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2013年10月31日 (木)

『明暗』と漱石の個人主義

 堺利彦が『へちまの花』に書いた「一膳飯たぬき」という以下の文章がある。
 「ある日『たぬき』という雑誌が舞いこんで来た。小石川関口水道町すなわち江戸川電車終点の一膳めし屋「たぬき」の機関紙である。・・機関紙の表紙裏に左のとおり書いてある。『夜は電車運転中火を落とさず候、文芸等に関する雅会には二階無料にてお貸し申し候、酒は灘の生一本一合一〇銭という方外の安価に候、貧乏につきすべて現金に申し受け候』・・これを読んでチョット心が動いたのでさっそく・・夕方から出かけた。ところが、飯田橋の停留所で電車を乗り換えようという時恐ろしいドシャ降りの雨に会って、やむをえずそこの何とかバアという所でビールを引っかけ、三銭均一の刺身、枝豆、すりいも、なんどいう豪奢を窮め、それからヤット小降りになったところを見すまして先方にかけこむと、なアんのことだ、二、三日前の出水以後今日まで休業という。仕方がないからすぐその隣の鳥屋にはいってともかく夕飯の腹をこしらえた」と。
 これは『へちまの花』の大正3年(1914)10月1日発行の第九号に書かれたもので、当時早稲田方面にはこのような一膳飯屋があり、飯田橋の停留所辺りにはバアなぞがあり、堺利彦はバアで三銭均一の刺身でビールを引っかけたりすることが分かる。そしてなぜここから書くかと言うと、この辺り、おそらく早稲田方面は、それから2年後の大正5年(1916)に書かれた夏目漱石の『明暗』の主要な舞台のひとつにになっているからである。
 『それから』では代助、『門』では宗助が主人公で、『明暗』では津田という男がいわばそうなのであるが、彼の周囲に登場する妻のお延、妹のお秀、義理ある年上の吉川夫人、それに津田の昔の恋人であった清子が配置されると、津田はまるで狂言回しにしか見えない。『それから』や『門』とちがって、津田は意のあった女に去られてお延といっしょになる。津田は吉川夫人の主人の会社に勤めてはいるが、気分は高等遊民で親からの援助も受けていて、自立できているわけではない。そして津田は、自分から去って行った清子への未練がすてきれずにいながら自己中心的に対処するのであるが、そこに津田のかつての学友で貧乏ジャーナリストをやっている小林という男がいてからんでくる。
 津田には藤井という育ての親の叔父がいる。藤井は「彼は未だかつて月給といふものを貰った覚えのない男であった。月給が嫌ひといふよりも、寧ろ呉れ手がなかった程我儘だったといふ方が適当かも知れなかった。・・一種の勉強家であると共に一種の不精者に生まれ付いた彼は、遂に活字で飯を食わねばならない運命の所有者に過ぎなった。斯ういふ人にありがちな場末生活を、藤井は市の西北にあたる高台の片隅で、此六七年続けて来たのである」と描かれており、藤井の家は「津田の宅から此叔父の所へ行くには、半分道程川沿の電車を利用する便利があった」とある。川とは飯田橋から早稲田に向かう江戸川(現・神田川)であり、堺利彦の「一膳飯たぬき」にもあるように、川沿いに市電が走っていたわけである。そして、ある日叔父を訪ねた津田はそこで藤井の出す雑誌を手伝っている小林と出会い、その帰りがけに津田は小林からバアで飲もうと誘われる。津田は気がすすまないが、小林から「そんなに嫌か、僕と一緒に酒を飲むのは」と言われると、その気はないのに「じゃ飲もう」と応える性格である。ふたりが店に入ると後から入って来た男がいて、小林は「彼奴は探偵だぜ」という。小林には尾行がついているのである。小林は津田にドフトエフスキーを語って涙を落とし、とうとう東京に居たたまれなくなって朝鮮に渡ると言う。やがて店を出たふたりは歩き出。やりとりがあって、小林は「津田君、僕は淋しいよ」と言い、以下の情景がある。
