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2013年10月20日 (日)

坂の下の流れ

 司馬遼太郎は1968年に『坂の上の雲』を書き始め、「余談ながら、私は日露戦争というものをこの物語のある時期から書こうとしている。小さな。といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかなかった。この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。その対決に、辛うじて勝った。その勝った収穫を後世の日本人は食いちらしたことになるが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の智恵と勇気と、そして幸運をすかさずつかんで操作する外交能力のかぎりをつくしてそこまで漕ぎつけた。いまからおもえば、ひやりとするほどの奇蹟といっていい」(第一巻「真之」)と書き、関川夏央は2006年に『「坂の上の雲」と日本人』という本を書いて、「司馬遼太郎は日露戦争までの日本を、若い健康な日本と考えました。若くて健康な日本の受難とその克服を、『坂の上の雲』にえがききったわけです。しかし、その健康であったぱずの明治の四十年がその後、昭和二十年に至る不健康な四十年をなぜ生んだのかと考え続けたのでもありました」と書いた。
 関川夏央によれば、司馬遼太郎は『坂の上の雲』で、1968年当時の世相と戦後民主主義的なものの見方に対して、日露戦争前にあってその後失われた近代日本の原像を示そうとし、「その健康であったぱずの明治の四十年がその後、昭和二十年に至る不健康な四十年をなぜ生んだのか」を考えたと書いた。内田樹は『「坂の上の雲」と日本人』の解説に、「『坂の上の雲』を「健全な」ナショナリズム賛歌のようなものとみなして、それを高く評価する人も、それゆえ批判する人もいまだに多い。けれども、この作品に伏流しているものが、その「健全さ」がどれほどたやすく失われるかについての不安であることを日本人そのものに対する不安であることを見抜いた人は少ない。関川さんはその数少ない一人である」と書いた。
 司馬遼太郎が『坂の上の雲』を書き始めてから四十年経って、関川夏央や内田樹や私の世代がそろそろ還暦を迎える頃、2009年の年末にNHKは大河ドラマ『坂の上の雲』をやり、2010年の年末にもその再放送をやった。そして私は、それが繰り返されたことに不安を感じ、その不安は2011年3月11日を経てますますリアルなものになりつつある。『坂の上の雲』に描かれた「ひやりとするほどの奇蹟」をもって上りつめた近代日本は、日露講和条約の調印と同時に起こった講和反対国民大会によって暗転し、司馬遼太郎は「この大会と暴動こそ、むこう四十年の魔の季節への出発点ではなかったか」(『この国のかたち・1』)と書くわけだが、私には『坂の上の雲』のリバイバルは「不健康な四十年」のリバイバルになりかねないと思われたからであった。
 新たな「不健康な四十年」の始まりに対処するには、やはり「その健康であったぱずの明治の四十年がその後、昭和二十年に至る不健康な四十年をなぜ生んだのか」を問わねばならず、それは「若い健康な日本」のリバイバルと言うよりは、その反省的な見直しであり、もうひとつの近代日本の源流をたどることであった。それで私はこの文章を書き出したわけだが、その時に浮かんだイメージは「坂の下の流れ」であったのだった。例えば、先に書いた樋口一葉は本郷菊坂下辺りに住み、竜泉に転居して駄菓子屋を営んだ後に丸山福山町に住んだが、竜泉は山谷堀に近く、菊坂下や丸山福山町はは小石川台地と本郷台地の間にを流れる千川沿いの湿地であり、そこを舞台にして『たけくらべ』や『にごりえ』を書いた。また、次のイメージもあった。

 「何所か静かな所はないでせうか」と女が聞いた。
 谷中と千駄木が谷で出逢うと、一番低い所に小川が流れている。・・美禰子の立っている所は、此小川が、丁度谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋の傍である。
 「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いて見た。・・・
 二人の足の下には小さな河が流れている。・・美禰子の視線は遠くの向こふにある。向こふは廣い畠で、森の上が空になる。空の色が段々変って来る。・・・

