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2014年1月30日 (木)

堺利彦と大杉栄

 堺利彦が一九一四年(大正3)九月に書いた「大杉君と僕」(『近代思想』大正3.9)という文章に、「社会主義鳥瞰図」と共に、以下のように社会主義が解説されている。
 「日本の社会主義運動に三派の別が生じていた。今でもボンヤリその形が残っている。
  一、温和派(あるいは修正派)
  一、マルクス派は(あるいは正純派)
  一、直接行動派(あるいは無政府的社会主義)
 これを人について言えば、安部磯雄君は右翼に属し、幸徳秋水君は左翼に属し、僕自身は中間派に属して 
 いた。そのうち、幸徳君は殺されたが、安部君と僕とはほぼ昔のままの立場で続いている。そして今日、 幸徳君の立場を継承している者は、すなわち大杉栄君である。・・・
 すべて主義態度の範囲はそう明瞭に区分することのできるものではない。実際運動に当たっては、種々の 便宜上、どこかに一線を画して、党派団体の区分をつけるけれど、理論の上から見る時には、あらゆる思 想はみな濃淡のボカシをもって連続しているのである。この関係をやや明瞭に示すため、左に一つの表を 作ってみる。・・・面白いことは、社会主義の左端なるシンヂカリストと、その右端のまた一歩右なる労 働組合主義の一半とが、その非政治派、非議会派たる点において一致していることである。進歩派と保守 派とその両端においてかえって相近づくは注意すべき現象である。また左の表の全体を見渡すと、左端も 右端も同じく個人主義で、ここにも思想の環が一周してさらに相近づかんとする形が現われている。実例 をもってこの点を考えてみるに、極端なる自由貿易論者や自由競争論者は、政府的の干渉をできうべきだ け排斥し、個人の活動をできうべきだけ拡大せんとする点において、すこぶる無政府的傾向を有している」 と。
 堺利彦の「大杉君と僕」は、『近代思想』の総集編である大杉栄の『生の闘争』に寄せた序文であるわけだが、非常に興味深い文章である。話が飛ぶが、一九七〇年に出版された宇野弘蔵が自らの資本論研究を振り返って語った『「資本論」五十年』(法政大学出版会1970)は、この文章から語られており、宇野弘蔵の社会主義入門は、中学から高校にかわる頃に大杉栄の『生の闘争』に堺利彦が書いた序文を読んでからということである。このあたりについては別項で大内秀明氏が書かれるので、ここでは堺利彦と大杉栄の関係をみておく。
 大杉栄は一八八五年(明治18)の生まれで、堺利彦よりも十五歳若い。軍人の子に生まれ、陸軍幼年学校を志願して入学するも退校処分、一九〇三年(明治36)九月に外国語学校仏語科に入学、一二月頃に平民社を訪ねる。大杉栄の『自叙伝』には、以下のようにある。
 「幸徳と堺とは・・直接にはまだ会ったことがなかった。しかしこの(平民社の※筆者注)旗上げには、  どうしても一兵卒として参加したいと思った。幸徳の『社会主義神髄』はもう十分に僕の顛を熟しさせて いたのだ。雪のふるある寒い晩、僕ははじめて数寄屋橋の平民社を訪れた」と。
 一九〇五年(明治38)七月に外国語学校仏語科を卒業するまでは学生で、平民社のビラをまくとかの手伝いをする程度であったようだが、一九〇六年(明治39)二月に日本社会党が結党され、三月に東京市の電車賃値上げ反対運動に取り組むと、大杉栄はその先頭に立って一暴れして初入獄をし、六月に保釈となった大杉栄の世話をした堺利彦の義妹の堀保子と結婚、堺利彦から『家庭雑誌』を譲り受け、淀橋町柏木に移り住む。一九〇八年(明治41)一月に金曜会屋上演説事件で入獄、六月に赤旗事件で入獄、最初の入獄から一九一〇年(明治43)一一月に千葉監獄を出獄するまでの四年八ヵ月間のうち、通算三年四ヵ月あまりを獄中で過ごしてその間に「一犯一語」、一入獄毎に一外国語を習得したという。
 千葉監獄出獄後は「売文社技手」として売文社に参加するも、一九一二年(大正1)九月に荒畑寒村と『近代思想』を創刊した。『近代思想』は、大逆事件後の社会主義的ないっさいの発言が封じられた「冬の時代」にあって、芸術、文学、哲学的な評論で以ってそれに代えようとする意図の雑誌で、創刊号の「本能と道徳」で大杉栄は坪内博士を批評しながら「本能は盲目だ。従って本能そのままの表現は多くの誤謬を伴ふに違いない。けれども失敗は猶無為に優る」と書き、以後そこに自らのアナキズム、「生の哲学」を展開し、翌一九一三年(大正2)七月からは「センヂカリズム研究会」を始めた。
 「生の拡充」(1913.7)には、「生の拡充の中にのみ、至上の美を見る僕は、この反逆とこの破壊の中にのみ、今日生の至上の美を見る。・・美はただ乱調に在る。諧調は偽りである。今や生の拡充はただ反逆によってのみ達せられる。新生活の創造、新社会の創造はただ反逆によるのみである」と書き、「生の創造」(1914.1)には、「運動には方向はある。しかし謂はゆる最後の目的はない。一運動の理想は、其の謂はゆる最後の目的の中に自らを見出すものではない。理想は常に其の運動と伴ひ、其の運動と共に進んで行く。理想が運動の前方にあるのではない。運動そのものの中に在るのだ。運動そのものの中に其の型を刻んで行くのだ。自由と創造とはこれを将来にのみ吾々が憧憬すべき理想ではない。吾々は先づこれを現実の中に捕捉しなければならぬ。吾々自身の中に獲得しなければならぬ」と書く。反抗心を持った若者なら、こころをわしづかみされてしまう名文であり、「理想は運動そのものの中に在るのだ」というのは正にそのとおりであろう。大杉栄は一九一四年(大正3)九月に『近代思想』を「intellectual masturbation(知的手淫)」として廃刊してしまい、同年一〇月に大逆事件以来の「乾坤一擲の事業」として月刊『平民新聞』を創刊するも、毎号発売禁止になって五号で廃刊になる。
 堺利彦の「大杉君と僕」には、同志であり義弟でもある大杉栄に社会主義を諭すような趣がある。そこには社会主義はひとつではなく、しかもばらばらにあるわけでもないという含蓄がある。しかし、大杉栄にとってはそういう堺利彦の無欲で覚ったような態度が癪に障るのであろうか、堺利彦は大杉栄よりも十五歳年上の社会主義の先輩であり、義兄でもあるわけだが、大杉栄による堺利彦の呼び方はいつでも「堺君」である。
 小説『死灰の中から』に大杉栄は堺利彦(文中はS)を以下のように書いている。
 「Sと僕とは、もう余程以前から、お互いの主義や主張に大ぶ懸隔があって、お互いの運動の方針に大部 緩急の差があった」。「彼等は矢張り冷笑の眼を以って見てゐた。・・少なくともSだけは、斯して逸るに 逸れる僕等の運動の将来を真面目に心配してゐてくれた。しかし彼等の心の何処かには此の冷たい嘲りが 含まれてゐた」。「又いつかSが同志の集会に就いて、僕にこんな事を云った事がある。『云はばまあ、ど こかの旦那が、自分免許の義太夫を唸って聞かせる為めに、親類縁者を寄せ集めるやうなものなんだから な』。これには多くの同志に対する不満と共に、軽い自嘲と、及び主として僕等に対する嘲笑が含まれて ゐた。僕はむっとした。しかし又其の皮肉をうまいなあとも思った」と。
 堺利彦は大杉栄がいろいろ言っても、幸徳秋水が『自由思想』を発行した時の読者名簿で案内を送り、昔の仲間をあつめてやる研究会を「自分免許の義太夫を唸って聞かせる為めに、親類縁者を寄せ集めるやうなもの」と皮肉ったわけである。では堺利彦自身ははどうしたのかというと、前述したように、一九一四年(大正3)一月に月刊『へちまの花』を発行し、それを翌一九一五年(大正4)九月に月刊『新社会』と改題し、九州に引っ込んでいた山川均を呼び出して「小き旗上」を宣言したのであった。一九一七年(大正6)二月から『新社会』にカウツキー著高畠訳の『資本論解説』が載りはじめ、おそらく宇野弘蔵はこれを読んだのであろう。一九一九年(大正8)五月に、堺利彦は山崎今朝弥、山川均とともに『新社会』を新たにマルクス主義を「旗印」とした『社会主義研究』とした。此の頃、ロシア革命の影響で社会主義研究が許されるようになり、マルクス主義が大流行しだしたという。