 「津田は返事をしなかった。二人は又黙って歩いた。浅いい河床の只中を、少しばかり流れてゐる水が、ぼんやり見える橋杭の下で黒く消えて行く時、幽かに音を立てて、電車の通る相間々々に、ちょろちょろと鳴った」と。これもまた坂の下の流れであろうか。小林は「旅費は先生から借りる、外套は君から貰ふ、たった一人の妹は置いてき堀にする、世話はないや」と言いはなち、ふたりは分かれ、津田は後も見ずにさっさと家に急ぐ。
 果たして漱石は、「僕は未だかつて損になるべき何物をも最初からもっていないんだからね」と居直り、幸徳秋水とドフトエフスキーを語り、津田から外套や金を巻き上げる存在感たっぷりの小林という人物をどこから造形したのであろうか。ゴロジャーナリストであるところには『それから』の平岡を引き継いで発展させたようでもあるが、ここは私的にはそのルーツを『三四郎』に出てくる佐々木與次郎におきたいところ。與次郎は「専門学校を卒業して、ことし又専科へ這入つた」という設定で、かの日本は「滅びるね」の広田先生を「偉大なる暗闇」だとする御仁である。
 漱石の小説においてその主人公は、だいたい本郷にある大学の卒業生という設定になっている。それに対して、『明暗』の津田と小林、それに藤井なんかもそうだが、舞台の設定エリアからして本郷というよりはどっちかというと早稲田あたりという感じがしないでもない。明治38年(1905)9月に高浜虚子に「とにかく辞めたきは教師、やりたきは創作」と書き、明治40年(1907)3月に大塚保治のすすめる東大教授の口を断って朝日新聞に入社し、西園寺公望首相の文士招待会の出席を断り、明治44年(1911)2月には文部省からの文学博士号授与を辞退した漱石に一貫してあったものは、国家の接吻は死の接吻、そんなものを受けたら創作なんぞ出来はしないといった思いだったのではあるまいか。一方、早稲田は藩閥政治への批判と日本の自然主義文学の中心であった。西欧の自然主義の日本におけるデフォルメされたその受容に対して批判と危機意識があった漱石は、小林というお延に「生まれて初めての人に会ったような気がした」と思わせる人物を造形し、大正5年(1916)という時代の中で自然主義の受容の先に来るだろうものを予測しつつ、『明暗』本来のストーリーを超えて惹かれていく。『夏目漱石』において江藤淳は、『明暗』の小林についてこう書いている。
 「社会の片隅に置き去られたような群小ジャーナリストや不遇な文士・・・教養と敏感な感受性を持ちながら社会的地位に恵まれない。つまり彼らは、自分たちの悲惨な生活を悲惨とみとめ得る知的能力と自尊心を持つ故に一層みじめな劣敗者なので、漱石は後に「インテリ」と侮称されるこの「文明開化」の私生児をいちはやく問題にしているのである」。
 「これは所謂「自然主義」という文芸思潮を潔癖に排した漱石が、所謂「自然主義作家」の生まれる土壌に対して、冷淡でなかったことを物語っている。・・・そして小林というプロレタリア意識のある人物を描くことによって、作者は、これら鈍才達の感傷的な芸術に対する信仰の底に押しかくされている、ひがみや憎悪に照明をあて、それらの感情に、直截な、知的な表現をあたえたのではなかったか。小林は、このような不遇なインテリが、容易に熱狂的な左翼思想家になり得ることを強く暗示しているのである」
 「則天去私の作家は世俗的な感情である階級的復讐心をもった小林を、貧乏インテリのすね者に設定した時、不幸にも則天去私を放棄したのである・・・・作家漱石は、自らの東洋文人風の趣味よりも、ここで世俗的日常茶飯の塵にまみれて、小林という新しい人間を創り出すことに、格段の興奮を覚えているのである」。
 「この事実は、一つの可能性を暗示している。それに若し漱石が生き永らえたとして、この可能性に忠実であったとするなら、来るべき新しい作品の主人公は、小林や藤井のような人物達、『明暗』で印象的なわき役を演じている貧乏インテリ達ではないかということである」と。
