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2013年12月20日 (金)

鎌倉孝夫と佐藤優

1312131バイクでブックセンターに行って、新聞に広告の出ていた鎌倉孝夫・佐藤優『はじめてのマルクス』(金曜日2013.11)を買ってきて、早めに布団に入って鎌倉孝夫・佐藤優『はじめてのマルクス』を読み出し、眼を覚ましてからも布団の中で読んで、読み終えた。パソコンを開くと、仙台ヒデさんから「鎌倉君の本、広告で見ましたが、どうですかね?北朝鮮のチュチェ思想を賛美していた鎌倉君、何を語っているか?ご教示ください」のコメントがあったから、以下私流に要約するところ。先週、仙台ヒデさんとあれこれ話をしたのだが、その話の内容は、鎌倉孝夫と佐藤優の両氏が語り合っていることとかなり重なるのであった。時代はそういうところまで来ているのであろう。

鎌倉孝夫は「労働力の商品化の廃棄つまり、労働力を商品化すること自体が無理だと考えることの意味を明確にする、そこにこの対談の目標がある」と言っている。そして、前回に書いたように、鎌倉孝夫氏は宇野派の学者であり、佐藤優氏は社青同をくぐっていて、両者とも労農派をベースにしているから、国家主義と新自由主義が嫌いであり、以下のように「共同体」を評価する。
「鎌倉: 共同体の関係が基本なのです。地域集団でもいいし、そういう集団の中でお互いに支え合いながら生きていく。
佐藤: モンテスキューの『法の精神』で書かれている「中間団体」のような感じの団体。ばらばらな個の関係ではなくて、国家にも包摂されない団体が重要だということですね。・・「われわれの目標は、国家が奪い取った共同性を、民衆が民衆の連帯した力で奪還し、自主的に創造することにある」ということですね。
鎌倉: そうですね」(P77)。

「中間団体が重要」という点について佐藤優氏は以下のようにコメントを書き添える。
「社会が弱体化すると、新自由主義的な地獄絵もなくならないし、国家が肥大して戦争への道を勝手に突き進んでいくことも制御できなくなります。では、社会をどうやって強化するかというと、これはとても難しい問題ですが、可能だと思う。「社会とは何なのか?」というと、それは人間の共同体・ネットワークです。気の合う人たちのネットワーク、それから仕事を一緒にする人たちのネットワークを強化することによって、実際に自律して生きていけるようなシステムを社会の中で作っていくことができるのではないか。それこそが抵 抗の基盤になります」(『国家論』から)と。

さらに佐藤優氏はファシズムの危険性について、以下のように言及する。
「年収200万円以下の人たちが1000万人を超えている状況は資本主義自体の自滅行為、自己破壊なんですよね」。「これはファシズムの入口だと思うんですよ」(P67)。
「私は、主観的な形で、新自由主義なり資本主義を乗り越えるという運動が強まると、ファシズムの罠に知らないうちに薗っていくと考えます。国家の力によって、まさに高畠素之がそうだったわけですが、国家の力によって、現実の資本の運動を規制しないといけない、という発想です。・・・私はやはり労農派マルクス主義の伝統が重要だと思うんです」(p119)。と

「労働力の商品化の廃棄」について、鎌倉孝夫氏は以下のように語っている。
「それと労働力商品化からの脱却ということを具体的、現実的に考えた時に、いろいろの実践があると思うけれど、たとえばさっき言った協同組合や、産直――生産者と消費者の直接の関係形成の問題とか。労働者としての日常的な行動の基準が、儲かるか儲からないかというお金の問題じゃなく、基本的には生活と人権を基準にして行動する。あらゆる場において、資本に対する要求の場でも、それを基準にしなければいけない」(P115)。
「労働力商品化の廃絶は、結局、働く者が生産手段、働く条件を確保するということにならなければいけないのだけど、一番重要なのは、法の転換だと思います」(P117)。
「労働力の商品化の克服は、他人に自らの労働力の使用を委ねるものではなく、自らの意思と欲求によって自ら労働力を使用するということ、労働・生産活動の主体となることである。そのためには、資本と国家に奪われた生産手段をとり戻すこと、いつでも生産手段を自分自身で使いうる社会的条件を創り、確保することによる、のである」(P171)と。