 これは夏目漱石の『三四郎』で、団子坂の菊人形見物の折、三四郎と美禰子が二人きりになった場面である。この後に「迷子の英訳を知って入らしつて」「教えて上げませうか」「ストレイ・シープ、解って?」という美禰子の謎の言葉がつづく。明治36年(1903)に英国留学から帰国した夏目漱石は、本郷区駒込千駄木町57番地に転入して、そこで『吾輩は猫である』などの小説を書いた。千駄木町57番地は団子坂と眼と鼻の先であるから、時には漱石もその坂下辺りを散歩するくらいのことはあったであろう。森の上には雲があり、だんだん変わっていく空の色を見ながら、漱石は何を思ったであろうか。漱石が『三四郎』を書いたのは明治41年(1908)の9月から、明治38年(1905)の日露講和条約の調印と講和反対国民大会の大暴動からちょうど3年経った時である。そこで漱石は広田先生をして「滅びるね」と言わしめ、三四郎をして「ストレイ・シープ」に迷わせるのである。
 関川夏央によれば、司馬遼太郎は講和反対国民大会の大暴動にモッブの登場を見て、それに1968年の学生モッブをアナロジーさせたようだが、講和反対国民大会を主催したのは頭山満らの右翼壮士と河野広中らの野党政治家であり、そこに集まった群集たちは賠償金のとれない講和に激怒した。政府は戦争の継続は不可能であることを理解していたが、それを国民に知らせることはなく、韓国の保護国化を講和条約における獲得目標とした。司馬遼太郎的には「経済的利益を求めての満韓進出に喝采」する群衆を背景に統帥権を掌握した軍隊によって「不健康な四十年」が生み出され、「国家そのものが滅ぶ」ことになったということなのだろうが、「このちゃちな帝国主義」は軍と群集が作り出したと言うよりは「若い健康な」国家が作り出したものである。
 「若い健康な」日本は、帝国主義がちゃちである以前に資本主義がちゃちであった。日本が資本主義らしくなるのは日清戦争を経てである。そこで得た賠償金をもって日本は近代化をすすめ、併せてその販路を求めたわけだが、一番近いそれは韓国であった。明治37年(1904)2月10日にロシアに宣戦布告した日本は、同月23日には韓国と「韓国従属化の第一歩となった」日韓議定書を締結し、同年8月22日には第1次日韓協約調印して、日本が韓国の財政を掌握することとなった。明治38年(1905)1月は、元旦に旅順開城があり、3月10日には奉天大会戦、5月27日日本海海戦があったというまさに「坂の上の雲」のメインステージの時代であったわけだが、同年9月のポーツマス条約で日本による韓国の保護国化が承認されると、同年11月に伊藤博文は韓国の皇帝と会談し強圧的に第2次日韓協約、韓国保護条約を認めさせて外交権を奪い、12月には韓国統監府を設置して伊藤博文自らがが初代統監になった。
 明治9年(1876)の江華条約以来、日本は朝鮮の開国と独立を唱えながら、実際はその保護国化を謀て陰謀をめぐらせては失敗してきたわけだが、「ひやりとするほどの奇蹟」、日露戦争の勝利という「幸運をすかさずつかんで操作する外交能力のかぎりをつくして」一挙に保護国化をすすめたわけである。この策動は明治40年(1907)のハーグ密使事件を機にした韓国皇帝の譲位と韓国の内政権を剥奪した第3次日韓協約の調印、それらを通じて韓国国民の恨みを買った明治42年(1909)のハルビン駅頭における伊藤博文の暗殺を経て、明治43年(1910)8月22日の韓国併合の条約調印と29日朝鮮総督府の設置までつづいた。そして、日露戦争に始まり韓国併合で終わるこの時代は、平民社を中心にした明治の社会主義運動と、『吾輩は猫である』から『門』にいたる夏眼漱石の文学活動と全く重なるのである。
 日清戦争の結果は機械工業の勃興を促し、多額の賠償金の獲得は日本の資本主義の形成を早め、併せて労働問題を惹き起こして、明治30年(1897)の労働組合期成会の立ち上げにつながったわけだが、労働組合の興隆に対して、藩閥政府は治安警察法をもってそれをつぶした。しかし、これまで見てきたように民権運動から引き継がれた精神と儒教的教養や藩閥政府に対する佐幕派系の矜持の中からは、やがて社会主義が自覚され学ばれ、日露戦争に対して平民社を立ち上げてそれに反対するにいたった。組織された労働者はいなかったが、『平民新聞』は全国に数千人のの読者を得て、啓発活動や海外の運動との交流もすすめ、鉄道や坑山や造船所ではストライキが次々と発生すると、藩閥政府からはひそかにこれを根こそぎにする策動をすすめだした。
 明治37年(1904)11月の創刊1周年記念号に『共産党宣言』を掲載して発行禁止になった週刊『平民新聞』は明治38年(1905)1月に廃刊になり、それを引き継いだ『直言』も同年10月に発行禁止となって平民社は解散し、『平民新聞』の筆禍事件で入獄していた幸徳秋水は出獄後の12月にアメリカに渡った。また、同年11月には第2次日韓協約(韓国保護条約)が調印され、12月に伊藤博文は設置された日韓国統監府の統監になるのだが、国内では明治39年(1906)1月7日に桂内閣に代わって第1次西園寺内閣が成立し、一時の春の中で2月24日に日本社会党結党が結党された。日本社会党結党は同年8月に堺利彦の提起で電車賃値上げ反対の運動を起こし、それへの同調者とみなされないように注意する手紙に対して夏目漱石は、前述したように「堺枯川氏と同列に・・」の返信を書き、9月には『二百十日』をを書き、10月には「命のやりとりをする維新の志士の如き烈しい精神で文学をやってみたい」と鈴木三重吉に返信した。同年7月にアメリカから帰国した幸徳秋水は、それまでの普通選挙に対して直接行動を提起し、築地新富町に新たに平民社を構えて日刊『平民新聞』の発行をすすめる。明治40年1月に日刊『平民新聞』は発行されるも、同年2月4日に足尾銅山で暴動が発生、同月17日の第二回社会党大会で党則が「本党は社会主義の実行を目的とす」と改正されると、同月22日に政府は結社禁止になり、同月14日には日刊『平民新聞』も廃刊に追い込まれ、同月25日に発売になった幸徳秋水の『平民主義』も出版即日発禁となった。先に書いた山川均の書く「柏木団」の話はこの頃のことで、山川均が「私はたちまちその日から無収入になった」と書いたように、柏木には生業に事欠く社会主義者たちは身を寄せ合って暮らしていたのであろう。
