« 2013年10月 | トップページ | 2013年12月 »

2013年11月21日 (木)

友愛会

131121_2昨日は仙台ヒデさんが東京に来て、御茶ノ水の総評会館で打ち合わせ。今日は午前中に仙台ヒデさんと芝の友愛会館に行った。友愛会館には戦前の友愛会の労働運動の資料室があるから、一度行きたいと思っていたら、先週お会いした石井一彦氏からそこの長事務局長の間宮悠紀雄氏をご紹介いただき、ていねいな対応をいただいたところであった。

芝公園の近くにある友愛会館は総評会館の何倍か立派なビルで、その中に友愛労働歴史館がある。友愛会というと戦後に安部磯雄、高野岩三郎、賀川豊彦らが呼びかけ人になって、日本社会党に結集するも、そこから分かれて西尾末広らが反共社民として民社党を結成したから、左派からは批判の対象となったわけだが、歴史的にみれば、日本の労働運動のルーツであり、戦前の労働運動の主流派であり、友愛会館も戦前の運動の中から獲得されたものでった。

友愛会館のある場所は、明治27年にユニテリアン教会惟一館が建設された場所で、日本に社会主義思想を持ち込んだ安部磯雄らのアメリカ帰りのクリスチャンたちは、そこを拠点にして『六合雑誌』などで欧米の社会主義思想を日本に知らせた。そして大逆事件後の冬の時代に、高野岩三郎の教え子でユニテリアンであった鈴木文治は、大正元年にそこで友愛会を結成したわけである。そうは言っても、ではなぜユニテリアン教会が社会主義や労働運動に結びついたのか、いまいち分からないところがあったわけで、いろいろと勉強になったところであった。

また、総評会館も以前は芝にあったし、日本の第2回メイデイは芝の埋立地で行われおり、東京地評も浜松町辺りにあって、あの辺りは労働運動と所縁の場所なのだなとは思っていても、なぜそうなのかはよく分からなかった。明治の頃はあの辺りまで海であったようだから、銀座の隣の築地のように、外国からのものが入りやすかったのだろうくらいに思っていたところであった。

友愛会の歴史の展示の最初が福沢諭吉から始まるわけだが、間宮氏は「福沢諭吉がいなかったら友愛会もなかったであろう」と言っていた。それはユニテリアンを日本に呼んだのは福沢諭吉であったからだという。福沢諭吉は日本の近代化のために、当時ハーバード大学の神学部にあって、あまり説教くさくないユニテリアン派を日本に呼び、自らの慶応義塾の近くの芝に教会の場所を斡旋したということであった。そこで、福沢諭吉とユニテリアン教会惟一館での労働運動を許したマッコーレイ牧師が、最初に並ぶわけである。

『六合雑誌』全巻を収録したDVDも手に入れたから、いい資料になる。友愛会については、まだ見直すところも多い。宿題の多い冬になりそうである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年11月12日 (火)

ポツダム中尉

先週末実家に行って、兄たちと簡単な父の卆寿祝いをやった。本当は先月に孫、ひ孫まで集まってやる予定であったのだが、当日台風が来て延期にしたら、次は誰も都合がつかなくなってしまい、とりあえず小人数でやったところであった。父は孫、ひ孫が来なくてがっかりしたところもあったようだが、「孫、ひ孫がいない方がやり易い、これが最後だ」と言って、十八番の真山青果の『元禄忠臣蔵』の女形の声色をうなってくれた。父は学生時代に歌舞伎で女形をやっていて、「70年前に覚えたのを、今でも忘れないものだ」と言って、機嫌がよかった。

父は学徒動員で戦争に行って、復員してから復学し、その後は戦後復興を生きた。私が子供の頃には「海軍中尉であった」とか自慢していたが、当時家に残っていた父の軍装品や海軍時代の名刺などはみな「少尉」となっていた。そしたら、一昨日「海軍中尉(正八位)の辞令」なるものを見せてくれた。発行日は「昭和二十年九月六日」であり、要はポツダム宣言受諾後に昇進した「ポツダム中尉」なのであった。父は海軍にいて、長崎の大村航空隊を経て、九州のはずれの島で終戦をむかえたのだが、昨日海軍のことをきいたら何も語らず、遠くを見るような顔をした。

先週買った司馬遼太郎の『この国のかたち』(文春文庫)という本を読んだ。そのあとがきには、「私はいまだに二十代前半であった自分から離れられずにいる。そのころの私は、憲法上の義務によって兵役に服していた。それが終了するのは、一九四五年八月十五日の敗戦の日だった。私にとって、二十二歳の誕生日を迎えて八日目のことである。私どもの連隊はいわゆる満洲の国境ちかくにいて、早春、連隊ぐるみ移動し、思わぬことに関東平野に帰ってきた。・・兵役期間中、だれでもそうだったろうが、即座に死ねる自分でありたいと思いつづけていた。なんのための死ということではなく、さらにいえば死に選択はなく、よき死も悪しき死もないと思っていた」とあった。

司馬遼太郎の生年は、私の父と同じである。司馬遼太郎もおそらく「ポツダム中尉」だったのではあるまいか、司馬遼太郎は早くに亡くなったが、父も同じ思いを共有していたのかもと思ったところであった。父は戦後一貫して外資で働き、私が学生の頃には石油メジャーに勤めて海外赴任してたから、私は父を帝国主義の手先と決めつけていた。そして、司馬遼太郎は産経新聞の記者をやり、1968年から『坂の上の雲』を産経新聞に連載したから、復古主義者だと思っていた。

今日また本屋に行った。買ったのは、司馬遼太郎の『この国のかたち・2』と橋爪大三郎・大澤真幸『ゆかいな仏教』((株)サンガ2013.11)。前回は『この国のかたち・1』と島田裕己『プア充』であったから、要は司馬遼太郎と宗教社会学系。こうなると、この歳になって、やっと保守と宗教に目覚めたのかと思われるかもしれないが、島田裕己『プア充』など、私は新しい社会主義論につながるものとして読んだ。父たちの世代の時代精神に思いをいたしながら、私たちの世代のそれというよりは、自らの生き方を振り返るところである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年10月 | トップページ | 2013年12月 »