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2014年1月 8日 (水)

加藤時次郎と中里介山

 石川三四郎は、戦後に「共働事業の思い出」という小文に以下のようにも書いている。
 「私は明治三十七年に『消費組合の話』といふ小冊子を書いたことがある。・・・主としてホリョークの著書を参考にして、ロツチデールのパイオニアの事業なぞを書いたのだと思ふ。この小冊子が因縁になって、東京市内に少くとも二つの消費組合が創立され・・私はその両方に関係した。一つは平民病院長加藤時次郎氏が中心になって組織され・・・もう一つはたしか雑貨商を持ってゐた一青年だったと思ふが、その個人の仕事を拗って消費組合の創立に傾倒した。本郷千駄木辺の小民街に居を移し、そこで仕事に着手した」と。
 一九〇四年(明治37)頃の「本郷千駄木辺の小民街」はどんな所であったのか、当時の本郷区の地図を見ると、当時の千駄木は現在の千駄木一丁目と3丁目、それに向丘二丁目の辺りである。周辺に学校も多く、現在は文教地区であるその一帯も、当時は水道橋から小石川一帯には、労働組合期成会の主力の鉄工組合があった砲兵工廠や、印刷工場が多くあり、その辺りは樋口一葉の『にごりえ』の舞台でもあったから、それらの労働者も「本郷千駄木辺の小民街」にはいたのかもしれない。石川三四郎がどう関係したのか興味のあるところであるが、それ以上のことは不明である。そこで、ついでにもうひとつの「平民病院長加藤時次郎氏が中心になって組織され」た協同組合についてみて見たい。
 ドクトル加藤こと加藤時次郎は一八五八年(安政5)に豊前国の医師の子として生まれて医学を修め、一八八八年(明治22)にドイツに留学した医者で、一九〇一年(明治34)にに『万朝報』社長黒岩涙香が立ち上げた社会改良団体の「理想団」に参加して幸徳秋水や内村鑑三や堺利彦と知り合い、社会問題に開眼して多くの社会主義者をサポートした。堺利彦と同郷でもあった加藤時次郎は、『平民新聞』の発行資金を提供し、堺利彦が入獄すると娘の真柄をあずかって育て、幸徳秋水の渡米の際には大金をカンパし、福田英子の母や菅野すがが病気になれば自分の病院に入院させてこれを直し、幸徳秋水の刑死をアメリカのエマ・ゴールドマンに知らせ、彼女から送られてきた義捐金を堺利彦に渡し、逆に、荒畑寒村がIWWのための義捐金を募集すれば、これにカンパをし、貧乏アナキストの渡辺政太郎に病院の仕事を手伝わせ、失意の片山潜の渡米の際には送別会を催し餞別を贈っている。謂わば社会主義運動のパトロンであったわけだが、立場をわきまえながらもさまざまな実践活動を行っている。
 一九〇五年(明治38)に週刊『平民新聞』が廃刊になった際には、一九〇三年(明治36)に自ら組織した「直行団」の機関誌『直言』をもって週刊『平民新聞』の代わりとなしわけだが、この直行団が取り組んだのが消費組合づくりであった。この消費組合づくりには平民社も出資したものの結局組合員が集まらなくて成立しなかったようだが、加藤時次郎は社会運動の単なるサポーターではなかった。一九〇七年(明治40)にはシュトウットガルトで開かれた第七回万国社会党大会に出席して発言しており、一九一五年(大正4)には、加藤病院を「平民病院」と改称して独力で実費診療を開始。一九一六年(大正5)には、「平民法律所」を設置して法律相談を開始。一九一七年(大正6)には、社会政策実行団を発足させて「一個の強大なる人民生活団体」を志向して機関誌『平民』を発行。『平民』の編集は堺利彦が担当して、自ら翻訳したウィリアム・モリスの『理想郷』も掲載。一九一八年(大正7)には、芝区烏森町の「平民倶楽部」の地下に相互扶助の事業として「平民食堂」を開設。一九一九年(大正8)には、「平民パン工場」と「平民パン食堂」を開設した。なんらかのかたちで加藤時次郎の事業を利用する人々は、累計二十万人いたという。さらに、一九二一年(大正10)には、横浜にあった造船所の社宅を買い取って、「安価な住宅を中心に共同の食堂、物置、炊事場、野菜・薪炭も共同購買所など共同相互扶助施設」をもった「理想的住宅組合」である「平民知労組合」をつくった。
 こうなると、もうほとんどロバート・オウエンの世界である。加藤時次郎は、「予は共産主義者としてよりも、社会改良家としての彼を想ふ」とロバート・オウエンに言及しており、ロバート・オウエン的試みを自分の資産の許す限り試みている。しかし、事業が拡大すれば、それを担う者への理念の徹底はうすれ、事業に寄生しようとする者も現れ、赤字になる事業もあれば、左派からの批判も起きてくる。共同事業の崩壊は、ロバート・オウエンの時代から現代にいたるまで、その原因に大きな違いはない。そして、一九二三年(大正12)9月に起きた関東大震災は、加藤時次郎の事業にも大きな打撃を与えた。
 加藤時次郎は、一九三〇年(昭和5)に七十三歳で亡くなっている。活動は晩年までつづき、加藤勘十や山崎今朝弥との関係から日本労農党や社会大衆党の結成にも関わり、堺利彦が総選挙に出馬した時には資金をカンパしている。社会主義者であるよりは、どちらかと言うと第二インター系の社会民主主義者であったわけだが、社会運動の趨勢はコミンテルン系が影響力を強めつつあった。
 加藤時次郎の研究家である成田龍一氏は、「加藤は都市民衆の相互扶助を基礎におき、独力で公に頼ることなく事業を次々に拡大し、意識的空間を切り拓き、共同社会実現の布石を敷いた」と、加藤時次郎を大正デモクラシーの一翼に加えている。

