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2013年10月31日 (木)

『明暗』と漱石の個人主義

 堺利彦が『へちまの花』に書いた「一膳飯たぬき」という以下の文章がある。
 「ある日『たぬき』という雑誌が舞いこんで来た。小石川関口水道町すなわち江戸川電車終点の一膳めし屋「たぬき」の機関紙である。・・機関紙の表紙裏に左のとおり書いてある。『夜は電車運転中火を落とさず候、文芸等に関する雅会には二階無料にてお貸し申し候、酒は灘の生一本一合一〇銭という方外の安価に候、貧乏につきすべて現金に申し受け候』・・これを読んでチョット心が動いたのでさっそく・・夕方から出かけた。ところが、飯田橋の停留所で電車を乗り換えようという時恐ろしいドシャ降りの雨に会って、やむをえずそこの何とかバアという所でビールを引っかけ、三銭均一の刺身、枝豆、すりいも、なんどいう豪奢を窮め、それからヤット小降りになったところを見すまして先方にかけこむと、なアんのことだ、二、三日前の出水以後今日まで休業という。仕方がないからすぐその隣の鳥屋にはいってともかく夕飯の腹をこしらえた」と。
 これは『へちまの花』の大正3年(1914)10月1日発行の第九号に書かれたもので、当時早稲田方面にはこのような一膳飯屋があり、飯田橋の停留所辺りにはバアなぞがあり、堺利彦はバアで三銭均一の刺身でビールを引っかけたりすることが分かる。そしてなぜここから書くかと言うと、この辺り、おそらく早稲田方面は、それから2年後の大正5年(1916)に書かれた夏目漱石の『明暗』の主要な舞台のひとつにになっているからである。
 『それから』では代助、『門』では宗助が主人公で、『明暗』では津田という男がいわばそうなのであるが、彼の周囲に登場する妻のお延、妹のお秀、義理ある年上の吉川夫人、それに津田の昔の恋人であった清子が配置されると、津田はまるで狂言回しにしか見えない。『それから』や『門』とちがって、津田は意のあった女に去られてお延といっしょになる。津田は吉川夫人の主人の会社に勤めてはいるが、気分は高等遊民で親からの援助も受けていて、自立できているわけではない。そして津田は、自分から去って行った清子への未練がすてきれずにいながら自己中心的に対処するのであるが、そこに津田のかつての学友で貧乏ジャーナリストをやっている小林という男がいてからんでくる。
 津田には藤井という育ての親の叔父がいる。藤井は「彼は未だかつて月給といふものを貰った覚えのない男であった。月給が嫌ひといふよりも、寧ろ呉れ手がなかった程我儘だったといふ方が適当かも知れなかった。・・一種の勉強家であると共に一種の不精者に生まれ付いた彼は、遂に活字で飯を食わねばならない運命の所有者に過ぎなった。斯ういふ人にありがちな場末生活を、藤井は市の西北にあたる高台の片隅で、此六七年続けて来たのである」と描かれており、藤井の家は「津田の宅から此叔父の所へ行くには、半分道程川沿の電車を利用する便利があった」とある。川とは飯田橋から早稲田に向かう江戸川(現・神田川)であり、堺利彦の「一膳飯たぬき」にもあるように、川沿いに市電が走っていたわけである。そして、ある日叔父を訪ねた津田はそこで藤井の出す雑誌を手伝っている小林と出会い、その帰りがけに津田は小林からバアで飲もうと誘われる。津田は気がすすまないが、小林から「そんなに嫌か、僕と一緒に酒を飲むのは」と言われると、その気はないのに「じゃ飲もう」と応える性格である。ふたりが店に入ると後から入って来た男がいて、小林は「彼奴は探偵だぜ」という。小林には尾行がついているのである。小林は津田にドフトエフスキーを語って涙を落とし、とうとう東京に居たたまれなくなって朝鮮に渡ると言う。やがて店を出たふたりは歩き出。やりとりがあって、小林は「津田君、僕は淋しいよ」と言い、以下の情景がある。
 「津田は返事をしなかった。二人は又黙って歩いた。浅いい河床の只中を、少しばかり流れてゐる水が、ぼんやり見える橋杭の下で黒く消えて行く時、幽かに音を立てて、電車の通る相間々々に、ちょろちょろと鳴った」と。これもまた坂の下の流れであろうか。小林は「旅費は先生から借りる、外套は君から貰ふ、たった一人の妹は置いてき堀にする、世話はないや」と言いはなち、ふたりは分かれ、津田は後も見ずにさっさと家に急ぐ。
 果たして漱石は、「僕は未だかつて損になるべき何物をも最初からもっていないんだからね」と居直り、幸徳秋水とドフトエフスキーを語り、津田から外套や金を巻き上げる存在感たっぷりの小林という人物をどこから造形したのであろうか。ゴロジャーナリストであるところには『それから』の平岡を引き継いで発展させたようでもあるが、ここは私的にはそのルーツを『三四郎』に出てくる佐々木與次郎におきたいところ。與次郎は「専門学校を卒業して、ことし又専科へ這入つた」という設定で、かの日本は「滅びるね」の広田先生を「偉大なる暗闇」だとする御仁である。
 漱石の小説においてその主人公は、だいたい本郷にある大学の卒業生という設定になっている。それに対して、『明暗』の津田と小林、それに藤井なんかもそうだが、舞台の設定エリアからして本郷というよりはどっちかというと早稲田あたりという感じがしないでもない。明治38年(1905)9月に高浜虚子に「とにかく辞めたきは教師、やりたきは創作」と書き、明治40年(1907)3月に大塚保治のすすめる東大教授の口を断って朝日新聞に入社し、西園寺公望首相の文士招待会の出席を断り、明治44年(1911)2月には文部省からの文学博士号授与を辞退した漱石に一貫してあったものは、国家の接吻は死の接吻、そんなものを受けたら創作なんぞ出来はしないといった思いだったのではあるまいか。一方、早稲田は藩閥政治への批判と日本の自然主義文学の中心であった。西欧の自然主義の日本におけるデフォルメされたその受容に対して批判と危機意識があった漱石は、小林というお延に「生まれて初めての人に会ったような気がした」と思わせる人物を造形し、大正5年(1916)という時代の中で自然主義の受容の先に来るだろうものを予測しつつ、『明暗』本来のストーリーを超えて惹かれていく。『夏目漱石』において江藤淳は、『明暗』の小林についてこう書いている。
 「社会の片隅に置き去られたような群小ジャーナリストや不遇な文士・・・教養と敏感な感受性を持ちながら社会的地位に恵まれない。つまり彼らは、自分たちの悲惨な生活を悲惨とみとめ得る知的能力と自尊心を持つ故に一層みじめな劣敗者なので、漱石は後に「インテリ」と侮称されるこの「文明開化」の私生児をいちはやく問題にしているのである」。
 「これは所謂「自然主義」という文芸思潮を潔癖に排した漱石が、所謂「自然主義作家」の生まれる土壌に対して、冷淡でなかったことを物語っている。・・・そして小林というプロレタリア意識のある人物を描くことによって、作者は、これら鈍才達の感傷的な芸術に対する信仰の底に押しかくされている、ひがみや憎悪に照明をあて、それらの感情に、直截な、知的な表現をあたえたのではなかったか。小林は、このような不遇なインテリが、容易に熱狂的な左翼思想家になり得ることを強く暗示しているのである」
 「則天去私の作家は世俗的な感情である階級的復讐心をもった小林を、貧乏インテリのすね者に設定した時、不幸にも則天去私を放棄したのである・・・・作家漱石は、自らの東洋文人風の趣味よりも、ここで世俗的日常茶飯の塵にまみれて、小林という新しい人間を創り出すことに、格段の興奮を覚えているのである」。
 「この事実は、一つの可能性を暗示している。それに若し漱石が生き永らえたとして、この可能性に忠実であったとするなら、来るべき新しい作品の主人公は、小林や藤井のような人物達、『明暗』で印象的なわき役を演じている貧乏インテリ達ではないかということである」と。
 以上の前段で江藤淳は「(漱石はロンドン留学中に)社会主義思想に対する関心をすら示していたのではないか」と書いている。漱石がそうであったことを是認しないかしたくないという観点から『明暗』を読めば、小林のような「貧乏インテリ」は「ひがみや憎悪」を持った「一層みじめな劣敗者」であるとかという品のない表現になってしまうわけだが、漱石は密かに社会主義に関心を持っていたという前提で読めば、『明暗』は難解なばかりの小説ではない。江藤淳は「(漱石は)小林を、貧乏インテリのすね者に設定した時、不幸にも則天去私を放棄した」と書くわけだが、私的には漱石は社会主義にシンパシーしたがゆえに『明暗』はあえて「則天去私」の心境を表したものとし、後に信頼する弟子の小宮豊隆にそう書かせたと思うところである。宮沢賢治の「羅須地人協会」の「羅須」もそうで、賢明な作家が馬鹿な国家から身を守るには、ありがたい意味不明さをもって馬鹿には理解できないように表現するしかないわけである。大正5年(1916)12月9日に漱石は亡くなり、翌年2月にロシアに革命が起こる。小宮豊隆は、『漱石の芸術』において「『明暗』全篇に與へられた傾斜から考へると、小林の預言は、同時に作者の預言であり」と書くのである。
 では、存命中に漱石はそのあたりのことを何も語らなかったのかと言えば、小説ではなくて講演会において語れる範囲のことは語っている。代表的なものは『現代日本の開化』で語られた「内発的開化」と『私の個人主義』とあろうか。『現代日本の開化』は、大阪朝日新聞社が企画し1911年(明治44)8月に和歌山で行われた講演であり、外発的な開化とその「一大パラドックス」に対して「内発的な変化」が提起されている。
