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2014年1月11日 (土)

大正ユートピアと永井荷風

 大正ユートピアと言うと、誰もが思い浮かべるのは、白樺派は武者小路実篤の「新しき村」であろうか。武者小路実篤は一九一八年(大正7)に日向の地に創設した「新しき村」に、一日六時間の労働のほかは本を読むも、詩を書くも、絵を描くも自由、やがては図書館、美術館、公会堂、病院もつくろうと理想社会を想い描いた。そこは米作もし、出版用に印刷機も備えたいわばコミューンであったが、現実的には慣れない農作業と粗食にたえられずの離村者も多く、武者小路実篤の執筆活動による収入と村外支援者によって支えられており、社会主義者から見れば白樺派のボンボンのお遊びに見え、開設当初は耳目を集めたもののマルクス主義が社会思想の主流になって以降は、省みられることもなくなった。
 しかし、武者小路実篤が考えていたのは資本主義を否定して共産社会をつくるというよりは、階級闘争のない資本主義とは別個の理想社会、人類の意思による共同体をつくることであった。一九二三年(大正12)に「新しき村」の出版社である曠野社から出した『理想社会』に武者小路実篤は「理想的社会の三要件」として、以下の三点を書いている。
 「一、すべての人が人力で得られる限りにおいて長生きするように十分注意されていること。
  一、各個人が、出来るだけ自己の趣味、自己の正しき要求、天職、個性を発揮出来るように注意されていること。
  一、すべての人が出来るだけ多くの喜びを感じて生きられるように注意されていること。     この三つの注意が十分に行われていない社会はそれだけ理想に遠い社会で、この注意が十分に実行されている社会は、理想的な社会である」と。
 武者小路実篤的には「新しい社会」とは、生産力と生産関係や国家権力の問題ではなく、どちらかと言えば、労働力が商品化されることがないように注意されている社会なのである。出入りは多いものの三十名以上の村民が継続し、一九三一年(昭和6)には開墾した田から米を自給できるようにもなったが、三方を川に囲まれたその土地はダム建設のために湖底に沈み、一九三九年(昭和14)に村の大半は埼玉県の毛呂にて移った。そして、経済的にも成り立ち、現在もなお継続しているというのは立派なものである。
 白樺派にはもうひとり共同体つくりを実践した有島武郎がいる。有島武郎は一八七八年(明治11)生まれ、学習院を経て札幌農学校に入学、新渡戸稲造の家に寄宿し、やがてキリスト教に入信、一九〇三年(明治36)にアメリカに留学。留学中はホイットマンの詩に親しみ、学業終了後はイギリスに渡ってクロポトキンにも面会、一九〇七年(明治40)に帰国。一九一〇年(明治43)発行の雑誌『白樺』の同人になった。
  武者小路実篤の「新しき村」に遅れること四年、有島武郎は一九二二年(大正11)に、自らが所有する父親から継承した四五〇町歩の北海道の農場を小作人たちに解放し、産業組合法に基づく「有限責任狩太共生農団信用利用組合」とした。有島武郎がその翌年に書いた「生活革命の動機」という文章には、「私有財産と云ふものに対して私が次第に罪悪を感ずる様になった事が、主なる原因となって居ます。勿論現在の様な我が国の社会組織の中におっては、全然私有財産を無視する訳にはゆきませんから、私も出来るだけは働きもしませうし、お金を溜める事もあるでせう、が、ただ親譲りの有り余る財産を受けついで豪奢な生活をすると云ふ事は、矢張り罪悪ではないかと考へるのです」とあり、ひとつにはそれが動機であり、もうひとつには、その先に相互扶助による農民の共同体を構想したのであろうと思われる。
 有島武郎は一九二三年(大正2)三月の『解放』上の対談「私有農場から共産農園へ」で、「実は共済農園を共産農園にしたかったのです」、「共産組合の組織にしようとしているのです」と語っているが、「農場を小作人の共有にする」という私有財産の否定は認められず、それでも土地が再度買い取られて再び小作人に転落しないようにと「農場の土地分割禁止条項」を入れて、土地は産業組合による共同所有にして各耕作者は組合員として運営参加するということで「有限責任狩太共生農団信用利用組合」となったわけであった。有島武郎は、この仕組みを東北帝国大学以来の友人で共にアメリカ留学した森本厚吉に相談してつくったわけで、組合の定款の第一条には以下のようにある。
 「本組合ハ狩太有島農場主故有島武郎氏ノ遺志ニヨリ相続人有島行光氏ヨリ土地建設物備品水利権灌漑債権債務全員ヲ無償ニテ譲受ケ継承シタル外組合員各自ノ出資ヲ為シ左ノ事業ヲ行フヲ以テ目的トス」と。
 「狩太共生農団」は有島武郎による私有財産の自己否認であり、小作人の解放を成し遂げたわけである。戦後の農地改革で「狩太共生農団」の組合員たちも自作農となり、「狩太共生農団」は解体することになるが、所有と組合と共同体を考える上でも、有島武郎の実践は先駆的なものであったと言えるであろう。
 私は、もし漱石が官費によるイギリス留学ではなくて、私費でアメリカ留学してホイットマンを勉強していたらと考えることがあるのだが、正にそれをやったのが有島武郎だったわけである。それでどうなったかと言うと、父が横浜税関長で、幼い頃から英語による教育を受けた有島武郎にとって、欧米文化の受容は自然であった。三四郎にとって美祢子はアンコンシャスヒポクリシーであったが、『或る女』の葉子はあからさまにコンシャスヒポクリシーなのである。有島武郎が、『白樺』に『或る女』の連載を始めたのは一九一一年(明治44)で、それは夏目漱石の『門』が朝日新聞に連載されるわずか一年前のことである。同じく不倫、姦通を扱いながらも、その表現はまるでちがう。夏目漱石は景を描いて心を表すのに対して、有島武郎は『或る女』にひたすら心を描いた。
 一九一四年(大正3)に夏目漱石は『こころ』に明治の終焉を描く。夏目漱石と有島武郎のちがいは、明治と大正のちがいであろうか。夏目漱石の潰瘍を礎に、大正ユートピアは可能になったと言えなくもない。有島武郎は『或る女』の広告文に、「畏れる事なく醜にも邪にもぶつかって見よう。その底には何かがある。若しその底に何もなかったら人生の可能性は否定されなければならない。私は無力ながら敢えてこの冒険を企てた」と書いた。大正期とは、「敢えてこの冒険を企て」ることが可能な時代であったのである。
 一九二二年(大正11)に大杉栄は、ベルリンで開催される国際アナキスト大会に出席するために日本を脱出するが、その金策のために大杉栄が最後に頼ったのが有島武郎であった。訪ねて来た大杉栄に、有島武郎は千円という大金を渡したという。有島武郎は、一九二三年(大正12)六月に「婦人公論」記者の波多野秋子と情死し、大杉栄は同年九月に憲兵隊の甘粕大尉によって虐殺された。
 夏目漱石の潰瘍を礎にしてというのは、武者小路実篤においても同様であった。武者小路実篤は、一九一〇年(明治43)に志賀直哉らの学習院の生徒たちで雑誌『白樺』を発行し、その創刊号に「『それから』について」を書いて、その終わりに以下のようにを書いている。
 「終りに自分は漱石氏は何時までも今のままに、社会に対して絶望的な考を持っていられるか、或は社会と人間の自然性の間にある調和を見出されるかを見たいと思う。自分は後者になられるだろうと思っている。そうしてその時は自然を社会に調和させようとされず、社会を自然に調和させようとされるだろうと思う。そうしてその時漱石氏は真の国民の教育者となられると思う」と。
 前述したように、一九一四年(大正3)に夏目漱石は学習院で「私の個人主義」を講演したわけだが、武者小路実篤は漱石、とりわけ『それから』を追うようにして文学活動を開始する。大正時代は、大衆とデモクラシーの出現と共に「私の個人主義」が育まれた時代であり、それは、大逆事件以降に冬の時代から生み出されたとも言えよう。