 ロバート・オウエンはエンゲルスによって空想的社会主義者とされてしまい、空想的社会主義は科学的社会主義のマルクス主義によって克服されたかのようにされたから、マルクス主義から社会主義に入った人からするとロバート・オウエン的な社会主義は謂わばユートピアとされえしまうわけだが、ロバート・オウエンに限らず、エドワード・ベラミー、ジョン・ラスキン、ウィリアム・モリスといった所謂「空想的社会主義者」の日本の社会主義における影響にはけっこう大きなものがある。
 大長編小説の『大菩薩峠』で知られる中里介山なども、私的にはそういった社会主義者のひとりであると思うところ。中里介山は、秩父困民党事件の翌年の一八八五年(明治18)に自由民権運動の余韻が残る多摩に生まれた。一九〇三年(明治36)に上京して、岩淵小学校の代用教員になり、同年一一月に創刊された週刊『平民新聞』に投稿したりして、幸徳秋水とも接触する。週刊『平民新聞』の「予はいかにして社会主義者となりしか」に、中里介山は以下のように書いている。
 「第一、予は幼少より一種の天才あることを自覚せるものなるに貧困のために勉強ができぬのみか、好まざる仕事を無理にやらされ、一五の時から上京して今に自労自炊の生活を離れぬこと、第二、予はいわゆる三多摩の中で、自由党熱高潮の地方に生まれたものだから、肩揚げの取れぬうちから名家先生の演説を聞くことを好み、その後上京して芝のユニテリアン講堂に走らせて、村井知至氏、安部磯雄氏等の講演を傾聴したこと、第三、貧困のため予のホームが微塵に砕かれ、現社会を激しく呪詛せしむる原因となったことなど」と。
 中里介山は、週刊『平民新聞』が廃刊になった後を引き継いだ『直言』では編集同人になるも、やがてそこを離れてトルストイに共鳴、一九〇六年来「都新聞」に職を得て新聞小説を書き始める。一九一〇年(明治43)に大逆事件が起こり、翌年肺結核と診断されて日暮里の岡田式静座道場に通い、木下尚向、田中正造に会い、一九一三年(大正2)九月から『大菩薩峠』の連載を開始する。
 『大菩薩峠』は連載する新聞社を変えながらも一九四一年(昭和16)まで書き継がれて、敗戦の前年に中里介山が死ぬことで未完のまま残された。内容的には一八五三年(嘉永6)のペリー初来航の年に始まり、明治維新の前年の一八六七年(慶応3)までの幕末を時代背景として書かれている。書かれたれた当初から剣豪小説として大衆受けして評判となり、戦後も市川雷蔵が演じる机竜之介と必殺音無しのかまえで人気映画となった。
 五十歳で会社勤めを辞めて失業生活に入った私は、次の仕事のことを考えながらも本をいっぱい読んだ。金はないけど時間はあるからこの際とばかりに厚いほんばかり読んで、『大菩薩峠』も図書館で借りて半年かけて読んだわけだが、全二十巻の最後の「郁子林の巻」を読んだ時にはちょっと驚いた。ロバート・オウエンが出てきたというか、語られるのであった。
 大菩薩峠での机竜之介による人切りに始まる『大菩薩峠』は、時代を多面的に描こうと同時進行的に多様なキャラクターが登場し、その誰もが魅力的であるわけだが、終盤に入ると『大菩薩峠』の内容は、二つのコミューンづくりに収斂していく。二つのコミューンづくりとは、駒井の殿様のコミューンと、お銀様のコミューンである。駒井の殿様のめざすコミューンとは、近代的な理性と合理性にもとづく、民主的な協同社会である。-方、お銀様のコミューンとは、お銀様という知力、財力、指導力の優れたいわば独裁者によるソヴィェト型もしくは国家社会主義型の人民共和国である。二つのコミューンは戯画化され、竜之助がクールである。竜之助はお銀様にこう言う。「拙者の考えでは、理想郷だの、楽土だのというものは、夢まぼろしだね。人間の力なんていうものも底の知れたものさ。・・・人間という奴は生むよりも絶やした方がいいのだ」と。