 漱石は、活力には人間活力の発現という積極的なものと楽をしたいという消極的なものがあって、「この二種類の活力が上代から今に至る長い時間に工夫し得た結果として昔よりも生活が楽になっていなければならないはずであります。けれども実際はどうか? 打明けて申せば御互の生活は甚だ苦しい。昔の人に対して一歩も譲らざる苦痛の下に生活しているのだという自覚が御互にある。・・・昔の人間と今の人間がどの位幸福の程度において違っているかといえば、あるいは不幸の程度において違っているかといえば、活力消耗活力節約の両工夫において大差はあるかも知れないが、生存競争から生ずる不安や努力に至っては決して昔より楽になっていない。・・・これが開化の生んだ一大パラドックスだと私は考えるのであります」。「もし一言にしてこの問題を決しようとするならば私はこう断じたい、西洋の開化(即ち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である」。「現代日本の開花は皮相上滑りの開花であるという事に帰着するのである」と。
 「生存競争から生ずる不安や努力に至っては決して昔より楽になっていない」ということなど、それから百年以上経った現在でもなお同様であるところで、文学者でありながら百年前にこうした視点を持っていたということが漱石文学の背景にあって、「ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申した通り私には名案も何もない。ただ出来るだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうー」と言わしめる。「内発的に変化して行く」そういう生き方とは、国家と外発の間にあってはなかなか困難であるわけだが、その要諦を漱石を語ったのが『私の個人主義』と私は思うわけである。
 『明暗』の藤井の家から「広い谷を隔てて向に見える小高い岡」の先には学習院があり、もうひとつの講演『私の個人主義』は、大正3年年(1914)11月に学習院で行った講演で、聴衆は学習院に学ぶ支配階級の子弟たちであった。漱石は、支配階級の子弟たちに向けて以下のように語る。
 「必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方の御家族のために申し上げる次第でもありません。貴方がた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申し上げるのです。・・もし何処かにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目でしょ」。
 「御存じの通り英吉利という国は大変自由を尊ぶ国であります。それほど自由を愛する国でありながら、また英古利ほど秩序の調った国はありません。実をいうと私は英吉利を好かないのです。嫌いではあるが事実だから仕方なしに申し上げます。あれほど自由でそうしてあれほど秩序の行き届いた国は恐らく世界中にないでしょう。日本などは到底比較にもなりません。しかし彼らはただ自由なのではありません。自分の自由を愛するとともに他の自由を尊敬するように、小供の時分から社会的教育をちゃんと受けているのです。だから彼らの自由の背後にはきっと義務という観念が伴っています。・・・彼らは不平があると能く示威運動を遺ります。しかし政府は決して干渉がましい事をしません。黙って放って置くのです。その代り示威運動をやる方でもちゃんと心得ていて、むやみに政府の迷惑になるような乱暴は働かないのです」。
 「それで私は何も英国を手本にするという意味ではないのですけれども、要するに義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます。・・・私は貴方がたが自由にあらん事を切望するものであります。同時に貴方がたが義務というものを納得せられん事を願って已まないのであります。こういう意味において、私は個人主義だと公言して憚らないつもりです」と。
 後段の発言は、永井荷風が『あめりか物語』に、「何につけても、吾々には米国の社会の、余りに、常識的なのが気に入らない。・・フランスに於いて見るような劇的な社会主義の運動もない。・・激烈な藝術の争論もない。何も彼も、例の不文法(Unwritten law)と社会の輿論(Public opinion)とで巧に治って行く米国は、吾々には堪えがたいほど健全過ぎる」と書くのに通じている。
 漱石はイギリスを嫌っても、イギリス流の自由主義と個人主義は会得していたし、荷風はアメリカを嫌ったが、アメリカ流の自主独立にして公共的な市民精神は会得していたわけである。個人主義とは、一般的にはブルジョワ民主主義のベースとなる概念であり、漱石も荷風も西欧のブルジョワ民主主義を評価していただけとも言えなくもない。しかし、大逆事件とすれちがった荷風が『花火』を書いて戯作者となり、やがて『断腸亭日乗』を書いて愚かな軍国主義者への批判も含めて戦中をしのぐのを見れば、そこにはブルジョワ民主主義概念ではない、国家に対して自らを拠って立たしうるものとしての個人主義があることが分かるのである。
 大正3年(1914)4月に普通選挙法が成立し、大正4年(1915)3月の第十二回衆議院選挙へ馬場孤蝶が立候補すると、漱石は馬場孤蝶の衆院選立候補の推薦人となり、推薦状の筆頭に名を連ね、選挙資金活動のために出版された『孤蝶馬場勝弥氏立候補後援現代文集』(1915年実業乃日本社)に『私の個人主義』を寄稿し、それはその巻頭に掲載された。
 馬場孤蝶は、前にも触れたように、明治20年代の日本のロマン主義運動『文学界』のメンバーであり、一葉が「故馬場辰猪君の令弟なるよし」と日記に書いたように、アメリカに客死した自由民権運動家の馬場辰猪の弟である。『文学界』の後、彦根と浦和での中学教員を経て、日本銀行の行員となり、1906年(明治39)に慶応義塾の教授になり、自由主義的な社会改良運動家として大逆事件後に大杉栄等の近代思想社の集会や、平塚らいてう等の青鞜社の講演会に参加し、山川均と菊栄の結婚式の媒酌人でもある。1912年に出版された『樋口一葉全集』の編集を行い、そこに樋口一葉の「日記」を載せたのも馬場孤蝶であった。一葉の妹のくに子が、一葉本人からは焼くように言われながらも、焼かずに残した一葉「日記」は、斎藤緑雨が預かり、1904年(明治37)に緑雨が危篤になった際に、緑雨から馬場孤蝶に託されたわけであった。
 馬場孤蝶立候補の仕掛け人のひとりである堺利彦は、『孤蝶馬場勝弥氏立候補後援現代文集』に以下のような『辰猪と勝弥』の一文を書いている。勝弥というのは、馬場孤蝶の本名である。
 「明治三年の末に生れて、明治の十年代を少年として過した私は、自由党改進党の諸名士に対して特別なる欽仰愛慕の感情を養うて居る。馬場辰猪君の名声の如きは最も深く私の頭に染みこんで居る。馬場勝弥君は明治二年の生れと聞く。辰猪君の名声が遠く九州の一少年に汲ぼした感化から考へて、勝弥君が直接に其の兄君から受けた感化の大なる事は私によく想像が出来る。
 馬場孤蝶の名が初めて文壇に現はれた時、あれは馬場辰猪の弟だと云ふ事を聞いて、私は特に深く注意を引かれて居た。・・・
 後、私が幸徳秋水と交るに及んで、秋水の土佐人たるが為に、殊に馬場兄弟に就いて語る事が多かった。秋水が最初の出獄の後、間もなく瓢然として米国に遊んだのは、馬揚辰猪の跡を学んだのだと評されて居た。私もそう考へて一種の面白味を感じて居た。そして若し秋水が辰猪君と同じく彼地に客死するの運命を持って居るのではあるまいかとさへ気遣って居た。・・・
 (大杉栄宅で初めて孤蝶君に会った帰り道に)私はもはや辰猪君の事を話しださずには居られなかった。すると孤蝶君も頗る気の乗った様子で色々辰猪君の事を私に話して呉れた。殊に其中で、私の確と覚えて居るのは、辰猪君が出獄して間もなく米国に赴く時、特に勝弥君に対して、男は一度やそこら牢にはいる位でなくては駄目だと云って別れたが、それきり辰猪君は米国で客死したのであるから、勝弥君に取っては、其の一言が亡兄の遺言となって居ると云ふ話である。
 私は大いに此話に動かされて、前に記した秋水の米国行の事なども話した後、あなたも一つ兄君の適意を継いで大いに政治界に活動を試みては如何ですかと、少し立入った話にまで及びかけた・・・」と。(※岩波書店『馬場辰猪全集』から)
 これを読むと、馬場辰猪は出獄後アメリカに亡命する直前に最後に会った弟に、「男は一度やそこら牢にはいる位でなくては駄目だ」と言って別れ、馬場孤蝶が1915年という「冬の時代」に選挙に出馬したのは、堺利彦からうながされたからと言うよりは、アメリカに客死した悲運の兄の志を継いでのことだとも分かるのである。
 馬場孤蝶は「立候補の理由」(『反響』1915年3月号)について、次のように述べている。
 「民族の興隆は、その民族の原子たる各個人の充実せる活動にまだ無ければならぬ。 一国の政治は、斯の如き民人の充実せる活動を基礎として行はるるもので無ければならぬ。成人の充実せる活動は、各個人の国民としての自覚より始まるべきものである。故に一国の法規は、各個人の自覚、各個人の正常なる活動に対して妨碍となり、不便であるといふ如きものであってはならぬ」(水川隆夫『夏目漱石と戦争』平凡社新書p242)と。そして「孤蝶は、このような基本的理念のもと、具体的な改革案としては、選挙権の大拡張、軍備縮小、新聞紙法の改正、治安警察法の撤廃などを提示し、特にこの選挙の争点であった陸軍の二個師団増設については絶対反対を表明」(同)している。
 結果的に馬場孤蝶は選挙に落選したのではあったが、夏目漱石と堺利彦が並ぶその盛り上がりは大正デモクラシーの幕開けとなった。この馬場孤蝶の出馬がいかに企画されたのかについては、私のブログにおそらく郷土の堺利彦研究家であろう安本次郎氏は、「資料的な根拠を示すことができないのだが、堺と漱石の間を取り持ち、漱石が堺の衆議院議員総選挙を支援する背景に犬塚ありと推定される」とコメントを寄せてくれた。おそらく漱石門下の森田草平とその仲間の生田長江が親交のあった馬場孤蝶に出馬を求め、森田草平の雑誌『反響』に参加していた小宮豊隆から犬塚武夫、堺利彦とネットワークが広がって、最終的には堺利彦が馬場孤蝶のに立候補を決意させたのであろう。そして、門下生たちが始めたこの動きに漱石も共感、賛同したものと思われる。

