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2014年1月30日 (木)

堺利彦と大杉栄

 堺利彦が一九一四年(大正3)九月に書いた「大杉君と僕」(『近代思想』大正3.9)という文章に、「社会主義鳥瞰図」と共に、以下のように社会主義が解説されている。
 「日本の社会主義運動に三派の別が生じていた。今でもボンヤリその形が残っている。
  一、温和派(あるいは修正派)
  一、マルクス派は(あるいは正純派)
  一、直接行動派(あるいは無政府的社会主義)
 これを人について言えば、安部磯雄君は右翼に属し、幸徳秋水君は左翼に属し、僕自身は中間派に属して 
 いた。そのうち、幸徳君は殺されたが、安部君と僕とはほぼ昔のままの立場で続いている。そして今日、 幸徳君の立場を継承している者は、すなわち大杉栄君である。・・・
 すべて主義態度の範囲はそう明瞭に区分することのできるものではない。実際運動に当たっては、種々の 便宜上、どこかに一線を画して、党派団体の区分をつけるけれど、理論の上から見る時には、あらゆる思 想はみな濃淡のボカシをもって連続しているのである。この関係をやや明瞭に示すため、左に一つの表を 作ってみる。・・・面白いことは、社会主義の左端なるシンヂカリストと、その右端のまた一歩右なる労 働組合主義の一半とが、その非政治派、非議会派たる点において一致していることである。進歩派と保守 派とその両端においてかえって相近づくは注意すべき現象である。また左の表の全体を見渡すと、左端も 右端も同じく個人主義で、ここにも思想の環が一周してさらに相近づかんとする形が現われている。実例 をもってこの点を考えてみるに、極端なる自由貿易論者や自由競争論者は、政府的の干渉をできうべきだ け排斥し、個人の活動をできうべきだけ拡大せんとする点において、すこぶる無政府的傾向を有している」 と。
 堺利彦の「大杉君と僕」は、『近代思想』の総集編である大杉栄の『生の闘争』に寄せた序文であるわけだが、非常に興味深い文章である。話が飛ぶが、一九七〇年に出版された宇野弘蔵が自らの資本論研究を振り返って語った『「資本論」五十年』(法政大学出版会1970)は、この文章から語られており、宇野弘蔵の社会主義入門は、中学から高校にかわる頃に大杉栄の『生の闘争』に堺利彦が書いた序文を読んでからということである。このあたりについては別項で大内秀明氏が書かれるので、ここでは堺利彦と大杉栄の関係をみておく。
 大杉栄は一八八五年(明治18)の生まれで、堺利彦よりも十五歳若い。軍人の子に生まれ、陸軍幼年学校を志願して入学するも退校処分、一九〇三年(明治36)九月に外国語学校仏語科に入学、一二月頃に平民社を訪ねる。大杉栄の『自叙伝』には、以下のようにある。
 「幸徳と堺とは・・直接にはまだ会ったことがなかった。しかしこの(平民社の※筆者注)旗上げには、  どうしても一兵卒として参加したいと思った。幸徳の『社会主義神髄』はもう十分に僕の顛を熟しさせて いたのだ。雪のふるある寒い晩、僕ははじめて数寄屋橋の平民社を訪れた」と。
 一九〇五年(明治38)七月に外国語学校仏語科を卒業するまでは学生で、平民社のビラをまくとかの手伝いをする程度であったようだが、一九〇六年(明治39)二月に日本社会党が結党され、三月に東京市の電車賃値上げ反対運動に取り組むと、大杉栄はその先頭に立って一暴れして初入獄をし、六月に保釈となった大杉栄の世話をした堺利彦の義妹の堀保子と結婚、堺利彦から『家庭雑誌』を譲り受け、淀橋町柏木に移り住む。一九〇八年(明治41)一月に金曜会屋上演説事件で入獄、六月に赤旗事件で入獄、最初の入獄から一九一〇年(明治43)一一月に千葉監獄を出獄するまでの四年八ヵ月間のうち、通算三年四ヵ月あまりを獄中で過ごしてその間に「一犯一語」、一入獄毎に一外国語を習得したという。