 以上の前段で江藤淳は「(漱石はロンドン留学中に)社会主義思想に対する関心をすら示していたのではないか」と書いている。漱石がそうであったことを是認しないかしたくないという観点から『明暗』を読めば、小林のような「貧乏インテリ」は「ひがみや憎悪」を持った「一層みじめな劣敗者」であるとかという品のない表現になってしまうわけだが、漱石は密かに社会主義に関心を持っていたという前提で読めば、『明暗』は難解なばかりの小説ではない。江藤淳は「(漱石は)小林を、貧乏インテリのすね者に設定した時、不幸にも則天去私を放棄した」と書くわけだが、私的には漱石は社会主義にシンパシーしたがゆえに『明暗』はあえて「則天去私」の心境を表したものとし、後に信頼する弟子の小宮豊隆にそう書かせたと思うところである。宮沢賢治の「羅須地人協会」の「羅須」もそうで、賢明な作家が馬鹿な国家から身を守るには、ありがたい意味不明さをもって馬鹿には理解できないように表現するしかないわけである。大正5年(1916)12月9日に漱石は亡くなり、翌年2月にロシアに革命が起こる。小宮豊隆は、『漱石の芸術』において「『明暗』全篇に與へられた傾斜から考へると、小林の預言は、同時に作者の預言であり」と書くのである。
 では、存命中に漱石はそのあたりのことを何も語らなかったのかと言えば、小説ではなくて講演会において語れる範囲のことは語っている。代表的なものは『現代日本の開化』で語られた「内発的開化」と『私の個人主義』とあろうか。『現代日本の開化』は、大阪朝日新聞社が企画し1911年(明治44)8月に和歌山で行われた講演であり、外発的な開化とその「一大パラドックス」に対して「内発的な変化」が提起されている。
 漱石は、活力には人間活力の発現という積極的なものと楽をしたいという消極的なものがあって、「この二種類の活力が上代から今に至る長い時間に工夫し得た結果として昔よりも生活が楽になっていなければならないはずであります。けれども実際はどうか? 打明けて申せば御互の生活は甚だ苦しい。昔の人に対して一歩も譲らざる苦痛の下に生活しているのだという自覚が御互にある。・・・昔の人間と今の人間がどの位幸福の程度において違っているかといえば、あるいは不幸の程度において違っているかといえば、活力消耗活力節約の両工夫において大差はあるかも知れないが、生存競争から生ずる不安や努力に至っては決して昔より楽になっていない。・・・これが開化の生んだ一大パラドックスだと私は考えるのであります」。「もし一言にしてこの問題を決しようとするならば私はこう断じたい、西洋の開化(即ち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である」。「現代日本の開花は皮相上滑りの開花であるという事に帰着するのである」と。
 「生存競争から生ずる不安や努力に至っては決して昔より楽になっていない」ということなど、それから百年以上経った現在でもなお同様であるところで、文学者でありながら百年前にこうした視点を持っていたということが漱石文学の背景にあって、「ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申した通り私には名案も何もない。ただ出来るだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうー」と言わしめる。「内発的に変化して行く」そういう生き方とは、国家と外発の間にあってはなかなか困難であるわけだが、その要諦を漱石を語ったのが『私の個人主義』と私は思うわけである。
 『明暗』の藤井の家から「広い谷を隔てて向に見える小高い岡」の先には学習院があり、もうひとつの講演『私の個人主義』は、大正3年年(1914)11月に学習院で行った講演で、聴衆は学習院に学ぶ支配階級の子弟たちであった。漱石は、支配階級の子弟たちに向けて以下のように語る。
 「必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方の御家族のために申し上げる次第でもありません。貴方がた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申し上げるのです。・・もし何処かにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目でしょ」。