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2013年10月26日 (土)

売文社、堺利彦と山川均のしのぎ

 堺利彦は、明治43年(1910)9月22日に千葉監獄を出獄する。その時に「初めて大逆事件の進行中の話をだいたい聞いた」堺利彦は、とりあえずは食うための算段をするわけだが、平民社の仲間で週刊『サソデー』の編集に従事していた白柳秀湖、山口孤剣が堺利彦に小説の翻訳仕事を持って来てくれて、出獄後の最初の売文をする。それは堺利彦の人徳と能力に信頼する仲間からの応援であるわけだが、堺利彦は獄中にあった時から出獄後のしのぎを考えてきた。堺利彦は出獄後に大逆事件を知り、幸徳親子を支えながら、明治43年(1910)12月31には日獄中で考えたしのぎの構想、「売文社」を立ち上げる。「売文社の記」には以下のような業務案内が書かれている。

 年ごろの娘が嫁入り口を気づかい、卒業前の学生が就職口を気づかうごとく、満期の近い囚徒はみな放免後の生計を案じ煩う。・・・そこで小生は出獄前、いろいろと考えた末、ついに「売文社」ということを思いついた。そして順の時、室内において使用を許されたる紙石盤の上に、左のごとき広告文案を書きつけてみた。
 小生はやや上手に文章を書きうる男なり。いずれ文を売って口を糊するにまた何のはばかるところあらん。今回断然奮発して左の営業を聞姶す。既知未知の諸君子、続々ご用命あらんことを希望す。
  一、新聞、雑誌、書籍の原稿製作
  一、英、仏、独、露等諸語の翻訳
  一、意見書、報告書、趣意書、広告文、書簡文、
   その他いっさい文章の立案、代作、および添削
         売文社社長  堺 利彦

 堺利彦の社会主義が際立っているのは、それが後に言うイデオロギー的なものではなくて、生活や食べることをベースにしていることであろうか。堺利彦は自ら売文した文章を集めて、さらに『売文集』としても売るのだが、その中の一文には以下のように有る。
 「僕などは社会主義者として常にわが生活の不安と危険とについて思い煩うた。こんな事をしていて先々飯が食ってゆかれるであろうか。妻子を飢餓に泣かせるようなミジメな境遇に陥ることはあるまいか。・・こんな事を考えてずいぶん懊悩したこともあった。しかし僕はありがたいことに、多年の熟練で文章が小達者に書ける。これを商売にすればたいていな場合、細々ながら食うには困るまいと考えられた。・・・このごろ社会主義者として残っている者は、こうしていてもとにかく食ってゆかれるやつか、ただしはこうしていても、改心しても、どうせ食えぬやつかである」と。
 次に堺利彦が堺利彦らしいのは、自分だけでなく、仲間も飯を食えるようにしてやることで、前述したように大杉栄が義妹の堀保子と結婚した時には、自分がやっていた『家庭雑誌』の経営を大杉栄に譲り、日刊『平民新聞』が廃刊になった後には、山川均らに出版の仕事をつくろうとした。『山川均自伝』には以下のようにある。
 「この時期にも、またずっと後の時期になっても、ともかくなんとかして生活をしていけたのは、なにかしら堺さんが、ときどきに仕事を作ってくれたからだった。そして当時の事情では、仕事を作るということは、想像のできないほどむつかしいことだった。・・・ともかく堺さんは、よく青年たちの面倒をみて、そのくせよく不平や文句を言われていた。『平民新聞』がなくなると、たちまち何人かの失業者ができた。それてさっそく堺さんは、『社会問題辞典』を出すプランを立てた」と。
 さらに、失業者に仕事を企画するだけではなくて、その人柄への信頼からか心配からか、堺利彦のところには支援者からよく米が集まる。上州から遊びに来た知人は、おみやげがないからと言って米を5升ばかり置いていく。またある年の大三十日には、常陸(ひだち)牛久の田園画家小川芋銭(おがわうせん)から「飯米の内をすそ分けする」と言って、白米一俵が送られてくる。すると堺利彦は、「いかにもありかたい志だと感佩して・・・その一俵は、新年早々、近隣のやせ浪人どもに分配し」てしまう。さらに「去年の春、四谷の南寺町に住んでいた時、ある日の事、米俵をいくつか積んだ車力が僕の家の門内に挽きこまれた。ハテナと思って聞いてみると、車力の男はただ黙って、水引きを掛けた奉書を差し出だす。小首を傾けながら披見に及ぶと、『一、白米三俵、右献上つかまつり候うなり、山口義三』とある。出口義三とは言うまでもなく、サンデー読者のおなじみなる孤剣君その人である。それからあとで考えた。なにしろこの面白い下され物を、僕一人でムザムザと食うには忍びぬ。そこで『今日僕の家に天から白米が降って来た。ほしい人はふろしきを持って拾いに来い』という葉書を方々に飛ばせた。翌日から翌々日にかけて、続々として米拾いが来た。実に面白い光景であった」という。
 片山潜はそのアメリカ流の合理主義から活動費は割り勘にして、共に行動した貧乏な西川光二郎らからは男気なしの不人情でケチということにされて、最後はみんなに去られてしまう。それと比べれば、金が無ければ自分の羽織を質入してでも金策して金を用立ててやるような堺利彦には、義理・人情・浪花節的なところがある。果たして社会主義運動にとって、大組織をも機能的に動かしうるような合理的、官僚的対応が
いいのか、義理・人情・浪花節的な対応がいいのか、いちがいには言えないところだが、私が生協で働いていた時のボス、まあ理事長だけどボスとか親分といった風情の下山保氏は、頭のハゲ方まで含めて、堺利彦似の方であった。
 明治44年(1911)春、堺利彦は大阪、岡山、熊本、土佐、紀州などの地方に刑死者の遺族を歴訪する。明治45・大正元年(1912)は四谷左門町の自宅で売文社をやりながら執筆、『売文集』などの出版などをやり、日本蓄音機商会に翻訳係として勤務した。大正2年(1923)になると売文社はやや繁栄してきたので、4月に事務所を京橋区南左柄木町(現・中央区銀座6丁目)に移転、大正3年(1914)1月には売文社から機関紙『へちまの花』を創刊し、その序に「近来、カフェとかバアとかいうものがにはかに流行するが、しかしそれがみな大なり小なり常連のお客などこしらえて、それぞれ面白けなクラブになっている。わが『へちまの花』もやはりそんな意味で、文界の一小クラブになりたいと望んでいる。別に業々しい主張も抱負もないが、ただ売文社という殺風景な商店にもこれだけの余裕と趣味とのあることを見てほしい」と書いた。大正2年には「カフェとかバア」が流行ったのかと思うところだが、この骨太な洒脱こそが堺利彦の真骨頂であろうか。 大正4年(1915)9月には、『へちまの花』を月刊『新社会』と改題して「小さき旗上げ」をなして以下のように書き、11月からは自宅で社会主義座談を開くようになった。