 千葉監獄出獄後は「売文社技手」として売文社に参加するも、一九一二年(大正1)九月に荒畑寒村と『近代思想』を創刊した。『近代思想』は、大逆事件後の社会主義的ないっさいの発言が封じられた「冬の時代」にあって、芸術、文学、哲学的な評論で以ってそれに代えようとする意図の雑誌で、創刊号の「本能と道徳」で大杉栄は坪内博士を批評しながら「本能は盲目だ。従って本能そのままの表現は多くの誤謬を伴ふに違いない。けれども失敗は猶無為に優る」と書き、以後そこに自らのアナキズム、「生の哲学」を展開し、翌一九一三年(大正2)七月からは「センヂカリズム研究会」を始めた。
 「生の拡充」(1913.7)には、「生の拡充の中にのみ、至上の美を見る僕は、この反逆とこの破壊の中にのみ、今日生の至上の美を見る。・・美はただ乱調に在る。諧調は偽りである。今や生の拡充はただ反逆によってのみ達せられる。新生活の創造、新社会の創造はただ反逆によるのみである」と書き、「生の創造」(1914.1)には、「運動には方向はある。しかし謂はゆる最後の目的はない。一運動の理想は、其の謂はゆる最後の目的の中に自らを見出すものではない。理想は常に其の運動と伴ひ、其の運動と共に進んで行く。理想が運動の前方にあるのではない。運動そのものの中に在るのだ。運動そのものの中に其の型を刻んで行くのだ。自由と創造とはこれを将来にのみ吾々が憧憬すべき理想ではない。吾々は先づこれを現実の中に捕捉しなければならぬ。吾々自身の中に獲得しなければならぬ」と書く。反抗心を持った若者なら、こころをわしづかみされてしまう名文であり、「理想は運動そのものの中に在るのだ」というのは正にそのとおりであろう。大杉栄は一九一四年(大正3)九月に『近代思想』を「intellectual masturbation(知的手淫)」として廃刊してしまい、同年一〇月に大逆事件以来の「乾坤一擲の事業」として月刊『平民新聞』を創刊するも、毎号発売禁止になって五号で廃刊になる。
 堺利彦の「大杉君と僕」には、同志であり義弟でもある大杉栄に社会主義を諭すような趣がある。そこには社会主義はひとつではなく、しかもばらばらにあるわけでもないという含蓄がある。しかし、大杉栄にとってはそういう堺利彦の無欲で覚ったような態度が癪に障るのであろうか、堺利彦は大杉栄よりも十五歳年上の社会主義の先輩であり、義兄でもあるわけだが、大杉栄による堺利彦の呼び方はいつでも「堺君」である。
 小説『死灰の中から』に大杉栄は堺利彦(文中はS)を以下のように書いている。
 「Sと僕とは、もう余程以前から、お互いの主義や主張に大ぶ懸隔があって、お互いの運動の方針に大部 緩急の差があった」。「彼等は矢張り冷笑の眼を以って見てゐた。・・少なくともSだけは、斯して逸るに 逸れる僕等の運動の将来を真面目に心配してゐてくれた。しかし彼等の心の何処かには此の冷たい嘲りが 含まれてゐた」。「又いつかSが同志の集会に就いて、僕にこんな事を云った事がある。『云はばまあ、ど こかの旦那が、自分免許の義太夫を唸って聞かせる為めに、親類縁者を寄せ集めるやうなものなんだから な』。これには多くの同志に対する不満と共に、軽い自嘲と、及び主として僕等に対する嘲笑が含まれて ゐた。僕はむっとした。しかし又其の皮肉をうまいなあとも思った」と。
 堺利彦は大杉栄がいろいろ言っても、幸徳秋水が『自由思想』を発行した時の読者名簿で案内を送り、昔の仲間をあつめてやる研究会を「自分免許の義太夫を唸って聞かせる為めに、親類縁者を寄せ集めるやうなもの」と皮肉ったわけである。では堺利彦自身ははどうしたのかというと、前述したように、一九一四年(大正3)一月に月刊『へちまの花』を発行し、それを翌一九一五年(大正4)九月に月刊『新社会』と改題し、九州に引っ込んでいた山川均を呼び出して「小き旗上」を宣言したのであった。一九一七年(大正6)二月から『新社会』にカウツキー著高畠訳の『資本論解説』が載りはじめ、おそらく宇野弘蔵はこれを読んだのであろう。一九一九年(大正8)五月に、堺利彦は山崎今朝弥、山川均とともに『新社会』を新たにマルクス主義を「旗印」とした『社会主義研究』とした。此の頃、ロシア革命の影響で社会主義研究が許されるようになり、マルクス主義が大流行しだしたという。
 そこで。堺利彦の社会主義はいかなるものであったのかを、一九一九年(大正8)に『新社会』に書いた「維新史の教訓」と題された文章を読むと、以下のようになっている。
