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2014年1月13日 (月)

賀川豊彦の友愛

 一九一七年(大正6)にロシア革命が起こった頃に、日本でユートピアというよりは現実的に「理想的な共同労作工場」をつくろうと奔走し、土地を手に入れ、同年一一月にそれを立ち上げた男がいた。賀川豊彦である。
 賀川豊彦は、一八八八年(明治21)に妾の子として神戸に生まれ、父の死後は徳島の実家に引き取られて徳島中学を卒業、徳島中学時代から『平民新聞』を読み、クリスチャンになって明治学院神学部に入り、そこでは授業には出ないで図書館にある洋書を読みつくしたという。一九〇六年(明治39)に徳島毎日新聞に書いた「世界平和論」には、マルクス、エンゲルス、カーライル、ラスキン、エマーソン、トルストイからの引用があったという。神戸神学校をへて一九〇九年(明治42)より神戸の新川の貧民窟に住み込んで伝道生活に入った。
 結核と眼病を患いながら、貧しいものに全てを与えつくすような貧民窟での伝道生活は、後に『死線を越えて』などに描かれてベストセラーとなったように、その献身は圧倒的である。一九一七年(大正6)に貧民窟でボランティアしていた芝はると結婚し、「伝道(教育・日曜学校・路上伝道)、教育(夜学校・裁縫学校)、人事相談、職業紹介、無料宿泊、簡易食堂、施療」のセツルメントのイエス園づくりをすすめる。賀川豊彦が面白いのは、前述の加藤時次郎が「平民食堂」を開設したように、一九一二年(大正1)に貧民窟に一膳飯屋の「天国屋」を開店し、一九一七年(大正6)には貧民窟授産事業として歯ブラシ生産の「自治工場」を開設したりすることである。「天国屋」は食い逃げが多くて三ヶ月で閉店し、歯ブラシ工場も職工の中に原料を盗む者がいたりして、翌年には手を引いてしまうが、めげることがない。
 賀川豊彦が「自治工場」をつくろうとした背景には、一九一四年(大正3)から三年間のアメリカ留学の経験があった。神学を勉強するためにプリンストン大学に留学したのだが、そこでの最大の経験は労働運動に接したことである。二〇世紀初頭のアメリカの労働組合IWW(世界産業労働組合)について前述したように、一九世紀後半から二〇世紀初頭のアメリカは、労働運動の盛んな時代であった。二年間で学位を取得して、一九一六年(大正5)にニューヨークの貧民窟を視察しに行った賀川豊彦は、そこで偶然、パンと職を求める六万人の労働者の示威運動に出会った。賀川豊彦は、「この悲壮な示威運動の流れを、舗道に立ちすくんだまま、終わりまで見送り、涙が頬をぬらしているのも気がつかなかった」という。
 そして、帰国を決心した賀川豊彦は、その旅費を稼ぐために、ユタ州オグデンの日本人会の書記として働いた。二〇世紀初頭のアメリカでは、永井荷風の『あめりか物語』にも書かれ、日本人の排斥運動が起こったごとく、農場や炭鉱では沢山の日本人が働いていた。一九一七年(大正6)の春に、小作人であるモルモン教徒と日本人がストライキを起こし、賀川豊彦は仲の悪かったモルモン教徒と日本人を団結させてこのストライキを勝利させた。そして、その謝礼として日本人会は百ドルを賀川豊彦に贈り、賀川豊彦はそれで日本に帰ってきたのであった。
 アメリカから帰国した賀川豊彦は、「もし今日、貧民階級をなくしてしまおうと思へば、今日の慈善主義では不可能である」として、労働運動に乗り出した。賀川豊彦の労働運動は、ただの労働組合運動ではない。「共同労作工場」として歯ブラシ工場を設立したように、「労働者自治」の運動である。賀川豊彦は、『自由組合論』にこう書く。
 「労働は一個の芸術である。絵を画かなくとも、彫刻をしなくとも人間が刻一刻に刻んで行く労働そのものは立派な創作であり、創造であり、芸術の芸術である。私は労働の自由を主張する。強制されたる今日の賃銀奴隷の苦痛より自由と喜びの労働の自由に入らねばならぬ。そのために、われらは、労働の自主権すなわち労働者の産業管理権を叫ぶものである」、「われわれの要求するものは生命であり、自由であり、自主である」、「第三の自由(産業の自由)によって初めて人類はパンの問題から解放せられ、愛と相互扶助によって、真の世界に生き得ることができるのである。・・・産業の自由によって人間は初めて、自己に帰ることができるのである。産業の自由が与えられて始めて、神と政治がふたたび人類に帰ってくるのだ。今日の神と政治は強いられた神と政治だ。バンの自由が与えられた時に、われらは初めて、自己の力と光明によって、なんら曇りなき神を礼拝し、政治上の自由を獲得しよう。産業の自由こそわれらの目ざすべき標的である」、「工場を物品の製作所と考えるのは間違いです。工場は人間の働く処です。・・・今日のようにいやいや働く工場ではなく愉快に働ける工場にさえしてくれさえすれば、少々は給金が安くてもかまわないのです。愉快に働けるという第一は自分と家内が食えるだけの生活費と、子供と自分が多少教育と享楽を受ける保証です。第二は工場のデモクラシーです。・・・第三は工場の立憲化です。・・・第四は工場の組合管理です」、「われらはまずわれら生産者がすべての生産機関係を管理するようにせねばならぬ」、「普通選挙はもちろんのこと、産業の組織を政治家し生産者のためにとくに生産者会議を作る必要があるまいか」(『自由組合論』筑摩書房「現代日本思想体系6」)と。