 「御存じの通り英吉利という国は大変自由を尊ぶ国であります。それほど自由を愛する国でありながら、また英古利ほど秩序の調った国はありません。実をいうと私は英吉利を好かないのです。嫌いではあるが事実だから仕方なしに申し上げます。あれほど自由でそうしてあれほど秩序の行き届いた国は恐らく世界中にないでしょう。日本などは到底比較にもなりません。しかし彼らはただ自由なのではありません。自分の自由を愛するとともに他の自由を尊敬するように、小供の時分から社会的教育をちゃんと受けているのです。だから彼らの自由の背後にはきっと義務という観念が伴っています。・・・彼らは不平があると能く示威運動を遺ります。しかし政府は決して干渉がましい事をしません。黙って放って置くのです。その代り示威運動をやる方でもちゃんと心得ていて、むやみに政府の迷惑になるような乱暴は働かないのです」。
 「それで私は何も英国を手本にするという意味ではないのですけれども、要するに義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます。・・・私は貴方がたが自由にあらん事を切望するものであります。同時に貴方がたが義務というものを納得せられん事を願って已まないのであります。こういう意味において、私は個人主義だと公言して憚らないつもりです」と。
 後段の発言は、永井荷風が『あめりか物語』に、「何につけても、吾々には米国の社会の、余りに、常識的なのが気に入らない。・・フランスに於いて見るような劇的な社会主義の運動もない。・・激烈な藝術の争論もない。何も彼も、例の不文法(Unwritten law)と社会の輿論(Public opinion)とで巧に治って行く米国は、吾々には堪えがたいほど健全過ぎる」と書くのに通じている。
 漱石はイギリスを嫌っても、イギリス流の自由主義と個人主義は会得していたし、荷風はアメリカを嫌ったが、アメリカ流の自主独立にして公共的な市民精神は会得していたわけである。個人主義とは、一般的にはブルジョワ民主主義のベースとなる概念であり、漱石も荷風も西欧のブルジョワ民主主義を評価していただけとも言えなくもない。しかし、大逆事件とすれちがった荷風が『花火』を書いて戯作者となり、やがて『断腸亭日乗』を書いて愚かな軍国主義者への批判も含めて戦中をしのぐのを見れば、そこにはブルジョワ民主主義概念ではない、国家に対して自らを拠って立たしうるものとしての個人主義があることが分かるのである。
 大正3年(1914)4月に普通選挙法が成立し、大正4年(1915)3月の第十二回衆議院選挙へ馬場孤蝶が立候補すると、漱石は馬場孤蝶の衆院選立候補の推薦人となり、推薦状の筆頭に名を連ね、選挙資金活動のために出版された『孤蝶馬場勝弥氏立候補後援現代文集』(1915年実業乃日本社)に『私の個人主義』を寄稿し、それはその巻頭に掲載された。
 馬場孤蝶は、前にも触れたように、明治20年代の日本のロマン主義運動『文学界』のメンバーであり、一葉が「故馬場辰猪君の令弟なるよし」と日記に書いたように、アメリカに客死した自由民権運動家の馬場辰猪の弟である。『文学界』の後、彦根と浦和での中学教員を経て、日本銀行の行員となり、1906年(明治39)に慶応義塾の教授になり、自由主義的な社会改良運動家として大逆事件後に大杉栄等の近代思想社の集会や、平塚らいてう等の青鞜社の講演会に参加し、山川均と菊栄の結婚式の媒酌人でもある。1912年に出版された『樋口一葉全集』の編集を行い、そこに樋口一葉の「日記」を載せたのも馬場孤蝶であった。一葉の妹のくに子が、一葉本人からは焼くように言われながらも、焼かずに残した一葉「日記」は、斎藤緑雨が預かり、1904年(明治37)に緑雨が危篤になった際に、緑雨から馬場孤蝶に託されたわけであった。