 「第二維新という言葉がよほど前から使われている。・・・第一維新の歴史が、徳川氏の幕府政治が崩壊し て王政が復古された経過であることはいうまでもない。しかし我々はその政権転移の外形の底に、経済的 変化の実質の存するを見る。すなわち幕府政治が倒れて明治の新政府が起ったのは、農業を基礎とする封 建的搾取制度がついに維持しきれなくなって、その旧制度の下に発達しつつあった近世資本家的搾取制度 がようやくついに確立されかけたことを意味する。そしてそれが階級的には、武士の滅亡に対する地主町 人の勃興となって表れた。・・・間もなく、この二階級が発達し混和して今日の紳士閥(すなわち一般資 本家階級)を形成したことは言うまでもない」。
 「新政府の権力を握った者は諸雄藩そのものではなくて、諸雄藩の小士であった。新政府が直ちに四民平 等をもって天下に号令したのは、小士をもって幕府に取って代わり、また小士をもって自己の主人および その同列たる諸大名の上に立つという情勢上、大胆に階級観念を打破する必要があったものと目すべきで ある。・・・ゆえに新政府は、直ちに中央首府に独立の軍隊を作り、次第に各藩の軍隊を解散し、次いで 版籍奉還、廃藩置県を断行しかくて全く諸大名を滅ぼし、武土階級を滅ぼしたのである」。
 「変革の径路を平和にするためには、新興階級を代表する新政党を帝国議会に入れ、また会社の経営に労 働者を参加させて、いわゆる共同管理の法を設けることが必要である。前者のためには社会党、労働党の 組織が必要となり、後者のためには労働組合の発達が必要となる。かようにして旧組織の中に新興階級の 要素を織りこみ、遠く将来を見越した知恵によって、着々として経済的変革の準備をするならば、第二維 新は第一維新と同じく、もしくば第一維新にもまさって、全然平和のうちに変革を成就しうるであろう」と。
 まあ、堺利彦の歴史認識と文章は、これが土着社会主義者の習い性か、所謂マルクス主義者の唯物史観による公式文章とは趣を異にしている。当初から、明治維新の位置づけなどは、あくまでも紳士閥(ブルジョワ)革命である。また、「武士のはしくれに、中間だの、足軽だのがあったごとく、紳士閥のはしくれにも、巡査、看守、小学教員、小役人、小商人、小地主などがあります。これらはその外形上紳士閥に属していても、実は平民階級の一部であります」と書き、「小さき旗上げ」に「戦術の相違、軍略の差異、それらは今深く争いだてをする必要はない。ただ大同に従って相共に謀ればよい」と書く如く、それは後の労農派の「共同戦線」の提起に通じているし、「変革の径路を平和にするためには、新興階級を代表する新政党を帝国議会に入れ、また会社の経営に労働者を参加させて、いわゆる共同管理の法を設けることが必要である。前者のためには社会党、労働党の組織が必要となり、後者のためには労働組合の発達が必要となる」と書くのを読めば、それは単なる議会主義でも暴力革命路線でもなく、サンジカリズムをも容認する堺流のマルクス主義の正統派路線、労農派の路線であることが分かる。
 そしてこの間、大杉栄はどうしていたのかというと、「intellectual masturbation(知的手淫)」は止めた後、一九一五年(大正4)「仏蘭西文学研究会」を開き、教え子に青山菊枝とか神近市子がいて、神近市子とできてしまう。そして、翌一九一六年(大正5)二月には前述したように辻潤の女房の伊藤野枝ともできてしまい、四角関係のもつれの結果、同年一一月には、大杉栄が神近市子に刺されるという葉山日陰茶屋事件が起こったところであった。この頃に大杉栄は『社会的個人主義』(新潮社)をまとめる。「社会的個人主義」とは、本来、社会主義と個人主義は相交わらないものなのに、クロポトキンや協同組合的な相互扶助的社会主義の限界を超えるマックス・シュティルナーの「唯一者」をふまえた社会主義の画期的な論考ではあったが、自らの素行が禍してか説得力に欠けるきらいがあったのだった。