 賀川豊彦は人間を「人格」としてとらえ、「真の表象は人格であらねばならぬ。人格は神格だ。真の人格の建造に神が現れるのだ。誠に人格の建造は神の事業だ」と理解した。それは「産業の自由によって人間は初めて、自己に帰ることができるのである。産業の自由が与えられて始めて、神と政治がふたたび人類に帰ってくるのだ」ということであり、賀川豊彦においては、キリスト者であることと労働運動、とりわけギルド社会主義は、矛盾なく一体化している。
 賀川豊彦はアメリカで労働組合運動を経験し、帰国後は鈴木文治の友愛会に参加して、一九一九年(大正8)には友愛会関西同盟会の理事長になった。賀川豊彦の労働運動はアメリカ流の労働組合主義であり、かつイギリス流のギルド社会主義である。友愛会関西同盟会の創立宣言に、賀川豊彦はこう書く。
 「我等は生産者である。創造者である。労作者である。・・・我等はこの精神をもってかく宣言す、労力は一個の商品ではないと。資本主義文化は、賃金鉄則と、機械の圧迫により、労働者を一個の商品として、社会の最下層に沈淪させてしまった」、「我等は凡ての革命と、暴動と、過激主義(ボルシェヴィキ)思想を否定す。我等はただ自己の生産能力を理性的に信頼して確乎たる建設と創造の道を歩まんとするものである」と。
 前述したように、黎明期の日本の労働運動は「共働店」を持ちながらも、治安警察法によって押さえ込まれ、その後の運動は社会主義にシフトして、結局は大逆事件をもって沈黙させられてしまった。だから、賀川豊彦の労働運動は労働組合を公認させることと、それを禁止した治安警察法十七条を廃棄させることと、普通選挙の実施にあった。しかし、一九二〇年(大正9)に普通選挙法案は議会で否決され、労働運動においては関東を中心にゼネストを主張するサンジカリズムの影響が強まり、同年一〇月の友愛会の第八回大会で議会政策か直接行動かが論争になり、賀川豊彦は否定されことになってしまったのだった。
 そこで、賀川豊彦は消費組合つくりをすすめる。一九一九年(大正9)に有限責任購買組合大阪共益社をつくり、翌年には有限責任神戸購買組合をつくった。しかし、不況のつづく中、一九二一年(大正10)に神戸の三菱造船所と川崎造船所でストライキが起こると、賀川豊彦はこれを指導することになり、日本初の試みとして「工場管理」の方針を決定した。賀川豊彦は、こう書く。「産業管理は暴力による工場占拠ではない。一産業に従事する全労働者の合意的決意による建設的企図である。・・・暴に報いるに愛を以ってし、悪に報いるに最善を以ってしたのが工場管理である」と。
 「工場管理宣言」に驚いた知事は、憲兵隊と歩兵と水兵を動員。会社側は会社を閉鎖してしまい、三万人の大争議は、衝突による犠牲者と賀川豊彦らの検束で敗北したのだが、当時『死線を越えて』が大ベストセラーになった賀川豊彦は、現在の金にすると億を超えるその印税で、争議参加者の救済をしたのだった。賀川豊彦の生活は、外にいる時は伝道か運動、家にいる時は読書と物書きであって、生涯にわたって沢山の本を書いたが、その印税のほとんどは運動のために使われて、賀川豊彦自身はいつでもツギの当ったスーツ姿であったという。
 賀川豊彦は一九二二年(大正11)に杉山元治郎と日本農民組合を創立し、一九二五年(大正14)に普通選挙法が議会を通過すると、日本農民組合をベースにして一九二六年(昭和1)には杉山元治郎を委員長にして労働農民党を結成し、賀川豊彦は執行委員になった。しかしこの頃、労働運動から政党運動にいたるまで急速にコミンテルン系左翼の共産党が進出して、運動の主導権をめぐる抗争が激化しつつあった。一九二五年(大正14)には労働総同盟が右派の総同盟と左派の日本労働組合評議会に分裂し、その翌年には労働農民党も分裂し、労農党から脱退した団体は安部磯雄らの呼びかけで、社会民主主義の社会大衆党を結成、残る農民組合も分裂して一九二七年(昭和2)に杉山元治郎を委員長にした全日本農民組合が結成された。賀川豊彦は、こう書く。「今日労働運動で、私の最も厭な傾向は・・・ジャコビン主義にうつって行く事であります。まるで狂気ざたの様に私には見えます」と。