 そこで。堺利彦の社会主義はいかなるものであったのかを、一九一九年(大正8)に『新社会』に書いた「維新史の教訓」と題された文章を読むと、以下のようになっている。
 「第二維新という言葉がよほど前から使われている。・・・第一維新の歴史が、徳川氏の幕府政治が崩壊し て王政が復古された経過であることはいうまでもない。しかし我々はその政権転移の外形の底に、経済的 変化の実質の存するを見る。すなわち幕府政治が倒れて明治の新政府が起ったのは、農業を基礎とする封 建的搾取制度がついに維持しきれなくなって、その旧制度の下に発達しつつあった近世資本家的搾取制度 がようやくついに確立されかけたことを意味する。そしてそれが階級的には、武士の滅亡に対する地主町 人の勃興となって表れた。・・・間もなく、この二階級が発達し混和して今日の紳士閥(すなわち一般資 本家階級)を形成したことは言うまでもない」。
 「新政府の権力を握った者は諸雄藩そのものではなくて、諸雄藩の小士であった。新政府が直ちに四民平 等をもって天下に号令したのは、小士をもって幕府に取って代わり、また小士をもって自己の主人および その同列たる諸大名の上に立つという情勢上、大胆に階級観念を打破する必要があったものと目すべきで ある。・・・ゆえに新政府は、直ちに中央首府に独立の軍隊を作り、次第に各藩の軍隊を解散し、次いで 版籍奉還、廃藩置県を断行しかくて全く諸大名を滅ぼし、武土階級を滅ぼしたのである」。
 「変革の径路を平和にするためには、新興階級を代表する新政党を帝国議会に入れ、また会社の経営に労 働者を参加させて、いわゆる共同管理の法を設けることが必要である。前者のためには社会党、労働党の 組織が必要となり、後者のためには労働組合の発達が必要となる。かようにして旧組織の中に新興階級の 要素を織りこみ、遠く将来を見越した知恵によって、着々として経済的変革の準備をするならば、第二維 新は第一維新と同じく、もしくば第一維新にもまさって、全然平和のうちに変革を成就しうるであろう」と。
 まあ、堺利彦の歴史認識と文章は、これが土着社会主義者の習い性か、所謂マルクス主義者の唯物史観による公式文章とは趣を異にしている。当初から、明治維新の位置づけなどは、あくまでも紳士閥(ブルジョワ)革命である。また、「武士のはしくれに、中間だの、足軽だのがあったごとく、紳士閥のはしくれにも、巡査、看守、小学教員、小役人、小商人、小地主などがあります。これらはその外形上紳士閥に属していても、実は平民階級の一部であります」と書き、「小さき旗上げ」に「戦術の相違、軍略の差異、それらは今深く争いだてをする必要はない。ただ大同に従って相共に謀ればよい」と書く如く、それは後の労農派の「共同戦線」の提起に通じているし、「変革の径路を平和にするためには、新興階級を代表する新政党を帝国議会に入れ、また会社の経営に労働者を参加させて、いわゆる共同管理の法を設けることが必要である。前者のためには社会党、労働党の組織が必要となり、後者のためには労働組合の発達が必要となる」と書くのを読めば、それは単なる議会主義でも暴力革命路線でもなく、サンジカリズムをも容認する堺流のマルクス主義の正統派路線、労農派の路線であることが分かる。
 そしてこの間、大杉栄はどうしていたのかというと、「intellectual masturbation(知的手淫)」は止めた後、一九一五年(大正4)「仏蘭西文学研究会」を開き、教え子に青山菊枝とか神近市子がいて、神近市子とできてしまう。そして、翌一九一六年(大正5)二月には前述したように辻潤の女房の伊藤野枝ともできてしまい、四角関係のもつれの結果、同年一一月には、大杉栄が神近市子に刺されるという葉山日陰茶屋事件が起こったところであった。この頃に大杉栄は『社会的個人主義』(新潮社)をまとめる。「社会的個人主義」とは、本来、社会主義と個人主義は相交わらないものなのに、クロポトキンや協同組合的な相互扶助的社会主義の限界を超えるマックス・シュティルナーの「唯一者」をふまえた社会主義の画期的な論考ではあったが、自らの素行が禍してか説得力に欠けるきらいがあったのだった。
 翌一九一七年二月にロシアに革命が起こり、仲間から孤立して生活の窮乏に追いつめられた大杉栄は同年十二月に労働者街の亀戸に住居を移し、翌一九一八年(大正7)一月から伊藤野枝とともに『文明批評』を始める。また、そこでは一膳飯屋を開いて、クラブのようなものをつくるつもりでもあったようだが、それは実現しなかった。
 『文明批評』が三号で廃刊になった後、大杉栄は和田久太郎、久板卯之助と『労働新聞』を発行し、一九一九年(大正8)三月に革命的労働運動家集団「北風会」を結成する。「北風」は、その前年に亡くなった「白山の成人」渡辺政太郎の号を引き継いだもので、「北風会」はアナキズム労働運動の中心になっていき、大杉栄は友愛会などの演説会の「演説もらい闘争」を始めたのであった。そして、大杉栄は友愛会の賀川豊彦を批判するのであるが、前述したように賀川豊彦が貧民窟で一膳飯屋の「天国屋」を開店し、一九一七年(大正6)には貧民窟授産事業として歯ブラシ生産の「自治工場」を開設し、その後労働運動と協同組合と農民組合を組織たのと比べて、「理想は常に其の運動と伴ひ、其の運動と共に進んで行く。理想が運動の前方にあるのではない。運動そのものの中に在るのだ。運動そのものの中に其の型を刻んで行くのだ」と書いた大杉栄の運動を見れば、大杉栄の言行、戦略と戦術はいかがなものかと思うところである。
 前述したように、一九一八年(大正7)に武者小路実篤は日向の地に創設した「新しき村」を開き、加藤時次郎は芝区烏森町の「平民倶楽部」の地下に相互扶助の事業として「平民食堂」を開設。一九一九年(大正8)には、「平民パン工場」と「平民パン食堂」を開設し、賀川豊彦は有限責任購買組合大阪共益社をつくり、翌年には有限責任神戸購買組合をつくり、一九二〇年[大正9)三月に玉屋の社員十五名は「独立自重の精神」による「労働者自治工場」の「測機舎」を立ち上げ、少し遅れて一九二二年(大正11)に、有島武郎は自らが所有する父親から継承した四五〇町歩の北海道の農場を小作人たちに解放し、産業組合法に基づく「有限責任狩太共生農団信用利用組合」とした。ロシア革命を背景とした時代は日本の社会を大きくゆるがし、ようやく「冬の時代」を抜けた日本の社会主義運動の戦略と戦術が問われる時であった。
 一九一九年(大正8)に堺利彦は「政治運動、社会運動、労働運動」という文章を書いて、その中の「進歩主義の思想的大同団体」という章に、「わたしはまた普通選挙運動と労働党との外に、労働運動と社会運動と政治運動とを結合させる予備団体(あるいは予備運動)の発生すべき可能を認めている。・・・黎明会なるものが創立された時、一般進歩主義者の間に多大の人気を呼び起こしたが、その人気はすなわちばく然たる半無意識の社会的要求であった。・・・そこで黎明会に失望した社会的要求は今やさらに同性質の、そしていっそう態度の鮮明な、いっそう範囲の広い、いっそう活動的な思想団体の発生を迫り出そうとしている。わたしは確かにその機運がそこここに動き漂うていると思う」と書き、一九二〇年(大正9)六月に社会主義同盟を組織した。
 堺利彦の「日本社会運動の人々」(『改造』大正10.1)には、最初は「友愛会」で鈴木文治、賀川豊彦、麻生久らが紹介され、二番目には「他の労働運動の人々」で信友会と正進会の二つの活版工組合、そして三番目には「大原研究所の人々」で、以下、『我等』の長谷川如是閑ら、新人会や建設者同盟といった「学生団体の人々」、大川周明らの猶存社や北一輝、馬場孤蝶や有島武郎や武者小路実篤といった「文学界の人々」、与謝野晶子や平塚明や山川菊枝らの婦人連、川上肇や福田徳三や権田保之助といった学者連、注目の新人は加藤勘十、最後に「社会主義同盟の人々」として「山川均、大杉栄、荒畑勝三、山崎今朝弥の諸氏はただ姓名だけに止めておく。新帰朝の石川三四郎氏も右同断。片山潜氏は海外にいるので別問題としておく。安部磯雄氏がやや新活動の気勢を示しているのはうれしい」とあり、堺利彦が思い描く「進歩主義の思想的大同団体」と「多様な社会運動」を礎にした共同戦線としての社会主義が思い描かれているのである。(つづく)