 ときを作って勇ましく奮いたつというほどの旗上げではもちろんないが、とにかくこれでもちびた万年筆の先に掲げた、小さな紙旗の旗上げには相違ありません。まずは落人の一群が山奥のほら穴に立てこもって、容易に敵の近づけぬ断崖をたのみにして、わらび、くずの根に飢えをしのぎ、持久の策を講ずるという、みじめではあるが、かつはいささか遠大の志を存する、義軍の態度であります。
 したがって、明日や明後日に山を下って、敵の戦線に逆襲を試みるという企てもなく、またそれだけの実力もない。その点は敵軍におかれても当分ご安心あってしかるべく存じます。ただ遠近の同族とわずかに相呼応して、互いに励まし慰めつつ、おもむろに時機を持つの決心は、かなりに堅くいたしておるつもりである。
 さりながらこの退いて守る山寨をも、なお必ず勦絶せねばならぬというので、敵の大軍がしいて押し寄せて来るならば、それは是非に及ばぬ、いさぎよく一戦を試みて運を天に任せるの外はない。
 もしそれ、来たってこの山寨に投じ、あるいははるかにこの孤軍を援けんとする者があるならば、戦術の相違、軍略の差異、それらは今深く争いだてをする必要はない。ただ大同に従って相共に謀ればよいと信じている。(大正四・九、第二巻第一号)、

 堺利彦は「小さき旗上げ」に際して、故郷に帰ったままの山川均を呼び出す。明治43年(1910)9月に千葉監獄を出獄してすぐに故郷に帰った山川均は、それからの5年間をどうすごしたのかを、昭和10年(1935)に書かれた『転向常習者の手記』に見てみる。

 「私は、三四年の間隔をおいて、薬種商を二度やったことがある。最初のときは明治38年ころだった。私はだしぬけに、小さいながらも一つの薬種店を任された。・・・」
 「四十年の春、私は二度目に東京に出て、新聞記者に転向したが、僅かに三四ケ月しかつづかなかった。これは私が転向する前に、新聞の方が没落したためだった。・・・」
 「四十二年には、もう一度転向して、私は二度目の薬屋さんになった。しかし同じ薬屋さんとはいふものの、今度は番頭さんではなく、いやしくも独立した一店の主人たることにおいて、いちだんの発展をしたものだった。・・・」
 「大正三年だったか、よく覚えないが、私は印刷屋に転向するつもりで九州の福岡に移ったが、これはいろいろの障害で実現しなかった。そのころのもう一つの転向未遂は、写真屋の開業だった。・・・私はよく、重い四ツ切の機械を自転車につけ、峠を越えて六七里もある田舎の小学校の卒業式などに行ったことがある。或る時は、芸者をつれた旦那に追従して、海水浴場にのこのこ出掛けたこともあった。・・・」
 「大正四年には、私は山羊牧場の主人だった。しかも舞台は九州の南端だった。競争者に打ち克つために、ないしはほんの僅かばかりの金銭上の利益を獲得するために一生懸命の生活も面白いが、さりとて、ゆるやかにたち昇る桜島の噴煙を眺めつつ、メイメイと啼く山羊を相手に日を送ることも、決して幸福でないことはない。・・・私は二人の青年を使って、五六十頭の山羊を飼ってゐた。毎朝二時に起きて乳を搾ったものだ。・・・」
 「大正五年、何年目かに、そして何度目かに、私はまた東京に舞ひもどった。そして、堺君のやってゐた売文社に入れてもらった。パンにペンを突き剌したのが、売文社のマークだった。いふまでもなく、パンのためにペン、売文のしゃれだった。・・・」と。
 「或る日のこと、どういふ風の吹き廻しか、さる雑誌から原稿の依頼を受けた。私は何かの間違ひではないかとさへ思った。そのうち他の雑誌からも、同じく執筆の依鎖を受けた。・・・その頃、これはほんとの原稿生活をやってゐた山ロ孤剣君が、私のために『新日本』の編集者を紹介してくれた。・・・こうして私の文筆生活がはじまった」と。

  これは要するに、食うために色々な商売をしたという山川均のしのぎの話である。そしてしのぎに苦労するのは、その前段での入獄があって、出獄後のしのぎに苦労するわけで、山川均は明治33年(1900)、20歳の時に不敬罪で3年6か月の重禁錮刑を受け、出獄後は義兄の林さんの援助で薬屋をやる。やがて幸徳秋水に呼ばれて、日刊『平民新聞』の発行を手伝うが、それの発行禁止の後1908年の赤旗事件で2年の刑を受けてまた入獄。その間に大逆事件が起こって、出所後はまた薬屋、印刷屋、もぐりの写真屋、ヤギ牧場の経営などを経て、今度は堺利彦に呼ばれて文筆を生業にするようになるわけである。
 『転向常習者の手記』は、昭和11年(1936)に山川均が鎌倉郡(現・藤沢市)に移転して、湘南うづら園の経営を始めたことに対して、当時のマスコミが「論壇の雄、山川均氏第一線から退却、文筆生活を放棄してうづら屋に転向」と山川均を揶揄したことに対して書かれたもので、「論壇の雄」に対して浴びせられる皮肉と嘲笑を、軽くいなして書いている。山川均は、その生きざまはとても凡人のものとは思えないが、その自伝を『ある凡人の記録』と名付けたようなユーモア感覚を持っていて、この非凡なユーモア感覚といざとなれば粛々としのぎをする姿は堺利彦と同様である。1937年には人民戦線事件が起きて、山川均は検挙されるわけであるが、その前にうづら園の経営を企画したのは、やはり次のしのぎを考えたからでろうか。山川均の父親は、山川均が不敬罪で入獄して以来、門を閉じた生活を送ったという。山川菊枝「倉敷の父と母」(『山川均全集・第2巻』所載・)によれば、家の中でうづらを飼っていたという。だから、山川均がうづらを飼って時代をしのごうというのはごく自然な話なのであって、出獄後の山川均はやはりそうやって戦中をしのいだのであった。
 戦前の社会主義者にとって運動をすることは、同時に自らしのぎをしてそれを支えるということであった。そして仲間も多く食うや食わずの折など、支えあって暮らした。先に書いた淀橋区柏木の「柏木団」もそうである
し、週刊『平民新聞』の時代の平民社について、堺利彦は以下のように書いている。
 「無給といっても食わずにはいられない。枯川と秋水とは家族があるので、やむなくこれまでどおり淀橋に住む実費だけを、いな、実費に足らぬだけを持って行く、西川、石川、柿内、神崎の諸君は、全く私有財産を絶滅して平民社内に一個の小共産社会を作った。飯は社有の飯びつから食う。湯銭、理髪鉄、郵税はそのつど社有の銭箱から取り出される」「日用の物にはむろん不足がちであるが、一社の平等平和の思想はこの不足を補って余りがある」と。
 堺利彦が売文社を企画した時、さらに「小さき旗上げ」をやった時に堺利彦にあったものは、社会主義をやるにはまず自分と仲間が食えることであり、そのために仕事と「小さな共同体」をつくることであったのではあるまいか。これが堺利彦と山川均の社会主義の原点であったと思うところである。
 2010年の夏に、私は安本次郎氏という方から私のブログに「堺の出身地である福岡県京都郡みやこ町では、2010年11月3日、ノンフィクション作家黒岩比佐子氏(講談社より『パンとペン~堺利彦と「売文社」の闘い~』刊行予定)を講師に大逆事件・売文社創設100年の記念講演会を開催するとのこと。黒岩氏の評伝には多くの期待が寄せられている」というコメントをいただいた。黒岩比佐子氏の『パンとペン~堺利彦と「売文社」の闘い~』(講談社2010.10)は、その秋に出版され大いに啓発されたところであったが、同じ頃に黒岩比佐子氏は亡くなられた。『パンとペン~堺利彦と「売文社」の闘い~』は名著である。ぜひ多くの方に読んでいただきたく、私の蛇足はここまでに。

