働階級の奪還戦は、永久に歌われねばならぬであろう。》」(勁草書房『山川均全集・2』から)と。
 この論の背景には、当時の売文社内で国家社会主義を唱えだした高畠素之への批判があると思われる。山川均が国家社会主義への批判の論拠として「労働力の商品化」をあげ、社会主義を「賃銀制度=労働力の商品化の廃止」として、「単に国家社会主義の結果が、資本私有制度を撤廃するか否かという《ことによってのみ決定せられるものではなく、》その資本私有制度の撤廃が、賃銀制度の廃止を意味するや否やという一事にかかっている」とするのは卓見であろう。宇野弘蔵が言うように、「堺さんや山川さんたちはボルシェビズムより前からマルクス主義者であった」わけであり、山川均におけるマルクス事始は一九〇七年(明治40)に『大阪平民新聞』に連載した「マルクスの資本論」であり、それはモリスとバックスの共著である『社会主義』から学んだものであった。山川均がサンジカリズムを学ぶのはその後のことであり、いずれにせよ国家主義的な社会主義に否定的であるわけで、そこから「労働力の商品化の廃止」としての社会主義につながるのであろうと思うところである。宇野弘蔵は『「資本論」五十年』を語った時でさえ、「ぼくには思想的にはやっぱりサンディカリすティックなものが残っているかもしれない」と語っている。
 山川均について宇野弘蔵は、さらに以下のように語っている。
 「山川さんでも一時はサンディカリスティックだったのだが、本来はマルキスティックだったのではないか。そしてそれから後にはボルシェヴィズムにはいるというわけでしょう。ボルシェヴィズムにはいれば当然政党運動ということになる。おそらくそこに例の方向転換に行くきっかけがあるのじゃないかな」。
 「(ぼくは)ああいうことはできない。らっぱ吹いたり旗をふることはどうしてもできん。それが悪いというのではないが、できない。山川さんも、ぼくはそう思うんだけれど、政党政治家になれないのが当然だという感じがするんだ。それは性格的にそうだと思う。・・だから戦後、大分活動されたが、ぼくにはどうも山川さんのなさるべきことでけなかったような気がするんだね」と。
 一九二一年(大正10)に東京大学を卒業した宇野弘蔵は大原社会問題研究所に入所する。後述するように、大原社会問題研究所は一九一九年(大正8)二月に設立総会を開き、同年国際労働代表事件で東京帝国大学を辞職した高野岩三郎が所長となって一九二〇年(大正9)に開設された民間の研究所で、一九二〇年(大正9)に東京大学経済学部の機関誌『経済学研究』に森戸辰雄が書いた「クロポトキンの社会思想の研究」が発端となって森戸事件が起こると櫛田民蔵、森戸辰雄、権田保之助らはそこに移り、翌一九二一年(大正10)の春には宇野弘蔵もそこに入所したのであった。当時、堺利彦は森戸事件について、「大正九年のおめでたいとその酔いはまず森戸事件でさまされた。・・・なにしろ大学教授の朝憲紊乱という珍現象は著しく思想界を刺激する効果があった。マルクスの流行に食傷しかかっていた読書界は、たちまちにしてクロポトキンの流行を歓迎した」と書いている。
 大原社会問題研究所に入所した宇野弘蔵は、一九二二年に(大正11)の夏に高野岩三郎の娘と結婚をする。それについて宇野弘蔵は、「(彼女)を山川さんの姉さんの主人、前に話した薬屋をやっている林さんが見て、考えたことなのです。ところがそれを聞いて大原(孫三郎)さんがそれは非常にいい、自分が仲人をしてやろうというわけで、急にそういうことになった」(前掲書P176)と語っている。前に山川均の項でも書いたが、大原孫三郎は紡績事業で財を成した中国地方の財閥で、大原社会問題研究所をはじめ様々な社会事業で知られるロバート・オウエン的な実業家で、山川均とは中学時代からの友人で、山川均が不敬罪で入獄も刑務所に面会に訪れており、出獄して倉敷に帰った山川均は大原孫三郎からブルタニカを借りて読んでいる。また宇野弘蔵の父親は、大原孫三郎と非常に近い関係にあったようで、宇野弘蔵は、「山川さんのうちは倉敷の町でも貴族階級だけれど、ぼくのうちなんか・・中流ですね。・・山川さんの姉さんの嫁いでいた林さんは薬屋さんだったが、やっぱり貴族階級みたいな気がしていたね」とも語っている。