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2014年1月13日 (月)

賀川豊彦の友愛

 一九一七年(大正6)にロシア革命が起こった頃に、日本でユートピアというよりは現実的に「理想的な共同労作工場」をつくろうと奔走し、土地を手に入れ、同年一一月にそれを立ち上げた男がいた。賀川豊彦である。
 賀川豊彦は、一八八八年(明治21)に妾の子として神戸に生まれ、父の死後は徳島の実家に引き取られて徳島中学を卒業、徳島中学時代から『平民新聞』を読み、クリスチャンになって明治学院神学部に入り、そこでは授業には出ないで図書館にある洋書を読みつくしたという。一九〇六年(明治39)に徳島毎日新聞に書いた「世界平和論」には、マルクス、エンゲルス、カーライル、ラスキン、エマーソン、トルストイからの引用があったという。神戸神学校をへて一九〇九年(明治42)より神戸の新川の貧民窟に住み込んで伝道生活に入った。
 結核と眼病を患いながら、貧しいものに全てを与えつくすような貧民窟での伝道生活は、後に『死線を越えて』などに描かれてベストセラーとなったように、その献身は圧倒的である。一九一七年(大正6)に貧民窟でボランティアしていた芝はると結婚し、「伝道(教育・日曜学校・路上伝道)、教育(夜学校・裁縫学校)、人事相談、職業紹介、無料宿泊、簡易食堂、施療」のセツルメントのイエス園づくりをすすめる。賀川豊彦が面白いのは、前述の加藤時次郎が「平民食堂」を開設したように、一九一二年(大正1)に貧民窟に一膳飯屋の「天国屋」を開店し、一九一七年(大正6)には貧民窟授産事業として歯ブラシ生産の「自治工場」を開設したりすることである。「天国屋」は食い逃げが多くて三ヶ月で閉店し、歯ブラシ工場も職工の中に原料を盗む者がいたりして、翌年には手を引いてしまうが、めげることがない。
 賀川豊彦が「自治工場」をつくろうとした背景には、一九一四年(大正3)から三年間のアメリカ留学の経験があった。神学を勉強するためにプリンストン大学に留学したのだが、そこでの最大の経験は労働運動に接したことである。二〇世紀初頭のアメリカの労働組合IWW(世界産業労働組合)について前述したように、一九世紀後半から二〇世紀初頭のアメリカは、労働運動の盛んな時代であった。二年間で学位を取得して、一九一六年(大正5)にニューヨークの貧民窟を視察しに行った賀川豊彦は、そこで偶然、パンと職を求める六万人の労働者の示威運動に出会った。賀川豊彦は、「この悲壮な示威運動の流れを、舗道に立ちすくんだまま、終わりまで見送り、涙が頬をぬらしているのも気がつかなかった」という。
 そして、帰国を決心した賀川豊彦は、その旅費を稼ぐために、ユタ州オグデンの日本人会の書記として働いた。二〇世紀初頭のアメリカでは、永井荷風の『あめりか物語』にも書かれ、日本人の排斥運動が起こったごとく、農場や炭鉱では沢山の日本人が働いていた。一九一七年(大正6)の春に、小作人であるモルモン教徒と日本人がストライキを起こし、賀川豊彦は仲の悪かったモルモン教徒と日本人を団結させてこのストライキを勝利させた。そして、その謝礼として日本人会は百ドルを賀川豊彦に贈り、賀川豊彦はそれで日本に帰ってきたのであった。
 アメリカから帰国した賀川豊彦は、「もし今日、貧民階級をなくしてしまおうと思へば、今日の慈善主義では不可能である」として、労働運動に乗り出した。賀川豊彦の労働運動は、ただの労働組合運動ではない。「共同労作工場」として歯ブラシ工場を設立したように、「労働者自治」の運動である。賀川豊彦は、『自由組合論』にこう書く。
 「労働は一個の芸術である。絵を画かなくとも、彫刻をしなくとも人間が刻一刻に刻んで行く労働そのものは立派な創作であり、創造であり、芸術の芸術である。私は労働の自由を主張する。強制されたる今日の賃銀奴隷の苦痛より自由と喜びの労働の自由に入らねばならぬ。そのために、われらは、労働の自主権すなわち労働者の産業管理権を叫ぶものである」、「われわれの要求するものは生命であり、自由であり、自主である」、「第三の自由(産業の自由)によって初めて人類はパンの問題から解放せられ、愛と相互扶助によって、真の世界に生き得ることができるのである。・・・産業の自由によって人間は初めて、自己に帰ることができるのである。産業の自由が与えられて始めて、神と政治がふたたび人類に帰ってくるのだ。今日の神と政治は強いられた神と政治だ。バンの自由が与えられた時に、われらは初めて、自己の力と光明によって、なんら曇りなき神を礼拝し、政治上の自由を獲得しよう。産業の自由こそわれらの目ざすべき標的である」、「工場を物品の製作所と考えるのは間違いです。工場は人間の働く処です。・・・今日のようにいやいや働く工場ではなく愉快に働ける工場にさえしてくれさえすれば、少々は給金が安くてもかまわないのです。愉快に働けるという第一は自分と家内が食えるだけの生活費と、子供と自分が多少教育と享楽を受ける保証です。第二は工場のデモクラシーです。・・・第三は工場の立憲化です。・・・第四は工場の組合管理です」、「われらはまずわれら生産者がすべての生産機関係を管理するようにせねばならぬ」、「普通選挙はもちろんのこと、産業の組織を政治家し生産者のためにとくに生産者会議を作る必要があるまいか」(『自由組合論』筑摩書房「現代日本思想体系6」)と。
 賀川豊彦は人間を「人格」としてとらえ、「真の表象は人格であらねばならぬ。人格は神格だ。真の人格の建造に神が現れるのだ。誠に人格の建造は神の事業だ」と理解した。それは「産業の自由によって人間は初めて、自己に帰ることができるのである。産業の自由が与えられて始めて、神と政治がふたたび人類に帰ってくるのだ」ということであり、賀川豊彦においては、キリスト者であることと労働運動、とりわけギルド社会主義は、矛盾なく一体化している。
 賀川豊彦はアメリカで労働組合運動を経験し、帰国後は鈴木文治の友愛会に参加して、一九一九年(大正8)には友愛会関西同盟会の理事長になった。賀川豊彦の労働運動はアメリカ流の労働組合主義であり、かつイギリス流のギルド社会主義である。友愛会関西同盟会の創立宣言に、賀川豊彦はこう書く。
 「我等は生産者である。創造者である。労作者である。・・・我等はこの精神をもってかく宣言す、労力は一個の商品ではないと。資本主義文化は、賃金鉄則と、機械の圧迫により、労働者を一個の商品として、社会の最下層に沈淪させてしまった」、「我等は凡ての革命と、暴動と、過激主義(ボルシェヴィキ)思想を否定す。我等はただ自己の生産能力を理性的に信頼して確乎たる建設と創造の道を歩まんとするものである」と。
 前述したように、黎明期の日本の労働運動は「共働店」を持ちながらも、治安警察法によって押さえ込まれ、その後の運動は社会主義にシフトして、結局は大逆事件をもって沈黙させられてしまった。だから、賀川豊彦の労働運動は労働組合を公認させることと、それを禁止した治安警察法十七条を廃棄させることと、普通選挙の実施にあった。しかし、一九二〇年(大正9)に普通選挙法案は議会で否決され、労働運動においては関東を中心にゼネストを主張するサンジカリズムの影響が強まり、同年一〇月の友愛会の第八回大会で議会政策か直接行動かが論争になり、賀川豊彦は否定されことになってしまったのだった。