 明治40年(1907)6月に片山潜と田添恭二らは「憲法の範囲内において社会主義」をめざすとした日本平民党を結党したが、政府は翌日これを禁止した。さらに、同年末に片山潜は無政府主義者を除外して党でもない「平民協会」を結社して、「本会は労働者をして騒動組合を組織せしめ、以って其経済的独立を計り、国家産業の基礎を堅固にすることを努む」とした綱領を掲げたが、これも即日結社を禁止された。山川均曰く「たとえどこまで後退してみても弾圧から免がれることはできないことが立証され」たわけである。
 この頃、先にアメリカに渡った幸徳秋水が帰国に際してオークランドでつくった社会革命党周辺のビラに「暗殺」があるのを伝え聞いた元老の山県有朋は、西園寺内閣の社会主義取締りを怠慢としてその倒閣をすすめるのと併せて社会主義者への監視とシフトを強め、「巨魁ハ幸徳秋水」であるとした。明治41年6月22日に開かれた山口孤剣の出獄歓迎会の途中で、大杉栄や荒畑寒村らによって「無政府共産」「無政府」「革命」と書かれた赤旗が打ち振られ、さらに街頭に出ようとした時に、待ち受けていた警察官と乱闘になり、これを止めようと仲裁に入った堺利彦や山川均、管野スガら14名が逮捕されるという事件が起こった。これが赤旗事件で、逮捕者は数ヶ月の入獄だろうと思っていたところ、12名の被告に重禁錮2年6ヶ月という判決が下された。病気療養のために明治40年10月に土佐に帰り、クロポトキンの『麺麭の略取』の翻訳をすすめていた幸徳秋水は「サカイヤラレタスグカエレ」の電報を受け取ると、明治41年7月21日に土佐を発ち、東京に向かった。後に大逆事件で取り調べを受けた幸徳秋水は赤旗事件の謀略を見破り、検事に向かって赤旗事件は「政府の予定の計画」であるとし、管野スガらは赤旗事件の警察官の態度に憤慨したのだと言ったという。しかし、幸徳秋水が土佐からの上京の途中で立ち寄った先々の人々は、みな大逆事件の陰謀の加担者とされてしまうという一大フレームアップがまた政府によって仕掛けられ、幸徳秋水もまたその罠にはまるという逃れようのないシフトが敷かれていたわけである。大逆事件の主任検事小山松吉は、後にこう語っている。「いったいこの事件がなぜ起こったかというと・・・四一年六月いわゆる赤旗事件が起こったのである。このため東京の同志がほとんど全部入獄したことを聞き、幸徳は政府が同志を迫害したとて憤怒し、七月に中村を出発し、紀州の新宮町に大石を訪ね、そこの同志を集めて、『赤旗事件の報復をせねばならぬ一と結束を堅くし、また大石は医師だから薬のことが分っているとて爆弾の製法を研究することとなった。・・」と。明治44年(1911)1月18日に、連座した者24名に死刑の判決が下った。
 上京後の明治41年11月30日の大條虎介宛ての手紙に、幸徳秋水は以下のようにある。
 「殊に近来政府の我党に對する圧迫は益々甚しく、小生の住居の前後には常に三四人の探偵が張番し居り、小生の来往に必ず尾行し、来訪の客には一々姓名を尋ねるのみならず、屡々同志と称して種々の廻し者を遣はし来るやうの有様にて、殆と手心足も出申さず、叉社會生殺に関する出版印刷は、あらゆる手段にて禁絶するの方針とかにて、都下の印刷處は皆々此種の印刷物を拒絶しますので困るのです」と。
 この頃、夏目漱石は『三四郎』を脱稿し、同年12月に幸徳秋水は『麺麭の略取』を秘密出版し、翌明治42年1月30日に『麺麭の略取』の出版を届け出るも即日発禁となり、同年5月に管野スガと雑誌『自由思想』を発行するも即日発禁、第2号も同様で管野スガには多額の罰金刑が課せられた。この頃、漱石は小宮豊隆と共にアンドレーエフを読んでいる。そして前述したように同年5月10日にベンガル湾上で二葉亭四迷が亡くなり、同月31日に漱石は『それから』を起稿する。先に引用した『それから』の一プロット「平岡はそれから、幸徳秋水と云ふ社会主義の人を、政府がどんなに恐れてゐるかと云ふ事を話した。幸徳秋水の家の前と後ろに巡査が二三人づつ昼夜張番をしてゐる。一時は天幕を張って、其中から覗つてゐた。秋水が外出すると、巡査が後を附ける。万一見失ひでもしやうものなら非常な事件になる」は、上記の幸徳秋水の手紙に書かれた状況が朝日新聞に載り、漱石はそれを参考にを描いたと思われる。同年9月20日から10月17日まで、漱石は旧友の中村是公の招きで満州と朝鮮を旅行する。帰国後の10月26日にハルビン駅頭で伊藤博文は暗殺され、それらを時代背景にして翌明治43年(1910)2月下旬に漱石は『門』を書き始める。そして同年6月1日に伊豆湯河原で徳秋水が逮捕され、6月5日のそれが新聞発表になったのを読むと、漱石は「うん、然し叉ぢき冬になるよ」と書いて『門』を脱稿し、同年8月22日に韓国併合の日韓条約の調印がなされ、8月24日の夜に漱石は修善寺温泉で大吐血し、一時危篤状態に陥った。私はこれらの流れに因果があるとは言わないが、「坂の下」から見れば、「坂の上」に上りつめた明治40年代とはそういう時代であったわけである。
 明治43年(1910)9月に赤旗事件で大逆事件を免れた堺利彦と山川均は千葉監獄を出獄する。『山川均自伝』には、以下のようにある。
 「私はいちおう守田の家に落ちつくことになり、停車場への途すがら、守田は幸徳さんのことを断片的に話してくれ、ことの意外におどろかされた。・・・守田は・このさい東京でまごまごしていても運動ぱまるきり出来ないし、第一、生活の方法が絶対にない、それで少しも早く、東京を離れていちおう田舎に行くことが賢明だ、明日にも、できれば今夜にでもと勧めてくれた。・・あくる日、私は東京を立った」と。
 堺利彦の『社会主義運動史話』にはこうある。
 「わたしは九月二十二日、予定のとおり出獄した。そして初めて「大逆事件」の進行中の話をだいたい聞いた。それから一月半ばかりの後十一月八日付けの幸徳秋水の手紙が市ケ谷監獄から初めて来た。わたしは四谷の南寺町に住んでいた」と。
 明治43年(1910)11月8日の堺利彦宛の幸徳秋水の手紙は「二年目に君に書く、嬉しくて堪らぬ」で始まり、明治44年(1911)1月1日の幸徳秋水の手紙には、以下のようにある。

