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2013年11月12日 (火)

ポツダム中尉

先週末実家に行って、兄たちと簡単な父の卆寿祝いをやった。本当は先月に孫、ひ孫まで集まってやる予定であったのだが、当日台風が来て延期にしたら、次は誰も都合がつかなくなってしまい、とりあえず小人数でやったところであった。父は孫、ひ孫が来なくてがっかりしたところもあったようだが、「孫、ひ孫がいない方がやり易い、これが最後だ」と言って、十八番の真山青果の『元禄忠臣蔵』の女形の声色をうなってくれた。父は学生時代に歌舞伎で女形をやっていて、「70年前に覚えたのを、今でも忘れないものだ」と言って、機嫌がよかった。

父は学徒動員で戦争に行って、復員してから復学し、その後は戦後復興を生きた。私が子供の頃には「海軍中尉であった」とか自慢していたが、当時家に残っていた父の軍装品や海軍時代の名刺などはみな「少尉」となっていた。そしたら、一昨日「海軍中尉(正八位)の辞令」なるものを見せてくれた。発行日は「昭和二十年九月六日」であり、要はポツダム宣言受諾後に昇進した「ポツダム中尉」なのであった。父は海軍にいて、長崎の大村航空隊を経て、九州のはずれの島で終戦をむかえたのだが、昨日海軍のことをきいたら何も語らず、遠くを見るような顔をした。

先週買った司馬遼太郎の『この国のかたち』(文春文庫)という本を読んだ。そのあとがきには、「私はいまだに二十代前半であった自分から離れられずにいる。そのころの私は、憲法上の義務によって兵役に服していた。それが終了するのは、一九四五年八月十五日の敗戦の日だった。私にとって、二十二歳の誕生日を迎えて八日目のことである。私どもの連隊はいわゆる満洲の国境ちかくにいて、早春、連隊ぐるみ移動し、思わぬことに関東平野に帰ってきた。・・兵役期間中、だれでもそうだったろうが、即座に死ねる自分でありたいと思いつづけていた。なんのための死ということではなく、さらにいえば死に選択はなく、よき死も悪しき死もないと思っていた」とあった。

司馬遼太郎の生年は、私の父と同じである。司馬遼太郎もおそらく「ポツダム中尉」だったのではあるまいか、司馬遼太郎は早くに亡くなったが、父も同じ思いを共有していたのかもと思ったところであった。父は戦後一貫して外資で働き、私が学生の頃には石油メジャーに勤めて海外赴任してたから、私は父を帝国主義の手先と決めつけていた。そして、司馬遼太郎は産経新聞の記者をやり、1968年から『坂の上の雲』を産経新聞に連載したから、復古主義者だと思っていた。

今日また本屋に行った。買ったのは、司馬遼太郎の『この国のかたち・2』と橋爪大三郎・大澤真幸『ゆかいな仏教』((株)サンガ2013.11)。前回は『この国のかたち・1』と島田裕己『プア充』であったから、要は司馬遼太郎と宗教社会学系。こうなると、この歳になって、やっと保守と宗教に目覚めたのかと思われるかもしれないが、島田裕己『プア充』など、私は新しい社会主義論につながるものとして読んだ。父たちの世代の時代精神に思いをいたしながら、私たちの世代のそれというよりは、自らの生き方を振り返るところである。

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