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2013年10月26日 (土)

売文社、堺利彦と山川均のしのぎ

 堺利彦は、明治43年(1910)9月22日に千葉監獄を出獄する。その時に「初めて大逆事件の進行中の話をだいたい聞いた」堺利彦は、とりあえずは食うための算段をするわけだが、平民社の仲間で週刊『サソデー』の編集に従事していた白柳秀湖、山口孤剣が堺利彦に小説の翻訳仕事を持って来てくれて、出獄後の最初の売文をする。それは堺利彦の人徳と能力に信頼する仲間からの応援であるわけだが、堺利彦は獄中にあった時から出獄後のしのぎを考えてきた。堺利彦は出獄後に大逆事件を知り、幸徳親子を支えながら、明治43年(1910)12月31には日獄中で考えたしのぎの構想、「売文社」を立ち上げる。「売文社の記」には以下のような業務案内が書かれている。

 年ごろの娘が嫁入り口を気づかい、卒業前の学生が就職口を気づかうごとく、満期の近い囚徒はみな放免後の生計を案じ煩う。・・・そこで小生は出獄前、いろいろと考えた末、ついに「売文社」ということを思いついた。そして順の時、室内において使用を許されたる紙石盤の上に、左のごとき広告文案を書きつけてみた。
 小生はやや上手に文章を書きうる男なり。いずれ文を売って口を糊するにまた何のはばかるところあらん。今回断然奮発して左の営業を聞姶す。既知未知の諸君子、続々ご用命あらんことを希望す。
  一、新聞、雑誌、書籍の原稿製作
  一、英、仏、独、露等諸語の翻訳
  一、意見書、報告書、趣意書、広告文、書簡文、
   その他いっさい文章の立案、代作、および添削
         売文社社長  堺 利彦

 堺利彦の社会主義が際立っているのは、それが後に言うイデオロギー的なものではなくて、生活や食べることをベースにしていることであろうか。堺利彦は自ら売文した文章を集めて、さらに『売文集』としても売るのだが、その中の一文には以下のように有る。
 「僕などは社会主義者として常にわが生活の不安と危険とについて思い煩うた。こんな事をしていて先々飯が食ってゆかれるであろうか。妻子を飢餓に泣かせるようなミジメな境遇に陥ることはあるまいか。・・こんな事を考えてずいぶん懊悩したこともあった。しかし僕はありがたいことに、多年の熟練で文章が小達者に書ける。これを商売にすればたいていな場合、細々ながら食うには困るまいと考えられた。・・・このごろ社会主義者として残っている者は、こうしていてもとにかく食ってゆかれるやつか、ただしはこうしていても、改心しても、どうせ食えぬやつかである」と。
 次に堺利彦が堺利彦らしいのは、自分だけでなく、仲間も飯を食えるようにしてやることで、前述したように大杉栄が義妹の堀保子と結婚した時には、自分がやっていた『家庭雑誌』の経営を大杉栄に譲り、日刊『平民新聞』が廃刊になった後には、山川均らに出版の仕事をつくろうとした。『山川均自伝』には以下のようにある。
 「この時期にも、またずっと後の時期になっても、ともかくなんとかして生活をしていけたのは、なにかしら堺さんが、ときどきに仕事を作ってくれたからだった。そして当時の事情では、仕事を作るということは、想像のできないほどむつかしいことだった。・・・ともかく堺さんは、よく青年たちの面倒をみて、そのくせよく不平や文句を言われていた。『平民新聞』がなくなると、たちまち何人かの失業者ができた。それてさっそく堺さんは、『社会問題辞典』を出すプランを立てた」と。
 さらに、失業者に仕事を企画するだけではなくて、その人柄への信頼からか心配からか、堺利彦のところには支援者からよく米が集まる。上州から遊びに来た知人は、おみやげがないからと言って米を5升ばかり置いていく。またある年の大三十日には、常陸(ひだち)牛久の田園画家小川芋銭(おがわうせん)から「飯米の内をすそ分けする」と言って、白米一俵が送られてくる。すると堺利彦は、「いかにもありかたい志だと感佩して・・・その一俵は、新年早々、近隣のやせ浪人どもに分配し」てしまう。さらに「去年の春、四谷の南寺町に住んでいた時、ある日の事、米俵をいくつか積んだ車力が僕の家の門内に挽きこまれた。ハテナと思って聞いてみると、車力の男はただ黙って、水引きを掛けた奉書を差し出だす。小首を傾けながら披見に及ぶと、『一、白米三俵、右献上つかまつり候うなり、山口義三』とある。出口義三とは言うまでもなく、サンデー読者のおなじみなる孤剣君その人である。それからあとで考えた。なにしろこの面白い下され物を、僕一人でムザムザと食うには忍びぬ。そこで『今日僕の家に天から白米が降って来た。ほしい人はふろしきを持って拾いに来い』という葉書を方々に飛ばせた。翌日から翌々日にかけて、続々として米拾いが来た。実に面白い光景であった」という。
 片山潜はそのアメリカ流の合理主義から活動費は割り勘にして、共に行動した貧乏な西川光二郎らからは男気なしの不人情でケチということにされて、最後はみんなに去られてしまう。それと比べれば、金が無ければ自分の羽織を質入してでも金策して金を用立ててやるような堺利彦には、義理・人情・浪花節的なところがある。果たして社会主義運動にとって、大組織をも機能的に動かしうるような合理的、官僚的対応が
いいのか、義理・人情・浪花節的な対応がいいのか、いちがいには言えないところだが、私が生協で働いていた時のボス、まあ理事長だけどボスとか親分といった風情の下山保氏は、頭のハゲ方まで含めて、堺利彦似の方であった。
 明治44年(1911)春、堺利彦は大阪、岡山、熊本、土佐、紀州などの地方に刑死者の遺族を歴訪する。明治45・大正元年(1912)は四谷左門町の自宅で売文社をやりながら執筆、『売文集』などの出版などをやり、日本蓄音機商会に翻訳係として勤務した。大正2年(1923)になると売文社はやや繁栄してきたので、4月に事務所を京橋区南左柄木町(現・中央区銀座6丁目)に移転、大正3年(1914)1月には売文社から機関紙『へちまの花』を創刊し、その序に「近来、カフェとかバアとかいうものがにはかに流行するが、しかしそれがみな大なり小なり常連のお客などこしらえて、それぞれ面白けなクラブになっている。わが『へちまの花』もやはりそんな意味で、文界の一小クラブになりたいと望んでいる。別に業々しい主張も抱負もないが、ただ売文社という殺風景な商店にもこれだけの余裕と趣味とのあることを見てほしい」と書いた。大正2年には「カフェとかバア」が流行ったのかと思うところだが、この骨太な洒脱こそが堺利彦の真骨頂であろうか。 大正4年(1915)9月には、『へちまの花』を月刊『新社会』と改題して「小さき旗上げ」をなして以下のように書き、11月からは自宅で社会主義座談を開くようになった。