  一九一〇年(明治43)一二月、この年から慶応義塾文学科教授になった永井荷風は大学に通う途中で、大逆事件の被告を護送する馬車に出会い、それから九年たった一九一九年(大正8)に、「午飯の箸を取ろうとした時ボンとどこかで花火の音がした。梅雨もようやく明ぢかい曇った日である」の書き出しの『花火』に以下のようにそれを書いた。
 「明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ケ谷の通で囚人馬車が五六合も引続いて日比谷の裁判所の方へ走って行くのを見た。わたしはこれまで見聞した世上の事件の中で、この折ほど云うに云われない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。しかしわたしは世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入れをさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来ようが桜田御門で大老が暗殺されようがそんな事は下民の与り知った事ではないーー否とやかく申すのはかえって畏多い事だと、すまして春本や春画をかいていたその瞬間の胸中をば呆れるよりはむしろ尊敬しようと思立ったのである」と。
 それに対して、永井荷風に私淑した佐藤春夫は『小説永井荷風伝』に、それは「英雄人を欺くの類の一種の気取りにしかすぎず、あまり正直に額面どおりに受取るべきではあるまい。・・・日本の文学者すべての社会的地位の低さと無力とを歎じた一般論的文明批評と見る方が適切であろう」と書いていて、ふつうは世間でもそう受取られている。そして永井荷風自身も一九二五年(大正14)に書いた「文士の生活」の中で、「人生観や哲学観の余り露骨に出て居るものは嫌ひである。私は哲学などの権威を認めぬから。所謂傾向小説は好まぬ。描写の面白味のあるものが、私には矢張嬉しい。「懐手で小さくなって暮したい」--夏目さんは夏目らしい事を云ふ。私も夏目さんと同感である、私は引込み思案である・・・。静かな処で小さく暮すのが、私に一番適当して居るやうに思はれる」。と書いていて、おそらくそのとおりなのであろうと思う。
 しかし、永井荷風が「静かな処で小さく暮す」生活に入ったきっかけは、やはり『花火』にあるように市ケ谷の通で囚人馬車を見たことにあったのだと思う。一九〇八年(明治41)に五年にわたる外遊から帰った永井荷風は、翌年に『ふらんす物語』と『歓楽』を刊行して発売禁止処分を受ける。慶応義塾文学科教授になった永井荷風は『三田文学』を創刊、一九一〇年(明治43)一二月六月の『霊廟』という文章には、「われわれは丁度かの沈滞せる英国の画界を覚醒したロセッチ一派の如く、理想の目標を遠い過去に求める必要がありはせまいか。自分は次第に激しく、自分の生きつつある時代に対して絶望と憤怒とを感ずるに従って、ますます深く松の木陰に超えもなく居眠っている過去の殿堂を崇拝せねばならぬ」と書いている。荷風の『日和下駄』は、西洋の猿真似でしかない日本の近代化への嫌悪と、その裏返しとしての江戸趣味への志向であり、読み返せば、ヴィクトリア期のブルジョワ文化を嫌悪したラスキンの中世志向に通じるものがあると言うか、ほとんど同じだと私には思われる。そして、一九一二年(明治45)に書いた『妾宅』には、下記のようにウィリアム・モリスまで登場するのである。
 「考へずとも或種類の藝術に至っては決して二宮尊徳教と抵触しないで済むものが許多もある。日本の御老人連は英吉利の事とさへ云へば何でもすぐに安心して喜ぶから丁度よい。健全なるジョン・ラスキンが理想の流れを汲んだ近世装飾美術の改革者ウイリアム・モオリスと云ふ英吉利人は、現代の装飾及工藝美術の堕落に対して常に、趣味のGoutと贅沢Luxeとを混同し、また美Beauteと富貴Richesseとを同一視せざらん事を説き、趣味を以て贅沢に代へよと叫んでる。モオリスは其の主義として藝術の専門的偏狭を憎み飽くまで其の一般的鑑賞と実用とを欲した為めに、時には却って極端過激なる議論をしてゐるが、然し其の言ふ処は、敢て英国のみならず、殊にわが日本の社会なぞに対しては此の上もない教訓として聴かれべきものが尠くない」と。