要は二人のバックボーンに「中流~貴族階級」である「倉敷もん」の世界があったということなのだろうが、この世界は後述する所謂労農派の学者グループにも通じているように思うところである。堺利彦が一九二一年(大正10)に書いた「日本社会運動の人々」という文章には、大原社会問題研究所について、「大原社会問題研究所は岡山の紡績成金大原孫三郎氏の道楽事業である。・・・所長は高野岩三郎氏で、その下に森戸辰男、櫛田民蔵の二氏がいる。つまり何の事はない、元帝大教授の避難場所という形である。・・・クロポトキン学者の森戸氏と、マルクス学者の櫛田氏とは、何と言っても大原研究所の誇りである。・・・その外、研究所は多数の若い秀才を善っていると聞く。それがニワトリになるものやら、アヒルになるものやら」と。まあ、「ニワトリになるものやら、アヒルになるものやら」と書いているが、その中に宇野弘蔵もいたということであろうか。
  一九二二年に(大正11)九月に櫛田民雄に見送られて宇野弘蔵はドイツに留学する。そこから宇野弘蔵の本格的な『資本論』研究を始めるわけであるが、留学先のドイツでは学生時代の友人の向坂逸郎といっしょになる。ふたりは数少ない経済学部の学生で、学生時代から仲はよかったようであるが、宇野弘蔵が『資本論』の研究を目指してあれこれしゃべるのに対して、向坂逸郎はほとんど何も話さずにいて、マルクス・エンゲルスを全部読んでやろうと、ドイツ留学時はひたすら本を買いあさっていたというのが、性格が出ているようで面白い。
 宇野弘蔵は一九二四年(大正13)に帰国する船で、同じく留学から帰国する福本和夫と乗り合わせてあれこれ議論し、九月に帰国すると今度は森戸辰男が迎えに来ていて、「仙台にポストがある」ということで、一〇月から東北大学に就職することになった。当時の東北大学には新カント派の高橋里美だけでなく、現象学研究の三宅剛一、ヘーゲル研究の武市健人、それに同僚だった阿部次郎、木下杢太郎、小宮豊隆といった文学者がいて、同僚のフランス文学者の河野与一と名士訪問をやったようである。仙台に来た西田幾多郎の講演を聴きに行って、西田と高橋里美が論争を始めたことを面白そうに書いているのは、宇野弘蔵は旧制第六高等学校で新カント派哲学者の高橋里美からドイツ語を学び、哲学研究会に所属していて新カント派の哲学にもふれていたからであろうか。
 大学で経済政策論を講義した宇野弘蔵が、やがて起こった労農派と講座派の論争を遠くに見ながら独自の視点から自らの論考をすすめた背景には、若き日に堺利彦の「大杉栄君と僕」に書かれた社会主義の鳥瞰図に描かれた「思想の環が一周してさらに相近づかんとする形」に惹かれ、弁証法のヘーゲル哲学よりもアンチノミーのカント哲学に惹かれたということや、仙台という地で中央の喧騒に巻き込まれずに、夏目漱石の『三四郎』のモデルとも言われ漱石の一番弟子であった小宮豊隆らと語り合えたことなどもあったのかもしれないと思うところである。宇野弘蔵は、「東北大学というところにいたことが、ぼくには実に運がよかったと思う。・・・ぼくには『資本論』研究の天国といってよかった」と語っている。
 遠くに日本資本主義論争を見ながら、一九三五年(昭和10)に宇野弘蔵は「資本主義の成立と農村分解の過程」を書く。しかし、宇野理論の形成については私の手には負えないので、後段の大内先生におまかせするしかないところ。一九三七年(昭和12)五月に東京大学の有沢広巳が東北大学に集中講義にやってきて、いっしょに労農派の大森義太郎もやってきたのだが、これが嫌疑になって、翌一九三八年(昭和13)の人民戦線事件で宇野弘蔵は逮捕されてしまい、裁判と一年以上の入獄をする。東北大学学長の高橋里美らの熱心な弁護もあって無罪になるものの、大学の職は失うことになったのであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年2月 1日 (土)

堺利彦と大杉栄・つづき

120304 堺利彦と山川均と大杉栄の写った写真がある。おそらく山川均が売文社に参加した後くらいの頃の写真だろうか。堺利彦は「山川均君についての話」(1924.11)という文章で、「大逆事件以後、大杉、荒畑の二君はサンヂカリストとして立ち、山川君も同じくサンヂカリストであった。しかし大杉君のは無政府主義からきたサンヂカリズムであり、山川君、荒畑君のはマルクス主義から転じたサンヂカリズムであった」と書いている。しかし、この頃から堺利彦、山川均、荒畑寒村と大杉栄は少しずつずれていく。