 そこで、賀川豊彦は消費組合つくりをすすめる。一九一九年(大正9)に有限責任購買組合大阪共益社をつくり、翌年には有限責任神戸購買組合をつくった。しかし、不況のつづく中、一九二一年(大正10)に神戸の三菱造船所と川崎造船所でストライキが起こると、賀川豊彦はこれを指導することになり、日本初の試みとして「工場管理」の方針を決定した。賀川豊彦は、こう書く。「産業管理は暴力による工場占拠ではない。一産業に従事する全労働者の合意的決意による建設的企図である。・・・暴に報いるに愛を以ってし、悪に報いるに最善を以ってしたのが工場管理である」と。
 「工場管理宣言」に驚いた知事は、憲兵隊と歩兵と水兵を動員。会社側は会社を閉鎖してしまい、三万人の大争議は、衝突による犠牲者と賀川豊彦らの検束で敗北したのだが、当時『死線を越えて』が大ベストセラーになった賀川豊彦は、現在の金にすると億を超えるその印税で、争議参加者の救済をしたのだった。賀川豊彦の生活は、外にいる時は伝道か運動、家にいる時は読書と物書きであって、生涯にわたって沢山の本を書いたが、その印税のほとんどは運動のために使われて、賀川豊彦自身はいつでもツギの当ったスーツ姿であったという。
 賀川豊彦は一九二二年(大正11)に杉山元治郎と日本農民組合を創立し、一九二五年(大正14)に普通選挙法が議会を通過すると、日本農民組合をベースにして一九二六年(昭和1)には杉山元治郎を委員長にして労働農民党を結成し、賀川豊彦は執行委員になった。しかしこの頃、労働運動から政党運動にいたるまで急速にコミンテルン系左翼の共産党が進出して、運動の主導権をめぐる抗争が激化しつつあった。一九二五年(大正14)には労働総同盟が右派の総同盟と左派の日本労働組合評議会に分裂し、その翌年には労働農民党も分裂し、労農党から脱退した団体は安部磯雄らの呼びかけで、社会民主主義の社会大衆党を結成、残る農民組合も分裂して一九二七年(昭和2)に杉山元治郎を委員長にした全日本農民組合が結成された。賀川豊彦は、こう書く。「今日労働運動で、私の最も厭な傾向は・・・ジャコビン主義にうつって行く事であります。まるで狂気ざたの様に私には見えます」と。
 自らが始めた労働運動にも、農民運動にもコミンテルン系左翼によって介入され、そこから弾き飛ばされた賀川豊彦の運動は、協同組合と「イエスの友の会」を中心にしたものにうつって行き、一九二一年(大正10)に「イエスの友の会」を結成した。「イエスの友の会」は、「イエスにありて敬虔なること」「貧しき者の友となりて労働を愛すること」「世界平和のために努力すること」「純潔なる生活を尊ぶこと」「社会奉仕を旨とすること」の五項目を綱領にした現実的な生き方のことであり、「宗教的組織は広い信仰共同体の中に共存すべきだ」と主張して設立され、「定期的に集まって祈り、初代教会のように各自の収入を出し合い、余暇を福祉活動、医療、教育事業等、社会改革を推し進めるために使った」という。
 前述した武者小路実篤の「新しき村」や、有島武郎の「狩太共生農団」、さらには後述する宮沢賢治の「羅須地人協会」まで、大正から昭和にかけての時代には、コミンテルン系の階級闘争主義とは別に様々な社会改革、共同体づくりが試みられた。賀川豊彦の「イエスの友の会」も、この流れにあると私には思われるところである。
 一九二三年(大正12)に関東大震災が起こると、賀川豊彦は関東に活動拠点を移し、「イエスの友の会」も翌年に京王線上北沢駅近くの松沢に置かれた。一九二七年(昭和2)には江東消費組合を設立、賀川豊彦は友人の医師からもらったハーレーのサイドカーに乗って飛び回ったという。
 賀川豊彦の活動を省みて驚くのは、その活動範囲とスケールの大きさである。賀川豊彦のつくった神戸消費組合と灘消費組合が後に合併して、世界最大の生協である現在のコープこうべとなる訳だが、コープこうべには様々な施設があって、その中に協同組合学校である協同学苑がある。生協に働いていた時に研修で行ったことがあったが、大きな壁一面に系図式に賀川豊彦の実績が書かれていた。そしてもうひとつ、アメリカ人のロバート・シルジェンが書いた『賀川豊彦』(新教出版社2007)を読むと、賀川豊彦とアメリカとの関係はプリンストン大学に留学したということだけでなく、後に実践的キリスト者として社会改革のために協同組合を広めることを説いてアメリカ中を講演して回り、アメリカの協同組合に大きな影響を与えていたことが分かる。
 賀川豊彦は、日本では世界最大の生協であるコープこうべの創設者であったのと同時に、アメリカ最大の生協であったバークレー生協なども賀川豊彦の影響を受けて、そこでは日系人が雇用され、理事にも日系人がいたという。コープこうべとバークレー生協は、いわば兄弟生協でもあった訳だが、バークレー生協は一九八〇年代末に倒産し、コープこうべも経営はたいへんだろうと思われる。成功してエスタブリッシュメントになるということは、協同組合にとっては「死の接吻」となるのだろうか。
 ここに書かれる多くの戦前の思想化と同様に、賀川豊彦も戦後は忘れられた思想家のひとりであったが、近年協同組合関係では見直しがすすんでおり、二〇〇九年には日本生協連出版部から賀川豊彦の『友愛の政治経済学』が出版された。『友愛の政治経済学』は一九三五年(昭和10)に行われたアメリカでの講演が本になったもので、原文は英文で、当時二五カ国で出版されたという。一九三五年(昭和10)に日本でこの本を出版するのは困難だったと思われるが、七〇年以上経ってやっと日本に賀川豊彦の友愛経済学が逆輸入されたわけである。
 そこには一九三〇年代の世界恐慌を背景に、そこから抜け出して「新しい社会」を創るための理念と構想が語られていている。賀川豊彦はそれをアメリカ人に分かり易く体系立てて語っているから、この翻訳本は賀川豊彦の思想を理解する上で絶好の本である。さらに、この本に書かれている恐慌と失業への処方箋は、現代の世界にもそのまま通用するレベルであり、リアリティがある。
 二〇一〇年に柄谷行人氏は『世界史の構造』(岩波書店)を出され、そこに「われわれは、互酬的な原理の高次元での回復を消費=生産協同組合に見てきた」「カール・シュミットは、国家死滅の唯一の可能性を消費=生産協同組合の一般化において見出した」「シュミットがここでいう世界国家とは、カントがいう世界共和国と同じである」と書かれたが、賀川豊彦は七十五年前に農協、生協、信用組合ほかのネットワークづくりの提起と実践のみならず、カントの「永久平和」論についてふれ、戦後に世界連邦づくりの運動まで起こしている。
 二〇〇〇年に会社(生協)勤めを辞めた私は、ロバート・オウエンと賀川豊彦あたりから協同組合を考え直してみようかと思ったわけだが、それは私も賀川豊彦が『友愛の政治経済学』で語るように、「真の協同組合とは、その活動の広がりにおいて、全コミュニティ的なものである。古い組合はそのサービスを自分の組合に限定していた」(p87)と理解したからでもあったのだった。