 『妾宅』の書き出しは、「どうしても心から満足して世間一般の趨勢に伴って行くことが出来ないと知ったその日から、彼はとある掘割のほとりなる妾宅にのみ、一人倦みがちなる空想の日を送る事が多くなった」で始まる。これを読むと私には、永井荷風は大逆事件の時代の中で、「とある掘割のほとりなる妾宅」に引きこもったというよりは、そこに「ひとりユートピア」をつくったように思われるのである。「ひとりユートピア」というのは、H・D・ソローの『森の生活』などがそうであるが、社会と隔絶することではない。ウォールデンで暮らした間にソローは「測量、大工の仕事、それに村のいろいろな日雇いの仕事など、十指に余る仕事をこなし」、「市民としての反抗」も行ったわけだが、ひとりでそれが出来なければ、ユートピアをあてにする人ばかりでユートピアをつくれば、指導者の下にユートピアはデストピアに陥るのが落ちである。永井荷風は、佐藤春夫が「英雄人を欺くの類」と書いたのとは逆の意味で、愚かな人々と国家を欺いたのであり、その拠点こそ「掘割のほとりなる妾宅」であり、偏奇館」であったと思われるところである。
 『花火』は一九一九年(大正8)に発表されるが、その前年には米騒動が起こり、荷風は『花火』に「米騒動の噂は珍らしからぬ政党の教唆によったもののような気がしてならなかったが、洋装した職工の団体の静に練り行く姿には動しがたい時代の力と生活の悲哀とが現われていたように思われた」と書く。永井荷風は、一九一七年(大正6)から『断腸亭日乗』と名づけた日記を書き出す。『花火』の「洋装した職工の団体の静に練り行く姿」は、一九一八年(大正7)十一月廿一日の日記の以下の部分から来ていると思われる。
 「この日欧洲戦争平定の祝日なりとて、市中甚雑踏せり。日比谷公園外にて浅葱色の仕事着きたる職工幾組とも知れず、隊をなし練り行くを見る。労働問題既に切迫し来れるの感甚切なり。過去を顧るに、明治三十年頃東京奠都祭当日の賑の如き、また近年韓国合併祝賀祭の如き、いまだ深くわが国下層社会の生活の変化せし事を推量せしめざりしが、この日日比谷丸の内辺雑踏の光景は、以前の時代と異り、人をして一種痛切なる感慨を催さしむ」。
 永井荷風は『断腸亭日乗』を読まれることを前提に書いたと言われる。しかし、それが読まれるのは戦後になってからであり、それまではあくまでも日記である。そして作品と日記を比べれば、どちらに本心を書くかと言えば、それは日記であろう。一九一七年(大正6)から書き始められた『断腸亭日乗』は、壮大な反時代主義、やがて太平洋戦争期には壮大な反軍国主義の作品として書かれたと思うところである。『花火』にはそれを可能にした永井荷風のユートピア空間が描かれており、『花火』の終わりの一文「花火はしきりに上っている。わたしは刷毛を下に置いて煙草を一服しながら外を見た。夏の日は曇りながら午のままに明るい。梅雨晴の静な午後と秋の末の薄く曇った夕方ほど物思うによい時はあるまい………」の心境こそ、荷風のユートピアであろうと私には思われる。
 大正期に、文学者の想い描いたユートピアで言えばもうひとつ、これも一九一九年(大正8)に書かれた佐藤春夫の『美しい町』がある。日本人を母に、アメリカ人を父にもつと称するアメリカ帰りの男が、隅田川河口の中洲に「美しい町」をつくろうとする話である。男は「美しい町」に住む人の資格として「彼自身の最も好きな職業を自分の職業として択んだ人。さうしてその故にその職業に最も熟達して居てそれで身を立ててゐる人。商人でなく、役人でなく、軍人でないこと」をあげ、時々、ウィリアムモリスの『何処にもない処からの便り』を読んでいる。そして折にふれ、「今、我々が生活している社会生活は、金銭の無限な勢力という可笑しくて奇怪な言説・・危かしく醜悪な建築物で・・それの改善を叫ぶ人々でさへもそのグロテスケンの一種をもう一つ加へるに過ぎない」と語る。『美しい町』は御伽噺のような小説であるが、佐藤春夫には「愚者の死」という、以下のような詩がある。

