« 友愛会 | トップページ | 鎌倉孝夫と佐藤優 »

2013年12月 9日 (月)

宇野弘蔵の「南無阿弥陀仏」

図書館に行って雑誌『情況』をペラペラしていたら、青木孝平「コミュニタリズムと経済学批判~マッキンタイアあるいは宇野弘蔵の社会哲学~」という文章があった。青木孝平氏は、「福祉国家的なリベラルと市場原理主義的なリバタリアニズム」の前提となる「近代的人格」を批判したマイケル・サンデルのコミュニタリズムも結局「トクヴィルにならい、個人と国家とを架橋する中間集団としてのアソシエーションの構築を再評価し、多層で多元的な公民による権力参加こそがアメリカ的共和主義の基盤であると言うのです。この書物以降、サンデルも純粋のコミュニタリアンからりベラル・コミュニタリアンヘ移行したといわれています」。「(アメリカは)アジアやヨーロッパのような豊穣な伝統文化の蓄積をもたずに、初めからりベラル・デモクラシーと共和主義による社会契約国家として誕生しました。そうしたアメリカで、個々人のアイデンティティを培う「共同体」とは一体何だったのでしょうか。実際コミュニタリアンの多くは、やがて、近代の個人の自由を基調とするりベラリズムを、アメリカの「共同体」的伝統として肯定するパラドックスに陥っていきます」とする。

次に青木孝平氏は、マイケル・サンデルのコミュニタリズムに対してアラスデア・マッキンタイアは、「マルクスを根源的個人主義者だと批判して」、「(マルクス)が描いているのは『自由な諸個人の共同体』」であり、「マルクスのアソシエーションとしてのコミュニズムも・・・最終的に市場経済のロジックすなわち資本主義を超えられないことになります」として、「実は私は、これと非常によく似た思想が日本の宇野理論に見られるのではないかと考えております」として宇野理論を解説しますが、解説の内容自体には目新しいものはありません。ただ私的には、マッキンタイアに宇野弘蔵をアナロジーするのではなくて、宇野弘蔵にマッキンタイアをアナロジーするのが順序だろうと思うところですが、青木孝平氏においては、最後に「宇野弘蔵をマッキンタイアに引き寄せる私の主張は、一見かにも突飛なアイデアだと感じられるかもしれません。しかしながら、宇野の薫陶を受けた理論家の中から、類似の共同体構想が次々と登場しているのも事実であります。まずなにより玉野井芳郎による地域共同体論の提起をはじめ、降旗節雄の商品経済史観に対抗する共同体史観。大内秀明によるウイリアム・モリスの共同体社会主義論。岩田弘の中国共同体主義の再興論。小林弥六や中西洋の友愛社会論があります。柄谷行人が提唱したNAM運動は失敗に終わりましたが、最近の佐藤優による高天原共同体論も宇野理論から大きな影響を受けています。それから、佐藤光がカール・ポランニーの遺稿を分析して、晩年のポランニーの歴史哲学は社会主義ではなく、マッキンタイアのコミュニタリアニズムヘ向かっていたことを実証しています。これらの諸研究は、出発点となる宇野弘蔵自身に、根源的な共同体志向があったことを裏付けているのではないかと思います」となる。

青木孝平氏は、コミュニタリズムから入って宇野理論に行き着いたのであろうが、青木孝平氏も書くように宇野理論から共同体論への模索は、僭越ながら私と仙台ヒデさんが現在やっていることも含めて多様にある。青木孝平氏は、「マッキンタイアがいうように、もはや国家からも市場からも自立した、はるかに小規模でローカルな共同体にしか、コミュニティの共通善は見いだせないのかもしれません」と書くわけであるが、宇野理論の果てに有るだろう労働力の商品化を超えた世界というのは、「国家からも市場からも自立した、はるかに小規模でローカルな共同体」といった「小乗」的な世界なのではなくて、共同体だからこそ国家も市場も成立しえない「大乗」的な世界なのではあるまいか。だから宇野弘蔵は仙台ヒデさんに、労働力商品論を解くキイワードとして「南無阿弥陀仏」の言葉を残したのではあるまいかと思うところである。

11月の後半は「労農派論」を急がねばならにのであったが、頭がそちらに向かなくなった。仕方が無いから少し前に本屋で見つけた新刊の橋爪大三郎・大澤真幸『ゆかいな仏教』(サンガ2013.11)を読んだところであった。11月後半の私の頭は、諸行無常と輪廻の状態と言うよりは、ただボーっとして考え事がどうどう巡りするだけであったのだが、唯一、仏教の核心は「覚り」にあるということだけは分かったのであった。そして、『ゆかいな仏教』を読み終わってからのある日、私は突然小さな覚りを得たのであった。それが上記のことである。まあ、私のもアナロジーだが・・・。

|

« 友愛会 | トップページ | 鎌倉孝夫と佐藤優 »

コメント

青木と申します。拙稿をお読みいただきまして、ありがとうございました。ただ私は、もともとのコミュニタリアンではなく、宇野理論を降旗節雄先生をつうじて学んだ者です。ですからマッキンタイアから宇野へ、ではなく、おっしゃるとおり宇野理論のアナロジーでマッキンタイアを評価したというのが実情です。この講演ではテーマの制約かのため、このような話の展開になったにすぎません。詳しくは拙著『コミュニタリアン・マルクス』ほかを読んでいただければ幸いです。なお、このお話をした当日は、東北大学に大内秀明先生にもご出席たまわりました。どうか今後ともご教示をよろしくお願いいたします。

投稿: 青木孝平 | 2013年12月20日 (金) 21時43分

> 青木孝平さま
コメントありがとうございます。上記について仙台ヒデさんこと大内秀明先生からは以下のコメントがありました。
「青木公平君の論稿は読んでいませんが、今年春に東北大でセミナーをやった時報告した内容ですね。小生も参加しましたが、あまり抵抗感なく聞きました。共同体主義は、硬直的な唯物史観でなければ、ごく自然に出てくる発想で、多様だと思います。労働力商品化の止揚を基礎に整理すべきでしょうね」と。

投稿: | 2013年12月20日 (金) 23時54分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/113260/58723525

この記事へのトラックバック一覧です: 宇野弘蔵の「南無阿弥陀仏」:

« 友愛会 | トップページ | 鎌倉孝夫と佐藤優 »