 そして、書き始められてから三十年近く経た『大菩薩峠』の最後の「椰子林の巻」は、駒井の殿様を中心とする一団が日本を脱出して、南の島でコミューンづくりを試みる話しである。そして、一団がたどり着いた南の島には既に西洋人の先住民がいて、駒井の殿様に、ロバート・オウエンの協同社会づくりの試みの失敗を例にして、駒井の殿様たちのコミューンづくりの失敗を予告するのである。私は長く協同組合に職を得ていて、ロバート・オーウェンを尊敬し、協同社会づくりを夢みながらも、それらの困難さをますます痛感するところであったから、『大菩薩峠』の最終巻にたどり着いた時には、もうほとんど目からウロコとなったのだった。
 中里介山は「すべての人が、その領土に於いて、その事を為している。たとえば、お銀様は山に拠り、駒井甚三郎は海に拠り、竜之介は夢の中に生きている」と書く。そして、中里介山自身は何に拠ったのかと言えば、一九二二年(大正11)に高尾山に開いた草庵、一九三〇年(昭和5)に羽村に開いた西隣村塾といった彼自身の領土であった。それらは農業と教育を一体化した、自らが拠って立つ根拠地であった。松本健一氏は、それを「一定の土地において自給自足の生活をつづけることによって、現実社会のありようと括抗する、いわば-種のコミューン形成の開始である」「農本的アナキズム」(『中里介山』)と書いている。
 中里介山は、一九三一年(昭和6)に中国と朝鮮を旅行、一九三六年(昭和11)に衆議院選挙に立候補して落選、一九三九年(昭和14)にアメリカ旅行、一九四一年(昭和16)に『大菩薩峠』の最終巻「椰子林の巻」を脱稿、一九四二年(昭和17)に日本文学報国会の評議員に選ばれるも、これを拒否。一九四四年(昭和19)四月二八日に腸チフスで死去した。中里介山が日本文学報国会より評議委員に選出された際、それを拒否できたのは、食料を自給自足でき、印刷所まで持った自らのコミューンに拠りえたからであろうと思われる。一方、時代が昭和に入って中国で戦争が始まる最中に中国と朝鮮を旅行し、アメリカとの開戦直前にはアメリカにも行きしながら、駒井の殿様とお銀様のユートピアへの道を描きながら机竜之介に「無明」の世界を彷徨わせ、物語は明治維新には至らずに未完のままに終わる。『大菩薩峠』のモチーフには大逆事件と幸徳秋水の刑死があったと言われるが、復興ではなく復古が言われる時代、「椰子林の巻」のつづきが問われていると思うところである。

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コメント

もしやと思って調べたら、自分の大学の時の先輩が加治甚吾という人で、加藤時次郎の息子(養子?)でした。加藤時次郎選集の編者でもあります。一緒にアラスカ登山などにいって懐かしい思い出があります。息子には遺産をたんまり残したようだけど・・・。

投稿: irikura | 2014年1月21日 (火) 15時52分

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