 千九百十一年一月二十三日
 大石誠之助は殺されたり。

 げに厳粛なる多数者の規約を
 裏切る者は殺さるべきかな。

 死を賭して遊戯を思ひ、
 民俗の歴史を知らず、

 日本人ならざる者
 愚なる者は殺されたり。

 「偽より出でし真実なり」と
 絞首台上の一語その愚を極む。

 われの郷里は紀州新宮。
 彼の郷里もわれの町。

 聞く、披が郷里にして、わが郷里なる
 紀州新宮の町は恐惺せりと。
 うべさかしかる商人の町は歎かん、

 ――町民は慎めよ。
 教師らは国の歴史を更にまた説けよ。

 詩にあるように、佐藤春夫は大逆事件で刑死した大石誠之助と同じく紀州新宮の生まれ、一高の受験を放棄して慶応義塾文学部の予科に入り、あまり授業には出なかったというが永井荷風に学び、詩を書き、絵も描く才人で、大杉栄や辻潤とも交流があった。大正の半ばに書かれた『花火』と『美しい町』は、短かった大正期を象徴するようなユートピア小説である。隅田川が小名木川と合流する万年橋の横に芭蕉記念館の別館があり、その屋上から見ると目の前に優雅な形状の清洲橋があって、その先が中州である。芭蕉記念館の別館の屋上には芭蕉の像もあって、夕暮れに、芭蕉の像に重ねてライトアップされた清洲橋の向こうに『美しい町』の幻影を見るのが、私は好きである。

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