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2013年10月20日 (日)

坂の下の流れ

 司馬遼太郎は1968年に『坂の上の雲』を書き始め、「余談ながら、私は日露戦争というものをこの物語のある時期から書こうとしている。小さな。といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかなかった。この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。その対決に、辛うじて勝った。その勝った収穫を後世の日本人は食いちらしたことになるが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の智恵と勇気と、そして幸運をすかさずつかんで操作する外交能力のかぎりをつくしてそこまで漕ぎつけた。いまからおもえば、ひやりとするほどの奇蹟といっていい」(第一巻「真之」)と書き、関川夏央は2006年に『「坂の上の雲」と日本人』という本を書いて、「司馬遼太郎は日露戦争までの日本を、若い健康な日本と考えました。若くて健康な日本の受難とその克服を、『坂の上の雲』にえがききったわけです。しかし、その健康であったぱずの明治の四十年がその後、昭和二十年に至る不健康な四十年をなぜ生んだのかと考え続けたのでもありました」と書いた。
 関川夏央によれば、司馬遼太郎は『坂の上の雲』で、1968年当時の世相と戦後民主主義的なものの見方に対して、日露戦争前にあってその後失われた近代日本の原像を示そうとし、「その健康であったぱずの明治の四十年がその後、昭和二十年に至る不健康な四十年をなぜ生んだのか」を考えたと書いた。内田樹は『「坂の上の雲」と日本人』の解説に、「『坂の上の雲』を「健全な」ナショナリズム賛歌のようなものとみなして、それを高く評価する人も、それゆえ批判する人もいまだに多い。けれども、この作品に伏流しているものが、その「健全さ」がどれほどたやすく失われるかについての不安であることを日本人そのものに対する不安であることを見抜いた人は少ない。関川さんはその数少ない一人である」と書いた。
 司馬遼太郎が『坂の上の雲』を書き始めてから四十年経って、関川夏央や内田樹や私の世代がそろそろ還暦を迎える頃、2009年の年末にNHKは大河ドラマ『坂の上の雲』をやり、2010年の年末にもその再放送をやった。そして私は、それが繰り返されたことに不安を感じ、その不安は2011年3月11日を経てますますリアルなものになりつつある。『坂の上の雲』に描かれた「ひやりとするほどの奇蹟」をもって上りつめた近代日本は、日露講和条約の調印と同時に起こった講和反対国民大会によって暗転し、司馬遼太郎は「この大会と暴動こそ、むこう四十年の魔の季節への出発点ではなかったか」(『この国のかたち・1』)と書くわけだが、私には『坂の上の雲』のリバイバルは「不健康な四十年」のリバイバルになりかねないと思われたからであった。
 新たな「不健康な四十年」の始まりに対処するには、やはり「その健康であったぱずの明治の四十年がその後、昭和二十年に至る不健康な四十年をなぜ生んだのか」を問わねばならず、それは「若い健康な日本」のリバイバルと言うよりは、その反省的な見直しであり、もうひとつの近代日本の源流をたどることであった。それで私はこの文章を書き出したわけだが、その時に浮かんだイメージは「坂の下の流れ」であったのだった。例えば、先に書いた樋口一葉は本郷菊坂下辺りに住み、竜泉に転居して駄菓子屋を営んだ後に丸山福山町に住んだが、竜泉は山谷堀に近く、菊坂下や丸山福山町はは小石川台地と本郷台地の間にを流れる千川沿いの湿地であり、そこを舞台にして『たけくらべ』や『にごりえ』を書いた。また、次のイメージもあった。

 「何所か静かな所はないでせうか」と女が聞いた。
 谷中と千駄木が谷で出逢うと、一番低い所に小川が流れている。・・美禰子の立っている所は、此小川が、丁度谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋の傍である。
 「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いて見た。・・・
 二人の足の下には小さな河が流れている。・・美禰子の視線は遠くの向こふにある。向こふは廣い畠で、森の上が空になる。空の色が段々変って来る。・・・