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2014年1月11日 (土)

大正ユートピアと永井荷風

 大正ユートピアと言うと、誰もが思い浮かべるのは、白樺派は武者小路実篤の「新しき村」であろうか。武者小路実篤は一九一八年(大正7)に日向の地に創設した「新しき村」に、一日六時間の労働のほかは本を読むも、詩を書くも、絵を描くも自由、やがては図書館、美術館、公会堂、病院もつくろうと理想社会を想い描いた。そこは米作もし、出版用に印刷機も備えたいわばコミューンであったが、現実的には慣れない農作業と粗食にたえられずの離村者も多く、武者小路実篤の執筆活動による収入と村外支援者によって支えられており、社会主義者から見れば白樺派のボンボンのお遊びに見え、開設当初は耳目を集めたもののマルクス主義が社会思想の主流になって以降は、省みられることもなくなった。
 しかし、武者小路実篤が考えていたのは資本主義を否定して共産社会をつくるというよりは、階級闘争のない資本主義とは別個の理想社会、人類の意思による共同体をつくることであった。一九二三年(大正12)に「新しき村」の出版社である曠野社から出した『理想社会』に武者小路実篤は「理想的社会の三要件」として、以下の三点を書いている。
 「一、すべての人が人力で得られる限りにおいて長生きするように十分注意されていること。
  一、各個人が、出来るだけ自己の趣味、自己の正しき要求、天職、個性を発揮出来るように注意されていること。
  一、すべての人が出来るだけ多くの喜びを感じて生きられるように注意されていること。     この三つの注意が十分に行われていない社会はそれだけ理想に遠い社会で、この注意が十分に実行されている社会は、理想的な社会である」と。
 武者小路実篤的には「新しい社会」とは、生産力と生産関係や国家権力の問題ではなく、どちらかと言えば、労働力が商品化されることがないように注意されている社会なのである。出入りは多いものの三十名以上の村民が継続し、一九三一年(昭和6)には開墾した田から米を自給できるようにもなったが、三方を川に囲まれたその土地はダム建設のために湖底に沈み、一九三九年(昭和14)に村の大半は埼玉県の毛呂にて移った。そして、経済的にも成り立ち、現在もなお継続しているというのは立派なものである。
 白樺派にはもうひとり共同体つくりを実践した有島武郎がいる。有島武郎は一八七八年(明治11)生まれ、学習院を経て札幌農学校に入学、新渡戸稲造の家に寄宿し、やがてキリスト教に入信、一九〇三年(明治36)にアメリカに留学。留学中はホイットマンの詩に親しみ、学業終了後はイギリスに渡ってクロポトキンにも面会、一九〇七年(明治40)に帰国。一九一〇年(明治43)発行の雑誌『白樺』の同人になった。
  武者小路実篤の「新しき村」に遅れること四年、有島武郎は一九二二年(大正11)に、自らが所有する父親から継承した四五〇町歩の北海道の農場を小作人たちに解放し、産業組合法に基づく「有限責任狩太共生農団信用利用組合」とした。有島武郎がその翌年に書いた「生活革命の動機」という文章には、「私有財産と云ふものに対して私が次第に罪悪を感ずる様になった事が、主なる原因となって居ます。勿論現在の様な我が国の社会組織の中におっては、全然私有財産を無視する訳にはゆきませんから、私も出来るだけは働きもしませうし、お金を溜める事もあるでせう、が、ただ親譲りの有り余る財産を受けついで豪奢な生活をすると云ふ事は、矢張り罪悪ではないかと考へるのです」とあり、ひとつにはそれが動機であり、もうひとつには、その先に相互扶助による農民の共同体を構想したのであろうと思われる。
 有島武郎は一九二三年(大正2)三月の『解放』上の対談「私有農場から共産農園へ」で、「実は共済農園を共産農園にしたかったのです」、「共産組合の組織にしようとしているのです」と語っているが、「農場を小作人の共有にする」という私有財産の否定は認められず、それでも土地が再度買い取られて再び小作人に転落しないようにと「農場の土地分割禁止条項」を入れて、土地は産業組合による共同所有にして各耕作者は組合員として運営参加するということで「有限責任狩太共生農団信用利用組合」となったわけであった。有島武郎は、この仕組みを東北帝国大学以来の友人で共にアメリカ留学した森本厚吉に相談してつくったわけで、組合の定款の第一条には以下のようにある。
 「本組合ハ狩太有島農場主故有島武郎氏ノ遺志ニヨリ相続人有島行光氏ヨリ土地建設物備品水利権灌漑債権債務全員ヲ無償ニテ譲受ケ継承シタル外組合員各自ノ出資ヲ為シ左ノ事業ヲ行フヲ以テ目的トス」と。
 「狩太共生農団」は有島武郎による私有財産の自己否認であり、小作人の解放を成し遂げたわけである。戦後の農地改革で「狩太共生農団」の組合員たちも自作農となり、「狩太共生農団」は解体することになるが、所有と組合と共同体を考える上でも、有島武郎の実践は先駆的なものであったと言えるであろう。
 私は、もし漱石が官費によるイギリス留学ではなくて、私費でアメリカ留学してホイットマンを勉強していたらと考えることがあるのだが、正にそれをやったのが有島武郎だったわけである。それでどうなったかと言うと、父が横浜税関長で、幼い頃から英語による教育を受けた有島武郎にとって、欧米文化の受容は自然であった。三四郎にとって美祢子はアンコンシャスヒポクリシーであったが、『或る女』の葉子はあからさまにコンシャスヒポクリシーなのである。有島武郎が、『白樺』に『或る女』の連載を始めたのは一九一一年(明治44)で、それは夏目漱石の『門』が朝日新聞に連載されるわずか一年前のことである。同じく不倫、姦通を扱いながらも、その表現はまるでちがう。夏目漱石は景を描いて心を表すのに対して、有島武郎は『或る女』にひたすら心を描いた。
 一九一四年(大正3)に夏目漱石は『こころ』に明治の終焉を描く。夏目漱石と有島武郎のちがいは、明治と大正のちがいであろうか。夏目漱石の潰瘍を礎に、大正ユートピアは可能になったと言えなくもない。有島武郎は『或る女』の広告文に、「畏れる事なく醜にも邪にもぶつかって見よう。その底には何かがある。若しその底に何もなかったら人生の可能性は否定されなければならない。私は無力ながら敢えてこの冒険を企てた」と書いた。大正期とは、「敢えてこの冒険を企て」ることが可能な時代であったのである。
 一九二二年(大正11)に大杉栄は、ベルリンで開催される国際アナキスト大会に出席するために日本を脱出するが、その金策のために大杉栄が最後に頼ったのが有島武郎であった。訪ねて来た大杉栄に、有島武郎は千円という大金を渡したという。有島武郎は、一九二三年(大正12)六月に「婦人公論」記者の波多野秋子と情死し、大杉栄は同年九月に憲兵隊の甘粕大尉によって虐殺された。
 夏目漱石の潰瘍を礎にしてというのは、武者小路実篤においても同様であった。武者小路実篤は、一九一〇年(明治43)に志賀直哉らの学習院の生徒たちで雑誌『白樺』を発行し、その創刊号に「『それから』について」を書いて、その終わりに以下のようにを書いている。
 「終りに自分は漱石氏は何時までも今のままに、社会に対して絶望的な考を持っていられるか、或は社会と人間の自然性の間にある調和を見出されるかを見たいと思う。自分は後者になられるだろうと思っている。そうしてその時は自然を社会に調和させようとされず、社会を自然に調和させようとされるだろうと思う。そうしてその時漱石氏は真の国民の教育者となられると思う」と。
 前述したように、一九一四年(大正3)に夏目漱石は学習院で「私の個人主義」を講演したわけだが、武者小路実篤は漱石、とりわけ『それから』を追うようにして文学活動を開始する。大正時代は、大衆とデモクラシーの出現と共に「私の個人主義」が育まれた時代であり、それは、大逆事件以降に冬の時代から生み出されたとも言えよう。