 翌一九一七年二月にロシアに革命が起こり、仲間から孤立して生活の窮乏に追いつめられた大杉栄は同年十二月に労働者街の亀戸に住居を移し、翌一九一八年(大正7)一月から伊藤野枝とともに『文明批評』を始める。また、そこでは一膳飯屋を開いて、クラブのようなものをつくるつもりでもあったようだが、それは実現しなかった。
 『文明批評』が三号で廃刊になった後、大杉栄は和田久太郎、久板卯之助と『労働新聞』を発行し、一九一九年(大正8)三月に革命的労働運動家集団「北風会」を結成する。「北風」は、その前年に亡くなった「白山の成人」渡辺政太郎の号を引き継いだもので、「北風会」はアナキズム労働運動の中心になっていき、大杉栄は友愛会などの演説会の「演説もらい闘争」を始めたのであった。そして、大杉栄は友愛会の賀川豊彦を批判するのであるが、前述したように賀川豊彦が貧民窟で一膳飯屋の「天国屋」を開店し、一九一七年(大正6)には貧民窟授産事業として歯ブラシ生産の「自治工場」を開設し、その後労働運動と協同組合と農民組合を組織たのと比べて、「理想は常に其の運動と伴ひ、其の運動と共に進んで行く。理想が運動の前方にあるのではない。運動そのものの中に在るのだ。運動そのものの中に其の型を刻んで行くのだ」と書いた大杉栄の運動を見れば、大杉栄の言行、戦略と戦術はいかがなものかと思うところである。
 前述したように、一九一八年(大正7)に武者小路実篤は日向の地に創設した「新しき村」を開き、加藤時次郎は芝区烏森町の「平民倶楽部」の地下に相互扶助の事業として「平民食堂」を開設。一九一九年(大正8)には、「平民パン工場」と「平民パン食堂」を開設し、賀川豊彦は有限責任購買組合大阪共益社をつくり、翌年には有限責任神戸購買組合をつくり、一九二〇年[大正9)三月に玉屋の社員十五名は「独立自重の精神」による「労働者自治工場」の「測機舎」を立ち上げ、少し遅れて一九二二年(大正11)に、有島武郎は自らが所有する父親から継承した四五〇町歩の北海道の農場を小作人たちに解放し、産業組合法に基づく「有限責任狩太共生農団信用利用組合」とした。ロシア革命を背景とした時代は日本の社会を大きくゆるがし、ようやく「冬の時代」を抜けた日本の社会主義運動の戦略と戦術が問われる時であった。
 一九一九年(大正8)に堺利彦は「政治運動、社会運動、労働運動」という文章を書いて、その中の「進歩主義の思想的大同団体」という章に、「わたしはまた普通選挙運動と労働党との外に、労働運動と社会運動と政治運動とを結合させる予備団体(あるいは予備運動)の発生すべき可能を認めている。・・・黎明会なるものが創立された時、一般進歩主義者の間に多大の人気を呼び起こしたが、その人気はすなわちばく然たる半無意識の社会的要求であった。・・・そこで黎明会に失望した社会的要求は今やさらに同性質の、そしていっそう態度の鮮明な、いっそう範囲の広い、いっそう活動的な思想団体の発生を迫り出そうとしている。わたしは確かにその機運がそこここに動き漂うていると思う」と書き、一九二〇年(大正9)六月に社会主義同盟を組織した。
 堺利彦の「日本社会運動の人々」(『改造』大正10.1)には、最初は「友愛会」で鈴木文治、賀川豊彦、麻生久らが紹介され、二番目には「他の労働運動の人々」で信友会と正進会の二つの活版工組合、そして三番目には「大原研究所の人々」で、以下、『我等』の長谷川如是閑ら、新人会や建設者同盟といった「学生団体の人々」、大川周明らの猶存社や北一輝、馬場孤蝶や有島武郎や武者小路実篤といった「文学界の人々」、与謝野晶子や平塚明や山川菊枝らの婦人連、川上肇や福田徳三や権田保之助といった学者連、注目の新人は加藤勘十、最後に「社会主義同盟の人々」として「山川均、大杉栄、荒畑勝三、山崎今朝弥の諸氏はただ姓名だけに止めておく。新帰朝の石川三四郎氏も右同断。片山潜氏は海外にいるので別問題としておく。安部磯雄氏がやや新活動の気勢を示しているのはうれしい」とあり、堺利彦が思い描く「進歩主義の思想的大同団体」と「多様な社会運動」を礎にした共同戦線としての社会主義が思い描かれているのである。(つづく)

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