 前述したように、大杉栄は一九一九年(大正8)三月に革命的労働運動家集団「北風会」を結成、同年一〇月には近藤憲二らと月刊『労働運動』を創刊、渡辺政太郎が住んで研究会を開いていた書店の南天堂が、一九二〇年(大正9)頃に新たに白山上に建て直されて書店の二階にレストランが併設されると、そこは大杉栄らのたまり場になっていく。白山周辺には印刷工場が多く、労働運動社も大杉栄もその近辺に住んだから、そこらがアナキズム、サンジカリズムの拠点になっていくという「南天堂時代」となり、南天堂には大杉栄や宮嶋資夫らのアナキストのほかに、辻潤や林芙美子や萩原恭二郎らのダダイストの詩人たちが集まったという。
 一方、山川均は一九一九年(大正8)六月から、大杉栄と別れた荒畑寒村と有楽町の服部浜次方で「労働組合研究会」を開く。同年三月に、売文社は国家社会主義に転向した高畠素之と別れて解散し、新たに立ち上げた新社会社はマルクス主義の旗を掲げて『社会主義研究』を創刊すると、その運動の中心は堺利彦から山川均にうつっていった。山川均は次第にボルシェヴィズムとレーニン主義、ソヴィエト体制の研究と紹介をやりだし、併せて日本社会主義同盟の発足に力を入れた。
 「進歩主義の思想的大同団体」をめざした日本社会主義同盟は、大杉栄も発起人の一人たなって、一九一九年(大正9)一二月に準備会を立ち上げ、翌一九二〇年(大正9)五月に発足するも、ただちに解散命令が出されたわけだが、同じ頃に堺利彦と山川均のところにコミンテルン主催の極東社会主義者大会参加への招待があったという。しかし、堺利彦と山川均は応じることをためらい、大杉栄が行くことになった。大杉栄にしてみれば、まだボルシェヴィズムがどうのと言うよりは、ボルシェヴィズムとソヴィエト体制を知りたいということでもあったのであろう、コミンテルンから活動資金を受け取って日本に帰ると、一九二一年(大正10)一月から第二次『労働運動』を再開して「アナ・ボル共同戦線」を試みたるも、同年末には第二次『労働運動』を創刊して、ボルシェヴィキ批判を始めた。一方、山川均は同年一二月に堺利彦と荒畑寒村の協力を得て『前衛』を発行する。所謂「アナ・ボル論争」の始まりである。
 「アナ・ボル論争」は、一九二二年(大正11)頃に、大杉栄らのアナキスト派と山川均らのボルシェヴィキ派との間でロシア革命の評価と、当時の労働運動の分裂と再編を背景に自由連合か中央集権かという論争であったのだが、私的には論争というほどのものではない。大杉栄がトロッキーのマヌーバー的な協同戦線論を批判して書いた「トロッキーの協同戦線論」(1922.9)という以下の文章がある。
 「協同戦線は階級闘争の上の労働者の必要だ。最近日本の労働者の間に起つてゐる協同戦線の計劃、即ち労働組合全国総聯合の計劃は、第三インタナショナルの協同戦線の決議とは全く独立して、又其の決議に基づいたヨオロッパ諸国での協同戦線の運動とも全く独立して、日本の労働者が其の資本家との難戦苦闘の間に痛感して来た必要だ。此の必要は、飽くまでも労働者自身の必要として進めて行かなければならない。其の必要から生じた労働者自身の計劃として進めて行かなければならない」と。
 しかし、この文章の言わんとする協同戦線は、前述した堺利彦の「日本社会運動の人々」の「思想的大同団体」とあまり変わらない。「第三インタナショナルの協同戦線」といったイデオロギーでは「思想的大同団体」など不可能であるからだ。この論争の最中にコミンテルンから共産党結成の指令が届き、一九二二年(大正11)七月に堺利彦を委員長にして日本共産党(第一次)が創立される。そして、創立大会に出席しなかった山川均は、『前衛』七、八月号に『無産階級運動の方向転換』を発表する。
 大杉栄が「労働運動の精神」(1919)に言う「労働運動は労働者の自己獲得運動、自主自治的生活獲得運動である」は正しい。サンジカリズムの洗礼を受けた山川均もそれは分かっているわけだが、『無産階級運動の方向転換』に山川均はこう書く。
 「吾々は、生産は生産者によって管理されねばならぬことを知って居る。けれども若し労働階級の大衆が、まだ生産の管理を要求しないで、現に一日十銭の賃銀増額しか要求して居らぬなら、吾々の当面の運動は、この大衆の実際の要求に立脚しなければならぬ。吾々の運動は大衆の現実の要求の上に立ち、大衆の現実の要求から力を得て来なければならぬ」と。