  一九一〇年(明治43)一二月、この年から慶応義塾文学科教授になった永井荷風は大学に通う途中で、大逆事件の被告を護送する馬車に出会い、それから九年たった一九一九年(大正8)に、「午飯の箸を取ろうとした時ボンとどこかで花火の音がした。梅雨もようやく明ぢかい曇った日である」の書き出しの『花火』に以下のようにそれを書いた。
 「明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ケ谷の通で囚人馬車が五六合も引続いて日比谷の裁判所の方へ走って行くのを見た。わたしはこれまで見聞した世上の事件の中で、この折ほど云うに云われない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。しかしわたしは世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入れをさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来ようが桜田御門で大老が暗殺されようがそんな事は下民の与り知った事ではないーー否とやかく申すのはかえって畏多い事だと、すまして春本や春画をかいていたその瞬間の胸中をば呆れるよりはむしろ尊敬しようと思立ったのである」と。
 それに対して、永井荷風に私淑した佐藤春夫は『小説永井荷風伝』に、それは「英雄人を欺くの類の一種の気取りにしかすぎず、あまり正直に額面どおりに受取るべきではあるまい。・・・日本の文学者すべての社会的地位の低さと無力とを歎じた一般論的文明批評と見る方が適切であろう」と書いていて、ふつうは世間でもそう受取られている。そして永井荷風自身も一九二五年(大正14)に書いた「文士の生活」の中で、「人生観や哲学観の余り露骨に出て居るものは嫌ひである。私は哲学などの権威を認めぬから。所謂傾向小説は好まぬ。描写の面白味のあるものが、私には矢張嬉しい。「懐手で小さくなって暮したい」--夏目さんは夏目らしい事を云ふ。私も夏目さんと同感である、私は引込み思案である・・・。静かな処で小さく暮すのが、私に一番適当して居るやうに思はれる」。と書いていて、おそらくそのとおりなのであろうと思う。
 しかし、永井荷風が「静かな処で小さく暮す」生活に入ったきっかけは、やはり『花火』にあるように市ケ谷の通で囚人馬車を見たことにあったのだと思う。一九〇八年(明治41)に五年にわたる外遊から帰った永井荷風は、翌年に『ふらんす物語』と『歓楽』を刊行して発売禁止処分を受ける。慶応義塾文学科教授になった永井荷風は『三田文学』を創刊、一九一〇年(明治43)一二月六月の『霊廟』という文章には、「われわれは丁度かの沈滞せる英国の画界を覚醒したロセッチ一派の如く、理想の目標を遠い過去に求める必要がありはせまいか。自分は次第に激しく、自分の生きつつある時代に対して絶望と憤怒とを感ずるに従って、ますます深く松の木陰に超えもなく居眠っている過去の殿堂を崇拝せねばならぬ」と書いている。荷風の『日和下駄』は、西洋の猿真似でしかない日本の近代化への嫌悪と、その裏返しとしての江戸趣味への志向であり、読み返せば、ヴィクトリア期のブルジョワ文化を嫌悪したラスキンの中世志向に通じるものがあると言うか、ほとんど同じだと私には思われる。そして、一九一二年(明治45)に書いた『妾宅』には、下記のようにウィリアム・モリスまで登場するのである。
 「考へずとも或種類の藝術に至っては決して二宮尊徳教と抵触しないで済むものが許多もある。日本の御老人連は英吉利の事とさへ云へば何でもすぐに安心して喜ぶから丁度よい。健全なるジョン・ラスキンが理想の流れを汲んだ近世装飾美術の改革者ウイリアム・モオリスと云ふ英吉利人は、現代の装飾及工藝美術の堕落に対して常に、趣味のGoutと贅沢Luxeとを混同し、また美Beauteと富貴Richesseとを同一視せざらん事を説き、趣味を以て贅沢に代へよと叫んでる。モオリスは其の主義として藝術の専門的偏狭を憎み飽くまで其の一般的鑑賞と実用とを欲した為めに、時には却って極端過激なる議論をしてゐるが、然し其の言ふ処は、敢て英国のみならず、殊にわが日本の社会なぞに対しては此の上もない教訓として聴かれべきものが尠くない」と。
 『妾宅』の書き出しは、「どうしても心から満足して世間一般の趨勢に伴って行くことが出来ないと知ったその日から、彼はとある掘割のほとりなる妾宅にのみ、一人倦みがちなる空想の日を送る事が多くなった」で始まる。これを読むと私には、永井荷風は大逆事件の時代の中で、「とある掘割のほとりなる妾宅」に引きこもったというよりは、そこに「ひとりユートピア」をつくったように思われるのである。「ひとりユートピア」というのは、H・D・ソローの『森の生活』などがそうであるが、社会と隔絶することではない。ウォールデンで暮らした間にソローは「測量、大工の仕事、それに村のいろいろな日雇いの仕事など、十指に余る仕事をこなし」、「市民としての反抗」も行ったわけだが、ひとりでそれが出来なければ、ユートピアをあてにする人ばかりでユートピアをつくれば、指導者の下にユートピアはデストピアに陥るのが落ちである。永井荷風は、佐藤春夫が「英雄人を欺くの類」と書いたのとは逆の意味で、愚かな人々と国家を欺いたのであり、その拠点こそ「掘割のほとりなる妾宅」であり、偏奇館」であったと思われるところである。
 『花火』は一九一九年(大正8)に発表されるが、その前年には米騒動が起こり、荷風は『花火』に「米騒動の噂は珍らしからぬ政党の教唆によったもののような気がしてならなかったが、洋装した職工の団体の静に練り行く姿には動しがたい時代の力と生活の悲哀とが現われていたように思われた」と書く。永井荷風は、一九一七年(大正6)から『断腸亭日乗』と名づけた日記を書き出す。『花火』の「洋装した職工の団体の静に練り行く姿」は、一九一八年(大正7)十一月廿一日の日記の以下の部分から来ていると思われる。
 「この日欧洲戦争平定の祝日なりとて、市中甚雑踏せり。日比谷公園外にて浅葱色の仕事着きたる職工幾組とも知れず、隊をなし練り行くを見る。労働問題既に切迫し来れるの感甚切なり。過去を顧るに、明治三十年頃東京奠都祭当日の賑の如き、また近年韓国合併祝賀祭の如き、いまだ深くわが国下層社会の生活の変化せし事を推量せしめざりしが、この日日比谷丸の内辺雑踏の光景は、以前の時代と異り、人をして一種痛切なる感慨を催さしむ」。
 永井荷風は『断腸亭日乗』を読まれることを前提に書いたと言われる。しかし、それが読まれるのは戦後になってからであり、それまではあくまでも日記である。そして作品と日記を比べれば、どちらに本心を書くかと言えば、それは日記であろう。一九一七年(大正6)から書き始められた『断腸亭日乗』は、壮大な反時代主義、やがて太平洋戦争期には壮大な反軍国主義の作品として書かれたと思うところである。『花火』にはそれを可能にした永井荷風のユートピア空間が描かれており、『花火』の終わりの一文「花火はしきりに上っている。わたしは刷毛を下に置いて煙草を一服しながら外を見た。夏の日は曇りながら午のままに明るい。梅雨晴の静な午後と秋の末の薄く曇った夕方ほど物思うによい時はあるまい………」の心境こそ、荷風のユートピアであろうと私には思われる。
 大正期に、文学者の想い描いたユートピアで言えばもうひとつ、これも一九一九年(大正8)に書かれた佐藤春夫の『美しい町』がある。日本人を母に、アメリカ人を父にもつと称するアメリカ帰りの男が、隅田川河口の中洲に「美しい町」をつくろうとする話である。男は「美しい町」に住む人の資格として「彼自身の最も好きな職業を自分の職業として択んだ人。さうしてその故にその職業に最も熟達して居てそれで身を立ててゐる人。商人でなく、役人でなく、軍人でないこと」をあげ、時々、ウィリアムモリスの『何処にもない処からの便り』を読んでいる。そして折にふれ、「今、我々が生活している社会生活は、金銭の無限な勢力という可笑しくて奇怪な言説・・危かしく醜悪な建築物で・・それの改善を叫ぶ人々でさへもそのグロテスケンの一種をもう一つ加へるに過ぎない」と語る。『美しい町』は御伽噺のような小説であるが、佐藤春夫には「愚者の死」という、以下のような詩がある。