そして本書は社会主義の出直しの書でもあるから、これまでの協会派や宇野派の人たちから、共産党、新左翼までのの評価や批判がされているところも内輪話を聴くようでおもしろい。例えば以下のようにある。

「佐藤: 実践的な社会主義像が伊藤誠先生の場合、国家社会主義的なのですね」(P58)
「佐藤: 社会主義協会はソ連崩壊に対する理論的準備があまり出来ていまかったですね」(P94)
「鎌倉: 当時、社会主義協会のなかでも、福田豊氏は向坂=スターリニズムというとらえ方で、それではだめだという考えでした。そこで、ユーロコミュニズムを入れようという雰囲気で向坂批判をやり出した。ぼくはそうではなくて、マルクス・レーニンの本本に戻ろうということで、スターリニスム批判、ソビエト社会主義批判をやっていた」(P97)。
「鎌倉: 降旗節雄さんの理論の大問題は、結局最後、共同体まで行くんですけど、共同体=国家なんですよ」(P123)。
「鎌倉: 降旗理論の方法論はそういう生産力の新しい段階に対応して資本主義はもっと発展する、というとらえ方をしていた。大内力もそうです。大内力は、経済学原理論は、循環論、つまり恐説諭である。だから繰り返しなんです。そこに歴史性はないわけです。それに対して段階論は、生産力の発展段階なんです。生産力が新しく発展して資本主義が変容していくというとらえ方です」(P124)。
「鎌倉: 宇野の原理論は恐慌論で終わるとして、宇野原論を恐慌論にしてしまう傾向がある。いいだももさんも、伊藤誠君もそうとらえている」(P137)。
「鎌倉: 不和哲三の『マルクスは生きている』を見ると、「恐慌は資本主義の死にいたる病」だなどと書いている。しかし、恐慌自体から死にはいあたらないんですよ・・」、「佐藤: なんとしても、労働力の商品化が『資本論』の要であることを認めたくない」(P138)
「鎌倉: 社青同(向坂派)の人たちは新社会党が多いですね。・・社民党はいわゆる旧太田派がいま社民党を支えています。『進歩と改革』という雑誌を出しています(P159)。
「佐藤: ただ社会主義協会、労農派マルクス主義の面白いところというのは、太田派と協会派があれだけ喧嘩しても、まったく内ゲバみたいな感じにならない。あと、社青同解放派については・・」(P160)などなどである。

鎌倉孝夫氏の「主体思想」評価は、どうやらフォイエルバッハや疎外論の評価と関係があるようだが、分かりにくい。一方、『資本論』と宇野理論の解説はとても分かりやすい。定価1300円も高くはない。発売から1ヶ月内に重版になっているようだが、どんな人たちが買っていくのやらである。鎌倉孝夫と佐藤優を漫画チックに描いた表紙と『はじめてのマルクス』という表題とは裏腹に、けっこう専門的な内容の本であった。

佐藤優氏が浦和高校の2年生であった時に社青同の同盟員をしていて、北浦和の労働開館で1312133_2開かれていた労働大学の夜間講座に通って、そこで当時は埼玉大学の助教授であった鎌倉孝夫氏から『資本論』の講義を受けたという。同じような頃に地域でSPの活動をしていた私は、鎌倉孝夫氏を招いて公開講座を企画したことがあった。まあ、30年くらい前までは、そんな時代であったのである。 

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2013年12月 9日 (月)