 一九二三年(大正12)六月の第一次共産党事件で堺利彦は逮捕されて入獄する。しかし、そのおかげで同年九月一日の大震災後の社会主義者の虐殺を免れることができた。同年末に出獄した堺利彦は、以下のように書き残している。
 「年末になって保釈で帰ってくると、間もなくわたしの机の上に大杉君の『自叙伝』が置かれてあった。・・・不和だの、けんかだのと言っても彼とわたしとの交わりは、生死の際において知らぬ顔をすべく、あまりに深かったのである。いわんや今、彼がああいう殺され方をしたあと、わたしはその形見の書に対しているのである。わたしはただ、満腔のなつかしさをもってそれを繰りひろげるより外はない・・」と。
 堺利彦は一九二四年(大正13)の春に共産党を解党してしまったが、一九二五年(大正14年)の春に、コミンテルンの意向で共産党が再建されることになり、荒畑寒村が堺利彦と山川均を訪ねて来てふたりを説得し、その時のことを山川均は『山川均自伝』(岩波書店1961)に以下のように書いている。
 「ああいうものは、運動全体にとって大きなマイナスになる。・・・ロシアではそれで行けたかも知らぬが、日本ではそうゆかない。それでああいう運動をまたくりかえすことは、私が方向転換論で書いた考え方とどうしても一致しない、それで私はやはり私の道を進もう、こういうふうに考えたからです。すると荒畑君は堺さんに、あなたはどうですと聞くと、堺さんは、僕も山川君と同意見だと答えました」と。
 要は、堺利彦と山川均はコミンテルン=共産党的なものとは水が合わなかった訳である。まあ、土着種と外来種では水は合わないものだが、後年堺利彦は「大杉、荒畑、高畠、山川」(1931.6)de,山川均の「無産階級運動の方向転換」について、後に以下のように位置付けている。
 「かくて日本の社会主義運動は、まず無政府主義化し、サンヂカリズム化することによって、腐敗と堕落とから自己を防衛した。しかしサンヂカリズムには、無政府主義からの発展と、社会主義からの発展とがあった。そしてボリシェヴィキの影響が日本に及んできた時、無政府主義的サンヂカリストはついに本来の無政府主義に立ち返り、社会主義的サンヂカリストは、新しい共産主義的立場において、ただちに安住の地を見いだした。そして大胆なる方向転換論が発生したのであった」。「山川と極左主義との戦いが、いかに戦われたか。昔の極左たる無政府主義と、今の極左の小児病とが、いかなる異同をもって山川の前に清算されつつあるか。山川の共同戦線党論がいかに発展されたか,雑誌『労農』がいかに無産党合同の展開を指導しつつあるか。・・その大勢のすすむところ・・ほぼ見とおされたはずだと私は信ずる」と。
 要は、かつて論争した議会主義や国家社会主義に対してサンジカリズムを位置付けて、さらに「昔の極左たる無政府主義と、今の極左の小児病」とも区別して、山川均の「無産階級運動の方向転換」は「社会主義的サンヂカリズム」の結果だと言う訳である。「昔の極左たる無政府主義」とは大杉栄のこと、「今の極左の小児病」とはボルシェヴィキのことであるから、堺利彦と山川均、雑誌『労農』は共産主義というのをボルシェヴィキ型の一党独裁ではなくて、「社会主義的サンヂカリズム」としてイメージしていたことが分かる。そしてここから、全国政治機関誌をもつ中央指令の一体型の党組織をつくらない「共同戦線」という運動論が出てくるわけである。これについては、大杉栄も同じであろうと思われる。
 参考にと『アナ・ボル論争』(同時代社2005年)という本を読んだら、著者の大窪一志氏は「日本の左翼運動は1990年代の前半にほぼ壊滅した」、「昭和マルクス主義諸党派は・・・すべて山川を中心とした大正ボル派を源流としている」と書いて、すべての責任を山川均に被いかぶせて、おそらくは自らをも含む過去を清算しようとしていた。どっちかというと講座派系であった人が自らのことを棚に上げて、こういう言い方をするのはいかがなものか、清算主義と新たなる西欧の経験の移植からは何も生まれはしないというのが、私の感想であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年1月 | トップページ | 2014年3月 »