 愈々四十四年の一月一日だ、鉄格子を見上けると青い空が見える、天気が好いので世間は嘸ぞ賑かだらう、火の気のない監房は依然として陰気だ、畳も衣服も鉄の如く凍って居る、毛布を膝に巻て蹲まり、今は世に亡き母を懐ふ、▲母の死は僕に取ては寧ろ意外ではなかった、意外でないだけに猶ほ苦しい、去十一月末、君が伴ふて面会に来た時に、思ふ儘に泣きもし語りもしてくれたなら左程にも無ったらうが、一滴の涙も落さぬ迄に耐えて居た辛らさは、非常に骨身に徹えたに違ひない、イクラ気丈でも帰國すれば屹度重病になるだらうと察して、日夜に案して居だのは先頃申上けた通りだ・・・▲君も知てる通り、最後の別れの析に、モウお目にかかれぬかも知れませんと僕が言ふと、私もさう思って来たのだよと答えた、ドウかおからだを御大切にといふと、お前心シツカリしてお出で、と言捨てて立去られた音容が、今もアリアリと目に浮んで来る、考へで居ると混が止らぬ、▲其後僕が余り気遣ふもんだから、いつも健康だ健康だと言て来た、訃報の来る二三日前に受取た手紙も、代筆ではあったが「お前の先途を見届けぬ中は病気なぞにはならぬから、ソンナことを心配せずと本を読たり詩を作ったりして楽しんでで居なさい」と書てあった・・・▲ア、何事も運命なのだ、悔て及ばぬことに心を苦しめ身體を損ふのは、最後まで僕をアベコベに慰め励ましてくれた母の志にも背くのだから、力めて忘れやう忘れやうとして居る、が語るに友なき獄窓の下にボツ然として居る身には、兎もすれば胸を衝いて来る・・・▲長々と愚痴ばかり並べて済まなかつた許してくれ、モウ浮世に心残りは微塵もない、不孝の罪だけで僕は萬死に値ひするのだ。  一月一日   明治四十四年