宇野弘蔵の「南無阿弥陀仏」

図書館に行って雑誌『情況』をペラペラしていたら、青木孝平「コミュニタリズムと経済学批判~マッキンタイアあるいは宇野弘蔵の社会哲学~」という文章があった。青木孝平氏は、「福祉国家的なリベラルと市場原理主義的なリバタリアニズム」の前提となる「近代的人格」を批判したマイケル・サンデルのコミュニタリズムも結局「トクヴィルにならい、個人と国家とを架橋する中間集団としてのアソシエーションの構築を再評価し、多層で多元的な公民による権力参加こそがアメリカ的共和主義の基盤であると言うのです。この書物以降、サンデルも純粋のコミュニタリアンからりベラル・コミュニタリアンヘ移行したといわれています」。「(アメリカは)アジアやヨーロッパのような豊穣な伝統文化の蓄積をもたずに、初めからりベラル・デモクラシーと共和主義による社会契約国家として誕生しました。そうしたアメリカで、個々人のアイデンティティを培う「共同体」とは一体何だったのでしょうか。実際コミュニタリアンの多くは、やがて、近代の個人の自由を基調とするりベラリズムを、アメリカの「共同体」的伝統として肯定するパラドックスに陥っていきます」とする。

次に青木孝平氏は、マイケル・サンデルのコミュニタリズムに対してアラスデア・マッキンタイアは、「マルクスを根源的個人主義者だと批判して」、「(マルクス)が描いているのは『自由な諸個人の共同体』」であり、「マルクスのアソシエーションとしてのコミュニズムも・・・最終的に市場経済のロジックすなわち資本主義を超えられないことになります」として、「実は私は、これと非常によく似た思想が日本の宇野理論に見られるのではないかと考えております」として宇野理論を解説しますが、解説の内容自体には目新しいものはありません。ただ私的には、マッキンタイアに宇野弘蔵をアナロジーするのではなくて、宇野弘蔵にマッキンタイアをアナロジーするのが順序だろうと思うところですが、青木孝平氏においては、最後に「宇野弘蔵をマッキンタイアに引き寄せる私の主張は、一見かにも突飛なアイデアだと感じられるかもしれません。しかしながら、宇野の薫陶を受けた理論家の中から、類似の共同体構想が次々と登場しているのも事実であります。まずなにより玉野井芳郎による地域共同体論の提起をはじめ、降旗節雄の商品経済史観に対抗する共同体史観。大内秀明によるウイリアム・モリスの共同体社会主義論。岩田弘の中国共同体主義の再興論。小林弥六や中西洋の友愛社会論があります。柄谷行人が提唱したNAM運動は失敗に終わりましたが、最近の佐藤優による高天原共同体論も宇野理論から大きな影響を受けています。それから、佐藤光がカール・ポランニーの遺稿を分析して、晩年のポランニーの歴史哲学は社会主義ではなく、マッキンタイアのコミュニタリアニズムヘ向かっていたことを実証しています。これらの諸研究は、出発点となる宇野弘蔵自身に、根源的な共同体志向があったことを裏付けているのではないかと思います」となる。

青木孝平氏は、コミュニタリズムから入って宇野理論に行き着いたのであろうが、青木孝平氏も書くように宇野理論から共同体論への模索は、僭越ながら私と仙台ヒデさんが現在やっていることも含めて多様にある。青木孝平氏は、「マッキンタイアがいうように、もはや国家からも市場からも自立した、はるかに小規模でローカルな共同体にしか、コミュニティの共通善は見いだせないのかもしれません」と書くわけであるが、宇野理論の果てに有るだろう労働力の商品化を超えた世界というのは、「国家からも市場からも自立した、はるかに小規模でローカルな共同体」といった「小乗」的な世界なのではなくて、共同体だからこそ国家も市場も成立しえない「大乗」的な世界なのではあるまいか。だから宇野弘蔵は仙台ヒデさんに、労働力商品論を解くキイワードとして「南無阿弥陀仏」の言葉を残したのではあるまいかと思うところである。

11月の後半は「労農派論」を急がねばならにのであったが、頭がそちらに向かなくなった。仕方が無いから少し前に本屋で見つけた新刊の橋爪大三郎・大澤真幸『ゆかいな仏教』(サンガ2013.11)を読んだところであった。11月後半の私の頭は、諸行無常と輪廻の状態と言うよりは、ただボーっとして考え事がどうどう巡りするだけであったのだが、唯一、仏教の核心は「覚り」にあるということだけは分かったのであった。そして、『ゆかいな仏教』を読み終わってからのある日、私は突然小さな覚りを得たのであった。それが上記のことである。まあ、私のもアナロジーだが・・・。

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