 ときを作って勇ましく奮いたつというほどの旗上げではもちろんないが、とにかくこれでもちびた万年筆の先に掲げた、小さな紙旗の旗上げには相違ありません。まずは落人の一群が山奥のほら穴に立てこもって、容易に敵の近づけぬ断崖をたのみにして、わらび、くずの根に飢えをしのぎ、持久の策を講ずるという、みじめではあるが、かつはいささか遠大の志を存する、義軍の態度であります。
 したがって、明日や明後日に山を下って、敵の戦線に逆襲を試みるという企てもなく、またそれだけの実力もない。その点は敵軍におかれても当分ご安心あってしかるべく存じます。ただ遠近の同族とわずかに相呼応して、互いに励まし慰めつつ、おもむろに時機を持つの決心は、かなりに堅くいたしておるつもりである。
 さりながらこの退いて守る山寨をも、なお必ず勦絶せねばならぬというので、敵の大軍がしいて押し寄せて来るならば、それは是非に及ばぬ、いさぎよく一戦を試みて運を天に任せるの外はない。
 もしそれ、来たってこの山寨に投じ、あるいははるかにこの孤軍を援けんとする者があるならば、戦術の相違、軍略の差異、それらは今深く争いだてをする必要はない。ただ大同に従って相共に謀ればよいと信じている。(大正四・九、第二巻第一号)、

 堺利彦は「小さき旗上げ」に際して、故郷に帰ったままの山川均を呼び出す。明治43年(1910)9月に千葉監獄を出獄してすぐに故郷に帰った山川均は、それからの5年間をどうすごしたのかを、昭和10年(1935)に書かれた『転向常習者の手記』に見てみる。

 「私は、三四年の間隔をおいて、薬種商を二度やったことがある。最初のときは明治38年ころだった。私はだしぬけに、小さいながらも一つの薬種店を任された。・・・」
 「四十年の春、私は二度目に東京に出て、新聞記者に転向したが、僅かに三四ケ月しかつづかなかった。これは私が転向する前に、新聞の方が没落したためだった。・・・」
 「四十二年には、もう一度転向して、私は二度目の薬屋さんになった。しかし同じ薬屋さんとはいふものの、今度は番頭さんではなく、いやしくも独立した一店の主人たることにおいて、いちだんの発展をしたものだった。・・・」
 「大正三年だったか、よく覚えないが、私は印刷屋に転向するつもりで九州の福岡に移ったが、これはいろいろの障害で実現しなかった。そのころのもう一つの転向未遂は、写真屋の開業だった。・・・私はよく、重い四ツ切の機械を自転車につけ、峠を越えて六七里もある田舎の小学校の卒業式などに行ったことがある。或る時は、芸者をつれた旦那に追従して、海水浴場にのこのこ出掛けたこともあった。・・・」
 「大正四年には、私は山羊牧場の主人だった。しかも舞台は九州の南端だった。競争者に打ち克つために、ないしはほんの僅かばかりの金銭上の利益を獲得するために一生懸命の生活も面白いが、さりとて、ゆるやかにたち昇る桜島の噴煙を眺めつつ、メイメイと啼く山羊を相手に日を送ることも、決して幸福でないことはない。・・・私は二人の青年を使って、五六十頭の山羊を飼ってゐた。毎朝二時に起きて乳を搾ったものだ。・・・」
 「大正五年、何年目かに、そして何度目かに、私はまた東京に舞ひもどった。そして、堺君のやってゐた売文社に入れてもらった。パンにペンを突き剌したのが、売文社のマークだった。いふまでもなく、パンのためにペン、売文のしゃれだった。・・・」と。
 「或る日のこと、どういふ風の吹き廻しか、さる雑誌から原稿の依頼を受けた。私は何かの間違ひではないかとさへ思った。そのうち他の雑誌からも、同じく執筆の依鎖を受けた。・・・その頃、これはほんとの原稿生活をやってゐた山ロ孤剣君が、私のために『新日本』の編集者を紹介してくれた。・・・こうして私の文筆生活がはじまった」と。