 これは夏目漱石の『三四郎』で、団子坂の菊人形見物の折、三四郎と美禰子が二人きりになった場面である。この後に「迷子の英訳を知って入らしつて」「教えて上げませうか」「ストレイ・シープ、解って?」という美禰子の謎の言葉がつづく。明治36年(1903)に英国留学から帰国した夏目漱石は、本郷区駒込千駄木町57番地に転入して、そこで『吾輩は猫である』などの小説を書いた。千駄木町57番地は団子坂と眼と鼻の先であるから、時には漱石もその坂下辺りを散歩するくらいのことはあったであろう。森の上には雲があり、だんだん変わっていく空の色を見ながら、漱石は何を思ったであろうか。漱石が『三四郎』を書いたのは明治41年(1908)の9月から、明治38年(1905)の日露講和条約の調印と講和反対国民大会の大暴動からちょうど3年経った時である。そこで漱石は広田先生をして「滅びるね」と言わしめ、三四郎をして「ストレイ・シープ」に迷わせるのである。
 関川夏央によれば、司馬遼太郎は講和反対国民大会の大暴動にモッブの登場を見て、それに1968年の学生モッブをアナロジーさせたようだが、講和反対国民大会を主催したのは頭山満らの右翼壮士と河野広中らの野党政治家であり、そこに集まった群集たちは賠償金のとれない講和に激怒した。政府は戦争の継続は不可能であることを理解していたが、それを国民に知らせることはなく、韓国の保護国化を講和条約における獲得目標とした。司馬遼太郎的には「経済的利益を求めての満韓進出に喝采」する群衆を背景に統帥権を掌握した軍隊によって「不健康な四十年」が生み出され、「国家そのものが滅ぶ」ことになったということなのだろうが、「このちゃちな帝国主義」は軍と群集が作り出したと言うよりは「若い健康な」国家が作り出したものである。
 「若い健康な」日本は、帝国主義がちゃちである以前に資本主義がちゃちであった。日本が資本主義らしくなるのは日清戦争を経てである。そこで得た賠償金をもって日本は近代化をすすめ、併せてその販路を求めたわけだが、一番近いそれは韓国であった。明治37年(1904)2月10日にロシアに宣戦布告した日本は、同月23日には韓国と「韓国従属化の第一歩となった」日韓議定書を締結し、同年8月22日には第1次日韓協約調印して、日本が韓国の財政を掌握することとなった。明治38年(1905)1月は、元旦に旅順開城があり、3月10日には奉天大会戦、5月27日日本海海戦があったというまさに「坂の上の雲」のメインステージの時代であったわけだが、同年9月のポーツマス条約で日本による韓国の保護国化が承認されると、同年11月に伊藤博文は韓国の皇帝と会談し強圧的に第2次日韓協約、韓国保護条約を認めさせて外交権を奪い、12月には韓国統監府を設置して伊藤博文自らがが初代統監になった。
 明治9年(1876)の江華条約以来、日本は朝鮮の開国と独立を唱えながら、実際はその保護国化を謀て陰謀をめぐらせては失敗してきたわけだが、「ひやりとするほどの奇蹟」、日露戦争の勝利という「幸運をすかさずつかんで操作する外交能力のかぎりをつくして」一挙に保護国化をすすめたわけである。この策動は明治40年(1907)のハーグ密使事件を機にした韓国皇帝の譲位と韓国の内政権を剥奪した第3次日韓協約の調印、それらを通じて韓国国民の恨みを買った明治42年(1909)のハルビン駅頭における伊藤博文の暗殺を経て、明治43年(1910)8月22日の韓国併合の条約調印と29日朝鮮総督府の設置までつづいた。そして、日露戦争に始まり韓国併合で終わるこの時代は、平民社を中心にした明治の社会主義運動と、『吾輩は猫である』から『門』にいたる夏眼漱石の文学活動と全く重なるのである。
 日清戦争の結果は機械工業の勃興を促し、多額の賠償金の獲得は日本の資本主義の形成を早め、併せて労働問題を惹き起こして、明治30年(1897)の労働組合期成会の立ち上げにつながったわけだが、労働組合の興隆に対して、藩閥政府は治安警察法をもってそれをつぶした。しかし、これまで見てきたように民権運動から引き継がれた精神と儒教的教養や藩閥政府に対する佐幕派系の矜持の中からは、やがて社会主義が自覚され学ばれ、日露戦争に対して平民社を立ち上げてそれに反対するにいたった。組織された労働者はいなかったが、『平民新聞』は全国に数千人のの読者を得て、啓発活動や海外の運動との交流もすすめ、鉄道や坑山や造船所ではストライキが次々と発生すると、藩閥政府からはひそかにこれを根こそぎにする策動をすすめだした。
 明治37年(1904)11月の創刊1周年記念号に『共産党宣言』を掲載して発行禁止になった週刊『平民新聞』は明治38年(1905)1月に廃刊になり、それを引き継いだ『直言』も同年10月に発行禁止となって平民社は解散し、『平民新聞』の筆禍事件で入獄していた幸徳秋水は出獄後の12月にアメリカに渡った。また、同年11月には第2次日韓協約(韓国保護条約)が調印され、12月に伊藤博文は設置された日韓国統監府の統監になるのだが、国内では明治39年(1906)1月7日に桂内閣に代わって第1次西園寺内閣が成立し、一時の春の中で2月24日に日本社会党結党が結党された。日本社会党結党は同年8月に堺利彦の提起で電車賃値上げ反対の運動を起こし、それへの同調者とみなされないように注意する手紙に対して夏目漱石は、前述したように「堺枯川氏と同列に・・」の返信を書き、9月には『二百十日』をを書き、10月には「命のやりとりをする維新の志士の如き烈しい精神で文学をやってみたい」と鈴木三重吉に返信した。同年7月にアメリカから帰国した幸徳秋水は、それまでの普通選挙に対して直接行動を提起し、築地新富町に新たに平民社を構えて日刊『平民新聞』の発行をすすめる。明治40年1月に日刊『平民新聞』は発行されるも、同年2月4日に足尾銅山で暴動が発生、同月17日の第二回社会党大会で党則が「本党は社会主義の実行を目的とす」と改正されると、同月22日に政府は結社禁止になり、同月14日には日刊『平民新聞』も廃刊に追い込まれ、同月25日に発売になった幸徳秋水の『平民主義』も出版即日発禁となった。先に書いた山川均の書く「柏木団」の話はこの頃のことで、山川均が「私はたちまちその日から無収入になった」と書いたように、柏木には生業に事欠く社会主義者たちは身を寄せ合って暮らしていたのであろう。