 そして明治44年(1911)1月19日、死刑宣告を受けた翌日の手紙は、「未練らしいが今一度告別の面会を得たいものだ」で終わっている。

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コメント

投稿: eajbxNBA | 2013年11月14日 (木) 22時10分

What are the hours of work? http://fittor.top/ gamla fittor They’re not. As they head into Atlanta for what has the potential to be another ugly one next Monday night, the Jets have just one thing going for them, a pretty good defense. The last time that carried a team was the 2000 Ravens.

投稿: Serenity | 2019年6月 5日 (水) 21時22分

I'll send you a text http://tubegalore.in.net/ tubegalore "So long as the website is accessible and the plans and the plan information are displayed properly so a consumer can shop for coverage and compare the plans, they will claim victory," said Chris C1ondeluci, an employee benefits attorney at Venable LLP and a former staffer at the Senate Finance Committee who helped draft the Affordable Care Act.

投稿: James | 2019年6月 5日 (水) 21時22分

We'll need to take up references http://xnxx.in.net/xnnx/ xnnx The financial secretary to the Treasury, Sajid Javid, said: "This government has allocated up to £1.5bn to help the policyholders of Equitable Life who suffered an injustice, with hundreds of thousands of policyholders receiving over £700m in payments since 2011.

投稿: Marco | 2019年6月 5日 (水) 21時22分

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