 千九百十一年一月二十三日
 大石誠之助は殺されたり。

 げに厳粛なる多数者の規約を
 裏切る者は殺さるべきかな。

 死を賭して遊戯を思ひ、
 民俗の歴史を知らず、

 日本人ならざる者
 愚なる者は殺されたり。

 「偽より出でし真実なり」と
 絞首台上の一語その愚を極む。

 われの郷里は紀州新宮。
 彼の郷里もわれの町。

 聞く、披が郷里にして、わが郷里なる
 紀州新宮の町は恐惺せりと。
 うべさかしかる商人の町は歎かん、

 ――町民は慎めよ。
 教師らは国の歴史を更にまた説けよ。

 詩にあるように、佐藤春夫は大逆事件で刑死した大石誠之助と同じく紀州新宮の生まれ、一高の受験を放棄して慶応義塾文学部の予科に入り、あまり授業には出なかったというが永井荷風に学び、詩を書き、絵も描く才人で、大杉栄や辻潤とも交流があった。大正の半ばに書かれた『花火』と『美しい町』は、短かった大正期を象徴するようなユートピア小説である。隅田川が小名木川と合流する万年橋の横に芭蕉記念館の別館があり、その屋上から見ると目の前に優雅な形状の清洲橋があって、その先が中州である。芭蕉記念館の別館の屋上には芭蕉の像もあって、夕暮れに、芭蕉の像に重ねてライトアップされた清洲橋の向こうに『美しい町』の幻影を見るのが、私は好きである。

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2014年1月 8日 (水)

加藤時次郎と中里介山

 石川三四郎は、戦後に「共働事業の思い出」という小文に以下のようにも書いている。
 「私は明治三十七年に『消費組合の話』といふ小冊子を書いたことがある。・・・主としてホリョークの著書を参考にして、ロツチデールのパイオニアの事業なぞを書いたのだと思ふ。この小冊子が因縁になって、東京市内に少くとも二つの消費組合が創立され・・私はその両方に関係した。一つは平民病院長加藤時次郎氏が中心になって組織され・・・もう一つはたしか雑貨商を持ってゐた一青年だったと思ふが、その個人の仕事を拗って消費組合の創立に傾倒した。本郷千駄木辺の小民街に居を移し、そこで仕事に着手した」と。
 一九〇四年(明治37)頃の「本郷千駄木辺の小民街」はどんな所であったのか、当時の本郷区の地図を見ると、当時の千駄木は現在の千駄木一丁目と3丁目、それに向丘二丁目の辺りである。周辺に学校も多く、現在は文教地区であるその一帯も、当時は水道橋から小石川一帯には、労働組合期成会の主力の鉄工組合があった砲兵工廠や、印刷工場が多くあり、その辺りは樋口一葉の『にごりえ』の舞台でもあったから、それらの労働者も「本郷千駄木辺の小民街」にはいたのかもしれない。石川三四郎がどう関係したのか興味のあるところであるが、それ以上のことは不明である。そこで、ついでにもうひとつの「平民病院長加藤時次郎氏が中心になって組織され」た協同組合についてみて見たい。
 ドクトル加藤こと加藤時次郎は一八五八年(安政5)に豊前国の医師の子として生まれて医学を修め、一八八八年(明治22)にドイツに留学した医者で、一九〇一年(明治34)にに『万朝報』社長黒岩涙香が立ち上げた社会改良団体の「理想団」に参加して幸徳秋水や内村鑑三や堺利彦と知り合い、社会問題に開眼して多くの社会主義者をサポートした。堺利彦と同郷でもあった加藤時次郎は、『平民新聞』の発行資金を提供し、堺利彦が入獄すると娘の真柄をあずかって育て、幸徳秋水の渡米の際には大金をカンパし、福田英子の母や菅野すがが病気になれば自分の病院に入院させてこれを直し、幸徳秋水の刑死をアメリカのエマ・ゴールドマンに知らせ、彼女から送られてきた義捐金を堺利彦に渡し、逆に、荒畑寒村がIWWのための義捐金を募集すれば、これにカンパをし、貧乏アナキストの渡辺政太郎に病院の仕事を手伝わせ、失意の片山潜の渡米の際には送別会を催し餞別を贈っている。謂わば社会主義運動のパトロンであったわけだが、立場をわきまえながらもさまざまな実践活動を行っている。
 一九〇五年(明治38)に週刊『平民新聞』が廃刊になった際には、一九〇三年(明治36)に自ら組織した「直行団」の機関誌『直言』をもって週刊『平民新聞』の代わりとなしわけだが、この直行団が取り組んだのが消費組合づくりであった。この消費組合づくりには平民社も出資したものの結局組合員が集まらなくて成立しなかったようだが、加藤時次郎は社会運動の単なるサポーターではなかった。一九〇七年(明治40)にはシュトウットガルトで開かれた第七回万国社会党大会に出席して発言しており、一九一五年(大正4)には、加藤病院を「平民病院」と改称して独力で実費診療を開始。一九一六年(大正5)には、「平民法律所」を設置して法律相談を開始。一九一七年(大正6)には、社会政策実行団を発足させて「一個の強大なる人民生活団体」を志向して機関誌『平民』を発行。『平民』の編集は堺利彦が担当して、自ら翻訳したウィリアム・モリスの『理想郷』も掲載。一九一八年(大正7)には、芝区烏森町の「平民倶楽部」の地下に相互扶助の事業として「平民食堂」を開設。一九一九年(大正8)には、「平民パン工場」と「平民パン食堂」を開設した。なんらかのかたちで加藤時次郎の事業を利用する人々は、累計二十万人いたという。さらに、一九二一年(大正10)には、横浜にあった造船所の社宅を買い取って、「安価な住宅を中心に共同の食堂、物置、炊事場、野菜・薪炭も共同購買所など共同相互扶助施設」をもった「理想的住宅組合」である「平民知労組合」をつくった。
 こうなると、もうほとんどロバート・オウエンの世界である。加藤時次郎は、「予は共産主義者としてよりも、社会改良家としての彼を想ふ」とロバート・オウエンに言及しており、ロバート・オウエン的試みを自分の資産の許す限り試みている。しかし、事業が拡大すれば、それを担う者への理念の徹底はうすれ、事業に寄生しようとする者も現れ、赤字になる事業もあれば、左派からの批判も起きてくる。共同事業の崩壊は、ロバート・オウエンの時代から現代にいたるまで、その原因に大きな違いはない。そして、一九二三年(大正12)9月に起きた関東大震災は、加藤時次郎の事業にも大きな打撃を与えた。
 加藤時次郎は、一九三〇年(昭和5)に七十三歳で亡くなっている。活動は晩年までつづき、加藤勘十や山崎今朝弥との関係から日本労農党や社会大衆党の結成にも関わり、堺利彦が総選挙に出馬した時には資金をカンパしている。社会主義者であるよりは、どちらかと言うと第二インター系の社会民主主義者であったわけだが、社会運動の趨勢はコミンテルン系が影響力を強めつつあった。
 加藤時次郎の研究家である成田龍一氏は、「加藤は都市民衆の相互扶助を基礎におき、独力で公に頼ることなく事業を次々に拡大し、意識的空間を切り拓き、共同社会実現の布石を敷いた」と、加藤時次郎を大正デモクラシーの一翼に加えている。