  これは要するに、食うために色々な商売をしたという山川均のしのぎの話である。そしてしのぎに苦労するのは、その前段での入獄があって、出獄後のしのぎに苦労するわけで、山川均は明治33年(1900)、20歳の時に不敬罪で3年6か月の重禁錮刑を受け、出獄後は義兄の林さんの援助で薬屋をやる。やがて幸徳秋水に呼ばれて、日刊『平民新聞』の発行を手伝うが、それの発行禁止の後1908年の赤旗事件で2年の刑を受けてまた入獄。その間に大逆事件が起こって、出所後はまた薬屋、印刷屋、もぐりの写真屋、ヤギ牧場の経営などを経て、今度は堺利彦に呼ばれて文筆を生業にするようになるわけである。
 『転向常習者の手記』は、昭和11年(1936)に山川均が鎌倉郡(現・藤沢市)に移転して、湘南うづら園の経営を始めたことに対して、当時のマスコミが「論壇の雄、山川均氏第一線から退却、文筆生活を放棄してうづら屋に転向」と山川均を揶揄したことに対して書かれたもので、「論壇の雄」に対して浴びせられる皮肉と嘲笑を、軽くいなして書いている。山川均は、その生きざまはとても凡人のものとは思えないが、その自伝を『ある凡人の記録』と名付けたようなユーモア感覚を持っていて、この非凡なユーモア感覚といざとなれば粛々としのぎをする姿は堺利彦と同様である。1937年には人民戦線事件が起きて、山川均は検挙されるわけであるが、その前にうづら園の経営を企画したのは、やはり次のしのぎを考えたからでろうか。山川均の父親は、山川均が不敬罪で入獄して以来、門を閉じた生活を送ったという。山川菊枝「倉敷の父と母」(『山川均全集・第2巻』所載・)によれば、家の中でうづらを飼っていたという。だから、山川均がうづらを飼って時代をしのごうというのはごく自然な話なのであって、出獄後の山川均はやはりそうやって戦中をしのいだのであった。
 戦前の社会主義者にとって運動をすることは、同時に自らしのぎをしてそれを支えるということであった。そして仲間も多く食うや食わずの折など、支えあって暮らした。先に書いた淀橋区柏木の「柏木団」もそうである
し、週刊『平民新聞』の時代の平民社について、堺利彦は以下のように書いている。
 「無給といっても食わずにはいられない。枯川と秋水とは家族があるので、やむなくこれまでどおり淀橋に住む実費だけを、いな、実費に足らぬだけを持って行く、西川、石川、柿内、神崎の諸君は、全く私有財産を絶滅して平民社内に一個の小共産社会を作った。飯は社有の飯びつから食う。湯銭、理髪鉄、郵税はそのつど社有の銭箱から取り出される」「日用の物にはむろん不足がちであるが、一社の平等平和の思想はこの不足を補って余りがある」と。
 堺利彦が売文社を企画した時、さらに「小さき旗上げ」をやった時に堺利彦にあったものは、社会主義をやるにはまず自分と仲間が食えることであり、そのために仕事と「小さな共同体」をつくることであったのではあるまいか。これが堺利彦と山川均の社会主義の原点であったと思うところである。
 2010年の夏に、私は安本次郎氏という方から私のブログに「堺の出身地である福岡県京都郡みやこ町では、2010年11月3日、ノンフィクション作家黒岩比佐子氏(講談社より『パンとペン~堺利彦と「売文社」の闘い~』刊行予定)を講師に大逆事件・売文社創設100年の記念講演会を開催するとのこと。黒岩氏の評伝には多くの期待が寄せられている」というコメントをいただいた。黒岩比佐子氏の『パンとペン~堺利彦と「売文社」の闘い~』(講談社2010.10)は、その秋に出版され大いに啓発されたところであったが、同じ頃に黒岩比佐子氏は亡くなられた。『パンとペン~堺利彦と「売文社」の闘い~』は名著である。ぜひ多くの方に読んでいただきたく、私の蛇足はここまでに。

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コメント

山川均さん、こんな人とはしりませんでした。

投稿: | 2013年10月26日 (土) 17時11分

はじめまして。たまたま通りすがり、一読、惹かれました。勝手ながら、リンク貼らせていただきました。長く開設しておられるようですので、順に読んでいきたいと思います。

投稿: BLOG BLUES | 2013年12月17日 (火) 16時28分

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