 自らが始めた労働運動にも、農民運動にもコミンテルン系左翼によって介入され、そこから弾き飛ばされた賀川豊彦の運動は、協同組合と「イエスの友の会」を中心にしたものにうつって行き、一九二一年(大正10)に「イエスの友の会」を結成した。「イエスの友の会」は、「イエスにありて敬虔なること」「貧しき者の友となりて労働を愛すること」「世界平和のために努力すること」「純潔なる生活を尊ぶこと」「社会奉仕を旨とすること」の五項目を綱領にした現実的な生き方のことであり、「宗教的組織は広い信仰共同体の中に共存すべきだ」と主張して設立され、「定期的に集まって祈り、初代教会のように各自の収入を出し合い、余暇を福祉活動、医療、教育事業等、社会改革を推し進めるために使った」という。
 前述した武者小路実篤の「新しき村」や、有島武郎の「狩太共生農団」、さらには後述する宮沢賢治の「羅須地人協会」まで、大正から昭和にかけての時代には、コミンテルン系の階級闘争主義とは別に様々な社会改革、共同体づくりが試みられた。賀川豊彦の「イエスの友の会」も、この流れにあると私には思われるところである。
 一九二三年(大正12)に関東大震災が起こると、賀川豊彦は関東に活動拠点を移し、「イエスの友の会」も翌年に京王線上北沢駅近くの松沢に置かれた。一九二七年(昭和2)には江東消費組合を設立、賀川豊彦は友人の医師からもらったハーレーのサイドカーに乗って飛び回ったという。
 賀川豊彦の活動を省みて驚くのは、その活動範囲とスケールの大きさである。賀川豊彦のつくった神戸消費組合と灘消費組合が後に合併して、世界最大の生協である現在のコープこうべとなる訳だが、コープこうべには様々な施設があって、その中に協同組合学校である協同学苑がある。生協に働いていた時に研修で行ったことがあったが、大きな壁一面に系図式に賀川豊彦の実績が書かれていた。そしてもうひとつ、アメリカ人のロバート・シルジェンが書いた『賀川豊彦』(新教出版社2007)を読むと、賀川豊彦とアメリカとの関係はプリンストン大学に留学したということだけでなく、後に実践的キリスト者として社会改革のために協同組合を広めることを説いてアメリカ中を講演して回り、アメリカの協同組合に大きな影響を与えていたことが分かる。
 賀川豊彦は、日本では世界最大の生協であるコープこうべの創設者であったのと同時に、アメリカ最大の生協であったバークレー生協なども賀川豊彦の影響を受けて、そこでは日系人が雇用され、理事にも日系人がいたという。コープこうべとバークレー生協は、いわば兄弟生協でもあった訳だが、バークレー生協は一九八〇年代末に倒産し、コープこうべも経営はたいへんだろうと思われる。成功してエスタブリッシュメントになるということは、協同組合にとっては「死の接吻」となるのだろうか。
 ここに書かれる多くの戦前の思想化と同様に、賀川豊彦も戦後は忘れられた思想家のひとりであったが、近年協同組合関係では見直しがすすんでおり、二〇〇九年には日本生協連出版部から賀川豊彦の『友愛の政治経済学』が出版された。『友愛の政治経済学』は一九三五年(昭和10)に行われたアメリカでの講演が本になったもので、原文は英文で、当時二五カ国で出版されたという。一九三五年(昭和10)に日本でこの本を出版するのは困難だったと思われるが、七〇年以上経ってやっと日本に賀川豊彦の友愛経済学が逆輸入されたわけである。
 そこには一九三〇年代の世界恐慌を背景に、そこから抜け出して「新しい社会」を創るための理念と構想が語られていている。賀川豊彦はそれをアメリカ人に分かり易く体系立てて語っているから、この翻訳本は賀川豊彦の思想を理解する上で絶好の本である。さらに、この本に書かれている恐慌と失業への処方箋は、現代の世界にもそのまま通用するレベルであり、リアリティがある。
 二〇一〇年に柄谷行人氏は『世界史の構造』(岩波書店)を出され、そこに「われわれは、互酬的な原理の高次元での回復を消費=生産協同組合に見てきた」「カール・シュミットは、国家死滅の唯一の可能性を消費=生産協同組合の一般化において見出した」「シュミットがここでいう世界国家とは、カントがいう世界共和国と同じである」と書かれたが、賀川豊彦は七十五年前に農協、生協、信用組合ほかのネットワークづくりの提起と実践のみならず、カントの「永久平和」論についてふれ、戦後に世界連邦づくりの運動まで起こしている。
 二〇〇〇年に会社(生協)勤めを辞めた私は、ロバート・オウエンと賀川豊彦あたりから協同組合を考え直してみようかと思ったわけだが、それは私も賀川豊彦が『友愛の政治経済学』で語るように、「真の協同組合とは、その活動の広がりにおいて、全コミュニティ的なものである。古い組合はそのサービスを自分の組合に限定していた」(p87)と理解したからでもあったのだった。

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