 ロバート・オウエンはエンゲルスによって空想的社会主義者とされてしまい、空想的社会主義は科学的社会主義のマルクス主義によって克服されたかのようにされたから、マルクス主義から社会主義に入った人からするとロバート・オウエン的な社会主義は謂わばユートピアとされえしまうわけだが、ロバート・オウエンに限らず、エドワード・ベラミー、ジョン・ラスキン、ウィリアム・モリスといった所謂「空想的社会主義者」の日本の社会主義における影響にはけっこう大きなものがある。
 大長編小説の『大菩薩峠』で知られる中里介山なども、私的にはそういった社会主義者のひとりであると思うところ。中里介山は、秩父困民党事件の翌年の一八八五年(明治18)に自由民権運動の余韻が残る多摩に生まれた。一九〇三年(明治36)に上京して、岩淵小学校の代用教員になり、同年一一月に創刊された週刊『平民新聞』に投稿したりして、幸徳秋水とも接触する。週刊『平民新聞』の「予はいかにして社会主義者となりしか」に、中里介山は以下のように書いている。
 「第一、予は幼少より一種の天才あることを自覚せるものなるに貧困のために勉強ができぬのみか、好まざる仕事を無理にやらされ、一五の時から上京して今に自労自炊の生活を離れぬこと、第二、予はいわゆる三多摩の中で、自由党熱高潮の地方に生まれたものだから、肩揚げの取れぬうちから名家先生の演説を聞くことを好み、その後上京して芝のユニテリアン講堂に走らせて、村井知至氏、安部磯雄氏等の講演を傾聴したこと、第三、貧困のため予のホームが微塵に砕かれ、現社会を激しく呪詛せしむる原因となったことなど」と。
 中里介山は、週刊『平民新聞』が廃刊になった後を引き継いだ『直言』では編集同人になるも、やがてそこを離れてトルストイに共鳴、一九〇六年来「都新聞」に職を得て新聞小説を書き始める。一九一〇年(明治43)に大逆事件が起こり、翌年肺結核と診断されて日暮里の岡田式静座道場に通い、木下尚向、田中正造に会い、一九一三年(大正2)九月から『大菩薩峠』の連載を開始する。
 『大菩薩峠』は連載する新聞社を変えながらも一九四一年(昭和16)まで書き継がれて、敗戦の前年に中里介山が死ぬことで未完のまま残された。内容的には一八五三年(嘉永6)のペリー初来航の年に始まり、明治維新の前年の一八六七年(慶応3)までの幕末を時代背景として書かれている。書かれたれた当初から剣豪小説として大衆受けして評判となり、戦後も市川雷蔵が演じる机竜之介と必殺音無しのかまえで人気映画となった。
 五十歳で会社勤めを辞めて失業生活に入った私は、次の仕事のことを考えながらも本をいっぱい読んだ。金はないけど時間はあるからこの際とばかりに厚いほんばかり読んで、『大菩薩峠』も図書館で借りて半年かけて読んだわけだが、全二十巻の最後の「郁子林の巻」を読んだ時にはちょっと驚いた。ロバート・オウエンが出てきたというか、語られるのであった。
 大菩薩峠での机竜之介による人切りに始まる『大菩薩峠』は、時代を多面的に描こうと同時進行的に多様なキャラクターが登場し、その誰もが魅力的であるわけだが、終盤に入ると『大菩薩峠』の内容は、二つのコミューンづくりに収斂していく。二つのコミューンづくりとは、駒井の殿様のコミューンと、お銀様のコミューンである。駒井の殿様のめざすコミューンとは、近代的な理性と合理性にもとづく、民主的な協同社会である。-方、お銀様のコミューンとは、お銀様という知力、財力、指導力の優れたいわば独裁者によるソヴィェト型もしくは国家社会主義型の人民共和国である。二つのコミューンは戯画化され、竜之助がクールである。竜之助はお銀様にこう言う。「拙者の考えでは、理想郷だの、楽土だのというものは、夢まぼろしだね。人間の力なんていうものも底の知れたものさ。・・・人間という奴は生むよりも絶やした方がいいのだ」と。
 そして、書き始められてから三十年近く経た『大菩薩峠』の最後の「椰子林の巻」は、駒井の殿様を中心とする一団が日本を脱出して、南の島でコミューンづくりを試みる話しである。そして、一団がたどり着いた南の島には既に西洋人の先住民がいて、駒井の殿様に、ロバート・オウエンの協同社会づくりの試みの失敗を例にして、駒井の殿様たちのコミューンづくりの失敗を予告するのである。私は長く協同組合に職を得ていて、ロバート・オーウェンを尊敬し、協同社会づくりを夢みながらも、それらの困難さをますます痛感するところであったから、『大菩薩峠』の最終巻にたどり着いた時には、もうほとんど目からウロコとなったのだった。
 中里介山は「すべての人が、その領土に於いて、その事を為している。たとえば、お銀様は山に拠り、駒井甚三郎は海に拠り、竜之介は夢の中に生きている」と書く。そして、中里介山自身は何に拠ったのかと言えば、一九二二年(大正11)に高尾山に開いた草庵、一九三〇年(昭和5)に羽村に開いた西隣村塾といった彼自身の領土であった。それらは農業と教育を一体化した、自らが拠って立つ根拠地であった。松本健一氏は、それを「一定の土地において自給自足の生活をつづけることによって、現実社会のありようと括抗する、いわば-種のコミューン形成の開始である」「農本的アナキズム」(『中里介山』)と書いている。
 中里介山は、一九三一年(昭和6)に中国と朝鮮を旅行、一九三六年(昭和11)に衆議院選挙に立候補して落選、一九三九年(昭和14)にアメリカ旅行、一九四一年(昭和16)に『大菩薩峠』の最終巻「椰子林の巻」を脱稿、一九四二年(昭和17)に日本文学報国会の評議員に選ばれるも、これを拒否。一九四四年(昭和19)四月二八日に腸チフスで死去した。中里介山が日本文学報国会より評議委員に選出された際、それを拒否できたのは、食料を自給自足でき、印刷所まで持った自らのコミューンに拠りえたからであろうと思われる。一方、時代が昭和に入って中国で戦争が始まる最中に中国と朝鮮を旅行し、アメリカとの開戦直前にはアメリカにも行きしながら、駒井の殿様とお銀様のユートピアへの道を描きながら机竜之介に「無明」の世界を彷徨わせ、物語は明治維新には至らずに未完のままに終わる。『大菩薩峠』のモチーフには大逆事件と幸徳秋水の刑死があったと言われるが、復興ではなく復古が言われる時代、「椰子林の巻」のつづきが問われていると思うところである。

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