 明治40年(1907)6月に片山潜と田添恭二らは「憲法の範囲内において社会主義」をめざすとした日本平民党を結党したが、政府は翌日これを禁止した。さらに、同年末に片山潜は無政府主義者を除外して党でもない「平民協会」を結社して、「本会は労働者をして騒動組合を組織せしめ、以って其経済的独立を計り、国家産業の基礎を堅固にすることを努む」とした綱領を掲げたが、これも即日結社を禁止された。山川均曰く「たとえどこまで後退してみても弾圧から免がれることはできないことが立証され」たわけである。
 この頃、先にアメリカに渡った幸徳秋水が帰国に際してオークランドでつくった社会革命党周辺のビラに「暗殺」があるのを伝え聞いた元老の山県有朋は、西園寺内閣の社会主義取締りを怠慢としてその倒閣をすすめるのと併せて社会主義者への監視とシフトを強め、「巨魁ハ幸徳秋水」であるとした。明治41年6月22日に開かれた山口孤剣の出獄歓迎会の途中で、大杉栄や荒畑寒村らによって「無政府共産」「無政府」「革命」と書かれた赤旗が打ち振られ、さらに街頭に出ようとした時に、待ち受けていた警察官と乱闘になり、これを止めようと仲裁に入った堺利彦や山川均、管野スガら14名が逮捕されるという事件が起こった。これが赤旗事件で、逮捕者は数ヶ月の入獄だろうと思っていたところ、12名の被告に重禁錮2年6ヶ月という判決が下された。病気療養のために明治40年10月に土佐に帰り、クロポトキンの『麺麭の略取』の翻訳をすすめていた幸徳秋水は「サカイヤラレタスグカエレ」の電報を受け取ると、明治41年7月21日に土佐を発ち、東京に向かった。後に大逆事件で取り調べを受けた幸徳秋水は赤旗事件の謀略を見破り、検事に向かって赤旗事件は「政府の予定の計画」であるとし、管野スガらは赤旗事件の警察官の態度に憤慨したのだと言ったという。しかし、幸徳秋水が土佐からの上京の途中で立ち寄った先々の人々は、みな大逆事件の陰謀の加担者とされてしまうという一大フレームアップがまた政府によって仕掛けられ、幸徳秋水もまたその罠にはまるという逃れようのないシフトが敷かれていたわけである。大逆事件の主任検事小山松吉は、後にこう語っている。「いったいこの事件がなぜ起こったかというと・・・四一年六月いわゆる赤旗事件が起こったのである。このため東京の同志がほとんど全部入獄したことを聞き、幸徳は政府が同志を迫害したとて憤怒し、七月に中村を出発し、紀州の新宮町に大石を訪ね、そこの同志を集めて、『赤旗事件の報復をせねばならぬ一と結束を堅くし、また大石は医師だから薬のことが分っているとて爆弾の製法を研究することとなった。・・」と。明治44年(1911)1月18日に、連座した者24名に死刑の判決が下った。
 上京後の明治41年11月30日の大條虎介宛ての手紙に、幸徳秋水は以下のようにある。
 「殊に近来政府の我党に對する圧迫は益々甚しく、小生の住居の前後には常に三四人の探偵が張番し居り、小生の来往に必ず尾行し、来訪の客には一々姓名を尋ねるのみならず、屡々同志と称して種々の廻し者を遣はし来るやうの有様にて、殆と手心足も出申さず、叉社會生殺に関する出版印刷は、あらゆる手段にて禁絶するの方針とかにて、都下の印刷處は皆々此種の印刷物を拒絶しますので困るのです」と。
 この頃、夏目漱石は『三四郎』を脱稿し、同年12月に幸徳秋水は『麺麭の略取』を秘密出版し、翌明治42年1月30日に『麺麭の略取』の出版を届け出るも即日発禁となり、同年5月に管野スガと雑誌『自由思想』を発行するも即日発禁、第2号も同様で管野スガには多額の罰金刑が課せられた。この頃、漱石は小宮豊隆と共にアンドレーエフを読んでいる。そして前述したように同年5月10日にベンガル湾上で二葉亭四迷が亡くなり、同月31日に漱石は『それから』を起稿する。先に引用した『それから』の一プロット「平岡はそれから、幸徳秋水と云ふ社会主義の人を、政府がどんなに恐れてゐるかと云ふ事を話した。幸徳秋水の家の前と後ろに巡査が二三人づつ昼夜張番をしてゐる。一時は天幕を張って、其中から覗つてゐた。秋水が外出すると、巡査が後を附ける。万一見失ひでもしやうものなら非常な事件になる」は、上記の幸徳秋水の手紙に書かれた状況が朝日新聞に載り、漱石はそれを参考にを描いたと思われる。同年9月20日から10月17日まで、漱石は旧友の中村是公の招きで満州と朝鮮を旅行する。帰国後の10月26日にハルビン駅頭で伊藤博文は暗殺され、それらを時代背景にして翌明治43年(1910)2月下旬に漱石は『門』を書き始める。そして同年6月1日に伊豆湯河原で徳秋水が逮捕され、6月5日のそれが新聞発表になったのを読むと、漱石は「うん、然し叉ぢき冬になるよ」と書いて『門』を脱稿し、同年8月22日に韓国併合の日韓条約の調印がなされ、8月24日の夜に漱石は修善寺温泉で大吐血し、一時危篤状態に陥った。私はこれらの流れに因果があるとは言わないが、「坂の下」から見れば、「坂の上」に上りつめた明治40年代とはそういう時代であったわけである。
 明治43年(1910)9月に赤旗事件で大逆事件を免れた堺利彦と山川均は千葉監獄を出獄する。『山川均自伝』には、以下のようにある。
 「私はいちおう守田の家に落ちつくことになり、停車場への途すがら、守田は幸徳さんのことを断片的に話してくれ、ことの意外におどろかされた。・・・守田は・このさい東京でまごまごしていても運動ぱまるきり出来ないし、第一、生活の方法が絶対にない、それで少しも早く、東京を離れていちおう田舎に行くことが賢明だ、明日にも、できれば今夜にでもと勧めてくれた。・・あくる日、私は東京を立った」と。
 堺利彦の『社会主義運動史話』にはこうある。
 「わたしは九月二十二日、予定のとおり出獄した。そして初めて「大逆事件」の進行中の話をだいたい聞いた。それから一月半ばかりの後十一月八日付けの幸徳秋水の手紙が市ケ谷監獄から初めて来た。わたしは四谷の南寺町に住んでいた」と。
 明治43年(1910)11月8日の堺利彦宛の幸徳秋水の手紙は「二年目に君に書く、嬉しくて堪らぬ」で始まり、明治44年(1911)1月1日の幸徳秋水の手紙には、以下のようにある。