 馬場孤蝶立候補の仕掛け人のひとりである堺利彦は、『孤蝶馬場勝弥氏立候補後援現代文集』に以下のような『辰猪と勝弥』の一文を書いている。勝弥というのは、馬場孤蝶の本名である。
 「明治三年の末に生れて、明治の十年代を少年として過した私は、自由党改進党の諸名士に対して特別なる欽仰愛慕の感情を養うて居る。馬場辰猪君の名声の如きは最も深く私の頭に染みこんで居る。馬場勝弥君は明治二年の生れと聞く。辰猪君の名声が遠く九州の一少年に汲ぼした感化から考へて、勝弥君が直接に其の兄君から受けた感化の大なる事は私によく想像が出来る。
 馬場孤蝶の名が初めて文壇に現はれた時、あれは馬場辰猪の弟だと云ふ事を聞いて、私は特に深く注意を引かれて居た。・・・
 後、私が幸徳秋水と交るに及んで、秋水の土佐人たるが為に、殊に馬場兄弟に就いて語る事が多かった。秋水が最初の出獄の後、間もなく瓢然として米国に遊んだのは、馬揚辰猪の跡を学んだのだと評されて居た。私もそう考へて一種の面白味を感じて居た。そして若し秋水が辰猪君と同じく彼地に客死するの運命を持って居るのではあるまいかとさへ気遣って居た。・・・
 (大杉栄宅で初めて孤蝶君に会った帰り道に)私はもはや辰猪君の事を話しださずには居られなかった。すると孤蝶君も頗る気の乗った様子で色々辰猪君の事を私に話して呉れた。殊に其中で、私の確と覚えて居るのは、辰猪君が出獄して間もなく米国に赴く時、特に勝弥君に対して、男は一度やそこら牢にはいる位でなくては駄目だと云って別れたが、それきり辰猪君は米国で客死したのであるから、勝弥君に取っては、其の一言が亡兄の遺言となって居ると云ふ話である。
 私は大いに此話に動かされて、前に記した秋水の米国行の事なども話した後、あなたも一つ兄君の適意を継いで大いに政治界に活動を試みては如何ですかと、少し立入った話にまで及びかけた・・・」と。(※岩波書店『馬場辰猪全集』から)
 これを読むと、馬場辰猪は出獄後アメリカに亡命する直前に最後に会った弟に、「男は一度やそこら牢にはいる位でなくては駄目だ」と言って別れ、馬場孤蝶が1915年という「冬の時代」に選挙に出馬したのは、堺利彦からうながされたからと言うよりは、アメリカに客死した悲運の兄の志を継いでのことだとも分かるのである。
 馬場孤蝶は「立候補の理由」(『反響』1915年3月号)について、次のように述べている。
 「民族の興隆は、その民族の原子たる各個人の充実せる活動にまだ無ければならぬ。 一国の政治は、斯の如き民人の充実せる活動を基礎として行はるるもので無ければならぬ。成人の充実せる活動は、各個人の国民としての自覚より始まるべきものである。故に一国の法規は、各個人の自覚、各個人の正常なる活動に対して妨碍となり、不便であるといふ如きものであってはならぬ」(水川隆夫『夏目漱石と戦争』平凡社新書p242)と。そして「孤蝶は、このような基本的理念のもと、具体的な改革案としては、選挙権の大拡張、軍備縮小、新聞紙法の改正、治安警察法の撤廃などを提示し、特にこの選挙の争点であった陸軍の二個師団増設については絶対反対を表明」(同)している。
 結果的に馬場孤蝶は選挙に落選したのではあったが、夏目漱石と堺利彦が並ぶその盛り上がりは大正デモクラシーの幕開けとなった。この馬場孤蝶の出馬がいかに企画されたのかについては、私のブログにおそらく郷土の堺利彦研究家であろう安本次郎氏は、「資料的な根拠を示すことができないのだが、堺と漱石の間を取り持ち、漱石が堺の衆議院議員総選挙を支援する背景に犬塚ありと推定される」とコメントを寄せてくれた。おそらく漱石門下の森田草平とその仲間の生田長江が親交のあった馬場孤蝶に出馬を求め、森田草平の雑誌『反響』に参加していた小宮豊隆から犬塚武夫、堺利彦とネットワークが広がって、最終的には堺利彦が馬場孤蝶のに立候補を決意させたのであろう。そして、門下生たちが始めたこの動きに漱石も共感、賛同したものと思われる。

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