 愈々四十四年の一月一日だ、鉄格子を見上けると青い空が見える、天気が好いので世間は嘸ぞ賑かだらう、火の気のない監房は依然として陰気だ、畳も衣服も鉄の如く凍って居る、毛布を膝に巻て蹲まり、今は世に亡き母を懐ふ、▲母の死は僕に取ては寧ろ意外ではなかった、意外でないだけに猶ほ苦しい、去十一月末、君が伴ふて面会に来た時に、思ふ儘に泣きもし語りもしてくれたなら左程にも無ったらうが、一滴の涙も落さぬ迄に耐えて居た辛らさは、非常に骨身に徹えたに違ひない、イクラ気丈でも帰國すれば屹度重病になるだらうと察して、日夜に案して居だのは先頃申上けた通りだ・・・▲君も知てる通り、最後の別れの析に、モウお目にかかれぬかも知れませんと僕が言ふと、私もさう思って来たのだよと答えた、ドウかおからだを御大切にといふと、お前心シツカリしてお出で、と言捨てて立去られた音容が、今もアリアリと目に浮んで来る、考へで居ると混が止らぬ、▲其後僕が余り気遣ふもんだから、いつも健康だ健康だと言て来た、訃報の来る二三日前に受取た手紙も、代筆ではあったが「お前の先途を見届けぬ中は病気なぞにはならぬから、ソンナことを心配せずと本を読たり詩を作ったりして楽しんでで居なさい」と書てあった・・・▲ア、何事も運命なのだ、悔て及ばぬことに心を苦しめ身體を損ふのは、最後まで僕をアベコベに慰め励ましてくれた母の志にも背くのだから、力めて忘れやう忘れやうとして居る、が語るに友なき獄窓の下にボツ然として居る身には、兎もすれば胸を衝いて来る・・・▲長々と愚痴ばかり並べて済まなかつた許してくれ、モウ浮世に心残りは微塵もない、不孝の罪だけで僕は萬死に値ひするのだ。  一月一日   明治四十四年

 そして明治44年(1911)1月19日、死刑宣告を受けた翌日の手紙は、「未練らしいが今一度告別の面会を得たいものだ」で終わっている。

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